第四章 ホスワード家の光と影
第四章です。新たな登場人物が一気に出ますので、彼らのことを覚えてくれるとありがたいです。
私も忘れないよう、しっかり覚えます!
それでは第四章の開始です!
第四章 ホスワード家の光と影
1
ホスワード帝国歴百五十三年の三月十日の朝。帝都ウェザールは次第に春の訪れが近づいていることを告げようと、この日は久々の快晴だった。
ウェザールの最も奥である北側は皇宮となっている。もっとも北は四里(四キロメートル)にわたる城壁なのだが、その城壁の中央部分のおおよそ六十丈(六百メートル)以上にわたって壁はさらに高くなり、さらに壁ごしに大小の塔が幾つもそそり立っている。最も高い塔だと九十尺(九十メートル)を超える。
いや、それらは壁ではなく皇宮の建物の裏側なのだ。この六十丈から帝都内部へほぼ半円状に囲われた箇所が皇宮となっている。
皇宮を裏側。つまり北側から見ると、城壁上に堅牢な高い塔が建っているだけに見えるが、正面から、つまり南側から見ると、馬で十分に駆けることができる位の広い一面の緑の芝の庭の奥に、背後に高い塔を従えた、華麗さと偉容さを併せ持った宮殿が建っている。宮殿と背後の塔はくっついた状態であるが、内部からの双方の出入り口は一つしかなく、専用の鍵でもってしか出入りはできない。基本的にこれらの塔にいるのは見張りの兵士たちだけで、塔へ入るのには宮殿からではなく、城壁上から入る。
皇宮はこのように内部の城壁によって半円状に囲われていて、中央の正門に因ってからしか入れないが、この門へはウェザール全体の正門である南の中央の門から、一直線に広い道が通っているので、五里近くの距離があるが、馬を飛ばせば即座に到達できる。
ただし帝都内を馬で駆けていいのは皇帝を初め貴族や重臣たちのみで、彼らは往来の人々を避けるようにゆったりと進む。これは皇帝でさえもだ。もっとも貴人たちは専用の馬車で帝都内を移動するの常なのだが。
唯一、帝都内で馬を飛ばしてもよいのは、火急の事態が起こった時の急報等の伝令兵のみである。
宮殿は皇族だけでなく、その使用人たちも住み込みで居住しているため、かなりの大きさを誇る。
一階部分と二階部分はほとんど吹き抜けで、謁見の間となっており、広さは一階部分と二階部分の九割以上をこの間が占め、五百人はほぼ密着せずに直立できるであろう。玉座は広い通路と広い階段を上がっての一階と二階部分の間ある。玉座の背後には、おそらくホスワードで一番の高級な生地と糸を使って作られた、中央に三本足の鷹が刺繍された緑地の大きな旗が垂れ下がっている。
当然謁見の間は内装が華麗で、西方から取り寄せた長く幅が広い美しい絨毯は入り口から玉座へと伸びている。煌びやかな御簾が各所で垂れ、美しい絵が着色された板硝子が壁に嵌められ日の光を神々しく室内に照らす、柱もそれぞれ精巧な彫刻が施されている。
その他の一階と二階の奥は宮殿専用の使用人たちの居住場所になっている。
三階は閣議室と饗宴の間があり、饗宴に出される調理場もここにある。
四階と五階は完全な皇族の居住部で、四階の一室が皇帝専用の執務室となっている。
六階は屋内訓練所、膨大な蔵書を誇る図書室、またかなり広い露台が南面にあるので、ここから帝都を一望することもできる。
皇宮は入り口の門から入ると、まず坂を三尺ほど上がって庭に出るので、宮殿は周囲の建物よりもやや高いところに建てられている。さらにすべての階がかなり高いので、六階ともなるとそれなりの絶景となる。但し宮殿の背後にある塔に比べればかなり低いが。
また地下室もあり、ここには主に葡萄酒が大量に貯蔵されていたり、氷を入れることができる特殊な食料の貯蔵箱などが、食材ごとに置かれている。
綺麗に整備された緑の庭には、各所に東屋や噴水や花壇などがあり、奥にある宮殿まで行くのにそれなりの距離を歩かなければならないが、天候の良い日はいい目の保養と運動になるだろう。
また宮殿に繋がる様な形で、両側に宮殿を二回りほど小さくした似た感じの四階建ての建物がある。南側から見て左側は近衛兵たちの居住場所で、右側は使節や来賓客用の宿泊場所である。どちらも宮殿ほどではないが、かなり精緻で華麗な造りに為っている。
ホスワード帝国第八皇帝、アムリート・ホスワードは特に使節の来訪など、特殊な事情がなければ、帝都にいる際は、基本的に午前は執務室にて政務、昼食を挟んでの午後は閣議室で各省庁の長との御前会議。時に自ら関連省庁に赴き重要な事案を話し合う。だが遅くとも午後の七の刻(七時)には職務を終え夕食の席に着く。
もし残りの職務や採決が残っている場合は夕食後、湯あみをして気を引き締めて改めて執務室にて行う。それが時には夜の十二の刻を回ることもあるので、妻である皇妃はしばしば心配をする。また残りの業務がない場合も、夜は様々な分野の読書に費やし、大体十一の刻を少し過ぎてから眠る。
最も毎日こういったことをしているのではなく、しばしば侍従武官のラース・ブローメルトと近衛隊を引き連れて帝都外で狩りをしたり、武芸の稽古に丸一日を費やすこともある。
朝は四階の私室で前夜がどんなに就寝が遅くとも、午前の七の刻に目を覚ます。妻である皇妃カーテリーナは常にその半刻(三十分)前に起床している。皇妃は皇帝と同年齢でこの年で二十八歳になる。結婚をしてすでに十年近くになるが二人に子はいない。ちなみの皇妃カーテリーナは侍従武官ラース・ブローメルトの実姉にあたる。
二人揃って朝の準備をして七の刻半(七時半)に、四階の一室に入る。皇族たちの食堂だ。広いテーブルには既に様々な料理が準備され椅子は七席あり、一番北側の二席に皇帝夫妻が座る。すでに他の皇族は座していたので、皇帝夫妻も席に着く。
