第二十六章 野望迷宮
そろそろ、また血なまぐさい気配が漂ってきましたね。
戦乱記を書いてるのだから、当然なんですが。
第二十六章 野望迷宮
1
バリス帝国の皇太子ヘスディーテが、ホスワードが国政改革に乗り出したとの情報を得たのは、バリス帝国歴百四十九年の三月の半ば頃である。
初め、ヘスディーテは自国と同じ、徴兵制度を敷くのかと思ったが、次々にもたらされる情報が、彼の完全な虚を突いた物だったので、愕然とした。
要するに、ホスワードは文武の要職に、女性も其の対象に加える機会を大幅に与える、と云う物だった。
ホスワード帝国は、バリス帝国より、国土、人口、経済規模、其々が一回り大きい国だ。
其れ故、ヘスディーテは府兵制を整備して、労役と軍役を一致した体制を造り、ホスワードに対抗出来る得る様に国力を伸張させている。
彼の懸念は、ホスワードが同じ事を行う事だったが、ホスワードは其れを採用せず、男女関係無く広く人材を募集する体制を造ろうとしている。
ホスワード皇帝アムリート・ホスワードが一から十まで、全て企画して実施している訳で無いだろうが、そう云った周囲の声を拾い、実施の策定者を決め、国の重鎮を説得しているのは、当のアムリートであろう。
ヘスディーテは、隣国の八歳年上の皇帝の気宇の壮大さに、改めて圧倒された。
これでは年度が経つ毎に、又も両国の国力差が開いてしまう。
曾て、ヘスディーテが府兵制を強いた時に、アムリートは其れを邪魔する様に、度々バリス領を侵犯していたが、今ではバリス側がホスワードの体制充実の邪魔をする為に、侵犯の必要性が出て来た。
然し、両国は一年毎の履行更新とは云え、停戦条約を結んでいる。これを来年早々に破るべきか。ヘスディーテは流石に大いに悩んだ。
ホスワードとの全面対決では、ヘスディーテは五カ所同時攻撃を企図している。
一つは先年に奪い取った、最も北方のラテノグ州の地から、一つはラテノグ州の南のメノスター州のバルカーン城の攻撃、一つは其の更に南のメルティアナ州のメルティアナ城の攻撃、一つは最も南のドンロ大河を降り水戦にてボーボルム城のホスワード水軍との決戦。
後者の二点に関してはテヌーラと同盟して行うので、大規模な大軍は擁さず、両城の兵を留めて置く事が主体と為る。
そして、最後の一つがメルティアナ州の北西部に在る、スーア市からの侵攻だ。
このスーア市の市長エレク・フーダッヒは、ホスワードのヴァトラックス教徒に於ける最高指導者の「師父」と称される人物だが、彼はこの市をバリスの拠点として明け渡し、バリスが後方基地として利用する事を秘密裏に承諾している。
更に、ホスワードの北方をエルキト藩王国が扼してくれれば、一見勝利は容易な物に思える。
但し、スーア市の占拠の手順を明確にする為、ヘスディーテは自国内に居る、ホスワード人のヴァトラックス教徒で、フーダッヒの腹心とされるパルヒーズ・ハートラウプなる男を、バリス帝国の首都ヒトリールのとある館に召還する事を決めた。
一人の旅芸人の男がバリス帝国の首都ヒトリールに現れたのは、四月の初旬である。
この頃に為ると、ヒトリールは日中の太陽が出ている時は、寒さは和らいでいる。
そんな陽気の中を、芸人は様々な大道芸をして、ヒトリールの行き交う人々を楽しませる。彼の衣服は派手で、顔に化粧をしている。一見して道化師と分かる姿だ。
ヒトリールは交易都市でもあるので、ホスワード人も其れなりに滞在して居る。この旅芸人は一頻り芸をして、夕近くに為ると皇宮に近い、とある高級な旅館へと入って行った。
