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第六章 各国の思惑

 大変お待たせいたしました。第六章です。

 また新たな登場人物がかなり出ます。

 一生懸命頑張って、クセのあるよう努力して造形いたしました。


 主人公たちはもちろん、こういったクセのある登場人物にも応援があるとうれしいです!


 それではご一読、よろしくお願いいたします。

第六章 各国の思惑



 バリス帝国の帝都ヒトリールの皇宮の一室で皇帝が報告書を読み終え、それをやや乱暴に高級な机に放り出すと、同席者に吐き捨てるように言った。六月三日のほぼ深夜のことであるが、バリス帝国歴では百四十五年になる。建国がホスワードより八年ほど後だからだ。この部屋には三名がいたが、机と椅子が四席、そして皇帝の席の後ろ垂れ下がっている中央に双頭の鷲を配した赤褐色の旗があるのみの簡素な一室である。

「ふん、バタルの強欲者め、敗れおったか。よし兵士たちの鉱山任務を解かせよ。兵士たちの再配置だ」

 読んでいたのは、この五月に行われたホスワード軍とシェラルブク族同盟軍とエルキト軍の一戦のあらましである。皇帝から見て右側に座った高官と思われるものが発言する。

「ですが陛下、それですとエルキトへの四年前の援軍の報償が滞りますが」

「報償はもう払わん。このような敗北を喫したからには、エルキトが違約で此方(こちら)に攻めてくることもあるまい。今はホスワードの方がよほど危険だ」

 バリス帝国第七代皇帝ランティス・バリスは高官の懸念を一蹴した。そこで、もう一人いる皇帝から見て左側に座った者が冷たい声を発す。

「なりませぬ。父上。そのまま兵たちには鉱山任務を続けさせるべきです」

 冷たい声はランティスの息子で皇太子のヘスディーテであった。年齢はこの年に二十歳になる。漆黒の髪は直毛で綺麗に切り揃えられ、白皙の冷たい顔は表情に乏しい、というより無駄な感情を表に出すのが意味がないと、達観した様な落ち着きがある。瞳は冷たい灰色で、顔だけ見ると見事な墨の濃淡のみで描かれたような貴公子だ。体つきは背は辛うじて長身という部類に属する方だが、線が細い。彼は特に病弱という訳ではないが、明らかに戦士の体つきはしていない。一応皇太子して最低限の武芸の調練は幼き頃よりしているが、それ以上に彼は様々な読書や学問に今まで費やし、さらに十代の内から自ら望んで地方官などの任務にも就いていた。

「なぜだ。エルキトとの公約を守るべきだというのか」

 皇帝は息子に問う。父帝であるランティスは五十代前半だが、三十を過ぎてやっと生まれた後継者に対して、成長するごとに「此奴(こいつ)は本当に俺の息子なのか?」と思うことがしばしばである。とにかく幼少の頃よりヘスディーテは感情に乏しく、喋り始める頃にはもう子供用の玩具で遊ぶなどということが無かった。

 ランティスは小柄という程ではないが、背丈は平均的な成年の男性よりやや低く、肥満体ではないがやや小太りで、黒褐色の髪はほとんど白いものがない代わりに、八割がたは頭皮から既に生えてくること拒否している。息子と唯一似ているのはその垂れ下がった目の眼の色で、ヘスディーテ同様にやや冷たい灰色をしていた。ただし息子の目の形は切れ長のやや細い長方形だが。もちろん外見の違いで皇太子を自分の息子かと疑っているのではない。

「違います。今、父上が仰ったようにエルキトへの報償はもう止めるべきです。ですがこのまま兵たちには国庫を潤わせる為に、働いてもらいましょう」

 父帝は息子の自分と同じ灰色の冷たい目を見て、何かを確信すると、その理由を述べるように促した。

「では説明のため、ここに私の近侍をお呼びしても宜しいでしょうか?地図で以て、説明をいたします」


 ヘスディーテの近時がやってきて地図を机の上に広げ、恭しく退出する。その地図はバリス全土とその周辺地域を表したものだが、ヘスディーテ自身に因るものか、所々様々な線や印や文字が記入されている。

「我がバリスは農耕や牧畜に適さない地が多いと言われていますが、このように灌漑を整備すればかなりの耕作地を開墾によって得られます」

 その場所を指で地図に差しながら説明するヘスディーテはバリス国内の未開拓地や、そこに対しての灌漑設備を整えること、また収穫物が遅滞なく運搬されるように新規の道路整備などを説いた。

「これらはなかなかに素晴らしい事だと思うが、これらをやるものは一体何処の誰なのだ?」

 意地悪からではなく、単純に皇帝は皇太子に疑問を呈した。

「幾らでもいるでしょう。兵士たちや衛士たちです。または現在職に就いていない物、野盗等の流民、軽度の罪人たちを捕えて、その罪を問わぬ、として活用すればよいのです」

「では国境の守りはどうする?」

「最低限の兵の駐屯にて、ひたすら防備に徹します。幸いにも北方のエルキトはまず数年は安寧でしょう。ホスワードが如何(どう)出るかは測り兼ねますが、今まで本朝(わがくに)に対して、数十年前に得た領土を守るという守勢の意識が強かったので、それを暫くは続けると思われます。南方のテヌーラに対しては残念ながら、多少の領土失陥は覚悟しなければなりません」

「確かに国庫は潤うな。だが十分に潤ったその時点でホスワード・テヌーラの連合軍でバリス全土は分割占領の目に合うのではないか?」

「そうはなりません。いえ、させません。何故ならこの労役に当たらせる者の全てを将兵とするからです」

 息子の言に父帝ランティスはさらに困惑する。彼が息子を「自分の息子ではないのか?」、と疑うのはこんな時だ。数年前に地方官をしたい、と言い出した時もそうだった。兎に角、何を企図しているのかの更なる説明を促した。同席している高官も訳か分からず、ただ沈黙しているのみである。


「はっきり言ってしまえば、我がバリスはあらゆる面で、ホスワードを一回り小さくした国です。それなのにホスワードと同じ国内制度、同じ軍事体制では、かの国を打倒することなど、永久にできません。国の在り方、其の物を変えるのです」