まず一番南にアムリートの母親である太后が座っている。名をカシュナといい、五十代後半である。
そして左右に一組の母と息子が座っている。北面から見て左側は三十代前半の女性と十代半ばに達するであろう少年。右側はやはり三十代前半の女性と十歳前の少年が座っている。
アムリートは左側の母と息子を見て、優しい口調で声をかけた。
「ユミシス。具合が少し良くなったと聞いたので、安心したぞ。ここ一週間はずっと部屋に篭って粥しか食べていなかったんだろう。今日は滋養のつく野菜と魚介のスープを作らせた。無理して全部食べずともよい。ゆっくり味わいなさい」
そしてその母親に言った。典雅な美人で、所作も含めて出自の高さがうかがえる。そして実際にそうであった。
「フィンローザ義姉上。ユミシスの具合、医師は何と言っていましたか?」
「陛下。まだ外出は控えたほうがよいと申しておりましたが、本日のような晴天時は日の光を浴びるのがよいとも申しておりました」
「では、午前は六階の露台にて、少し日に当たるのがよいでしょう。まだ寒いゆえ暖炉の用意をさせましょう」
「叔父上。では勉学は午後に致したいのですが。よろしいでしょうか?」
そう問うたのユミシスと呼ばれた少年で、当年で十四歳になる。白皙の美少年というには、あまりにも顔の血が引けていて青白く、背丈こそ平均的な十代半ばだが、その体はあまりにも細すぎる。
「うむ、あまり長時間はするなよ。体に障る」
「じゃあ、僕は午前は武芸の調練、午後はユミシス兄様と久しぶりに一緒に勉学をしたい!いいでしょう、叔父上!」
「オリュン、お前は本当にユミシスと勉学をするのが好きなんだな」
「だって講師より、兄様の方が分からないところは、分かり易く説明してくれるもん!」
「おい、講師を困らせることを言うな」
「そうですよ。あと午前の武芸の調練は怪我しないように行いなさいね」
そうオリュンに声をかけたのは隣に座るオリュンの母親のタミーラである。タミーラもフィンローザ同様に楚々とした美女で、やはり高貴な身分の娘で、更にフィンローザとは従姉妹の関係にある。オリュンは当年で九歳になる。病弱なユミシスと違い、年相応の活発さを持った元気な少年だ。
「さあさあ、せっかくの料理が冷めてしまうよ。話は食べ終わってからにしなさいな」
そう提案したのは太后であるカシュナである。一同は同意して朝食を食べ始めた。
野菜のスープと魚介のスープは確かに美味であった。野菜はホスワード帝国内で採れない物が多く入っている。南方のテヌーラ帝国からの交易で入手したものだ。また内陸部にある帝都では海の物は港町から、氷を詰めた保存場所がある特殊な船で川や運河を通って運ばれている。故に値段はそういった輸送費から、帝都では海の物の値段は極めて高い。なので食すことができるのは富裕層くらいである。
このささやかなスープ二品に使った食材だけでも、大半である帝都の庶民には精々年に一度か二度しか買うことができない贅沢な食材なのだ。
2
太后であるカシュナの夫、つまりアムリートの父はナルシェというが、帝位には就いていない。皇太子であったのだが、父帝である第五代皇帝フラートに先だって三十代後半で没している。ナルシェとカシュナの間には三人の息子がいて、上からカルロート、オリアント、そしてアムリートである。アムリートは三男で本来帝位を継ぐ可能性は低かったのだが、上の兄二人も生来病弱で、フラート帝が崩御すると、皇太孫としてカルロートが第六代皇帝となったが、在位四年近くで、二十代半ばで崩御している。
跡を継いだのがすぐ下の弟であるオリアントだが、彼も在位四年と経たずに、やはり二十代半ばで崩御している。
五代皇帝フラートは五十年以上帝位にいたが、彼の最大の悩みは国内外の情勢ではなく、身内に病弱なものが多かったことだった。彼にはナルシェと四人の娘がいたが、妃には先立たれ、自身が死の床に就いた時に残った身内は息子の妻カシュナ、その三人の孫息子たち、そしてたった一人残った娘であった。娘三人も既に自身に先だって没していた。さらに生まれたばかりのひ孫であるユミシスでさえ医師からは「十歳までは生きられないでしょう」、と言われたほどの病弱さだった。
そしてフラート帝の死から十年と経たず、やはり病弱だった残った娘と孫息子の二人も没している。
ユミシスは六代皇帝のカルロートの一人息子で、オリュンは七代皇帝のオリアントの一人息子である。オリアントが崩御した時、実は貴族たちや重臣たちの間では後継をユミシスにするかアムリートにするかで問題となった。当のアムリートは自身が摂政として、ユミシスを帝位に就け、幼少で病弱なユミシスに極力負担をかけない体制をとるべきだと主張したが、重臣たちは健康なアムリートに帝位に就くよう要請した。
平和な世であればユミシスでも問題はないだろうが、北と西の帝国と対峙しているホスワードとしては軍事に明るいこの若者の登極を重臣たちは支持したのだ。
こうしてアムリートは第八代皇帝として即位した。重臣たちはこの溌剌とした健康な若者が帝位に就いたことに安心したが、一つ気がかりなことがあった。アムリートは即位時に既に妻を娶っており、その在位は八年目だというのに未だ子が産まれていないのだ。
将来的にユミシス様に帝位を譲るために、混乱の元とならないために子をなさないのか。いやいや帝位を譲るのは健康なオリュン様だ。などと重臣たちや宮廷の官吏たちはもちろん皇帝の耳の届かいなところで、噂話をせずにはおけない。
アムリートは妻との間に子がいないことはさほど気にしていない。三男として生まれたからか、彼はかなり自由な環境で育ち、妻カーテリーナとは幼馴染で、そのまま互いの恋心が結実したのだ。つまりその弟のラースも元は友人ともいう関係にあった。