太陽が沈むと、まだまだ外出するには厚手の衣服が必要な時期だ。
芸人は支配人を呼び、特殊な符を渡した。支配人は慌てて、芸人を特別な一室へと案内する。
其の一室内には、バリス帝国皇太子ヘスディーテ・バリスが居た。
通された部屋は食事をする場で、奥には寝室が在る。其の他、湯あみ部屋や厠が揃った一室だ。
この食事部屋には豪奢な卓と椅子が四脚在るが、卓の上には軽食と葡萄酒しか置かれていない。
ヘスディーテは自分の対面の席に着く様、芸人を促す。
そして、彼自ら、葡萄酒を二つの杯に注ぎ、彼は口を開いた。
「パルヒーズ・ハートラウプ。卿に確認して貰いたい事が有る」
パルヒーズと呼ばれた男は、席に着くと「失礼します」、と言って、派手な帽子を取り、顔の化粧を化粧落としで拭き取り、素顔を表した。
やや癖があり長い赤みががった茶色の毛、薄茶色の瞳は其の表情と相まって、何処か優しげだ。
身の丈は百と八十寸(百八十センチメートル)程で、細身の体は、身軽そうで柔軟性を有している事が好く分かる。
この年で彼は三十三歳に為るが、其の素顔や雰囲気から五・六歳は若く見える。
正対したヘスディーテはパルヒーズより九歳年下だ。美しく艶のある黒髪は直毛で綺麗に切り揃えられている。其の下の顔は女性をも羨む白皙で、顔の形と相まってゆで卵を剥いた、つるりとした白身を思わせる。
細く長い眉の直ぐ下には、同じく細く長い切れ長の目が位置していて、其の眼光は灰色の冷たさだ。
鼻梁は細く長いが、目立つような大きさでは無く、其の下の唇は化粧をしている訳でも無いのに淡い桜色だが上下とも薄い。
身の丈はパルヒーズより、三・四寸程高い位だが、其れ以上に体の線の細さが目立つ。パルヒーズも細身だが、明らかに彼よりも身の重さは軽いだろう。
年齢も顔の造りも体格も若者其の物だが、無味乾燥な表情や全体から発する雰囲気から、何処か年齢不詳、と云う因り、年齢を超越した形容し難い佇まいを纏っている。
ヘスディーテは葡萄酒と軽食を取りながらで好い、とパルヒーズに勧めた。
「確認とは何でしょうか。殿下」
パルヒーズはチーズを摘まみ、葡萄酒の杯を半分程飲み干す。
「卿の『師父』、フーダッヒ市長はどの様にして、市を掌握するのだ。市長と云えども、其の様な強大な権限は無かろう」
「フーダッヒ師は、以前より州都、または帝都に向けて、『火急の事が有れば、自身が市を掌握する』権限を得る様に、と動いています。改めて申し上げますが、フーダッヒ師は自身の正体が殿下に知られている事を知りません」
スーア市長エレク・フーダッヒは、パルヒーズを介して、バリスの皇太子ヘスディーテと接触しているが、彼は自身がスーア市で地下活動をしているヴァトラックス教徒の指導者だと、パルヒーズに言う様に指示している。
然し、パルヒーズは「師父」には内密にヘスディーテに其の正体を明かしてしまっている。
何故なら、フーダッヒとパルヒーズの目的は完全に異なり、そしてヘスディーテの方はパルヒーズの目的の後押しをしている。
フーダッヒは弟子のパルヒーズから裏切られた格好だ。
パルヒーズとしては、幼い頃から、自身を取り立て、自分の好きな劇を行う様に援助してくれた、師父を裏切っているのは、心苦しいが、彼の望みはヴァトラックス教徒が安全に信仰を保持し、生活が出来る場を造る事で、曾てのダバンザーク王国なるヴァトラックス教の祭政一致国の復活では無い。
フーダッヒはこの野望に取り憑かれ、多くのホスワード国内の貴賤を問わず、ヴァトラックス教徒を利用し、不要と為れば、平然と切り捨てている。
