君との婚約を破棄──え、やだ。やだやだやだやだ、絶対やだーッ!!
社交界の煌びやかな会場で、私は隣に立つ王太子カルメロの横顔をそっと見つめた。私の婚約者。世界で一番好きな人──
思えば半年前のことだ。王城での園遊会にて、私たちは出会った。
『あの、セレス・ベネガス様……ですよね?』
赤レンガで囲まれた四角い花壇を見ていた折、横から声をかけられた。視線を向けると、そこには線の細い黒髪の男がいた。彼はどこか頼りなげで、まるで風に揺れる柳のような雰囲気だ。正直、私の好みではなかった。
『はい。王太子殿下、お初にお目にかかります』
一応、社交辞令として微笑んでみせる。白のロングスカートをつまんで会釈すると、垂れた赤髪がそよ風に揺れた。
好みではないとはいえ、これは好機に他ならない。王太子である彼に気に入られておいて損はないだろう。余計な感情は排除して打算的に動く。それが公爵令嬢である私の矜持であり、お父様の教えだ。
『花がお好きなのですね』
花壇に目を向けながら、王太子が平凡な話題を提示してくる。私は笑顔を崩さず、言葉を返した。
『はい。とても』
嘘。教養として少々知識があるくらいだ。しかし、ここはこう答えた方が好印象だろう。
ところで、改めて見ると実に綺麗なコスモス畑だ。他の花壇よりも明らかに丁寧な手入れが施されているのが分かる──そんな思いつきの出まかせで、私は会話を試みる。
『ここの花壇だけ、やけに手入れが丁寧に思えたのでつい見惚れてしまいました。赤、白、紫……どの花弁もとても綺麗で──』
『本当ですかッ!?』
突然、彼が身を乗り出してきて嬉々とした声を上げた。
私が硬直していると、彼はすぐにそれを察して身を引いた。
『失礼。ただ……実はその花壇、僕がお世話しているもので……それで嬉しくて。僕も花が大好きなんですよ』
『へ、へぇ……』
まずい。微妙な反応をしてしまった。目も逸らしてしまった。
彼の表情が少し暗くなる。
『すみません。男が花を愛でているなんて変ですよね』
『あ、いや……変なんて、そんなことありませんよ! 私こんな綺麗なコスモス初めて見ましたし、とてもすてきだと思います』
『本当ですか……』
『本当です! どうやってお世話しているのか、ご教授願いたいくらいです』
彼の表情は分かりやすくパーっと明るくなった。
そうして、初対面の王太子による花の授業が小一時間続いた。さして興味のない話題ではあったが、彼の話口は終始流暢で分かりやすく、思いのほか退屈ではなかった。取り繕っていた笑みも、気づけば自然なものになっていった。打算ではなく、彼の話をもっと聞きたいと思っている自分がいた。感情や雰囲気に流されるなんてまだまだ未熟だと思う。だが、むしろそれが功を奏した──
後日、お父様から『カルメロ王太子との縁談が進んでいる。断る理由はないだろう?』といった言伝を受けたのだ。
公爵家と王家。政略結婚としては申し分ない。私は特に反対する理由もなく、この縁談を受け入れた。
改めて顔合わせをすることになり、私たちは昼前に王城へと出向いた。すると、王太子は疲れ切ったような表情で、エントランスホールに現れた。王国の正装を思わせる黒い豪奢な軍服だが、ところどころに泥がついていた。
直後、白い顎鬚と金の王冠が特徴的な国王陛下がやってくる。ホールにある中央階段の上から、側近らと共に悠々と降りて来た。『これはこれは──』と、片手を挙げながら軽い挨拶を交わしてくるが、階下にいるみすぼらしい姿の息子に気づいて難色を示した。
『なんだその格好は? ベネガス嬢に失礼だろう。あれか? また例の少女趣味が講じたのか?』
『ええまぁ……』
『まったく。さっさと着替えてきなさい』
カルメロがそそくさとその場を後にする。
今日も花壇の手入れをしていたようだが、さすがに非常識ではないだろうか。私が来る時間は分かっていたはずだし、せめてそれまでに身なりくらいは整えていてほしいものである。
冷ややかな視線を彼に向けていたら、あることに気づいた。そういえば今朝、雨が降っていた。窓を叩きつけるような豪雨だった。九時ごろには小雨になっていて、今はもう止んでいるが、あの汚れ具合から見て、早朝から花壇をいじっていたのではないか。
呼び止めて、そのことを聞いてみる。『はい、その通りです』と、彼は伏し目がちに答えた。
呆れた。彼はどうやら、私よりも花の方が何倍も大事らしい。
肩を落としそうになったそのとき、隣にいる私のお父様が一切の感情を表に出していないのを悟った。そうして、私は口をつぐみ心を殺した。そうだ、愛されていなくとも婚約はできる。向こうがその調子なら、私もそれに合わせ──