カーテリーナとラース、そして彼らにはマグタレーナという妹がいて、この三姉弟の父親はティル・ブローメルトという。アムリートの舅だ。彼は軍人系貴族の家の出で、ホスワードを代表する名将の一人として謳われていた。また武芸の達人でさらに軍略に詳しいので、アムリートは幼いころから、このティルから武芸や軍略を叩き込まれた。それは後の妻となるカーテリーナとラースとマグタレーナも同様であった。傍からは、ティルから指導を受け騎射や武芸をする彼らは、仲の良い四兄妹に見えただろう。
だが、アムリートが即位すると、ティルは事実上の引退状態となった。娘が皇帝の妻、息子が皇帝の侍従武官、そして皇帝の舅である自身が重職に就いたままでは国政上よくないとして、今は将を辞し兵部省(国防省)の査閲官として、細々と勤務している。兵部尚書(国防大臣)のヨギフ・ガルガミシュは自身のもう一つ就いている大将軍の地位を以前よりティル・ブローメルトに譲るつもりだったので、このティルの決定を尊重しつつも惜しんでいた。
三月十日の午後の御前会議が宮殿の三階の閣議室にて行われた。議題は内政、外交、経済、軍事に絡むので、関連の省庁の長はもちろん、さまざまな専門家も参加していた。
宰相であるデヤン・イェーラルクリチフが議長として会議を主宰する。イェーラルクリチフは六十代半ばの如何にも官僚然とした佇まいを持つ厳格な風貌をしている。比較的中程度、それもどちらかといえば小さな官僚系貴族の家に生まれたが、若き日に第五代皇帝フラートにより、抜擢を受け様々な尚書(大臣)を歴任し第六代皇帝カルロートの即位以降、一貫して文官の長である宰相を務めている。
議題内容は四年前のバリス・エルキトとの一戦後の処置である。具体的にはあの敗戦以来ホスワードはエルキトとの交易を停止している。当然エルキト側としては日用品不足で困っているだろうが、ホスワードも馬不足という事態に入り始めた。一応ホスワード領内でも各地で規模は大小それぞれだが馬の飼育をしている。だが何千匹と飼育できる大規模な牧場はない。そのため以下の二案が検討されていた。
一つは帝都内の広大な土地を牧場として整備することである。その選定地も昨年のアムリートの地方巡幸で決定されていた。帝都東北部のイオカステ州である。ここには数千の馬の飼育に適した土地がある。
ただし懸念点として、まず牧場の施設を作ること、その職員の育成をすることなどで、数年で成果が出るわけではない。それどころか数十年以上はかかる事業になるだろうし、当然その分予算も莫大なものとなる。そもそも大規模な馬牧場は以前より定期的に発案としてはあったが、財政上の理由とエルキトとの交易の方が安上がりだったので、その都度廃案となり、現在にまで至っていた。
もう一つの案はエルキト内の一部族を調略によって、味方につけるというものだ。これもアムリートの地方巡幸で当の部族の族長との秘密裏の会談は済んでいる。この部族はホスワードのほぼ北に接する所に住んでいて、以前よりエルキト中枢部からさまざまな雑用や無理難題を押し付けられるので、ホスワード帝国の一部となって、北方防備と馬の供給を条件にホスワードの豊かな物資を享受したい旨を族長は強く望んだ。
この部族は三万を超える程だが、成年男性は元より成年女性の大半も馬の扱いには慣れているので、そのまま彼らに馬の供給を頼むことができるということだ。これは前者の案より即座に効果があり、経済もさほど圧迫しないので、一見利点だらけだが慎重派が以下に意見を述べた。
「果たして、その部族は信用に値するのか。手のひらを翻してエルキトに通じて、こちらの油断をつくということもあり得る」
「そもそも彼らを味方につけたとしても、必然的にエルキトとの交戦は免れないだろう。問題はそこでエルキトと大規模な交戦をするということは、バリスに隙を見せるということになる」
賛成派も意見を述べる。
「彼らと共にエルキトに打撃を与え、彼らと共に今の北面の駐屯兵と国境をさらに固く守ることができる。馬の問題も解決するし、この事案は大いに賛成する」
「バリスに対してはテヌーラに国境を扼してもらえばよかろう。もしテヌーラが何かの対価を求めてきたら、テヌーラが将来本格的にバリスの領土を奪うべく軍事行動に出る時、最大限援軍出すことを約束するというのはどうだろう」
この日の会議は結論は結局見送りとなったが、出席した兵部尚書(国防大臣)ヨギフ・ガルガミシュは主君アムリートが部族調略によるエルキトとの一戦を望んでいることを知悉したが、どうも宰相のイェーラルクリチフは反対側の様である。
皇帝と宰相は特に仲が悪い訳では無いが、その関係は完全な公人としての付き合いで、宰相はしばしば皇帝に直言すること憚らなかった。アムリートは自分と性格が大きく異なる宰相をあまり個人的には好いていなかったが、性格の好みで人事を左右するほど、彼は狭量ではない。何よりフラート帝より長年信頼され続けたその政治手腕を大いに認めていた。
会議終了後、アムリートは宮殿の使用人たちの長に、「本日は妻の実家にて一夜を過ごす。明日は朝食を食べてから帰るので、よろしく頼む」と言い、妻カーテリーナと侍従武官ラース・ブローメルトと共に三騎のみで、帝都内にあるブローメルトの邸宅へと行ってしまった。
ブローメルト邸へと入ると、ブローメルト家の使用人たちは突然の皇帝の訪問に礼をしたが、特別驚いてはいない。年に数度ほどだが結婚してから、このようにアムリートは妻と義弟を伴って、ブローメルト邸を訪れる事がある。そこで若い女性が邸宅から勢いよく飛び出て声をかける。
「アムリート兄様!お久しぶりです!昨年末まで長らく地方巡幸に行ってらしたんですよね?私、その話是非とも聞きたいなあ!」
