かがやき損ねた星たちへ
昭和四九年八月三十日、八人もの犠牲者を出した大倉重工爆破事件が発生し、日本全土が震撼した。いわゆる、「連続企業爆破事件」の幕開けだった。
その一か月後、警視庁に反日武装戦線〝かがやき〟から犯行声明が送られる。あさま山荘事件をはじめ、様々な極左暴力集団に煮湯を飲まされてきた日本警察は、プライドをかけて〝かがやき〟の構成員の逮捕に挑む。しかし警視庁刑事部の前に立ちはだかったのは、警視庁きっての秘密主義を貫く公安部だった。
ならば自らの足で手柄を稼ぐまで。刑事部にすら情報を一切明かさない公安部、そして国家権力をあざ笑い続ける〝かがやき〟に、刑事部捜査一課の刑事、吉永嶺次郎と長谷川薫が挑む。
「これはお前らへの脅迫だ」
江田純子警部が、重い口調で目を細めました。
「死ぬかもしれん任務だが、拒否できると思うなよ」
「はい」
私は明瞭に返事をしました。警察官として、上司の命令を拒否することはありません。たとい死ぬやもしれずとも。
しかし、私の隣から生意気な返事が聞こえました。
「他にいなかったんですか?」
私の警察学校の同期、長谷川薫巡査部長です。
「こいつは新婚、僕は娘が生まれたばかり。独身の警部には分からんでしょうが、僕らは今死ぬわけにはいかないんです」
堂々とした薫の進言に、江田警部がむっとした顔をしました。
「吉永嶺次郎、同期だろ。叱っておけ」
「はい、すぐに躾けます」
「口が減らん奴だ。どうせ私には逆らえん癖に」
幸い、江田警部は苦笑で済ませてくれました。私は頭を下げ、同時に薫に頭を下げさせました。
「長谷川、残念ながら、答えは『他にいない』だ。秋の異動で、お前らは一ヶ月前の大倉重工爆破事件、その特別捜査本部に入ることになったからな」
昭和四十九年の八月末。まだ暑い昼下がりでした。一本の爆破予告電話が入り、その電話が終わらぬうちに、大倉重工ビルに置かれた二つのペール缶が炸裂しました。時限爆弾でした。
「あれは――戦後の地獄だった」
現場は阿鼻叫喚、丸の内から新宿まで爆発音が聞こえたといいます。
「証拠は爆破で殆ど消し飛んだ。真昼の東京なのに、まともな目撃証言はゼロ。この一か月、捜査に進展はない」
「つまり、暇な特捜本部に僕らを左遷すると――」
私は素早く薫の口を塞ぎました。私なりの躾です。
「まあまあ落ち着け。初めての進展があるのさ」
江田警部は背広の懐から一枚の紙を取り出し、我々の顔の前に突き出しました。
「今日、犯行声明文が送られてきた。差出人は『反日武装戦線かがやき』、その名前に覚えはあるか?」
「ありません!」
薫は元気に答えました。私も心当たりはありません。
「まあ読め」
我々はタイプ打ちの犯行声明文に顔を近づけました。
――今回、大倉重工爆破作戦を決行したのは、反日武装戦線〝かがやき〟である。大倉は旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能する『日帝の大黒柱』である。爆弾に依り、爆死した人間は、植民地主義に参画する植民者であり、我々の処刑の対象である。
日帝は朝鮮の植民地支配を始め、台湾、中国大陸、東南アジア等を侵略し、国内植民地として、アイヌ・モシリ、沖縄を同化吸収してきた。
(中略)
最後に警告する。今すぐに日帝企業での活動を停止し、外国から撤退せよ。警告に従うことが、逃げ遅れた気の毒な戦死者とならない唯一の途である。
「いわゆる極左暴力集団だな」
「革マル派とか中核派とかの……」
政治に興味があるのが知的とされた時代でしたが、一部の過激派が極左暴力集団と化し、暴力闘争を展開しはじめた頃でもありました。
東大紛争、羽田事件、あさま山荘事件。数々の事件が起こりました。警察は常に、彼らの後手でした。
「我々警察は、極左暴力集団に幾度も煮え湯を飲まされてきた。民間人も多数死んでいる。今や、左翼活動はインテリのお遊びではない。吉永、お前もそう思うだろう?」
「私にインテリの考えは分かりません」
「つまらん男だな。長谷川はどうだ?」
キャリア組の江田警部は、薫に水を向けました。
「左翼活動は、部活動の亜種です。お遊びから始まり、いつしか全力になる。今は革命ごっこでも、そのうちオリンピック競技になるかもしれません」
「聞いたか、吉永。長谷川のユーモアを見習え」
今の、見習うほど面白かったですか?