現在、ホスワード帝国内に居るヴァトラックス教徒は、クラドエ州の貴族の一部、同じくクラドエ州の農村部、そしてウェザール州の収容所では、主にパルヒーズ一座の面々が捕えられている。
クラドエ州の教徒は監視下に置かれている。パルヒーズの望みはこの様な監視付きで好いので、現在収容されている仲間を釈放して貰い、クラドエ州に正式なヴァトラックス教徒の村落を造る事だ。
当然、大規模で無くても構わないが、善神ソローと悪神ダランヴァンティスの神殿が必要だ。
バリス帝国では、この様に制限付きのヴァトラックス教徒の村落が認められている。
パルヒーズはヒトリールに来るまで、其処で暫く身を隠していた。
但し、歴史上ホスワードではヴァトラックス教団はしばしば騒動を巻き起こしているので、其の様な村落が認められない場合は、パルヒーズは貴族の信徒以外の全教徒を説得して、彼らを引き連れ、ヴァトラックス教を国教としている、ラスペチア王国に移住しようと思っている。
これこそがパルヒーズ・ハートラウプの真の願いなのだ。
2
「殿下。若しバリス軍がスーアに進駐したら、フーダッヒ師は如何為りましょうか?」
「以前も言ったが、王国の復活は認めん。フーダッヒは最高指導者として、クラドエ州の神官と為る事を勧める。其れを拒否するのなら投獄だ。強固に抵抗するのなら最悪は死罪だ」
「私には師の野望を其の様に翻意させる術が御座いません。師は私の恩人です」
「だが、師の遣っている事に、卿が内心で反発していたのは事実だろう。其れを止められなかった卿の立場も理解は出来なくも無いが、抑々フーダッヒが我らと対等な同盟を組める、と安易に考えているのが間違いなのだ」
「師は殿下とアムリート・ホスワードが全知を尽くして戦えば、漁夫の利が得られると考えています」
「成程な。我々とホスワードの全面対決が終結するまで、大人しく我らに従う、と云った処か」
ヘスディーテはエレク・フーダッヒが、極めて危険な人物であると感じた。
先ず、彼の狙いはバリスとホスワードが戦端を開き、共倒れに近い状態にさせる事。
そして、其の中で上手く立ち回れば、スーア市だけで無く、メルティアナ州を含めてのダバンザーク王国の復活が企図出来るだろう。
何より、王国復活の際に、邪魔に為りそうなヴァトラックス教徒のプラーキーナ系貴族を既に排しているので、彼らが此の王国の重要な地位に就けさせない様に、事前に混乱の種を除いている事だ。
だが、ホスワードとの戦いでは、如何してもスーアからの侵攻が必須だ。
謂ってみれば、心理的な二正面作戦を強いられる。そう考えたヘスディーテはごく僅かに表情を苦くしたが、呼び鈴を鳴らし、一人の人物を、このパルヒーズとの対話の部屋へ招き入れた。
入って来た者は、パルヒーズと同じ道化師の男だった。
赤褐色と黄色の縞模様の上下、入室時に脱いだ帽子は黄色い三角帽子で先端から赤褐色の飾りが垂れている。半長靴は黄土色で、靴先の先端が上に反り上がっている。
「この男は本朝の正規の士官だ。趣味で奇術を嗜んでいて、休憩時の将兵の評判も高い」
ヘスディーテの説明を聞いて、パルヒーズは自分と似た様な恰好の男に、戸惑いながら挨拶をした。
道化師は当然、自国の皇太子に片膝を付き拝跪し、パルヒーズに自己紹介をした。
「パルヒーズ。卿はこの男を連れて、スーアに赴き、彼をフーダッヒと面会させろ。一カ月程、お互いスーアで興行を行い、帰還するが好い」
「何故、この士官殿とスーアで興行をするのですか?」
「フーダッヒに彼を覚えさせろ。そして、次に、恐らく来年に為るだろうが、この男がこの姿で再びスーアに現れたら、其の一週間以内に我がバリス軍がスーアに進駐する知らせとする」