「こらっ!マグタレーナ・ブローメルト!陛下に対してその口の聞き方は何だ!」
怒鳴りつけたのは馬から降りた兄であるラースである。
「よい。ラース。余も、いや俺もここに来ると落ち着くのだ。お前も昔の様に俺の事を名で呼んだら如何だ?」
アムリートもカーテリーナも馬を下りる。
「レナ。お父様はまだお仕事?」
「はい。リナ姉様。今日は久しぶりに遅くなると、先ほど使いが来ました。夜の六の刻には帰宅できるでしょう」
レナとはマグタレーナの愛称、リナとはカーテリーナの愛称であり、このような場ではこの四人は名や愛称で呼び合うのが常だった。
「ではアムリート様、リナ姉様。ここはこのラースが馬の手入れをしておきますので、この馬鹿娘のお相手をお願い致します」
レナはラースに思いっきり小馬鹿にした顔をして、二人を屋敷へと導いていく。
「レナ、相変わらず武芸の稽古に励んでいるか?」
「はい!いつでも近衛兵に入れる準備はできていますよ」
「ふむ、できれば長く滞在して、お前の武芸の上達ぶりを見たかったが、残念ながら明日の朝帰る。夜はティルと色々と話がしたい」
「じゃあ、そのお話、私も参加してもいいですか?」
「いいぞ、だが理解できるかな?」
レナことマグタレーナは当年で二十歳。金褐色の髪を短くし、大きな青灰色の目は好奇心に輝いている。化粧気が全くなく、男物の服を着ていて背も平均的な女性より高いので、見方によっては細身の美少年の様にも見える。
姉であるリナことカーテリーナはそんなレナを女らしくした感じである。同じ金褐色の髪は長い。ただ騎行してきたので、この時は男装に近い動きやすい服装をしているが。
3
ブローメルト邸の主人であるティルが帰宅したのは夜の六の刻を少し過ぎた頃であった。事前に皇帝が訪れている事は息子ラースの使いに因って知らされている。ティルはまず型どおりに恭しく皇帝に挨拶した。
「陛下、我が家に来てくださり、ありがとうございます。些細なもてなししかできませんが、本日はどの様なご用件で」
「その話は夕食が終わってからにしよう」
夕食が終わり、邸宅内の応接室に葡萄酒数本と軽い軽食が用意された。用意したのはティルの妻であり三姉弟の母であるマリーカである。マリーカは特に話し合いに興味がないのか、「では、陛下何かありましたら、何でも仰ってください」、と言って部屋を後にした。残されたのはこの家の主ティル、アムリート、リナ、ラース、そしてレナであった。皆沐浴も済んで室内着に着替えている。
ティル・ブローメルトは当年で五十四歳。七年前アムリートが即位するまでは一軍の将であり、特にその用兵の巧みさは帝国随一と言われている。さらに個人としても武芸全般に秀でていて、無敵将軍ガリン・ウブチュブクと共にホスワード帝国の至宝とも言われていた。偶然にもこの両者は同年で、身分や地位はティルの方が高かったが、ティルはガリンを高く評価していた一人でもあった。
息子と同じく八割がたは白くなっているが、薄茶色の髪は綺麗に後ろに撫でつけられ、首筋で編まれて垂れ下がっている。両側頭部も綺麗に剃りあげられ、蒼みがかった薄灰色の目は普段は知性と優しさにあふれているが、戦場では容赦のない眼光となる。いや、既に戦場には立たない身ではあるが。背は息子とほぼ同じで、一線を退いたとは思えぬほど、その体は鍛え上げられている。
「…という訳なのだが、卿の識見を聞きたい」
アムリートはこの日午後に行われた朝議の議題について、ティルの意見を聞きに来たのだった。ティルはあまり国家の大事には関わらない様にしているのだが、四年前戦友ともいえるガリンが重傷を負い軍籍を離れてから、その考えは少し改めた。特に先年亡くなったと聞いた時には、自分にできる範囲で国に尽くそうと決意した。
「陛下はエルキトとの交戦をお望みですね。さすれば先ずその部族と共に共同で当たるべきでしょう」
「父上、ですが初めて組む部族ですぞ。うまく連携が取れるとは思いませんが」
そう疑義を挟んだのは息子のラースである。ティルは頷き、再び皇帝に話す。
「そこはこちらも彼らと同じく騎兵のみで当たるのです。エルキトは野合の軍と高をくくり包囲殲滅せんと、わざと負け後退しながら、我ら同盟軍をおびき寄せる策を取るでしょう。その退路を想定してうまく歩兵を埋伏できれば、敵の裏がかけます。件の部族に歩兵が埋伏できる箇所を知るために、地理を教えてもらいましょう。畏れながら臣も北方の地理に関して、少々古いですが、多少の情報を持っています。それをまとめた物が兵部省に保管してあるはずです。無論、北方の城塞にも情報はありましょう。それらをすり合わせより詳細な地図を作るのです」
「なるほど。ではバリスに対してはどうする?」
「朝議の話し合いでも出たように、将来的な軍事援助を約束して、テヌーラに後方を扼してもらうのです。もし約定の違約が無きように、テヌーラへ重臣を使者の名目で人質として、送るというのはいかがでしょうか?臣がその使者になっても宜しいですが」
「いや、そこまでしなくてもテヌーラは了承してくれると思う。それより今バリスは四年前の援軍の費用を未だにエルキトに払い続けているとの情報もある。事実なら大軍を遠方へ送れぬはずだ」
「でしたら、その情報を確たるものとして、テヌーラ伝えれば、テヌーラ側としてもさほど大軍でない動員で済むので、きっと了承してくれます」
「では、バリスの内情を正確に知ることが先決だな。明日の朝議でこれを発案し、バリスの内情偵察の強化をするようバルカーン城へ急報を出そう」
ここでアムリートは話題を変えた。
「ところで卿もよく知っているガリン・ウブチュブクだが、その息子であるカイ・ウブチュブクに会ったぞ。今年の一月だ。練兵場に志願兵として来ていた」