 ヘスディーテの言うとおり、バリスはホスワード同様に志願兵制をとっていて、軍事は建国期の功のあった軍人が貴族化してほぼ世襲して重職を担っている。それは文官も同じだ。この様に同じ制度を持った国同士なのに、ホスワードより財政規模や総人口や動員できる兵士が少ないのでは、勝てる要素がない。

「だから、エルキトと同盟しているのだろう」

「彼らは我々から利を得る為に動くだけです。これを機に完全に手を切るべきです」

「では、テヌーラに大幅な領土割譲を条件として、此方へ味方につけるのか?」

「将来的には彼らとの修好も考えなければなりませんが、今最も手を付けるべきことは国家制度の改革です」

 ヘスディーテは説明する。

 鉱山、灌漑設備、開墾、道路整備。これらの労役に当たる全てを同時に兵士とする。さらに功ある者は積極的に指揮官や、更に上の将や高官にまで昇進させるべきだと説いた。

「これらの事業は力仕事で且つ共同作業なので、おのずと鍛えられ、軍における集団行動も最低限の調練で済むでしょう。そして戦場では勿論、平時の労役でも功ある者は正当に評価し、昇進させ兵であり労役夫である彼らの意欲を高めるのです。私が試算した限りでは、これなら最大で二十五万の兵が動かせます」

「だが動かしている間は、今言った労役は全て止まるぞ」

「そうです。ですので短くても一・二年に一回。長ければ五年近くに一回しか、この大軍の動員と運用はできないでしょう。それでも今行っている年に数回一万や二万の常備軍を動かし、実りのない戦をして、無駄金を消費するより、遥かに利があると思います」

 ランティスは現在、南方の国境地域でテヌーラ軍が侵攻してきたため、自軍を派遣していることを思って呻いた。どちらの兵力も一万ほどで、碌な戦闘もなく只対峙中だという。息子の言う通り金の無駄使いだ。

 皇帝は傍にいた高官に今の内容を重臣たちや貴族たちに説明する為に纏めておけ、と命じた。

「反対者はかなり出るだろうな」

「彼らの特権が一部奪われますからな。ですがホスワードに対抗するにはこれしかありません。それよりこれに関してはもう一つ危惧があります」

「何だ?」

「あのアムリートも同様のことを考えていると、私は常々思っています。今はエルキトに大勝し、彼らからすればこれは急を要さない制度ですが、あの男は若し必要性を感じたら国力の増強のため、躊躇わず同種の国政改革を始めるでしょう。ホスワードにそれを先にやられたら、我々はもう手の打ちようがありません」

「何を根拠にそのようなことを言う?そのような情報でも入ったのか?」

「いえ、これは私の勝手な憶測です。ですがあの者に関して入ってくる為人や、果断な行動を鑑みると、そう思わずにはいられないのです」


 あるいはこのバリス帝国の皇太子ヘスディーテほど、ホスワード帝国皇帝アムリートを高く評価する者は大陸にいないであろう。ヘスディーテは自身が大軍を率いて敵国を打ち破るなどといったことはできない、と悟っていた。戦場に対する恐怖心からではなく、単に自分はそういった方面の才に全く恵まれていない、と自己の能力を見切っているのである。故にこの八歳上の敵国の皇帝を畏れ尊敬すること憚らない。

 自身ができるのはそんな強大な隣国に対抗し、圧倒するための国家制度の改革だと思っていた。

 そのため十代の頃から、自ら地方官となり、バリスの各地を詳細に分析した。

 重臣や貴族たちへの説得には骨が折れるだろう。そのため皇太子として父帝の威を流石に借りなければならないが、これはやらなければならない事だ。



 今より二百年以上前、プラーキーナ帝国の末期は様々な貴族や軍閥が争い、民衆反乱も続発した状態だったが、それを一時的に静めた男がいる。ビクトゥル・ミクルシュクという将軍で、彼はプラーキーナ帝国の皇帝にダーム三世という十代の少年を傀儡として帝位に就け、権勢を誇った。

 ミクルシュクは独立分離した北のエルキトや南のテヌーラとの戦いで中で、のし上がった将軍で、遂には宰相、大将軍、兵部尚書(国防大臣)、そして帝都があるメルティアナ州知事を兼ね、さらには相国という前例のない役職に就き、圧倒的な権力を得て、その威光は皇帝を完全に凌ぎ、ダーム三世は何時ミクルシュクに簒奪されるのかに脅えていた。皇帝の地位を取り上げられるのだけなら良いが、確実にその後は死が待っていることは想像に難くない。

 だがそのミクルシュクの権勢を快く思っていなかったものは皇帝だけではなかった。重臣や貴族や将軍の中にはミクルシュクの専横に嫌気が差す者が多いどころか、実際に反旗を翻す将や貴族もいた。そのためミクルシュクの専横は時が経つにしたがって、国内の敵対者の炙り出しと弾圧の狂奔へと走った。

 ミクルシュクの部下の将軍にメルオン・ホスワードとコクダン・バリスというものがいた。彼らはミクルシュクの腹心として、軍功が高かったが、何時しか名声の高いこの二人は猜疑心の強いミクルシュクの粛清の対象へとなりつつあった。それを察知した両者は密かにプラーキーナの貴族たちと手を組み、ミクルシュクの失脚、あるいはその暗殺を謀った。

 メルオンとコクダンは共にダーム三世の姉たちを其々娶り、ダーム三世自身はミクルシュクの娘を娶っていた。勿論これらは政略的な婚姻である。


 ある日、両将軍は上司であるビクトゥル・ミクルシュクに注進に及んだ。

 メルオン・ホスワードは言う。

「相国閣下。民衆の反乱がまた続発してきた為その平定と、南方のテヌーラをこれ以上侵攻させない為、ウェザールにて兵馬の準備を致します」

 コクダン・バリスは言う。

「相国閣下。西方の交易の安定と、南方のテヌーラに対してホスワード将軍と連携を取りたい為、小官はヒトリールに赴きます」

 この頃プラーキーナ帝国を外部から最も脅かしていたのは、建国直後のテヌーラ帝国だった。ドンロ大河を越えた北のほとんどの州はテヌーラ帝国が領していたのだ。

 また、一時期は鎮圧されていたが、この頃からまた民衆の反乱も散発的とはいえ続発している。 

 ミクルシュクは了承した。テヌーラが脅威なのは事実だし、また両将軍の部下にはミクルシュク一族のものが多く所属していた。もちろん彼らは指揮官たちであるが、同時に上司であるメルオンとコクダンの監視役でもあった。