『大雨でコスモスが倒伏していたのですが、セレスさんと結ばれるかもしれない日に、僕らを引き合わせた花が倒れていては格好がつきませんからね。それで朝から支柱を立てたり、排水したり、剪定して風通しを良くしたりと色々手を加えてました』
なんだか思っていたものとは違う回答が返ってきて、私は不意をつかれたように固まってしまう。
『セレスさんだけですから。あの花壇を綺麗って言ってくれた女性は』
『……』
『だから、その……愛する人が綺麗と言ってくれた花たちを守りたくて、つい張り切りすぎてしまったようです。でも、その結果、このような失礼を働いてしまっては元も子もないですね。申し訳ありません』
何それ。私のためってこと? 私のために、一国の王太子ともあろう人が朝から泥だらけになって花の世話してたの? バカみたい。花が倒れていたって、今日の顔合わせはあるわけで、婚約の話もきっと滞りなく進むわけで、そんなの気にしなければいいのに。
けれど、いつだって何に対しても真心を尽くせる……そんな人だから、私は惹かれのかもしれない。そうなると、ずっと打算や損得で動いていた自分が一番バカみたいだ。
堪らず私は彼の方に駆けていき、その手を取って握りしめた。
『な、何して……汚れているから』
『王太子殿下、好きです。私と結婚してください』
『えっ!?』
そうして、あれよあれよという間に私たちの婚姻を正式に発表する日がやってきた──
「──セレス」
すぐ隣にいるカルメロに呼ばれ、私は現実に戻ってきた。
会場には、きらびやかなドレスに身を包んだ貴族たちが集まっている。先ほどよりも数が増えている。
「何?」
視線を上げると、なぜか青白い顔をしたカルメロと目が合った。
「……どうしたの? 顔色が悪いけど」
「セレス。僕は……」
手が震えている。どうも様子が──
「はっきり申し上げてもらわないと困りますわ。ねぇ、カルメロ様?」
突如、凛とした声が響いた。
群衆が割れ、一人の女性が進み出る。私の純白のドレスよりも、多くの装飾を施した華美な白ドレスに身を包んだ金髪の美女。隣国の王太女、バルバラ・アズナヴールだ。
「なぜ……あなたがここに?」
私が問うと、彼女は金の扇子で口元を隠し目を細めた。
「なぜって〜、わたくしが新しい婚約者として選ばれたからに決まっていますわ」
会場がざわめいた。しかし、彼女はそんなざわめきも味方にするかのように、悠々とカルメロの方へと近づいていく。
「ほら、カルメロ様からも、このおばさんに言ってあげて。さぁさぁ早く」
「……」
おばさんって、私はまだ十九だし、あなたと二つしか変わらないでしょ。
青褪めたカルメロが息を飲む。そして、恐怖と絶望が混ざったような声で彼は言うのだった。
「そういう……わけなんだ──」
直感した。きっとカルメロは脅されている。バルバラが彼に想いを寄せているのは、風の噂で聞いていた。加えて、彼女は軍事国家の王太女。きっとその力を背景に、彼を追い込んだのだ。でなければ、彼がそんな裏切りをするはずがない。
嫌だ。カルメロを失いたくない。しかも、よりにもよってこんな女に奪われるなんて。
仕方ない。こうなったら、もうあれを使うしかない。
「だから、君との婚約を破棄──」
「え、やだ。やだやだやだやだ、絶対やだーッ!!」
「!?」
私は床に仰向けになって手足をばたつかせた。死にかけの羽虫の如く、それはもう惨めに。
会場が凍りつく。当たり前である。この私、公爵令嬢セレス・ベネガスが、癇癪を起こした子どもみたく駄々をこねているのだ。
あぁ恥ずかしい。あぁ死にたい。だけど、これでいい。これこそ私の切り札だ。
私が駄々をこねて致死量に近い羞恥心を覚えると、あらゆる願いを叶えることができる。父が仕事をほっぽり出して旅行に連れて行ってくれたのも、使用人たちが私の無理難題を笑顔で受け入れてくれたのも、すべてこの力のせいだった。物心ついてからやっとそれを自覚し、その能力の際限の無さに戦慄した私は、この力を封印することにした。あと、普通に恥ずかしいのであまり使いたくないというのもある。だから、久しぶりに使った。これ、本当しんどい。
こんな無様に感情を剥き出しにするなんて、父の教えに大きく反する形にはなるが、カルメロを守るためならなんだってする。
弾け飛べ、私の尊厳。
「そうだ。婚約破棄なんて、おかしい」
カルメロの目に光が戻った。
「僕は、セレス・ベネガスとの婚姻をここに宣言する!」
力強い声。いつもの彼からは想像もできない、凛とした声だった。
「は? なんで!?」
バルバラの顔に、怒りと困惑が滲む。
「カルメロ様!? こ、こんな淑女の風上にも置けない女のどこがいいんですか!?」
淑女の風上にも置けない……ね。その通りだ。それに関しては何も言い返せない!