「ほう!ガリンの息子。して、どの様な感じでしたか、そのカイというものは?」
「まさに偉丈夫だ。ガルガミシュによると若き日のガリンによく似ているという。背は二尺(二メートル)を軽く超えているな」
「二尺!」
突拍子もない声を上げたのはレナであった。自分より三十寸(三十センチ)も背が高いということになる。
「カイはちょうどお前と同じ位の年だぞ。あれはかなりの『もの』になると俺は思う。近衛兵に誘ったが断わられたよ」
「何で断ったの?英雄の息子だからって失礼な人ね」
「覚えておいて損はないぞ。いずれお前と同じく正式に近衛兵として採用するつもりだからな」
「アムリート様。レナに冗談でもそのようなことを言うのはやめてください。女性が戦場に赴くなど、考えられぬ話です」
それを聞き、姉のカーテリーナが言う。
「あら、私だってこう見えても、昔は兵士になりたかったのよ」
「ではリナ。次のエルキトへの親征についていくか」
「アムリート兄様!私も」
姉と妹の発言に呆れかえったラースは残った葡萄酒を一気に飲み干して頭を抱えた。それを見て一同が笑う。
一室が笑い声に満たされたからか、その後はマリーカも現れ、昔話に花を咲かせた。幼少の頃の四人はしばしば帝都の庶民たちが暮らす場所へ、遊びに行っていたこともある。そこでレナが迷子になり、三人が必死になって探したこと。少し年上の悪童たちと喧嘩をしたこと、むろん相手の方はその中の一人が皇族だとは知らない。アムリートにとってここはもう一つの家ともいうべき場所であった。
翌日の御前会議でアムリートの主張は了承された。もちろんバリスの国内事情の正しい情報付きという条件で。これを強く主張したのはもちろん宰相イェーラルクリチフである。即座に早馬が帝都ウェザールから西の国境にあるバルカーン城へ奔った。
さらに厳密に言えば両案が採用されたともいえる。長期的に見てやはり自前の馬牧場は設置すべきだという意見も採択され、数十年の期間で行われるだろうが、イオカステ州に数千匹を飼育できる馬牧場を整備することも決まった。もし例のエルキトの部族調略がうまくいけば、彼らを指導員として迎えてることもできる。そうすれば、その数十年の期間はかなり縮まるだろう。
バルカーン城の城主であり、西方軍総司令官ともいうべき地位にあるのはムラト・ラスウェイという四十代後半の将である。三月十五日帝都からの急使が来て、五月の中ごろまでにバリスの国内事情を詳細に報告せよとの皇帝直々の勅命が下った。具体的にはバリスの財政状況で、現状バリスは大軍を動員し国境沿いまで派遣できうる財政状況にあるかどうかの調査である。
むろん数名の諜報員がバリス国内に潜伏しているが、かなり具体的な命なので、猶予期間等も合わせて、新たに新顔を派遣し情報をより正確にした方がよいなと、ラスウェイ将軍は判断した。
将軍はまだ若い二十代後半と思われる副官を呼び、次のように指示した。
「今、バリスに潜入捜査を進めているものを一名、二週間以内にここに戻らせろ。特にバリスの首都ヒトリールに詳しいものがいい。それと先月帝都から来た新兵の状況はどうだ」
「召還の件は了解しました。新兵に関してはまだ一通りの作業を覚えている最中です」
「それは何時頃終わる?」
「こちらもあと二週間以内かと」
「では新兵の訓練をしている各責任者に以下の命をしておいてくれ、一通りの作業終了後、『有能で、且つ商人の護衛役に相応しい二名の者を協議し私に推薦せよ』、と」
副官は「畏まりました」、と言って司令官室を出た。
4
二月二日に帝都を出発したカイたち新兵二百五十人は、二十三日にこのバルカーン城に到着し、翌日から「馬の飼育」、「農作業」、「修繕」、「見張り」、「巡回」の五つの作業をそれぞれ一週間ずつ教えられていた。班がちょうど五つに分けられており、この三月十五日、カイの班の五十人は「巡回」の任務の説明を担当の兵士から受けていた。巡回は主に二つある。三名ほどでそのまま一日中城周囲を見回る事と、数日かけて周辺地域を確認する事である。数日の場合は兵服を脱ぎ、旅人の服装をする。但しホスワードの正規の兵士である特殊な符を常に携帯しなければならない。これはもちろん帰還する時の確認用だ。
担当の兵士から次のような質問が飛んだ。
「もし怪しい者が居たとしたら、諸君たちならそれをどうやって見抜くか?」
ややカイは考えて、答えを言うために手を挙げた。そして兵士が答えを促す。
「市場にいるでもないのに筆記用具を持ち、何か書き物をしている者は怪しいと思います」
兵士は満足そうに答えた。
「うむ。すべての者がそうとは言い切れんが、市場でない場所で、筆記用具を出している者はまず怪しめよ。少なくとも、何をしているかは問いただせ」
「では市場では特に咎めないのですか?例えば記憶をして、市場にて商人のふりをして、書き物をする場合もあると思います」
これは他の者の発言である。
「その通りだ。だが市場でいちいちそのようなことしては、交易が成り立たないし、州や国の財政の問題にもなる。市場に於いては残念ながら、当の地の衛士に任せるしかない。つまり諜報は完全には防げないということだ」
「では、こちらからもバリスに同じことをやっている、ということですね」
「その通りだ。二十名近くがバリス各地で諜報活動をしているはずだ」
カイの問いに兵士は感心したように答えた。
ヴェルフの班は「見張り」であった。バルカーン城は周囲四里(四キロメートル)のほぼ正四角形の石造りの城で、城壁の高さは三十尺(三十メートル)を超え、その幅も五尺は超える。そして西側の両端にはさらに三十尺を超える塔が建っている。当然この二つの塔は西側の様子を見張る塔だが、別な用途もあった。