 こうして帝都メルティアナには大規模な軍団を擁する将は居なくなった。

 ある日、皇宮からミクルシュクの邸宅に急報が届いた。ミクルシュクの邸宅は皇宮をも凌ぐ規模である。

「皇子がご誕生なさいました!国父として、陛下から参内と皇子を是非とも相国閣下にお目にかけたいとのこと」

 ミクルシュクの娘が皇子を生んだのだ。その瞬間、彼は得意の絶頂にあった。今の皇帝を脅し、帝位を自分の孫である生まれた皇子に譲位させ、新たな勲功を立てた後、孫から自身への帝位の譲位への道がこれでできるからだ。無論生まれたばかりの赤子が勲功ある祖父に、至尊の位を自身の意志で譲ることなどできない。この一連はミクルシュクによる露骨な簒奪劇となろう。

 ミクルシュクが自身の長子と数百名の護衛と共に皇宮に行こうとしたその時、メルティアナの一角で大規模な爆発と火災、そして天にまで届かんとする噴煙が上がった。

「相国閣下!帝都の一角にて、テヌーラの工作員が爆発物を設置し、それを発火させたようです!周辺の衛士に工作員の追跡と捕縛、消火活動や近辺の住民の避難指示を出していますが、人数が足りません!」

「テヌーラめ、この吉事に余計なことを。よし、お前たちも消火活動に行け」

 戦場ではあまり用いられないが、小規模な爆発を起こす黒色火薬は既にあり、このような破壊活動などによく用いられていた。

 そうミクルシュクは言うと、共の者のほとんどを火災場所へ送ってしまい、共の者は十人と無くそのまま参内した。


「何事だ!お前たち、これは何の真似だ!」

 参内したミクルシュクたちは皇帝ダーム三世が用意した百人以上の弓に矢を番えた兵に囲まれた。

「お義父上。火災の消火活動と住民の避難に兵を割くなど、まさに国家の柱石。その偉功に対して存分に礼をお与えします」

 そうダーム三世が言うと、矢を射るように命じた。ダーム三世はこの時十九歳であり、火災もテヌーラの所業とした自演である。

 ミクルシュクの、父が帝位に就けば、当然皇太子になる予定だった長子は、何のことか分からずに全身に矢を浴び横死した。他の共の少数の兵たちも倒れていく。だが歴戦の戦士であるミクルシュクは腰の剣を抜き、矢を払い、皇帝目指して切りかかろうとした。そもそも皇宮に剣を帯びたまま参内できるミクルシュクの権勢の特異さがここに表れている。

 流石にこれには恐怖を感じたダーム三世は宮殿の奥へ逃げ込み、周りの兵に「ミクルシュクを殺せ!」と只叫ぶだけだった。

「逃さぬ!ダームめ、この小僧!俺を謀るとはな!」

 ビクトゥル・ミクルシュクは五十人以上の兵を切り殺したと言われるが、それに対して自身も体に何十という箇所を切られ、動きが鈍ったところで全身に矢を浴び絶息した。時に四十三歳であった。

 そして皇帝は手筈通り、近侍に囲まれて妻と生まれたばかりの息子を連れて、帝都を脱出した。鎮火活動に当たっている、ミクルシュクの直属の兵たちの報復から逃れるためである。妻子を連れたのは、特に妻がミクルシュクの娘なので、いざという時に人質に使えるからだ。彼ら一行が目指したのはメルオン・ホスワードがいるウェザールである。


 メルオンはミクルシュクの死と皇帝一家がウェザールに向かっているとの報を受けると、即座に迎えの一行を派遣し、皇帝一家を無事保護した。そしてその間にメルオンは自身の軍中にいるミクルシュクの手のものはすべて捕え牢に入れ処刑した。同時期にヒトリールにいるコクダンも自身の軍中にいるミクルシュクの手の者に同じことをしている。

 ところがダーム三世とメルオンは暫くすると、意見が食い違うようになる。ダーム三世はメルオンが兵を率いメルティアナの秩序を回復するものと思っていたが、メルオンにはその気配がない。

 そのうち相国ビクトゥル・ミクルシュクの死がプラーキーナ全体に知れ渡ると、ミクルシュクの故地にて彼の縁戚を中心とした集団が起兵する。その故地はエルキトに近く、その軍中には多数のエルキト兵も混じっていた。

 メルオンが動かなかったのは、ミクルシュクの残党集団の殲滅と、散発的に続いている民衆蜂起の鎮圧を優先していたからである。これらの集団の撃破に力を注ぎ、遂には二度と立ち上がれないように、ミクルシュクの故地に至っては徹底的に破壊した。因みにミクルシュクの故地には大規模な馬牧場もあったため、その後ホスワード帝国では馬を揃えるのに難儀することになる。

 こうしてウェザールを中心に影響地域を広げていったメルオン・ホスワードだが、ダーム三世と完全に決裂する。メルオン・ホスワードは第二のビクトゥル・ミクルシュクで、自身の忠臣でもなんでもなかったのだとダーム三世は察したからだ。メルオンは巧みな手腕でプラーキーナの貴族や重臣たちを支配下に置いた。既にミクルシュクの一時的な天下の前にエルキトとテヌーラの分離独立とそれに対する抗争、各地での民衆蜂起、宮廷内の権力闘争、軍閥による内乱状態などが長期間あった為、元々メルオンを初め大半の貴族たちはプラーキーナ帝国を見限っていたのだ。ウェザールでのダーム三世の居場所は無くなってしまった。