つまり、来年以降にこの道化師の格好をしたバリスの士官が現れたら、フーダッヒはスーアの掌握をせよ、と云う合図に為る。
「道化師をスーアに出現させるのを合図とするのなら、この私が行っても宜しいかと思われますが、何故この士官殿を合図とさせるのでしょう?」
パルヒーズはヘスディーテに疑問を呈した。道化師のバリスの士官はヘスディーテに因り、座席を許可されている。
「其のまま、この者をフーダッヒの傍に監視役として付ける。無論、フーダッヒにはバリス本軍との連絡役として説明するがな」
ヘスディーテが葡萄酒を空にしたが、杯には再度注がない。
「それでは私はバリスの進駐に際し、具体的には何をするのでしょうか?」
「卿は旅一座でホスワード各地を巡っていたのだろう。私の傍で地理に関しての補佐役をして貰う。嫌なら、あのヴァトラックス教徒の村に監視付きで、事が終わるまで、ずっと居て貰う」
パルヒーズは自身の道が確定した事を知悉した。
「では、この士官殿とスーアに赴き、フーダッヒ師と面会させます」
「出立は明後日で好い。本日と明日は此処に泊まり、この者と酒でも飲み、打ち合わせをせよ。料金は既に払ってあるので、好きなだけ酒と料理を頼んでも構わぬ」
そう言ってヘスディーテは一室から出てしまった。皇宮へ帰るのだろう。道化師の格好をしたバリスの士官は、席を立ち、恭しい一礼を暫く続けていた。
数日後、二人組の道化師がスーア市に現れ、奇術や大道芸を披露していた。
処が、スーアの衛士が遣って来て、「二人組だが、かなりの広さで行っているので、役所にて興行場所と逗留期間を登録せよ」、と命じた。
勿論、以前の吟遊詩人の件から、旅芸人の監視がホスワード内では厳しく為った、と云うのも有る。
二人は市庁舎で登録を済ませたが、其の際に片方の人物、つまりパルヒーズはスーアの市長に直接意見が言える、市庁内に設置された目安箱に紙切れを入れた。
内容は大した事では無いが、知る人が読めば暗号と為っている。
「つまり、彼はヘスディーテ殿下の手の者で、彼が来年以降にスーアでこの姿で現れたら、バリス軍は一週間以内にスーアに進駐するのだな」
「左様で御座います。問題は有りますでしょうか。『師父』」
「師父」と呼ばれた男は苦い顔をしたが、同席者の二人には分からなかった。何故なら彼は灰白色の外套で顔を完全に隠しているからだ。もう一人の人物、つまりヘスディーテの手の者は、この場所に初めて入る。
否、スーア市民でもこの場所に立ち入った者は居ないのだ。
スーア市庁舎の地下深い、曾てのダバンザーク王国の遺構が残された場所である。
「殿下の手筈は良く理解した。バリスの士官殿。このパルヒーズと二人きりで話したいので、暫し別の部屋で待機して頂けないか。パルヒーズ、士官殿を別の部屋をお連れしろ」
バリスの士官を別部屋を待機させると、パルヒーズは戻り、「師父」と二人きりに為った。
「師父」は頭巾を上げ、素顔を晒す。スーア市長エレク・フーダッヒの顔であった。
フーダッヒはこの年で四十九歳。中肉中背で、年相応の温和そうな顔、外見的には何の変哲も無いが、其の頭の中はダバンザーク王国の復活と云う、偏執さに満ちている。
「既に、私の名でスーア市の掌握の権限は得ている。だが、条件として、定期的なメルティアナ城司令官のウラド・ガルガミシュとの連絡を義務付けられた。近い内に件の将軍が此処に視察にも来る」
フーダッヒは嘆息した。自分の正体が知られた訳では無いが、市に於ける強大な権限を望んだ為、ある種の監視対象とされたのだ。矢張りホスワードの中枢部は一筋縄では行かない。