バルカーン城は一万五千を超える兵士たちが駐屯しているが、ほぼバリス帝国との国境沿いにバルカーン城を含め見張りの塔が二十ある。厳密にはこのバルカーン城ともう一つは城なので、塔でないが、この二十ある塔および城はすべて連絡用の狼煙を上げることができる。各塔に詰めている兵士は百人ほどだ。
バリス帝国と国境を接しているのは、北から南へラテノグ州、バルカーン城があるメノスター州、メルティアナ州、レーク州である。それに対して国境沿いに二十の塔がほぼ等間隔にある。
レーク州の南にはドンロ大河が流れており、そこを超えると、テヌーラ帝国となる。またメルティアナ州は曾ての大国プラーキーナ帝国の帝都メルティアナ城があり、ここには二千の兵が常駐している。これがもう一つの狼煙用の塔の役割を担っている城だ。これら塔の兵士たちとメルティアナ城の兵士たちも含めてラスウェイ将軍が西方軍の総司令官として管轄している。
ホスワードもバリスもどちらもプラーキーナ帝国の後継国を主張しているので、メルティアナ城の帰属は大いに問題なのだが、プラーキーナ帝国崩壊後の戦乱でメルティアナ城は荒廃し、二千の兵はほぼ一日を補修工事に費やしているという。ただし、かつての帝都ということもあり、住民の人口は十万を超え、ホスワード帝国内でも屈指の都市でもある。
つまり見張りは狼煙の確認とそのあげ方を習う。但し何時上がるかは分からない。真夜中でもはっきりと分かる狼煙が上がるのだ。なので、これは常時兵がいなければならない。故にムヒルから来た衛士たちは即座にこの任務に交代制で入っていた。
カイたちの居住場所は四階建ての大きな建物で、約千人は寝起きと食事がとれる。このような建物は当然幾つもある。一階部分が浴場と食事場所で、二階と三階と四階が寝床だ。カイとヴェルフはこの寝床に問題を抱えていた。実は二段になった床が各階ごとに幾つも並んでいるのだが、そこに体を納めるには彼らには小さすぎた。また下で寝ることを強要された。彼らのような巨躯を持つものが上で寝ているとなると、崩れるのではないかという恐怖から、下で寝ている者からすれば安眠はできないだろう。カイとヴェルフは同じ棟に居住しているがカイは二階、ヴェルフは三階で就寝している。
こうして一通りのバルカーン城での任務を覚える手順は終わった。指導した兵士が能力の判断と各所の人手の必要性などを考慮した結果、カイは馬の飼育、ヴェルフは農作業を主にやることになった。厳密にはヴェルフはボーンゼン河に出て魚を釣ることが主任務とされた。漁師の腕の見せ所である。この辺りでは岩魚や山女魚などがよく取れた。塩焼きにしたり、揚げたり、保存用に乾燥させたりする。このころカイは以前ヴェルフに言われた通り、実家への手紙を初めて書いていた。内容は元気でやっていると、とにかく安心させる内容を心がけた。
そんなある日カイとヴェルフはバルカーン城の司令官室に呼び出された。
二人はある士官に作業中に司令官室へと連れて行かれ、中には司令官ラスウェイ将軍とその副官、そして商人風の男がいた。
部屋へ入るとカイとヴェルフは姿勢を正し右の拳を左胸に当てる敬礼をする。
「よい、楽にせよ」
将軍は二人に席に着くように命じた。司令官室は広く、司令官の執務場所が奥にあり、その手前は十名以上が座れて会議ができるように、広い机と座り心地の良い椅子が幾つもあった。副官用の執務用の場所も脇にある。
会議用の机を挟んで将軍が右に副官を左に商人を従えて座り、カイとヴェルフはその対面に座った。ラスウェイが互いの紹介をした。
「この二人はカイ・ウブチュブクとヴェルフ・ヘルキオスという。そしてこの男はこの城に所属している士官だ。名をレムン・ディリブラントという」
商人風の男は立ち上がって挨拶した。笑顔で愛想がいいので、二人は座ったままそれを受けたが、士官だと気付いて即座に立ち上がって、敬礼を施した。
「いやいや、いいのですよ。このように軍人に見えないのが私の特色なので。そのように敬礼が遅れることは私の有能さが示されているので、むしろ本望ですよ」
ディリブラントは冗談めかして愛想よく言う。軍装をしていないとか以前に単純に軍人に見えない。歳は三十代半ばで中背と云うにはやや小柄で細い。子細に観察するとかなり俊敏そうな感じがする。この辺りは只の商人ではなく、軍人らしい。
「お前たち二人はこの商人に扮したディリブラントの護衛役に扮して、諜報活動の手助けをして欲しい。目的地はバリスの首都ヒトリール。明後日にも出立してほしいので、今日と明日はその準備を行い、作業はしなくて良い。また詳細はヒトリールへの道すがらディリブラントが説明するので、ここでは諜報期間のみ伝えておく。五月の最初の週までにここに帰還すること」
今日は三月三十日なので、首都ヒトリールへ一週間以上かかるとすれば、大体二週間ほどしか活動できない。カイとヴェルフはさすがに身が引き締まり、活動内容に緊張していた。それを見ていたディリブラントが二人に平均的な大人の男の掌を一回りほど大きくした、まっさらな台帳と、黒鉛で作られた木の筆を手渡した。
「お前さんたちは私の護衛役をしながらその日一日、感じたことを心の中にとどめ、夜寝る時にそのとどめたことをこれに記入すればよい。ああ、言っておくが、これは人がいるところでは決して出すでないぞ。文字も書けぬ只の無知な用心棒役を人目につくところではするのだ」
カイは巡回の任務の説明を受けた時のこと思い出していた。この台帳と木の筆はバリス領内に入ったら、決して他者に見られてはならないと。