「しかし、奴らに限っては部活じゃない、プロだ。なにせ『腹腹時計』を書いた連中だからな。お前ら腹腹時計は知ってるな?」
「知りません!」
「知らんで済むか!」
こってり絞られました。曰く、有名な時限爆弾の教本で、犯行声明を出した『かがやき』が、その著者だそうです。実は私も知りませんでした。
「じゃあ『腹腹時計』とかいう爆弾の本を読めば、『かがやき』の連中なんて簡単に捕まえられますよね?」
賢明な方なら、これが私の言葉でないのはお判りでしょう。
「あのな、あんな爆弾の教科書を流通させたら、世の中テロまみれになるだろうが。公安がすぐに全て差し押さえている」
「では、僕が腹腹時計を公安部に借りに行きましょうか」
「もう行った。渡されたのは偽物だった」
江田警部は低く呟きました。私は目を泳がせ、薫は絶句していました。
「公安部はいつもそうだ。極左暴力集団は元々公安の獲物だからか、普段にも増して我々刑事部のことを舐めてやがる」
公安部が秘密主義なのも、刑事部と仲が悪いのも、有名な話でした。
「これだけ捜査が難航してなお、本の一つも貸せんというのですか」
「全てを内々でやらんと気が済まん連中だからな。刑事部の特捜本部が暇なのも当然だ。だが、刑事部も負けちゃいない。腹腹時計の著者としての『かがやき』に詳しい中核派グループ『大鷹』を追い、間接的に『かがやき』を追うことを決めた」
「それがどうしたんです?」
「大鷹はな、二週間ほど前に人を殺した。被害者は東工大の学生で、大鷹の元メンバーだった。内ゲバだな」
「荒川区男子大学生殺人事件ですか?」
「察しがいいな。殺人なら刑事部の方が得意だろう、私は途中で担当を外されたが。お前ら、大鷹の足取りを掴んでこい」
「嫌です」
「かがやきでもいいぞ」
「もっと無理です。僕らは二人、しかも異動前ですよ」
すぐさま薫が警部に噛みつきました。私も内心では同意見でした。しかし警部は真剣な顔です。
「だから期限は異動までだな。今日を入れて三日だ。やるか?」
できるか、とは問われませんでした。
「嫌です」
「やります。命令ですから」
私は薫を抑え込み、顔だけ上げて江田警部の目を見ました。
「その言葉を待っていた。一切の他言は無用だぞ。新聞屋にすっぱ抜かれたら終わりだからな」
警部はそう言うと、ヒールの音を立てて部屋を出て行きました。私に押さえ込まれた薫が、大きくため息をつきました。
§
「かがやきの情報を大鷹が持ってるなんて、与太話さ。死んだ人間視点の怖い話みたいなもんだ。全部嘘だよ。誰が聞いてきたんだって話でしょ」
お茶の水の喫茶店でクリームソーダを注文して、薫が苦情を言いました。江田警部おすすめの喫茶店だそうです。
「あのね嶺次郎。この三日間は警部からの餞別で、真面目に仕事をする三日間じゃない。こうして庁舎を出て休めるように、警部は形だけの命令をくれたの。分かる?」
薫は店で堂々と仕事の話をしています。他言無用とは何だったのでしょうか。
「その割には、警部に噛みついていただろうが」
「他の上司にはしないよ。江田警部に生意気な部下を可愛がる癖があるのは、有名な話だからね」
薫の微笑には、どこか邪悪さがありました。
「演技だったのか?」
「出世するには、手柄よりも先に、上司に気に入られないとね」
私は顔をしかめました。実家の後継ぎでもなく、高卒で就職した私にとって、出世は人生の重要命題でしたが、それでも上司に媚びることは私のプライドが許しませんでした。
「たった三日でも、俺はサボりたくない」
「僕だってサボらないよ。与太話じゃなければ」
「与太話じゃないぞ」
私が言うと、新聞を読んでいた薫が顔を上げました。