「フーダッヒ師。いっそ、御自身の正体をバリス側に知らせるのは如何でしょうか?彼らが進駐すれば、自ずと正体は明かす訳ですし」
「不可だ。仮にバリスがホスワードとの全面対決を諦めたら、私の正体をホスワード側に明らかにするだろう。私の正体を明かすのはバリス軍がスーアに進駐してからとする」
パルヒーズは神妙な顔をした。もうヘスディーテにフーダッヒの事は独断で明かしているし、別部屋に待機させているバリスのあの士官も周知の事だ。
「では、フーダッヒ師。我々は数週間程で、バリスに戻りますが、ヘスディーテ殿下には何か言って於くべき事は有りましょうか?」
「スーア市の防備が強固にされ、更にメルティアナ城の司令官に因って、半ば管轄されつつある。スーアの確実な掌握の為には、メルティアナ城への攻撃を強める様に言って於け。パルヒーズよ、決して我が名を出すでないぞ」
「畏まりました。『師父』」
こうしてパルヒーズはバリスの士官と数週間、所定の場所で大道芸を行うと、バリス帝国へと戻って行った。
3
ホスワード帝国歴百五十七年の三月の半ば、カイ・ウブチュブクはドンロ大河上で、特殊大型船の甲板上で一人考え事をしていた。今は調練の休憩中だ。
北からの微風は左程冷たくは無いが、空は半ば以上灰色だ。精々寒さが苦手な人間が、「寒い」、と思う程度の気候だ。
ホスワード帝国の北方に在るムヒル州出身のカイにとっては、勿論暖かくは無いが、寒さは殆ど感じない。
考え事とは、このドンロ大河沿いに在るラニア州のボーボルム城に、定期的にもたらされる国内外の情報で、この年の二月から三月にかけて、エルキト藩王国とバリス帝国が、それぞれ西で国境を接する国々と戦を起こし、どちらも勝利した、と云う報だ。
このラニア州からは、果てし無く西の方で起こった戦だが、カイの考え事とは、ある一人の人物に対してだった。
昨年の十二月の半ばに南方使節から、レラーン州の港湾都市オースナン市へ帰還した時、カイは以前より感じていた、或る疑惑を周囲に話した。使節中は任務に集中する為、ずっと胸の中に仕舞い込んでいたが、無事帰還したので吐露したのだ。
相手は「大海の騎兵隊」の幹部のヴェルフ・ヘルキオス、マグタレーナ・ブローメルト、レムン・ディリブラント、オッドルーン・ヘレナト、そしてカイの実弟のハイケ・ウブチュブクだ。
其の時にカイが話した内容は、国事犯であるパルヒーズ・ハートラウプに関してで、彼は現在一人で四代目の「師父」として、行方を晦ましているが、他のホスワード内のヴァトラックス教徒は全て捕縛されているか、監視下に置かれている。
カイはこの状態をパルヒーズが意図的に仕向けた事では無いか、と彼らに話したのだ。
「彼は何か異心を持っているだろうが、仲間を見捨てる男だとは、如何しても思えない。これに関して皆の意見を聞きたい」
皆の意見は纏めると「気にする事では無い」、であった。エルキト出身のオッドルーンはラスペチアに対する知識から、ヴァトラックス教徒が過激派だとは思っていないし、他の面々もホスワード国内の過激派はもう居ないだろう、と結論付けた。但し、ハイケが情報として、以下の事を提示した。
「当のパルヒーズだが、数年前に兄さんたちがラスペチアに駐在武官として居た時に、滞在中に先代の『師父』を鳥葬した記録は、問い合わせた結果、事実だった様だ。また、パルヒーズが若しラスペチアに滞在して居たら、捕縛の協力は得ているし、ラスペチア当局がパルヒーズを秘密裏に匿う理由も無い。但し、バリスにもヴァトラックス教徒の小村が在るらしいので、パルヒーズは其処に身を隠している可能性が高い」
