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ここ一週間、俺は公団マンションから向かいのマンションの二階を探っていた。
そのマンションの家主は女性で一人。二階の角部屋で、帰宅するのは、いつも二十三時過ぎ。仕事に疲れた顔で帰宅する姿を四日は見た。窓ガラスには防犯用のワイヤーが入っていない。近所は閑静な住宅街で、監視カメラの場所も確認している。隣の住人がいない今日が空き巣に入る絶好の機会だった。
窓ガラスを割るためのガスバーナーの残量があるか確かめる。気持ちを落ち着かせるために事前に冷たいコーヒーを飲んで、人生で初めての犯罪へと向かう。黒目の上下にキャップを深く被り手袋を嵌めた。人通りが無くなった二十二時頃、足音を立てずにマンションに近づく。一階の階段の屋根に上り、排水管を支えにベランダの淵に手をかけた。
よし。
そのまま壁を蹴って両手で手摺に捕まり、軽い身のこなしでベランダを乗り越える。向かいの公団の住人から気付かれないように身をかがめ、掃き出し窓に手をかける。
空いていた。
僥倖だ。窓を割らずに侵入できて、住人からの通報を少しでも遅らせることが出来る。ゆっくりと音を殺して窓を開ける。部屋は夏の温い空気で満たされていた。あと一時間はあるが油断はできない。部屋は小奇麗にしていて狭い。小さいライトを照らし、室内を物色する。ミニマリストなのか目立った金目のものは置いていない。とりあえず現金だ。俺は素早く棚の引き出しを開けていく。
その時、足音がした。咄嗟に振り向くと、ベッドの隙間から黒づくめの人物が手を振りかざし低い体勢で突っ込んでくる。俺は咄嗟に差し出された右手を掴み、捻り上げて足をかけ床に捻じ伏せ背中に体重をかけた。男が持っていたナイフが外からの明かりで銀色に光っている。
男がいたのか! 男の姿は確認していなかった。
「くそっ、離せ!」その男が残っている肺の空気を振り絞って叫び、反抗しようとしている。
服装の様子から、住人の男ではないようだ。「お前、何者だ!」
抵抗する男は苦悶の声を放ちながら暴れる。近くに置いてあったタオルで両手を縛った。
「畜生……、失敗だ」
その言葉から、その男も空き巣だと気付いた。「お前、空き巣か?」
先客がいるだなんて考えもしなかった。観念したのか、男の力が弱まっていく。
「お前、何歳だ?」声からして若そうな感じがした。
「何でそんなこと聞く。早く警察を呼べばいいだろう!」ぶっきらぼうに男は吐き捨てる。
「安心しろ、俺も空き巣だ」
首を捻ってこちらをみる瞳が驚きの表情をしていた。だがその瞳は安堵を見せ口の端を上げる。
「なんだ……、同業者か」
若い強盗のタオルを解き、座ったまま男と対面した。男が持っていたナイフは取り上げている。
「なんでそんな若さで空き巣なんかやっているんだ」俺は諭すように話す。
「しかたねぇだろ。金がねぇんだ」
「それにしたって……」
犯行が見つかった場合、相手を殺すつもりでナイフなんて持っていたのだろう。その若さで強盗殺人なんかしたら……。
「真面目に働くことは考えなかったのか?」
「おっさんがそれを言うかよ。まあいいや。この不況の時代、どこもすぐには雇ってくれねぇよ。それに真面目に働くのが馬鹿らしくなったんだ」
「親は」
「……母親がいる」
父親はいないのか。「強盗殺人なんかしたら、母さんが悲しむぞ。それにニュースになるし、お前の母さんも居場所が無くなる」
「分かっている。分かっているけどさ! 明日の食費すら厳しいんだ!」
よほど困窮しているのだろう。この若者にはまだ未来がある。俺はポケットから財布を取り出し、千円札五枚の中から三枚を渡した。
「なんだよ、これ」
「これでニ、三日食っていけるだろう。その間に日雇いの仕事を探せ」
「なんだ、急に良い人ぶりやがって」そう言いながらも、若い空き巣は俺の手から札をひったくった。
俺は若い頃、結婚していた。すぐに不況になり職を失い俺から離婚を申し出たが、妻はそれでもいいと言っていた。だが俺は逃げ出してしまった。
あの時、子供がいたら、この青年ぐらいの歳になっていただろう。
ちゃんと家族を持ち、教育を施せていたら、立派な青年に育っていたに違いない。
話し込んでしまったことに気付き、俺は時計を見た。もうすぐ二十三時だ。
「おい、もうそろそろ出るぞ、住人が帰ってくる」
「そうなのか?」
動かしてしまった家具を整えて、二人して窓から飛び降りた。結局、物は盗まなかった。
空き巣に失敗した俺たちは閑静な住宅街を二人して歩いた。
「借りが……出来ちまったな」若い空き巣は溜息を交えて言う。
「気にするな。俺も明日から働くことに決めたよ」
若者を諭している言葉が、自分にも言い聞かせているような気持になり、更生の道へと促していたのだろう。少しばかりの感謝も芽生え始めていた。
十字路に差し掛かり、若者は立ち止まった。「俺はこっちだ」
「ああ、じゃあな。頑張れよ」
若者は、そのまま去っていくかと思われたが、立ち止まったままだった。
「おっさん、名前は?」
明かして良いものだろうか、とも思ったが妙な信頼関係が築けたと思っていたので素直に答えた。
「大木戸だ」
「オオキドさんか。死んだ俺のオヤジと同じ名前だ」そう言って翻り、じゃあな、と残して街の闇の中に消えていった。
同じ名前か。妙な偶然もあったものだ。あの時、もし子供が出来ていたら……。
いや、そんな馬鹿な話があるわけない。
俺は残った二千円で、明日働くことを決めた。