四月一日の早朝、ディリブラントとカイとヴェルフは旅商人風の格好をしてバルカーン城を出た。当然商売用のいくつかの鞄と簡易な野外用の休憩用の資材や着替えなどを持っている。商売用の鞄はさほど重くないので、力自慢の二人には軽作業の内にも入らない。まず徒歩にて所定の場所であるボーンゼン河の畔まで赴く。半刻(三十分)ほど歩くとそこには馬三頭とそれらを乗せることができる船があった。担当の職員もいた。その職員に三名はバルカーン城の正規兵である印である符を渡す。流石にこれは敵国に持っていけない。
「馬を船に乗せ、河を渡るぞ。ヴェルフ、貴官は操船ができるというが、頼んでもよいかな」
「かしこまりました。ディリブラント殿」
「おい、ニャセル様だろ」
カイが言ったニャセルとはディリブラントの諜報時の姓である。ヴェルフはそのままの姓で通すが、カイはウブチュブクという姓が無敵将軍ガリンと同姓で目立つので、母親のマイエの旧姓を使いカイ・ミセームと名乗ることにした。
「私もうっかりしていた。今ヴェルフに『貴官』と言ったが、軍用語は絶対に出すなよ。もちろん敬礼もだ」
「分かりました。ニャセル様」
そう言って、二人は軽く会釈をした。そして船に馬を乗せ、荷物を置きヴェルフの操船でボーンゼン河を渡る。渡った後、職員が小舟で三人が使用した船を曳いて戻していく。この船は彼らの帰還時まで、ここに残しておくのだ。四月の最終日に渡った対岸へ戻ることをニャセルことディリブラントは職員に告げていた。
5
対岸につき、馬に荷物を結び付け、三人は騎行する。カイは一応ヴェルフが昨年の十二月に初めて馬に乗ったことをディリブラントに説明したが、「そこまで狭隘な道や危険なところは通らない。本朝ほどではないが、バリスも道は整備されている。初心者でも安心だ」と言い、ヴェルフも「大丈夫だ。無理はしないが、足を引っ張ることは絶対にしない」、と言っていたので、両者の言うことを信じることにした。
バリスの全地形はディリブラントの頭の中に叩き込まれている。おそらく自国のホスワードより、よっぽどバリスの地理に詳しいだろう。一行は最短距離でバリス帝国の帝都ヒトリールを目指した。
途上、州を越える時や大きな市に入った時には、その都度バリスの衛士に身体検査をされたが、それほど入念にはしてこないので、台帳と木の筆が見つかる心配はいらなかった。
バリスの軍装は赤褐色の上下で、当然旗も赤褐色である。紋章は双頭の鷲で、市の入り口に彫られた双頭の鷲や、掲げられた双頭の鷲が配された赤褐色の旗を見ると、さすがに異国に来た感じがする。
どうも武器の有無のみしか確認していないようで、ある詰所ではディリブラントことニャセルはこう言った。
「衛士殿。最近治安が悪いので、このように二人の屈強を男どもを連れざるを得ないのです。武器が携帯できれば、このような男どもに大金を払わずに済むのですが、如何にかならないでしょうか?」
「武器はダメだ。野盗が怖いのなら、他の場所で商売をするのだな」
ちなみにホスワードの言葉とバリスの言葉は互いにそのまま言い合っても九割がたは通じる。共にプラーキーナ語を元にしているので姉妹言語とも言える。だがディリブラントは完璧なバリス語を使いこなせる。
そして四日ほどでヒトリールに到達した。周囲を山々に囲まれた盆地だが、標高は高い。なぜなら移動中ほぼ僅かずつだが上っているのを感じたからだ。雪もまだかなり残っている。時には四月でも降雪はあるそうだ。道中の夜はディリブラントがいつも使用している宿泊施設に泊まったので、野宿は一切しなかった。そして懸念のヴェルフもうまく騎行してついてこれ、むしろこの四日間で更に上達したようにカイには思えた。
「さて今日は休憩としよう。郊外にゆっくりできる所がある」
ヒトリール郊外に商人用の様々な施設がある。ヒトリールは東西交易の中継点ともいえるので、そのための宿泊施設やヒトリール内での商売をする手続き場などがある。ところがその手続き場に赴くと…。
「なんですと!席料が取られるですと?」
「申し訳ありませんニャセル殿。帝都にて一カ月以内の商売をする場合は席料をお取りすることになりました。御上のことなので、どうか了承してくださいますよう」
長期間いる商人なら、宿泊料を払わねばならないので、当然その分、宿泊地は潤う。しかし短期滞在者は席料が取られる決まりがちょうど四月の初日から決まったそうだ。
仕方なく「レムン・ニャセル」と記入して、場所と滞在期間を三週間と記載して、席料を払った。
「おい、カイ、ヴェルフ。お前たちも『自分の名前ぐらい』は書けるだろう。ここに名を記入しなさい」
そう言われたカイとヴェルフは名を記載した。もちろんカイは「カイ・ミセーム」と記入した。
三人は宿泊場所である宿に入ると、まずディリブラントが腕を組み、席料を取られたことに対して嘆息した。
「どうもバリスの本格的な財政不足という話は真実味を帯びているな。どれ、お前たちのこの四日間の記録を読ませてくれ」
カイとヴェルフは懐に入れた台帳をディリブラントに渡した。
「四月三日。上官が衛士に治安が悪いので野盗用に武器の携帯を望んだが、衛士は断った。そもそも野盗を討伐する気がないのか。討伐に人を割くことができないのか。どちらにしても衛士は必要最低限の仕事しかしないようだ」
「四月四日。この日はかなり大きな市に入った。同規模のホスワードの市と比べて衛士の数が少ない。衛士たちはどこかに徴用されているのか。元々バリスはこういった制度なのか」
「四月四日。兵士の軍装を見ると、かなり解れたところや鎧などが深く傷がついたままである。修繕や新しいものは支給されないのか」
ディリブラントは頷いて、台帳を二人に返した。
「よいぞ。この調子で毎日頼む。あと何か気づいたことはないか。今ここで口頭でよい」
そのディリブラントの問いにカイが答えた。