「妙だと思わないか? 犯行声明が出て、かがやきが犯人だと分かったのは今日なのに、警部はどこで与太話を知ったんだ?」
殺人犯が誰かは分からないのに、大鷹というグループが起こした事件だと分かった。内ゲバも公安の獲物なのに、刑事部の江田警部が担当だった。未解決なのに、警部が途中で担当を外された。
警部の話には、疑問点が多々ありました。
「はじめは単なる殺人事件として刑事部が捜査していたが、捜査線上に大鷹の名前が出て、事件を公安部に取られたんだろう」
「かがやきとの関係は?」
「江田警部は、公安部に渡された腹腹時計が偽物だと気付いた。中身も知ってそうだった。あの人は本物を見たんだ。恐らくその現場でな」
公安が差し押さえ、殆ど流通していない腹腹時計が見つかった理由は一つです。
「かがやきのメンバーから、被害者が直接もらったんだ」
「君、頭いいんだね」
薫が目を瞬きました。
「高卒だがな」
「そういう意味じゃない」
明るく笑う薫の意図が、私には分かりませんでした。
「……ん?」
薫が急に笑うのをやめて、私の後ろを指さしました。
「あのプリン食べてる若い男、なんか見覚えない?」
「ないな」
私は首を振りました。髪の長くて派手な格好の、軽薄そうな青年でした。心当たりはありません。
「志村基也、警察学校で隣の教場だったでしょ」
名前には確かに覚えがありました。性悪で有名な男でした。
「あいつ、公安に行ったんだね」
薫がクリームソーダに口をつけ、眉間に皺を寄せました。
「……なんで公安って分かるんだ」
「髪が長いから」
なるほど。ジュリーの影響で若い男性に流行していた長髪は、警察官には許されない髪型でした。唯一、公安を除いては。
「なんで公安がお茶の水の喫茶店にいるんだろね」
薫が私のコーヒーに手を伸ばしながら、耳打ちしてきました。
「仕事だろ」
「爆破は丸の内、殺人は荒川だけど?」
「じゃあ自宅が近いんだろ」
「毎年年賀状を出してるけど、綾瀬に住んでるよ」
私は黙りました。犯行声明という新たな手掛かりが出てきた今、公安は血湧き肉躍っているはずで、喫茶店にいるのは捜査の一環に決まっています。
「公安はお茶の水に目をつけてるんだ。いいこと知ったかも」
「志村を尾行しよう」
立ち上がろうとすると、クリームを口元に着けた薫が私を止めました。
「いや、明日の朝だ。九時にこの店に集まろう」
彼はまだソーダを飲みたかったのかもしれません。
§
「モーニングが食いたかっただけか?」
「早起きして、腹が減っててね」
薫はトーストとゆで卵にかぶりつきました。
「この事件、目撃証言がなさすぎるのが引っ掛かってたんだ」
「だから困ってるんだろ」
「爆弾はペール缶が二つ。ペール缶はかなり大きいし、重さは二つで四十キロを超える。缶を運ぶ目撃証言がないのはおかしい」
薫の言葉に、私はピンときました。
「車か?」
「流石は嶺次郎。恐らく、自家用車で爆弾を運び、途中でタクシーに乗り替えたのさ」
アジトから直接タクシーに乗れば、捜査でタクシーの運転手にアジトの場所を喋られてしまいます。しかし自家用車だけを使って、目撃証言が出るのも怖い。
「公安が本気を出せば、タクシー運転手なんか簡単に見つかる。たぶん、乗り換えた場所が御茶ノ水駅前だったんだ。御茶ノ水駅は丸の内の北西にある。それだけでは何も分からないように見えるけど……」
薫は東京の地図を取り出し、赤いペンで道をなぞりました。
「奴らは時限爆弾を持ってる。絶対に渋滞に巻き込まれたくないはずだ。よく混む国道や都道は使わない。だけど細すぎる道も怖い。御茶ノ水駅が遠回りになる道も通らない」
私は地図を見て、あっと声をあげました。たった数本の線を引いただけなのに、土地が浮かび上がりました。
「根津、千駄木、日暮里のどこかだ」
