第19話 レガネス公爵邸――重すぎる夜
レガネス家の居間は非常に広かった。
だがその夜、空間全体は長年積もり続けた悲嘆の霧に包まれているかのようだった。
レオモードとアーデリアは礼儀正しく腰を下ろし、
一方で凛は――激戦の直後、しかも血を吐いたばかりの人間らしく、力なくソファにもたれかかっていた。
正面の主座には、アシュトン・レガネス公爵。
その肩は重く、顔には年齢以上の疲労と後悔が刻まれている。
背後には執事ボリーズが立ち、沈黙を保っていた。
長い沈黙の後、アシュトンは深く息を吸い、静かに語り始めた。
「……ギネヴィア。
私の娘は……十二歳の時に、あの“呪い”にかかった」
その声はわずかに震えていた。
感情を表に出さない公爵が、初めて見せた弱さだった。
アーデリアは視線を伏せ、
レオモードは無言のまま拳を握り締める。
「最初は……小さな傷だった。
軽い感染症のようなものだと、治癒師たちは言った」
「だが、徐々に……皮膚が乾き」
「身体の色が、青白く変わり」
「そして……痛みを感じなくなり……」
「最後には……魂の制御すら、失っていった」
アシュトンは自らの顔を押さえ、苦痛を噛み殺す。
「年月と共に……彼女の身体は腐敗していった。
これは、普通の呪いではない。
肉体と……正気を、同時に蝕むものだった」
凛は喉を鳴らした。
――思い出してしまったのだ。
自分が書いた物語を。
(アーデリアが死に、
レオモードが仮面のミイラと戦い、
それを討ち、
そしてアシュトンが……すべてを知った時には、もう遅い)
(自分の判断が、娘を殺したと悟り、
彼は後悔の中で生涯を終える)
背筋に冷たいものが走る。
――だが、今は違う。
物語は、完全に逸れている。
「私は、数百人の治癒師を呼んだ」
「光の神殿の司祭」
「王都の治癒魔導師」
「錬金術師、魔女、祈祷師……名のある者は全てだ」
アシュトンは机を強く叩いた。
「――誰一人、救えなかった!」
重苦しい沈黙が部屋を支配する。
「年を追うごとに症状は悪化し……
今では……彼女は、父である私のことすら認識しない」
「森に現れたのも……誰かを傷つけるためではない」
「ただ……迷っているだけなのだ」
凛は静かに息を吸った。
頭の中で、情報が高速で組み上がっていく。
(これは……呪いじゃない)
(病気だ)
(症状は……完全に“ハンセン病”と一致している)
(慢性的な皮膚疾患、神経の麻痺、組織の壊死、
長期間放置すれば精神崩壊も起きる)
凛は顎に手を当て、皮肉めいた仕草をした。
「呪いじゃない。魔法でもない。
これは……医学的な病気だ」
(この世界には、細菌の概念も、感染も、抗生物質も存在しない)
胸が熱くなる。
――ギネヴィアは、怪物ではない。
ただ、重い病に侵されていただけだ。
アシュトンは三人を見回し、低い声で言った。
「……救う方法があるのなら、教えてほしい」
「財産、土地、爵位……望むものは全て与えよう」
「娘を……娘を、元に戻してくれるなら」
ボリーズは深く頭を下げ、涙を必死に堪えていた。
その時――
凛が立ち上がった。
威厳でも、賢者の風格でもない。
どこか大げさで、自信過剰で、少し胡散臭い――
だが、不思議と目を引く立ち姿だった。
凛は親指で自分を指した。
「俺に任せろ」
レオモードが目を見開く。
「……篤原?」
アーデリアは頭を抱えた。
「ちょっと……何言ってるの……?」
凛は不敵に笑う。
「俺は、あんたの娘を治せる」
空気が凍りついた。
ボリーズが激昂する。
「貴様が!?
レディ・ギネヴィアに手も足も出ず、死にかけた小僧が!?」
凛は気にも留めず、アシュトンを真っ直ぐに見据えた。
「俺には、あんたたちが持ってない知識がある」
「病名も、原因も、治療法も――知っている」
アシュトンは言葉を失う。
「……本当に……可能なのか?」
凛は、やたら自信満々に答えた。
「当然だ。
だって――それができるのは、俺だけだからな」
背後でレオモードが小声で呟く。
「……また始まったな、あいつの変なモード」
アーデリアは顔を覆った。
だが――
アシュトンは立ち上がった。
そして初めて、その顔に
消えかけた希望の光が灯った。
「ならば……篤原凛殿」
「どうか……娘を救ってくれ」
扉が閉まった瞬間――
「バンッ!」
アーデリアが凛の襟首を掴み、吊り上げた。
「正気!?
あれはレガネス公爵の娘よ!?
何年も治らなかった病気なのよ!?
王宮の治癒師ですら諦めたのに!!」
凛は宙に浮きながらも、妙に落ち着いていた。
「落ち着けって。分かってる」
レオモードが間に入り、アーデリアの肩に手を置く。
「……篤原。冗談じゃないよな?」
「命の話だ。公爵は本気で信じている」
凛は服を整え、深く息を吐いた。
(彼らは知らない……)
(でも俺は、ただのオタクじゃない)
高校時代の記憶が蘇る。
友達もなく、
昼休みはいつも図書館。
小説だけじゃない。
基礎医学、疾病史、細菌学の資料。
――ハンセン病。
臨床症状。
神経破壊。
組織壊死。
そして、治療法。
凛は拳を握る。
「俺は知ってる」
「この病気が何かも、
どう止めるかも」
「この世界の治癒師が失敗したのは、
呪いだと誤解したからだ」
凛は二人を真っ直ぐ見た。
「俺は適当に言ってるわけじゃない」
「知ってるから言ってる」
そして、急にいつもの調子に戻る。
「それに――金が欲しい」
アーデリアが素っ頓狂な声を出す。
「はぁぁ!?」
レオモードは無表情で見る。
「……それが理由か?」
凛は堂々とうなずいた。
「そうだ!
無一文でこの世界に来たんだぞ!?
飯は全部レオモードの奢り!
服も買えない!」
アーデリアは吹き出した。
レオモードは遠い目をした。
「……つまり、公爵に協力する理由は?」
「命を救えて、金も手に入る。
完璧な取引だろ?」
アーデリアはこめかみを押さえた。
「……本当に最低で、狂ってる」
凛は胸を張る。
「俺はこう呼ぶ。
“実用的天才”だ」
レオモードは小さく笑い、諦めたように息を吐いた。
アーデリアは真剣な目で凛を見る。
「失敗したら……
公爵は、あなたを殺すわ」
凛は静かにうなずいた。
その目から、軽薄さが消える。
「失敗しない」
「この病気は治せる」
「必要なのは、道具と材料、
そして――患者に直接会う許可だ」
レオモードは安堵の息を吐いた。
アーデリアは小さく頭を下げる。
「……なら、私たちも手伝う」
凛は、初めて素直に微笑んだ。
「ありがとう」
――つづく