 数少ないダーム三世の忠臣の一人が西のヒトリールにいる、コクダン・バリスを頼るのは如何(どう)か、という提案をした。実はミクルシュク暗殺の際、皇帝一家を保護したら速やかにメルティアナに皇帝を奉じ、自身を含めプラーキーナ全貴族と全将軍は集合して改めて忠誠を誓う、という予定だったのに、それを何時まで経ってもしないメルオンに、コクダンはしばしば連絡の使者を送り難詰していたのだ。その忠臣の提案に乗った皇帝はある夜半に妻子も連れず、その忠臣と僅かな共でヒトリールへと脱出した。

 この頃には一時的に混乱していた帝都メルティアナはテヌーラに因って占領されており、メルオンはその回復に傾注していたので、皇帝の逃亡など歯牙にもかけなかった。


 皇帝ダーム三世の逃亡後、メルオンはダーム三世の廃位と、その息子であるまだ四歳とならないマプクを帝位に就け、数年後メルティアナを初めテヌーラの勢力をほぼ一掃した功により、その禅譲を受けプラーキーナ朝を滅ぼしホスワード朝を興し、歴をホスワード帝国歴元年とした。この時メルオンは四十四歳であった。

 西に奔ったダーム三世はヒトリールにてコクダンの厚遇を受けた。数年後にメルオンが王朝を興したと聞き、激怒したダーム三世に「必ずあの裏切り者を誅殺して、その首を陛下の御覧に入れます」、とコクダンは言い、ホスワード朝を討伐する軍を興した。しかしこの会戦は北のエルキトと南のテヌーラからの圧力を跳ね返し、国力の復興を成し遂げ、兵力が充実していたメルオンの完勝に終わる。更にメルオンは北のエルキトと南のテヌーラに調略を仕掛けコクダンの領する地域への侵攻を唆し、コクダンはその両国との戦に忙殺されることになった。ダーム三世はここでも居場所が無くなっていった。


 公式に発表されている所では、ホスワード帝国はプラーキーナ朝の最期の皇帝はマプクで、位をメルオンに譲った後、彼は流行病で母と共にウェザールの宮中にて十六歳で薨去した、としている。

 そしてホスワード帝国建国より八年後、コクダン・バリスは憂愁の内に崩御したダーム三世から、皇位を譲るので、ホスワードを討つようにとの遺詔を託された、と国内外に報じてバリス朝を興す。この時コクダン・バリスは四十七歳であった。当然バリス朝ではマプクを皇帝と認めず、プラーキーナ朝の最期の皇帝はダーム三世としている。

 バリス帝国はマプクは病死ではなく、その母であるビクトゥル・ミクルシュクの娘と共に謀殺したとして、ホスワード帝国を非難し、ホスワード帝国はダーム三世の遺詔などでっち上げで、ダーム三世を謀殺して国を興したのだ、とバリス帝国を非難している。

 こうして憎み合う二つの帝国が誕生した。共に皇帝を初め周囲の重臣たちのほとんどがプラーキーナ朝にて身分の高い者たちや、建国者の元で指揮官として活躍していた将軍たちであった。



 テヌーラ帝国の帝都オデュオスは、ドンロ大河の下流域のすぐ南に位置している。東西南北共に五里(五キロメートル)を超える城壁に囲まれ、さらに城壁の周囲には最大で千人、最小でも百人は収容できる兵の詰所である城塞に点在していた。

 オデュオスの人口は三十万を超え、大陸で一番の人口を誇る都市である。

 そもそもテヌーラ帝国の人口が大陸で一番多く、総人口は三千五百万。大半の者は磁器や絹織物を初め様々な産業、広大なテヌーラの地域ごとに特色のある農作物の栽培、海岸沿いは漁業が盛んで、また南方諸国は元より、遥か西の国から遣って来る商人の船による交易も盛んである。更にテヌーラより海上にて北東に進路をとると、幾つかの島からなる国が有り、こことの交易も盛んだ。実質的な国力はテヌーラが大陸で一番高いのだが、如何せんその兵の主力は歩兵と水兵で、北の広い大地を平定するのに必要な騎兵はごく僅かしかなく、それも半分以上は儀仗用であった。

 特筆すべきは稲作が盛んで、これが多くの人口を支える要因となっている。また茶の栽培も盛んである。茶はホスワード、バリス、そしてエルキトでは生産できないので、この三カ国では貴人や富裕な市民の嗜好品として茶は珍重された。造船と水運と海洋に長けたテヌーラは遥か北のエルキトや、先ほどの北東の島国や南方諸国にまで船にて外洋へ出て商売をしている。


 オデュオスの皇宮は帝都で一番の高台に建っていて、その壮麗さと重厚さは下を見下ろすように建っていることもあって、より一層増していた。

 皇宮の閣議の間で、皇帝と重臣たちによる御前会議が開かれたのは六月四日の午後であった。テヌーラ歴では百七十九年となる。

 一番奥である北面にて一番の高級な椅子に坐しているのが皇帝だ。背後にはやや濃い碧い旗が掛かっていて、中央の意匠は絡み合う二匹の白蛇だ。室内の出入り口に立つ近衛隊の軍装も白を基調として、このやや濃い碧い色が各所に配されている。

 皇帝が声を発した。落ち着いた低い冷静な声だが、何処か透き通った声だ。

 女性の声であった。

 テヌーラ帝国第十代皇帝アヴァーナ・テヌーラは三十代後半の女性である。美人と言っていい。だが整ってはいるが、何処か硬質な顔の造り、特に長い睫に覆われた大きな瞳は、周囲が暗灰色で瞳孔に近づくにつれ灰色がかった明るい褐色をしていて、この眼光は常に鋭いために、同性異性を問わずに近づきがたい雰囲気を漂わせている。

 頭には白磁の肌に対照的な漆黒の髪が束ねられ、その上に白の天鵞絨(ベルベット)の帽と帝冠を戴いている。衣服は白とやや濃い蒼を基調とし、所々金色の飾りが配された眩い礼装(ドレス)である。

 テヌーラ帝国は建国者こそ男性だったが、子の中で男女関係なく一番の年長の者が帝位に就くという制度をとっていた。女帝に抵抗がないのは、元々テヌーラ以南の諸国は古い時代より、巫女を国の指導者とする慣例が長く続いた影響からだと言われている。アヴァーナはテヌーラの歴史上三人目の女帝であった。