「バリスに捜査協力は頼めないかな?」
「不戦条約を交わしただけで、相互の同盟関係の条約を結んだ訳では無いから、其の様な国内捜査の依頼など出来ないよ。或いはヴァトラックス教が成立したファルート帝国にまで、身を潜めている可能性も有るし」
カイは弟ハイケの意見を聞くと、これは埒が明かない、と流石に自身のやるべき責任の順序を下げた。
下げたのであって、決して諦めた訳では無いが。
甲板上で腕を組み、背に濃い緑の肩掛けを靡かせ、直立しているカイの傍に、一人の女性が寄って声を掛けた。
今年の一月に結婚した妻のマグタレーナ・ウブチュブクだ。
カイはこの様に公務の場では、妻を愛称の「レナ」と呼ばず、部下の一人して公平に扱い、「ブローメルト」、と呼んでいる。
其の堅苦しさはヴェルフを初め、周囲は皆呆れていたが、レナは逆に、彼のこの奇矯な生真面目さを楽しんでいる。
「ウブチュブク指揮官。また例に因って、あのパルヒーズの事を考えているの?」
妻も夫に倣い、公私の区別をする。
「うむ。つい、今の様な自由時間だと、彼が何処に居て、何を企図しているのか、を考えてしまうな」
「指揮官殿の心の中は、妻である私よりも、彼の事で沢山の様ね」
「…そろそろ休憩時間は終わりだ。水弾の護謨の除去の時間も欲しいから、一刻半(一時間半)で終了としよう」
カイは背の肩掛けをひらめかせ、其の大きな身体の向きを変え、船体後部の楼閣へと進む。
レナも白の肩掛けをひらめかせ、夫である上官の後に付いて行く。
カイ・ウブチュブクは、約千二百名から為る「大海の騎兵隊」の主帥で、軍に於ける席次は「下級大隊指揮官」だ。この年二十五歳に為るが、彼の父のガリン・ウブチュブクが同じ地位に就いたのは三十を超えてからである。
レナ・ウブチュブクは、「大海の騎兵隊」に所属する女子部隊二百程の指揮官で、軍に於ける席次は「中級中隊指揮官」だ。彼女はこの年に二十四歳に為る。
謂うまでも無く、ホスワード帝国軍が設立されてから、初の軍人夫婦である。
其の日のボーボルム城での大広間での夕食時では、カイたちは卓を囲んで、帝都での話と為った。
何でも帝国宰相デヤン・イェーラルクリチフが提議した国政改革で、皇妃カーテリーナを長とした特別な組が、国政の場に女性にも広く門戸を開くべく動いている話だ。
ハイケも其の特別な組に所属しているのだが、何と彼は同時並行で、練兵場の造兵廠で造られている、護謨を使った複合装甲を施した突撃車両の視察までしているらしい。
「大丈夫なのか、ハイケはそんな無理をして。カイ、お前からも無理はするなと言って於け」
「リナ姉様もかなり心配しているみたい。でもハイケさんが居ないと、どちらも進捗が滞るとか」
ヴェルフとレナの言葉にカイは黙って頷いた。
実はカイはパルヒーズの捜索の一環として、ハイケに対して、バリスの件のヴァトラックス教徒の村落の調査部隊を、作って欲しいと思っていたが、これ以上の負担を弟に掛けさせたく無いので、諦める事にした。
ふと、カイは同席している部下のレムン・ディリブラントの顔を見た。
彼はバリスの内情に詳しい。だが、逆に長年バリスに居た為、怪しまれていたので、バリスの諜報員を外された経緯がある。
何より、彼は自分の参軍で、この年に三十八歳に為る、ずっと年上の彼の意見は貴重だ。
結局、カイはパルヒーズに対しての優先順位を下のままにせざるを得なかった。
同じ頃、帝都ウェザールに居るハイケ・ウブチュブクも、出来たらスーア市長のフーダッヒと直に面談をしたいと思っていた。
