第21話 呪いではない、病だ
ギネヴィアの部屋の扉が、ゆっくりと開かれた。
鼻を突くのは、腐敗した薬の匂い。
湿った布の生臭さ。
そして、長年閉ざされていた空気の淀み。
デューク・アシュトンが先頭に立ち、重い足取りで中へ入る。
その背中を追うように、凛、レオモード、アーデリアが続いた。
「……ここが、ギネヴィアが……症状が悪化する前まで使っていた部屋だ」
アシュトンの声は、かすかに震えていた。
ベッドの上の毛布は無残に引き裂かれ、
壁一面には、深く鋭い引っかき傷が残されている。
――逃げようとしていたのではない。
自分自身から、逃げ出そうとしていた痕跡だ。
棚は倒れ、古びた人形が床に転がっている。
その首は、胴体から無惨にも外れていた。
凛は無言で、すべてを観察していた。
(……これは呪いじゃない)
心の中で、冷静に結論を下す。
(長期間の苦痛による重度の精神障害……未治療の皮膚病が神経を侵し、痛覚を失わせ、そして理性を奪う)
視界の端で、ホログラムが淡く点滅する。
【システム】
【簡易分析結果:重度皮膚疾患+精神障害の兆候あり】
【外的呪詛反応:確認されません】
「ここで寝ていた形跡はないな」
レオモードが指で埃をなぞる。
「もう、ほとんど戻ってきていない」
アーデリアは、凛の袖をそっと掴んだ。
何か起きても、すぐ動けるように。
「その通りだ」
アシュトンが答える。
「ここ数年……やむを得ず、彼女は別の場所へ移した」
彼は、さらに奥へ――地下へ続く階段を下りていく。
アーデリアですら、初めて目にする場所だった。
石造りの地下室は、湿気に満ちていた。
鉄と血の匂いが、かすかに漂う。
中央の柱には、巨大な鎖。
――だが、今は外れている。
床の粗末な寝具は引き裂かれ、
石には爪で削ったような痕跡。
錆びた食器が、無造作に散らばっていた。
そして――
そこに、ギネヴィアはいなかった。
案内役の老執事ボリーズが、喉を鳴らす。
「お、お伝えした通りでございます……お嬢様は、よく姿を消されます」
アシュトンの目が細くなる。
「ボリーズ……今回は、いつからだ?」
「ご、五時間ほど前でございます」
「……何だと?」
アシュトンの顔色が、一気に失われた。
凛は一歩前に出て、床を見つめる。
裸足の足跡。
乾きかけた赤い痕――血か、裂けた皮膚か。
「公爵」
凛が低く告げる。
「彼女は……極めて危険な状態で逃げています。正常ではありません」
ボリーズは何度も頷いた。
「は、はい……お嬢様は、この部屋を出入りされます。時には穏やかに……時には、獣のように」
アーデリアが歯を食いしばる。
「……私たちを襲った時みたいに?」
「そ、その通りでございます……発作のたびに、身体が変わり……動きが、理性を失った飢えた生き物のように……」
アシュトンは俯き、拳を強く握った。
「ギネヴィア……私の娘……」
そして、凛を見つめる。
「頼む……彼女を見つけてくれ。誰かを傷つける前に……あるいは、狩人に殺される前に」
凛は静かに息を吐いた。
重圧が、胸にのしかかる。
それでも――頷く。
「必ず見つけます……そして、治します」
レオモードとアーデリアは視線を交わした。
――凛は今、原作にも存在しない、最も困難なルートへ踏み込んだのだ。
ホログラムが表示される。
【システム】
【リスク分析:対象は急性皮膚疾患および重度精神障害を併発】
【感情安定性:極めて不安定】
【生体粒子追跡:可能】
(ギネヴィア……何年も、こんな地獄を……)
レオモードが肩に手を置く。
「……どうする?」
凛は、血の跡が続く方向を見た。
「追う」
アーデリアが強く頷く。
「急げば……夜になる前に追いつける」
アシュトンは、祈るように二人を見送った。
夜が、静かに降りる。
湿った空気。
濃くなる霧。
虫の声が、心臓の鼓動と重なる。
先頭を歩く凛の瞳に、淡い青の光が反射する。
【システム】
【生体粒子検知モード:起動】
【追跡対象確認】
【異常生体粒子、剥離した表皮組織を検出】
アーデリアが鼻を押さえる。
「……この匂い、腐った肉みたい」
レオモードは剣を半分抜いた。
「……父親の言う通りだ。これは、もう限界を超えている」
凛は無言で進み続けた。
血に染まった裸足の跡を追い、
木々の間を抜ける。
根は、まるで死者の手のように地を這っている。
一時間近く進んだ、その時――
前方の霧が、揺れた。
そこに――何かが立っている。
アーデリアが緊張する。
「……構えて」
レオモードが一歩前に出て、二人を庇う。
霧が晴れ――
そこにいたのは。
――ギネヴィア・レガネス。
汚れた布を纏い、
包帯のように覆われた“仮面のミイラ”。
皮膚はひび割れ、
仮面の奥の瞳は、憎悪と狂気と、測り知れない悲しみを宿していた。
その手には――
黒く染まった刀。
「……へぇ」
剣先が、三人へ向けられる。
「また、あんたたち? あの時、殺しておくべきだった」
凛は両手を上げ、必死に平静を保つ。
「落ち着いて。戦いに来たわけじゃない」
「……君を、治しに来た」
ギネヴィアが、動きを止めた。
肩が震える。
「……治す?」
次の瞬間、狂気の笑い。
「プハハハハ! 治す? あんたみたいなブサイクに?!」
アーデリアが前に出ようとするが、レオモードが止めた。
「何十人もの医者、魔術師、聖職者が試した!」
「結果はどう? 全員、失敗よ!」
刀を掲げる。
「それで? 魔力も枯れてそうなブサイクが、何をできるの?」
凛は一度、瞬きをした。
表情が、無になる。
「……ああ。今のは、さすがに傷ついた」
「この状況で?!」
アーデリアが叫ぶ。
凛は低く唸る。
「善意で来た。金のためでも、助ける気だった」
「でも顔を侮辱されたら――」
イグニス・チャネラーの手袋を締める。
「――少し、やる気が出る」
「生きてる限りでな」
ギネヴィアの笑いが止まった。
沈黙。
そして――獣のように、身を低くする。
「……そう」
「なら、試してあげる」
次の瞬間、彼女は消えた。
霧に溶けるように――
――シュッ!
右から、刀がアーデリアの首を狙う。
レオモードが受け止め、火花が散る。
「速い!」
凛が一歩退く。
【システム】
【警告:魔力残量・危険水域】
【身体状態:極めて不良】
「うるさい! 分かってる!」
ギネヴィアは枝の上に現れ、見下ろした。
「治したいなら――捕まえてみなさい」
凛は長く息を吐く。
「……仕方ない」
「金のためだ。無理やりでも、治す」
二人を見る。
「捕獲する。生きたまま」
レオモードは頷き、
アーデリアは剣を構えた。
霧の奥から、囁き声。
「さあ……追いかけてきなさい」
「できるものなら、ね――」
――つづく