 但しその代り、指導者である巫女を守るのは男性の役割という慣例が強かったためか、例えば軍には女性は一切いない。実務を取り仕切るのもほぼ男性で占められている。この辺りは女性が騎乗し戦の備えをする北方のエルキトと異なる部分である。

「アムリートがエルキトを破ったそうだ。故に今バリスへ進駐している兵を速やかに撤退させよ」

 女帝の命を受け、兵部尚書(国防大臣)が即座に返事をして、背後に立って控える副官にそれを伝え、副官は朝議の場から退出していく。

 この朝議の場で座っている閣僚には女性が二人いた。いずれも四十歳前後というところである。アヴァーナが即位してから十年近く経つが、四年ほど前に前職の男性と変わっていた。何か失態を犯したからでなく、単に其々八十近い老人だったので、ほぼ同時期に隠居を申し出たのだが、その後任にどちらもアヴァーナは女性を起用した。

 テヌーラは役人には女性もなることができ、実際過去にも数少ないが女性の閣僚もいた。だが、いうまでもなく、貴族の娘か、極めて富裕な市民の娘でないと役人にはなれないし、さらに閣僚まで出世するとなると、かなりの出自でないと就けない。但し、この辺りは男性も同様なので、性差というより身分差に因っている。

 度支尚書(財務大臣)と典礼尚書(宮内省長官)が其々に当たる。どちらもその任に堪え得る能力の持ち主と見られているが、典礼尚書に関してはやや異なる見方をする者もいる。

 彼女は宮中を取り仕切るので、必然的に女帝と一番接するのが閣僚の中で多いのだが、彼女の兄がアヴァーナの夫であるため縁故的な登用と見られていたのだ。

 事実、典礼尚書はこの女帝の個人的な腹心となっている。名をファーラ・アルキノといい、彼女が発言した。

「では、陛下。約定に従いホスワードに援軍を頼み、バリスを本格的に攻め取りますが、場所と期日はいかがいたしましょう」

 周囲は皆、「それは宮中を取り仕切る役人の長の発言ではない」、と思ったが、それを口に出して発言せずに黙っていた。


「目標はカートハージの全占領とする。ホスワードのレークと近接しているので、ホスワードにはレークからの侵攻を要請する。時期は年内の内に行いたい。十月に入ってから可能か、兵部尚書?」

 問われた兵部尚書は「十月の初日からで可能です」、と答えた。

「ではこの親書は後に(わらわ)が自らしたためる。それとエルキトに関しての情報は如何だ?」

 問うたのは礼部尚書(外務大臣)に対してであった。礼部尚書は「外洋にて交易中の船が七月の中頃に帰還するはずなので、そこで詳細は分かるでしょう」、と言った。

「ふむ。面倒だな。ホスワードとは互いに通使館を置いて互いの役人が居住しておるため、情報のやり取りが行いやすいが、エルキトには常駐している役人が居らぬからな」

 またも典礼尚書ファーラ・アルキノが提案する。

「それでは、エルキトへ友好の印として、通使館を開設し役人を常駐させる、というのは如何でしょう?我々はホスワードと同盟しているが、エルキトは大事な交易相手として尊重していると」

 仮にエルキトがホスワードにより、さらに打ち破られ属国に近い状態になったら、テヌーラとしては脅威になる。エルキトに金銭や物資をばらまけば、強欲なエルキトの皇帝バタルは通使館の設置を容認するはずだ。

「だが肝心の人選が問題だな」

 そうアヴァーナが懸念したのは、ウェザールの通使館にいるテヌーラの役人はウェザール長い冬の寒さに堪えているというのだ。テヌーラは西方の内陸地は山地が多いので冬場にはそれなりの降雪があるが、東部のほとんどは河川や沼沢の多い平原で、冬になっても吐く息が白くなることはめったにない。特に一番の東の海岸地帯はこれが顕著だ。

 因みにテヌーラにいるホスワードの通使たちはテヌーラの長い夏に参っている。湿気が多く、時折豪雨が起こり、日が照っているときは湿気のため、日陰にいても汗が止まらないからだ。

 こうした訳でホスワードより、さらに北の酷寒のエルキトへ赴きたい、と思うテヌーラの人間など、まずいないであろう。


 礼部尚書が発言を求めた。正確には礼部尚書の後ろに立つ礼部省の、まだ二十代と思われる若い男の役人が申し出たのだ。閣僚の副官等は朝議の出席は認められているが、高官でないので皇帝に直接意見をすることは認められていない。

「こちらの臣の部下がそのお役目を引き受けてもよいと申しておりますが、いかがいたしましょう」

「その方の名は。構わぬ、申せ」

「はっ、礼部省に務めております、クルト・ミクルシュクと申します。皇帝陛下に置かれましては、どうかその任を是非とも臣に賜りとうございます」

「ミクルシュクか…。よろしい。そなたの遠い祖先の地に近いからな。そなたを通使館の長として、エルキトに赴任することを認めよう。随員は礼部省から二十名程とし、そなたが自由に選べ」

「ありがたき幸せ。陛下に感謝致します」

 頷いた女帝は駐在武官として、やはりこれも二十名ほど兵部省から選ぶように兵部尚書に命じた。

 このクルト・ミクルシュクの祖先はプラーキーナ帝国末期に相国として権勢を振るったビクトゥル・ミクルシュクの次男の子孫である。次男はメルオン・ホスワードのいわばミクルシュク一族の討伐から身一つで逃れ、テヌーラへの亡命を果たしたのだ。その後、彼の子孫の代々はテヌーラで不足している騎兵の充実とその指導に当たっていたが、クルトは役人の道を歩んでいた。



 皇帝アムリート率いるエルキトへのホスワード遠征軍が帝都ウェザールに帰還したのは、ホスワード帝国歴百五十三年六月十五日である。ウェザールの天候もこの帰還を祝うように雲一つない晴天だった。既に帝都へは勝報が届いていたので、この日の昼過ぎから皇帝アムリートを先頭にウェザールの正門である南の中央の門から、皇宮の入り口まで続く広い一本道を数千の騎兵隊が凱旋行進をした。道の両側には帝都の民衆が並び、歓呼の叫び声をあげる。