彼はフーダッヒの経歴を調べたが、若干ではあるが気に為る所が有ったからだ。
帝都ウェザールの中央官庁の人々の中で、エレク・フーダッヒを直に知る人は居ない。
兄夫婦は数年前にフーダッヒに直に面会しているし、ガルガミシュ将軍も定期的な連絡を彼とする。
其の為ハイケは、流石にやる事が多すぎて、彼も同じくこの優先順位を下げていた。
ウブチュブクの兄弟は後々、この頃の決断を大きく後悔する事に為る…。
カイのボーボルム城での居住場所は高級将校用の一室である。寝室、執務室、風呂場、厠、そして執務室に扉で繋がった副官用の部屋が在るが、この部屋には弟で従卒をしているシュキンの寝所だ。
妻のレナは女子部隊用の棟に居住しているので、任務中や夕食時以外では基本的に顔を合わせない。
同じような造りの一室にヴェルフも居住していて、彼の副官用の部屋はシュシンの寝床と為っている。シュシンはヴェルフの従卒だ。
だが、しばしばカイは二人の弟たちを夜寝る前までに、自分の執務室に呼び、色々な事を話していた。
この年に十九歳と為る二人は七月より、練兵場で半年間の志願兵の調練を受ける予定だ。
既に其の為の書類も整えてあり、四月に入ったら提出する予定である。
ちょうど五年前の今頃、カイはカリーフ村からハイケと共にムヒル市に馬を売りに赴いたが、其の時にカイは志願兵の出願、ハイケはムヒル市の役人試験の出願をした。
あれから僅か五年で、二人の地位と権限は、途轍もなく大きな物と為っている。
4
ボーボルム城の司令官は、アレン・ヌヴェル将軍で、この年に五十歳に為る。
彼は若き日に、ガリン・ウブチュブクが率いる大隊の副帥を長く務めていた経歴を持っている。
ガリンが健在なら、この年に五十八歳と為る。
単純に彼自身の性格も有るだろうが、ガリンの元で長く苦楽を共にし、出自がかなり傍流の小貴族からか、士卒に対して温情厚く、特にカイやシュキンやシュシンのウブチュブク家の兄弟たちには、何かと親切だった。
ボーボルム城はカイたちの「大海の騎兵隊」部隊を除くと、常時一万程の兵が駐屯していて、軍船は大型船が十五艘、中型船が三十五艘、小型船が三百艘、そして特殊大型船が三艘、輸送船が十艘だ。これ等は全て城塞に在る船渠に収容されている。
凡そ、大型船は二百名、中型船は百名、小型船は一回り大きいのが二十名、小さいのが十名が乗船する。
特殊大型船は、女子部隊から人馬五十騎と歩兵三十名の敵船突撃部隊、三十名の船体防衛部隊、そして船の操作員に約六十名が乗船する。
故に、カイたちのドンロ大河での調練は、特殊大型船を使った、廃棄予定の大型船相手の敵船突撃の訓練と、大型船や中型船に設置された投石機から、水弾を目標地点に打ち込む訓練が主であった。
また、小型船では哨戒活動や、一部の兵は爆発物の投擲兵器の扱い方も習っている。当地にはこの年の六月末までの駐在だが、騎兵部隊とは思えぬ活動をしている。
四月に入り、この日は休養日。カイは珍しく妻のレナと二人きりで、ボーボルム城内の談話室で、茶を前にして話していた。
「ツアラから手紙が来たんだけど、学院は楽しくやっているみたい。あと、あの子、セツカと手紙のやり取りをしているんだけど、二人とも将来、役人の試験を受ける約束をしたんだって」
彼女たちが学院を卒業する頃には、入試制度や配属先などが整備されているだろう。
「ふむ。セツカは役人に為りたいのか。ハイケは殆ど軍人に為ってしまったからな。俺の父は学を身に付け、人の役に立つ仕事をする人間が真に素晴らしいのだ、と好く言っていたから、セツカが父の意志を受け継ぐ訳だ」