「やはり、兵士や衛士の数が少なすぎます。バリスの主産業は鉱石等の採掘ですから、兵たちが徴用され採掘場へ送られている可能性は高いと思います」
「それは私も以前から感じていて、既に採掘場へ人を派遣している。その者に我々の滞在期間内に確認と報告を取ってもらうよう催促をしよう。我々はその間、ヒトリールにて商いをし、首都の人々の観察だ。今日はもう休み、明日から始めるぞ」
「しかし、このように両国の人の往来が多いとは思いませんでしたな。これでは四年前のエルキトのようなことが起こるのでは?」
そう疑問を呈したのはヴェルフである。詳細な地形を調べられ、いざ会戦が起こった時に思わぬ方向から奇襲を受けるのでは、ということだ。
「元々、同じ国だったからな。お互いどこそこに河があり、大都市があるなど、既知のことだ。そもそも我々としてはバリスから来る商人や旅人をすべて止めたら、それこそ財政問題になる」
バリスより西方の様々な国々からくる商人たちは交易都市ともいえるヒトリールを中継地点としている。なのでバリスから来るもの全てを締め出したら、ホスワードとしては西方との交易が成り立たないのだ。
翌日、三人はヒトリールの正門を入り、席料を払った場所へ行った。カイもヴェルフも考えてみれば、自国の帝都ウェザールは遠くから見ていただけで中に入ったことはない。まさか敵国の首都に先に入る経験をするとは、数カ月前までは思いもしなかった。
ヒトリールはほぼウェザールと同規模か、それよりやや小さいくらいである。ウェザールはやや南北に長いが、ヒトリールは東西に長く、さらにその形も六角形をしていて、見張りの塔の数も六つ有る。城壁の高さや厚さもウェザールより若干低く薄い。人口は約十六万ほどだという。
正門はウェザールと同じく南の門でこの面には左右に小さな門があるが、他の面には一つしか門はない。
皇宮は中央のやや北側にあるようで、その部分はもともと丘だったのか、宮殿が聳えているが高所にあるので、帝都の何処に居てもよくわかる。水は引いておらず、地下水がかなり豊富であるらしく、井戸があちらこちらにある。それがここに大きな都市を作った理由であろう。ウェザール同様にプラーキーナ帝国時代に西方との交易用の都市として整備されたのがヒトリールである。
「さあ。カイ、ヴェルフ。準備を手伝ってくれ」
そう言って、ディリブラントは簡易なテーブルを設置し、商売品が入った鞄から中身を出して、テーブルの上に並べるよう指示した。
実は特に興味がなかったので、今までカイとヴェルフは商売品用の鞄の中身を確認していない。ところが空けて吃驚した。
「ふふふ。ミセーム君、ヘルキオス君。『木を隠すなら森の中』と言う言葉知っているかな?」
なんと入っていたのは台帳や木の筆であった!これらを売ろうというのだ。そして「道理で軽いはずだ」と二人は得心いった。
「さぁさぁ、皆々様!これらをご覧ください!商売の記録用としてはもちろん、日常の備忘録としても使えますよ!今なら台帳と木の筆を一対で買った方には、この樹液で作った字を消せる道具を無料でお付けするよ!」
ニャセルは大声で道行く通行人に声をかける。カイとヴェルフはやや離れたところで、それを見ていた。
「いいですか、皆さん!記録を取るということは大事ですよ。もし約定を口約束でなんてしたら、さぁ大変!後でそんなことは言っていないだの言っただのと、大騒ぎ。そんないざこざに巻き込まれないためにも、どうかこの台帳を買ってくださいな!このように切り取って証文にも使えます」
そう言ってニャセルは一つの台帳から一枚の紙を手で破いた。
「どう!この通り綺麗に切り取れるように作られています!さあ、買った買った!」
ニャセルの周りには人々が群がり始め、買う人も出てきた。
ニャセル以外の所でも様々な商人が集まり、それぞれ商品を展示し、勢いよく呼び込みの啖呵売を発している。
「おい、カイ・ミセーム。レラーン市でもな、テヌーラから実芭蕉をああやって売りに来てた奴がいたよ。ガキのころ親父と魚を市場へ売りに行ってた時、よく見たもんだ」
「実芭蕉か。昔、父さんが南からの土産だと言って食べたことがあるな」
「カイ。仮の話だが、もし士官になるためにああいった仕事もできないといけないとしたら、お前は如何する?」
「お前と同じく、故郷に帰って大人しく家業の馬牧場の経営をするよ…」
「そうだなあ。何だってこんな異国の遠いところで、ガキの頃の記憶を思い出すんだ?」
カイ・ミセームことカイ・ウブチュブクは敵国の帝都で諜報といえば聞こえはいいが、これがまさか三週間続くのかと思うと、妙な汗が背中を流れるのを感じた。もちろん四六時中ではなく、昼食をとるためにヒトリール内を回ったりもするはずだ。だが日の明るい内の大半はこの口上を述べるレムン・ニャセルの護衛役をしなければならない。
まさかとは思うが商売敵や無頼の輩などが邪魔をしに来ないとも限らない。その時はニャセルは非力な商人のふりをしなければならないので、自分たちの出番だ。
ホスワード帝国歴百五十三年、バリス帝国歴百四十五年の四月六日、カイ・ミセームは国家の大事とされる諜報任務中であった。この日より二カ月以内に大きな戦が起こること、それに自分も参加することになるとは、この時は夢にも思ってもいなかった。
第四章 ホスワード家の光と影 了
最後のあたりは思わず「結構毛だらけ、猫灰だらけ、お尻の周りはクソだらけ」って書きそうになりました。ちょっとおふざけが過ぎましたか。
次回はいよいよ戦闘シーンがメインになります!
迫力あるよう努力して頑張って書きますので、よろしくお願いします。
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