 先頭を騎行するアムリートは兜をつけていないので、その凛々しい若い顔を晒しているので、一層歓声が高かった。やや長い金褐色の髪は微細に揺れ、周囲を見渡す誇らしげな瞳はホスワードの色である緑を帯びた薄茶色だ。白を基調とした軍装と愛馬が白馬ということが相まって一層華麗さが増している。

 行進している騎兵隊の三分の一はホスワードの旌旗である、中央に三本足の鷹が施された緑の旗を靡かせている。

 最終地点ともいえる皇宮の入り口に達すると、皇帝アムリート、大将軍ヨギフ・ガルガミシュ、侍従武官ラース・ブローメルトのみが皇宮に入り。大将軍は息子であるウラド・ガルガミシュに行進に参加した騎兵の解散と、兵部省にて高級士官以上の論功行賞、練兵場にて士官以下の論功行賞を執り行うことを命じた。既に帰還中に皇帝は功ある主だったものたちに感謝と昇進の意を伝えてある。

 またラースは部下の近衛隊に自分たちが乗ってきた馬の収容を命じ、その後はそのまま皇宮内の近衛隊の施設にて休息をするもよし、帝都の歓楽街等へ繰り出して夜の九の刻(午後九時)まで戻ってくれば、自由に遊んでもよい、と伝えた。

 宮殿前には使用人たちを背後に従え、皇帝アムリートの一族と皇妃カーテリーナ自身とその一族が揃って出迎えた。


 皇宮の広い庭園を真っ直ぐ宮殿に向かって歩き、アムリートが真っ先に目をやったのは甥である病弱なユミシスである。彼も外出して宮殿前で待っていたのだ。

「ユミシス大公。体は大丈夫か」

「陛下。このたびの戦勝おめでとうございます。臣の体調を真っ先にご心配くださり、恐縮にございます」

 宮殿内の皇族の室内では、家族ということもあってくだけた感じで話し合うが、こういった時には改まった言葉使いを両者はした。

「叔父上…ではなく、陛下に申し上げます!ユミシス兄様、じゃなく、ユミシス大公様は、その、ずっと、お体は大丈夫でしたよ!」

「オリュン大公。お前はまだそんな言葉使いをしなくともよい」

 アムリートがもう一人の甥のオリュンの頭を撫でると、一同は大いに笑った。


 この場には宰相のデヤン・イェーラルクリチフも無表情のまま居て、笑いを無視して彼は即座に皇帝に手紙を差し出した。テヌーラの皇帝アヴァーナ・テヌーラからの親書である。立場上、皇帝不在の場合は宰相は皇帝宛ての親書の内容を確認する権を持っている。

「ご帰還早々でありますが、テヌーラよりバリスに対する軍事行動の予定の詳細が届きました。どうかご査収を」

 一読したアムリートはその場で書かれてある内容を伝えた。

「テヌーラはカートハージの全占領を目標とするそうだ。侵攻開始は十月の初日だ。現在予備兵としておいてある三万をメルティアナにまず九月の初日までに派遣し、そこにてテヌーラの援軍の準備をすること頼む、ガルガミシュ尚書。総指揮官の人選も卿に任せる」

「承知いたしました、陛下」

 アムリートは親征しないようだ。さすがに年に二回も外征に出るなど、宰相のイェーラルクリチフが反対の意を出すだろう。さらに帰還した兵たちの中から、約千近くの南方での戦いの経験が豊富な一団を八月の末までに選抜し、これも九月中までにメルティアナへ派遣するようアムリートはヨギフに命じた。

「それと、バルカーン城にも数百名ほど、南方の戦いの経験があるものを中心に同じく九月中までメルティアナに派遣するよう、ラスウェイ将軍に伝えよ」

 これに対しても承知の意を表したヨギフはこの時、自分の頭の中に派遣されるであろうカイ・ウブチュブクの姿が浮かんで、その無事を願った。軍の長である者が一兵士の無事を願うなど、口に出しては絶対に言えないが、どうしても心の中では願わずにはいられない。


 ヨギフは心中の願いも退けるように、皇帝に話題を振った。

「それにしても今回の勝利はティル卿のおかげですな。ティル卿が詳細なエルキトの情報を提供しなければ、作戦自体が成功しなかったでしょう」

「ガルガミシュ大将軍。私はただ情報を提供しただけです。私の情報と北方の城塞が持っている情報、そしてシェラルブク族が持っていた情報。この三つの情報を見事すり合わせ、当地にてより詳細な地図とエルキトの偽退路の想定図を作り上げたのは大将軍閣下の功です」

 ティル・ブローメルトが謙遜して上司に言う。上司としては愚痴をこぼさずにはいられなかった。

「まったく、ティル卿ときたら、この老人に多くの仕事をさせよる。自身は楽隠居で、いったい卿は何時になったら大将軍の地位に就いてくるのかな?」

 外戚であるティルは重職に就く気がないので、苦笑せざるを得ない。テヌーラでは女帝の夫の妹が半ば女帝の腹心として振る舞い、周囲の反感を買っているとも聞く。

 この両者の話を傍らで聞いていたアムリートは思わずにはいられない。あのガリン・ウブチュブクが健在なら、大将軍の任に相応しいだろう。軍人系貴族たちを中心に反対の声は上がっただろうが、その声を押さえつけ絶対に強行しただろう。その才幹、為人、何より実績という圧倒的な軍功。彼に無かったのは出自などという如何でもよいものだ。

 アムリートは誰にも話していないが、前々から思う。出自に関係なく才あり功ある者は正当に評価し、それに相応しい地位に就けるべきなのでは、と。今のホスワードの制度では将来的にまたガリンのような有為の人材を失う恐れがある。これは国政の改革となるわけだが、周囲の反対どころか最悪反乱を起こされ兼ねない。だから、この事は如何にか時間をかけて、じっくりと周囲を説得して進めるしかないだろう…。