仰向けに寝転がる私を指さして、バルバラはなお声を張り上げる。
「それに、あなたはわたくしと交渉したはずです! それを破るというのなら──」
「それがどうした?」
カルメロは屈み込んで、優しく私の手を取った。
「僕が愛しているのはセレスだ。セレスだけなんだ」
あ、格好いい。
そして、彼は私の手を握ったまま、バルバラに鋭い視線を向けるのだった。
「だから、君との下らない交渉に応じるつもりはない」
「……っ!」
バルバラが歯を食いしばる。しかし、すぐに彼女は肩の力を抜き、横に視線をずらした。
「あっそう……なら約束通り、その女には死んでもらいますわ──」
ヒュッと乾いた音がした。即座にカルメロが私に覆い被さる。
「──うぐ!」
「え……」
会場にある柱の陰から、バルバラの兵士と思われる男が弓を構えていた。その者の放った矢が、彼の背中を貫いていた。
私に覆い被さったまま、彼は静かに笑った。
「よ、よかった……君は無事だね」
「カルメロ……あなた、矢が……」
バルバラが怒号を飛ばす。
「ちょっと!? 彼に当ててどうすんのよ!? 下手くそ!」
そうか。カルメロは私を守るために、その"交渉"とやらを飲んでいたらしい。さしづめ、婚約破棄をしなければ私を殺すとか、そんなところだろう。なんて姑息な。
会場は騒然とし、医者を呼べ、という国王陛下の声も聞こえてくる。
しかし、だめだ。完全に心臓を射抜かれている。彼は直に死んでしまうだろう。
なら──
「やだッ! やだやだやだ……!」
「セ、セレス……動かないでくれ! 傷が開いてしま──」
「やだやだ! カルメロ死ぬの、やだーッ!」
彼に抱きしめられたまま、私は手足をばたつかせる。
瞬間、彼の背中に突き刺さっていた矢が消え、出血も治る。
「……ん? あれ?」
目を見開いた彼が、おもむろに立ち上がる。完治しているようだ。
一同ドン引きし、バルバラも後ずさりする。
「は? い……いやいやっ!? どういうことですの!?」
首を傾げて混乱した様子を見せながらも、バルバラは指を鳴らす。すると、外から兵士たちが雪崩れ込んできたのだった。
「命令です! セレスを殺しなさい! そして、この国の王太子をわたくしに献上するのです! どんな手を使ってでも──」
「暴力やだやだ──(以下略)」
すると。
「確かに。暴力はよくないか。やめよう」
黒い甲冑を身につけた軍隊長っぽい人が、長剣を鞘に収めた。
「人を傷つけるのはダメですよね」
後ろの兵士たちも武器を下ろす。
「故郷に帰ってオリーブ農家を継ぎます」
「僕は羊飼いになります」
「暴力反対! 戦争反対ッ!」
兵士たちが主君を無視し、次々と帰路につき始めた。
「なんなの……なんなのよ、これぇ!?」
「バルバラ様! もうこれ以上、あなたのわがままには付き合いきれません!」
軍隊長がバルバラの腕をつかんで引っ張っていく。
「は、離しなさい!? わたくしを誰だと思ってるの!? 不敬! 不敬ですわ!? 誰か、この不届き者を処刑しなさい!」
しかし、彼女の暴力的命令はもはや誰の耳にも届かない。
お散歩の帰りを拒否して暴れる子犬のように、彼女は必死の抵抗を示すが、軍隊長の圧倒的腕力を前に彼女は何もできず連れていかれる。
挙句、彼女は脱力し、無様に私のマネごとをするのだった。
「や、やだ……! カルメロ様と結ばれないと嫌ですわーッ!」
もちろん何も起こらない。軍隊長も呆れ返っている。
「はぁ? 何してるんです? みっともない」
「な、なんでよッ!?」
バルバラの悲鳴が会場に響く中、軍隊長は彼女を引きずって退場していった。
会場に静寂が戻る。
「セレス。君は一体……」
「秘密」
私は半身を起こし、彼の口に人差し指を当てがった。
「でも、これだけは言える。私もあなたを愛してる。あなたなしの人生なんて、考えられない」
「セレス……」
「私と一緒にいてくれる? これからも、ずっと……」
カルメロの目に涙が浮かぶ。
「ああ、もちろんだよ。いつまでも君のそばにいることを誓おう……」
そして、私たちは抱き合った。
会場から、盛大な拍手が沸き起こる。
「おめでとうございます!」
「お幸せにー!」
そんな中、国王陛下が眉をひそめた。
「待て……さっきの"駄々"は? 水に流したほうがいいのか?」
水に流してください。どうか。
こうして私はカルメロと無事結ばれた。
平凡で平和な世の中で、私たちはいつまでも仲睦まじく暮らしたのだった。彼といると、私は心から笑顔でいられた。それが何よりも幸せだった。
今でもあの花壇には、コスモスの花が咲き誇っている。