薫がペンを置きました。
「日暮里に絞ろう。二日あれば何か見つかるよ」
微笑んだ薫は会計を全て私に払わせ、軽い足取りで店を出ました。
§
薫の言う通り、丸二日かかりました。怪しいアパートは確かに見つかりました。
「なるほど、昼も夜もカーテンを引いていて、安っぽいドアに補助錠を二つもつけてる。中に見られたくないものがあるんだね」
今日は九月末日で、我々には時間がありませんでした。アパートを見上げていた我々が、様子を伺おうと部屋に近付きかけたときのことです。
「そこまでだ」
私の腕を背後から誰かが掴みました。
知っている声でした。振り向くとそこには江田警部がいました。その後ろに、志村も立っていました。それだけではありません。私服の男が何人もいます。
公安部だ、そう思いました。
「答え合わせしてやる。ここは、かがやきの古いアジトだ」
江田警部が乱暴に補助鍵を外し、玄関のドアを開けます。鍵はいずれも外れていました。
「よくやった、吉永、長谷川。この部屋は公安すら見つけられなかったアジトだぞ。どうやって辿り着いた?」
薫が今までの流れをつらつらと話しました。
「なぜ日暮里に目をつけた?」
「志村の自宅のゴミを漁りました」
薫は平然と言いました。志村が舌打ちをし、そうきたか、と警部が笑いました。
「……捜査に関するものを、捨てた覚えはありません」
「だろうね。でも志村のゴミは雄弁だったよ。なにせ喫茶店のマッチ一つで、公安の捜査範囲が分かる。いやぁ、ゴミ漁り後のモーニングは美味いね!」
底にあれば数日前。上なら昨日。半径数十メートル単位で、ここ数日の志村の捜査経路が手に取るように分かりました。志村が根津と千駄木を既に調べたと悟った薫は、日暮里に捜索範囲を絞ったのです。
「刑事部の捜査力を舐めるなよ。腹腹時計なんかなくても、たった二人でも、三日でも、ここまでやるんだ」
「……なるほど。公安部のメンツも丸つぶれですねぇ」
志村は薄い唇に笑みを浮かべ、軽く肩を竦めました。
「この二人は根性も地力もある。公安とて、喉から手が出るほど欲しい人材だろう? 貸してやる、好きに使え」
「ど、どういうことですか、江田警部?」
公安と警部の間で不穏な話が進んでいるのを感じたのか、薫が素早く二人に割り込みました。
「刑事部が公安部にいくらかけあっても、刑事部に情報は出さんの一点張りだった。だが優秀な刑事なら、公安に加わっても構わんだろうとしつこく交渉して、公安も知らんアジトを見つけた刑事を、公安部の特捜本部に加えるよう要求したんだ」
指をさされた公安の男は苦い顔でした。きっと、江田警部に偽物の腹腹時計を渡した人なのでしょう。
大倉重工爆破事件の捜査には、警視庁の威信がかかっています。手柄を独占しようとする公安部を、刑事部の彼女が看過するはずありません。
「やられた」
薫が乾いた声で呟きました。
「警部は、僕らをここに誘導したんだ……。僕らにアジトを見つけさせるために……。公安に対抗するために……」
江田警部は、とっくの昔にここを見つけていたのです。我々にヒントを与え、かがやきのアジトを見つけられるか、試していたのです。薫が志村のゴミを漁った話をした時、彼女はそうきたかと呟きました。彼女の中には、我々を日暮里に誘導する想定解があったに違いありません。
全ては警部の手のひらの上でした。
「お前らの異動の詳細を、もう少しだけ話してやろう。明日より刑事部ではなく公安部の特捜本部に、刑事部からの応援として加わってもらう」
流石の私も言葉を失い、薫と顔を見合わせました。
警部が長い髪をかきあげて、全てを見透かしているかのように微笑みました。
「吉永嶺次郎、長谷川薫。警視庁刑事部の名にかけて、逮捕に一枚噛んでこい」