「さぁ、難しい話はそこまでにして、中に入り酒杯と食事にしましょう」

 そう提案したのはアムリートの母である太后のカシュナである。

「賛成です!アムリート兄様、戦場でのお話、たっぷり聞かせてくださいね!」

「マグタレーナ。お前はオリュン大公殿下とは違い、この場でそのような言葉使いは許されぬぞ」

 太后の提案に対して賛成の返答したマグタレーナの言葉使いを指摘したのは彼女の兄で、アムリートの妻カーテリーナの弟のラースである。三姉弟の父親がティル・ブローメルトだ。周囲はまたも笑いに包まれ、彼らは皆そのまま宮殿の饗宴の間へと入っていった。



 六月下旬バルカーン城にて、小隊指揮官に任じられ、それぞれ十名の兵を預かる事になったカイとヴェルフは毎日の兵の調練を施した。調練の内容はカイとヴェルフが相談して決めた。

 具体的には三週間に分け、最初の一週間の内の五日間は城外に出て馬術や騎射の訓練、次の一週間の内の五日間はバルカーン城の西に流れるボーンゼン河に出て船の操作の訓練、最後の一週間の内の五日間は城内の訓練場で武芸の訓練。朝の九の刻(午前九時)から、昼に一刻(一時間)の昼食休憩を挟み、夕の五の刻(午後五時)まで、これを繰り返し行うことにした。

 当然馬術はカイが主導となって行い、船の操作はヴェルフが主導となって行う。この時は両者ともに兵と共に教わる立場となる。

 また毎週の一週間の内の六日目は二十名程が入れる会議室を借り、城内にある様々な本を集めてカイが学問を教える。学問といっても皆十二歳まで受けられる無料の学校を出ているので、基本的な読み書きや算術はできる。だが有料の学院を出ているのはカイだけなので、難しい文章、特に軍関係の用語の説明や、測量や時刻や距離を知るために必要な初歩の三角関数などを教えていた。教えながらカイは心中で、「こんな時にハイケがいればなぁ」などと英才の弟のことを思っていた。ヴェルフをはじめ生徒たちはディリブラント謹製の台帳(ノート)木の筆(えんぴつ)を使用している。そして七日目は完全な休養日とした。

 船の週の時には、水泳もヴェルフは皆に教えた。といってもカイを初め全員泳ぎはできるが、それは裸に近い状態の時である。衣服を着たままの水泳方法だ。衣服が水を含むと当然そのまま沈んでしまう。なので着衣したままの特殊な泳ぎ方というより、救助されるまでの浮き方をヴェルフは教えたのだ。


 ヴェルフは調練が始まると、ラスウェイ司令官の副官に駄目もとで、「ホスワードの正規の小隊用の軍船二艘を訓練用に欲しい」、と言ったがそれは何と了承され、程なくウェザールからボーンゼン河を伝って小型の十名程が乗れる軍船二艘がバルカーン城に届いた。元々古いため廃棄予定のものだったそうだが、わざわざ帝都からここまで曳航してくれたことには感謝しかない。以降、操船の訓練はこの古い軍船を使用した。

 カイはしばしば兵たちを集めこの調練の意義を説いた。

「俺たちが教えているのは、もちろん戦闘で役に立つ為の事だが、それ以上に自身の身を守る術を重視して教えている。引きべき時には引くという事をしっかり肝に銘じてほしい」

 勿論これはカイたちも同様だ。何より彼らを指揮するより上級の指揮官の命をしっかりこなせることが第一で、そのための調練だ。


 こうして数週間が経ち、兵たちも其々二人による調練を真剣に受け、明らかに成果が出てきた。カイとヴェルフの教え方がよかったこともあるが、やはりこの二人の先のエルキトでの活躍を直に知る兵たちは、初日からこの二人に心酔していて驚くほど真面目に命に従うのである。

 またしばしば冗談を言うヴェルフのお陰で時には緊張も解れ、カイは時折父ガリン・ウブチュブクの話をするので、兵たちはそれにじっと聞き入った。現在、カイは「ミセーム」と母の姓を名乗っているが、兵たちは初めからカイが「無敵将軍」ガリン・ウブチュブクの息子だと知っていた。

 当たり前だが、人によって得手不得手がある。それは二人とも特に問題視しなかったが、とりあえず教えていることで最低限のことと、カイが指摘していたように戦場で生き残れる術さえ身に付ければいいと割り切っていた。流石に二人も鍛え上げれば自分たちのように敵兵を百人以上も打ち倒す勇士になるなどと思っていない。とはいえ、中には訓練により「三十人以上は打ち倒せるのでは?」と思える兵も出てきたし、また操船の巧みなもの、騎射の上達が早いもの、中には学問好きになる兵まで出てきて休養日にはその兵は本を読んでいるという。


 八月に入り半ばが過ぎた。バルカーン城の辺りの一年の気候は大体ウェザールと同じで、七月の初めごろから八月の終わり頃までの二カ月近くはうだるような暑さが続く。そして時には雷雨が起こり、あまりにも豪雨の時は外に出ての訓練は止めて、屋内で武芸の訓練をするか、兵たちの疲労度を確認しては丸一日休養日にしていた。特にこのような時には操船の訓練など危険である。

 そんな頃、二人はバルカーン城の司令官であるムラト・ラスウェイに呼び出された。

 バルカーン城の司令官室にはラスウェイとその副官。そしてカイとヴェルフを含む七名の小隊指揮官が揃った。

「事前に聞いていると思うが、テヌーラがバリスに十月の初日に侵攻するので、その援軍要請が来た。卿らは直属の部下を率い、九月一日にここを出立し、まずメルティアナ城に赴き、そこで同時期にウェザールから来る部隊と共に当地の総司令官の指揮下に入ること。既に三万の兵がメルティアナに集結しているはずなので、この三万と卿ら約千人の増援部隊が十月の初日にバリスへ侵攻する。詳細はメルティアナに着いてから、軍の編成後に直属の指揮官の指示に従うように」

 七名の小隊指揮官の内の一人が五十名の兵を率いていて、一番閲歴もある経験者なので、メルティアナ城に着くまでは彼がこの一団の総指揮者となった。残りは四人は二十名を指揮していて、カイとヴェルフは十名ずつなので、合計百五十名の兵と指揮官七名という数だ。

