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発酵

作者: 嘉多野光

「小島さんって趣味何ですか?」

 最近入ったパート先で、私は歓迎会を開いてもらった。その席で隣に座っていた大塚さんに、そう尋ねられた。大塚さんは二年目になる契約社員で、シフトがよく被っている。

「最近は糠漬けにハマってるんです」あまり言いたくなかったが、他に趣味もないので正直に話した。

「糠漬け! 家庭的ですねえ。糠って毎日掻き回さないといけないんじゃなかったでしたっけ?」

「まあ、そうですね」

「小島さんと結婚する人はいいですねえ」と言いながら大塚さんは残りのハイボールを飲み干した。

 家庭的とか料理上手とかうんざりだ。勘弁してくれ。私は嫌な気持ちを押し流すために、烏龍茶を一口飲んだ。


 そもそも、私は糠に野菜を漬けているわけではない。私が漬けているのは思い出だ。

 その糠を見つけたのは、およそ半年前のことだった。それより前の私の趣味はタロット占いやパワーストーン集めといったスピリチュアルなもので、休みの日にはよくそういった店に通っていた。ある週末に訪れた二子玉川の住宅街にひっそりと建つ占い雑貨店の軒先のワゴンの中に山盛りに積まれて、それは売っていた。


 バーゲンセール!

 思い出糠漬けスターターキット 千円(税別)

 楽しかった、嬉しかった、そんな思い出を和紙に書いて漬けると、糠の乳酸菌が思い出を発酵させて、よりよい思い出に仕上げます。

 内容物:糠八百グラム、殺菌済みクリアケース、専用和紙

 ※この糠は思い出専用糠床です。食品は漬けられません。


 スーパーで糠なんて見たことないから相場なんて分からない。そもそも漬けるものが違うのだから比べようもない。だけど、千円ならダメだったとしても大した損にはならないし良いなと思い、特に何も考えずに私は糠のセットを購入した。


 私は地味で冴えないOLのように見られがちだ。確かにここ数年は良いことが何一つなく、人生に飽きたような顔をしていると思う。しかし、こう見えても学生時代、特に中高生時代は、かなり輝いていた部類だった。

 当時、私はいわゆる陽キャだったのだ。いつもクラスの中心にいて、常に周りの関心を引く。行事は率先して周りを引っ張り巻き込んで成功に導く存在だった。

 一方で、私は当時いじめっ子でもあった。クラスに馴染めず暗い子や、個人的に気に入らない子をターゲットにして、精神的に追い込んで不登校にさせていた。中高一貫校に通っていて閉鎖的な空間だったから、誰もが私を恐れていつもちやほやしてくれた。

 だけど、そんな日々がいつまでも続くはずがなかった。高校二年生の冬、ついに私は周りから総スカンを喰らった。みんな、私をおだてるのに疲れてしまったのだろう。今度は打って変わって私がいじめられる立場となった。

 私が今までしてきた分、いじめは壮絶だった。荷物が汚されたり壊されたりなくなったりするのは日常茶飯事。常にシカトされ、まるで私がこの世に存在していないかのように扱われる。変な写真が学校内に出回る。

 打たれ弱かった私は三年生に上がる前には不登校になった。そのまま、高校三年生の夏に出席日数が足らずに退学となった。

 そこからはどん底の人生だった。わざわざ私立の中間一貫校に入れてやったのに出来損ないに育ってしまったと、親には毎日罵られた。退学した年度の終わりには念のため大検を取得したものの、社会不信になっていた私は引きこもりになって、大学に進学する気も起きなかった。

 それから二年ほど経って、現在は公的援助を受けながら少しずつパートで働き出して社会復帰しようとしているところだ。それでも、これまで働いてきた二社のうち、一社目となるカフェでは接客が上手くできず実質クビ。二社目であるIT系の事務職では、社長がワンマンで雰囲気我が悪く、適応障害を発症して退職。

 その二社目でさらに精神状態が悪化した私が藁にもすがる思いで手を出したのが、スピリチュアルな世界だった。今は、毎朝タロット占いをしてからでないと外出できない。そんな状態のときに手にしたのが糠床だった。


 その日、家に帰った私はすぐに漬物を始めた。糠は、普通の糠と同じように茶色く、独特な匂いがした。これも一般的な糠と同じように、漬けたら毎日掻き回すこととパッケージに書かれている。

