浅曇
鎖坂はその名の通り丘の上に大きな神殿を頂く、坂の途中にある町だった。なぜこのような奇妙な場所に町があるのかというと、そこに穏やかに流れる川があるからである。農業と少しの交易によりだんだんと開発が進んだこの街に一番最初に訪れた研究者は、川の流れと水の力についての研究をしていた、と記録されている。たいそうな変わり者であったそうである。
「よいか、明。ここは殺ではなく弑じゃ。何度言えばわかるのか」
「いいえ先生。ここは殺です。弑かどうかは殺した本人にしかわかりません。私たちは歴史を紡ぐものとして、客観的事実のみを後世に残すべきです」
「……明。ただ事実を記しただけでは覚書としか言いようがない。我らは単なる書留を残すのではなく、歴史書という書物を残すのだ」
「いいえ先生。私達は事実をただ残せばよいのです。これが弑か否かは後世の者たちが解釈すれば良いではないですか」
「だめじゃだめじゃ! この分からず屋の頑固者! そういうところだけ先代に似おって」
「……今何とおっしゃいました先生。私のおじい様を馬鹿にしましたね。歴史学者のくせに少し感情的すぎやしませんか先生。そんな風だからいつまでたっても香蘭先生の足元にも及ばないのです。貴方など学者でなく売れない物書きです」
「……! なんだと!」
「まあまあまあまあ!!! お二人とも落ち着いて!」
白熱する討議はいつの間にか単なる喧嘩に発展し、立ち上がり憤慨する師に対して鼻で笑う明蘭にしびれを切らしたのは、そばで成り行きを見守っていた小華だった。小華は立ち上がった師をなだめると明蘭をたしなめるように一瞥し、それから今しがた師がたたいたばかりの机の上に、器いっぱいに茶が注がれた茶碗を静かに二つ置いた。
「先生、明はまだ未熟だから師のおっしゃることが理解できないのです。こら明蘭。あやまりなさい」
「私は未熟かもしれないけれど、先生のおっしゃることには納得できません。よって私はあやまりません」
「明蘭……」
ふんっとそっぽを向く明蘭に小華は苦笑いをするしかなかった。小さいころから明蘭と仲の良かった小華には、明蘭の性格はよくわかっていたし、それは目の前で憤慨している師も同じである。そして明蘭がいくら口で師を馬鹿にしようとも、その口が師のことを先生、と呼ぶ限り、明蘭が本当に師のことを見限っているわけではないことも、重々承知の上だった。
「ところで、分からず屋の頑固者、とは少々大人げないのではないですか、先生」
「む……」
「明蘭も、先生のおっしゃること、理屈はよくわかるでしょう」
「……でもね、小華」
「言い訳は聞きません。お二人とも、もう日が暮れますよ。今日は終わりにしましょうよ」
はいはい、と小華にせかされるように席を立った明蘭は、机の上の歴史書を後ろ髪をひかれるがままに振り返ったけれど、小華に背を押されてしぶしぶと退出することになった。
明蘭は鎖坂で歴史学を志し、師のもとで学んでいた。学ぶといっても、読み書きのような基本的なことではなく、ともに歴史書をひも解いて解釈について討議したり、歴史書の書き方に関して言い合ったりしながら、王都から依頼された出来事について書にまとめて記録する仕事の手伝いをする。そこは学び舎であり研究所でもある。鎖坂の「大学」の基本的なあり方であった。その大学の筆頭が香蘭という艶やかな名の、若い男である。
その香蘭のもとを、王都からの使者が訪ねていた。
「これが承った仕事分でございます。いかがでしょうか?」
王都からの使者は毎月の終わりにひと月分の王都からの依頼を持って鎖坂に訪れ、ひと月分の研究の成果を持って帰る。鎖坂で研究されているのは史学ばかりではないから、使者の持ち物は往路も復路も膨大になる。使者は3日かけて鎖坂のすべての大学をまわり、成果を集めまた帰途につくのである。
「うむ。いつも鎖坂の仕事は信頼に足る」
「ありがとうございます」
王都と鎖坂とは早馬を飛ばしても10日はかかる遠路である。しかし、その密なやり取りのおかげで王都とのつながりは濃いものであった。
「……時に、香殿」
「はい」
「そなた、宮廷に仕官するつもりはないか」
「……私が?」
眉を寄せる香蘭に、使者は一口茶の器を口元に運ぶと、ため息をつきながら言葉をつづけた。
「詳しいことはここでは話せないが、そなたの力が必要になるやもしれんのだ」
「私の力、と申しますと…」
香蘭は視線を使者から外し、部屋の壁一面に配された多種多様な書架を眺めた。歴史書、医学書、その他諸々。史学のための参考文献の山である。が、それらの者に国を動かす力はない。
「ご存知と思いますが、史学は実学ではございません。医学や工学のように、国の危機を救う力はありませんよ」
「本当にそう思うか」
「史学は静かな学問です。いつか役に立つかもしれない。しかし今ではない。今ではないが将来必要になるかもしれないから、今記録しておく。我ら蘭の者以外には、それほどの価値しかありませんでしょう」
「……」
香蘭の答えに使者は黙った。その答えが気に入ったのか否か。
「それでも蘭の名が必要であるなら、少しの間お貸ししましょう」
「面目ない」
「ただし」
香蘭は頭を下げる使者に向かい、言葉をつづけた。
「もう一人、都に連れて行きたいものがおります。……蘭の名を、拝した者です」
「蘭の名を?」
「はい。性を汪。名を明。生まれたときに蘭の名を授けました。王都に、赴くべき者です」
宮廷への仕官が決まったことを驚いて受け止めたのは、明蘭本人のみであった。大学の皆は、蘭の字が何を意味し、どういう運命を背負っているのか知っていたのだ。知っていて、それを不憫に思ったものはできるだけ明蘭や香蘭の前でそれを口にせぬようにしていたし、蘭の歴史を知るものは皆、嫉妬したとしてもそれを口にだすことはできなかった。
「それでは、皆様行ってまいります」
「気をつけてね、明」
「明、しっかりと励むのじゃぞ。そしてあまり物事の正誤にこだわってはならぬ」
「それは先生の方でしょう。早く物書きから歴史家になってくださいよ」
「明!」
「……分かっていますよ」
驚いたものの乗り気ではなかった。
まだ明蘭が未熟者であることは、明蘭自身が一番良く知っていたからである。
「香蘭先生」
「何でしょう」
「私はあるいは、また大学に戻るのでしょうか」
道すがら、明蘭が香蘭にそう問うた。
「明」
「蘭の字の意味は知っております。だから、何も知らぬ私に蘭をお与えになった先生を、お恨みしたこともありました。しかし、これが運命なのだと受け入れると、不思議と胸が弾むのでございます」
王都は遠く、鎖坂とはあまりにも違う世界だと聞いている。もう鎖坂に戻れないというのなら、それはそれで少し寂しい。
「香蘭先生、真理とは、一体どのような色をしているのでありましょう」