 出立日の一週間前にカイとヴェルフは自分たちが率いる兵たち二十名を集め、まずこの日で調練は終わりにして、本日より先ず五日間かけてメルティアナへ行く準備をして、六日目は二人の奢りで近隣の村の酒場でささやかな祝宴をして、出発前日は完全な休養日にすると発表した。


 準備も無事終わり、六日目になったので、昼過ぎにカイとヴェルフの一行はバルカーン城の裏門がある東側から、徒歩で一刻(一時間)ほど歩いて到着する村を目指した。事前にその村の酒場は貸し切りにしてある。夜の八の刻(八時)に戻るということを裏門の兵に告げて一行は村を目指した。帰りはバルカーン城から馬車で村へ迎えに来て欲しいことも頼んである。公用でなく私用で使うので、馬車で迎えに来てくれる者には、多少の金銭を払わなければならない。

 おおよそ昼の二の刻から五刻半(五時間半)に渡った宴会は大いに盛り上がり、一団は無事に城に戻れることができた。何人かはかなり酔いつぶれているようだ。

 カイとヴェルフは湯あみをして、二人が使用している四人部屋へ入った。同居者は他にいないので、考えてみればかなり贅沢だ。だがこの贅沢な日々はそろそろ終わるので、自然と二人はそのことについて話し合った。ヴェルフが話題を振る。

「そういえば去年の今頃は調練に次ぐ調練だったな」

「あぁ、排泄物用の穴を掘ったり、専用の小水入れや大便入れを持ち歩いて処理したりな」

「エルキトでの遠征でも、中途ずっと専用の小便や大便入れの処理をしていたな」

 まだ数カ月前のことだが、エルキト領内への深部に伏兵として侵入した時、敵兵に見つからないように移動していたのだが、当然出る者は出る。だがそれらをそのまま放置していては、大量の人間が移動している直後とわかってしまうので、排泄物は専用の入れ物に皆していた。輜重兵だった二人は一団の排泄物が入った専用の入れ物から、時折穴を掘ってはその中身を捨てて、埋める作業をしていたのだ。侵入したのがすべて歩兵だったが、もしあの時に馬を引き連れていたらと思うと、その処理作業を考えただけでも、幼いころから馬の世話をしていたカイでさえも身震いする。

 足跡や輜重車の車輪の跡は塵埃で多少は薄くなるが、こういったもの(・・・・・・・)だけは処理しなければならない。今は小隊とはいえ指揮官なので、もうこの作業からは彼らは解放されているが、調練をしていた時やエルキトでの遠征時には「自分たちはこれから何年、いや何十年とこんなことをするのか!」、と思ったものだった。全く(いくさ)、殊に敵国への遠征というのは、人間である以上こういったことが必ずついて回る。軍事や戦いや冒険というものは決して浪漫的なものではないのだ!と思う二人であった。


 カイは流石に少し前向きというか、建設的な話に切り替えた。

「処で、ああいった小型の軍船は敵の軍船に体当たりして接舷して、敵の船の乗員を制圧する為のものだよな」

「そうだ。船首の下に鋭い銅の切っ先である衝角がついているだろう。あれを敵船の脇に突き刺し、船首を伝って、敵船へ侵入する。駆逐船と言うそうだ。船首の幅が人が通れるほど広いだろ、あれは移動用にああなっているんだ」

「では大型の船を相手では、如何にもできないということか」

「体当たり後に桟橋を架ければ、侵入はできるが、大型の船を相手には大型の船が相手をするのが基本だ」

 寧ろ、駆逐船の役割は特殊な機能を持った船の制圧にある。一度に多くの火矢が放てることができる船や、人の頭大の石を発射できる投石機能を持った船などだ。これらは小型だが大型船相手に遠方からでも効果的な攻撃ができるので、小回りの利く駆逐船の主な役割はこういった遠方攻撃用の船を制圧することにある。

「ディリブラント殿と三頭の馬を乗せて河を渡ったよな」

「そうだが、其れが如何した。カイ?」

 バリスへの諜報時、首都ヒトリールまで即座に行ける様に馬が三頭収容できる船にて、ボーンゼン河を渡ったことをカイは言っている。

「仮にあれより更に大型で数十頭以上の馬が収容できる船なら、大型船相手に広い桟橋を架けて、騎兵にて敵船の制圧をすることはできないかな?」

「む、だがそれは相手方のいい的になりはしないか?」

「なるからいいのだ。このように目立つものが先に侵入したら、後で侵入した歩兵が制圧作業を即座に行えるのではないかと思ってな」

「まぁ、肝心の馬がどう反応するか。水の上で自船から敵船へ移るなんて、あの繊細な動物には酷じゃないか」

「そうだ。俺のこの考えもそこが懸念点だ」

「だが、若しできるとすれば、それはさながら水上の騎兵隊だな。ドンロ大河でなら『大海の騎兵隊』ってところだな」

「大海の騎兵隊か…」

 カイは不思議とヴェルフが何気なく言った、この言葉に奇妙な魅力を感じた。ドンロ大河の下流域は海としか思えない程の幅と深さがある。

「さぁ、明日は丸一日休暇だけど、そろそろ寝ようぜ。久々にあれだけ飲んだから、流石の俺も眠くなってきた」

 ヴェルフの提案にカイは頷き、二人は即座に就寝した。


 ホスワード帝国歴百五十三年八月三十日の夜はこうして更けた。九月一日からカイとヴェルフを含む指揮官たちは各々の兵である合計百五十名を率いて、プラーキーナ帝国の首都だったメルティアナ城を目指す。道中は国内移動なので、排泄の問題はそこまで神経質にならなくてもよいが、その後の十月からのバリス領への侵攻を考えると、また出てくるはずだ。もちろん二人は指揮官だから、そういった作業はしなくてもよい。

 しかし、だからといって身をもって調練や実際の戦場で体験した身としては、それらを担当する兵や輜重兵たちのことを思わずにはいられない両者であった。


第六章 各国の思惑 了

 やっとキーワードも出ましたね。

 いや、キーワードって「う○こ」の方じゃないですよ。

 (実は「う○こ」の問題はこのお話の裏テーマだったりする)


 次回は海戦というほど、大規模なものではありませんが、水の上を舞台の戦いがメインになると思うので、お楽しみください。



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