 説明書に、漬けるのは昔の思い出でも構わないと書いてあったので、中高生のときの楽しかった思い出を書いていった。中学二年生の合唱祭で、練習の成果が実り三年生を破って優秀賞を取ったこと。中学三年生のときに、一年上の先輩で人気の高かった先輩から告白されたこと。高校一年生に上がる前の春休み、その先輩の家に泊まったこと。スターターキットで付いている和紙は八枚だが、市販の和紙でも構わないということだったので、帰る途中に画材屋さんで買い込んだ大量の和紙も使用して、数え切れないほどの思い出を書き出した。

 思い出を書いた和紙は、細く丸めて糠に入れる。一日程度浅く漬けるだけでも良いが、年単位で長く漬けても、塩辛さの中に旨みを感じられるとのことだった。なお、味わい方としては、思い出の書いた紙を直接食べるのではない。糠から紙を取り出し、和紙を丁寧に水洗いし、その紙の匂いを嗅ぐと、発酵した思い出が「味わえる」のだという。

 本当ならどの思い出も三年ほど漬け込みたかったが、待ちきれなかった私は、次の日に試しに一枚糠から出して水洗いした。取り出した紙に書いていたのは、先輩との最初のデートで遊園地に行ったときのことだった。最初に塩辛さを感じたが、それがだんだん青春の匂いに代わり、最終的にほのかな甘みが広がった。なるほど、食べていないけど味がする。そして、とても良い気分になった。


 歓迎会から一年が過ぎた。私は大塚さんと付き合っていた。糠漬けを始めてから昔の自信のあった感覚を取り戻した私は、少しずつ元気になっていた。

 その日も仕事から帰った私は糠に直行した。良いことがあった日も悪いことがあった日も、帰ってすぐに糠から一枚思い出を引っ張り出して味わうことで、私は元気を出すようにしていた。

 その日に取り出した思い出は、和紙がずいぶん湿って柔らかくなっていた。もしかしたら随分前に漬けたものかもしれない。あまり待つのが苦手でいつも浅漬けになってしまうから、もしかしたら一年以上漬けたかもしれないこの思い出を味わえることに、私は喜びを感じた。

 柔らかくなった和紙をいつも以上に丁寧に洗い、ゆっくりと匂いを吸い込んだ。しかし、いつものような青春を感じる、爽やかなしょっぱさや酸っぱさがない。下に残る苦さが少しずつ広がり、酸っぱいというよりピリピリする。甘さはまるでない。

 不思議に思った私は、紙に書かれた思い出を見た。「中学一年生、初めていじめた野木さんを不登校に追いやってスッキリする。私の学校での地位が確立する」と書かれていた。

 そうか、こういう思い出はまずかったのか。心身まで重くなったような気がしながら、這いずって取りに行った説明書を読んで、私は顔をしかめた。

 確かに中学生の夏休み前から、私はいじめを始めた。最初にターゲットにしたのは、クラスに馴染めていなかった野木さんだった。野木さんは友達もいなかったから、あっという間に不登校になった。

 しかし、中一のときは不登校になったものの、二年生になって私とクラスが離れてから野木さんは学校に復帰した。良い友人とも巡り会えたらしく、たまに校内で見かける彼女は楽しそうだった。だけど、そのときは私も別の人をターゲットにしていたから、野木さんがどうだろうが特に気にしていなかった。

 でも、いじめられた方はいじめた人を忘れないものだ。高校二年生、私は四年振りに野木さんと同じクラスになった。そして私はいじめられ始めた。その中心は野木さんだったのだ。それから、私の中の野木さんのイメージは、いじめられっ子で自分が追いやった一人から、いじめっ子で私を追いやった張本人に変わった。だから野木さんの名前には良い思い出がないのだ。

 そして、糠床の説明書には、良い思い出のみを漬けるように、注意事項として大きく書かれていた。誤って嫌な思い出を漬けてしまうと、そのときの嫌な感情が発酵してさらに腐臭を放つようになるらしい。私はよかれと思って、実は嫌な思い出を漬けてしまったのだ。しかも長期間に渡って。

 それから、そのときに味わった苦みがいつまでも消えず、何となく気分もまた沈むようになった。鏡を見るのも嫌になった。よく体調を崩すようになった私は会社を退職し、大塚さんとも別れてしまった。

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