「メイユさんも学院の教師だから、そうなるね」
「如何も俺たち息子たちは、両親の期待や希望を裏切っている様だ」
やはり一番下の弟のグライも、軍務に就いてしまうのか、とカイは心の中で苦笑しながら、茶を飲んだ。
高級士官と為ってから、カイは多少の国家の機密文章や、軍の人事録を閲覧出来る権を持っている。
彼は其れで、自身の出自。つまり父ガリン・ウブチュブクの経歴を調べていた。
ガリンは生前、自身の出自をあまり語らなかったので、父が隠したい事を暴く様な気がして、カイは初めは躊躇したが、レナとの結婚式直前に意を決して調べる事にした。
ガリンが士官に為った時と、高級士官に為った時に、彼自身が軍の高官から調べられ登記した物だ。
何故なら、ガリンはホスワードの辺境の出身で、諜報員の可能性が有る為、昇進時に厳密な調査対象とされたのだ。
士官昇進時以降、基本的に登録が帝都の兵部省(国防省)なのは、この様に出自も含めて審査するからである。特に平民出身者は完全に審査対象と為る。
ガリンの母親、つまりカイの祖母の名はソルクタニと云う事は分かっている。この名は妹夫婦の娘の名と為っている。
ソルクタニの母は、現在ホスワードの影響下に在るエルキトの小部族の出身だが、父親はホスワード人で、両親からホスワード語とエルキト語を学び、更に西方のラスペチア語を初めとする諸言語に通じていたそうだ。
これは学才が有ったからでは無く、単に様々な旅商人が往来する地域で育ったので、自然と身に付けたらしい。
処が、このホスワード人の父親は辺境地域で任務に就いていた兵士であり、ソルクタニが十歳に為る前に、ホスワード本国に一人で帰還している。
本国には彼の本来の妻子が居た様だ。
エルキト人の母とソルクタニは、生活の為、ラスペチアの東にある、とある緑地国家に移住して、其の国のとある宿屋で住み込みで働く事に為った。「ウブチュブク」とは、このエルキト人の母の姓である。
特に多言語が出来るソルクタニは、様々な国の商人や旅人が泊まりに来る、この宿屋では貴重だった。
程無くして、ソルクタニの母は心労から没する。夫が故国に実の妻子が居た事を知ってから、悲嘆に暮れ、体調が次第に悪く為っていったからだ。
カイはこのホスワード人の自分の曾祖父に当たる人物も調べたが、本国帰還後から程無く起こった戦で戦死している。
残された妻子ついても、絶えたのか、何処かで子孫が健在なのかも不明だ。
さて、母の死後もソルクタニは其の宿屋で働いていたが、彼女が三十歳位の頃にガリンを産んでいる。
父親は不明だ。つまり完全な私生児な訳だが、恐らく彼女が良く世話をしていた、身の丈が二尺(二メートル)もある西方から来た旅商人が父親らしく、当然商人なので、ソルクタニを身籠らせた事も知らず、故国の遠い西方へ帰ってしまったのだろう。
ガリンが産まれた当初、宿屋の主人は余計な食い扶持をもたらしたソルクタニに辛く当たっていたが、ソルクタニが多言語話者なので、様々な旅商人の対応が出来る事と、ガリンが育つたびに年齢以上に大きく育ち、十歳前から宿屋の力仕事を始めると、母子の住み込みを認めた。
ガリンは騎乗を覚え、使いなども行い、自身の身を守る為に独自に武芸の稽古に励み、実際に少年期より盗賊団との戦いの経験などをしていた。
そして、ガリンが十七歳に為る前にソルクタニは死去する。葬儀を終えると、ガリンは世話に為った宿屋を飛び出し、祖父の故国であるホスワード軍のとある一部隊に見習い兵士として、入隊を希望した。
こうして「無敵将軍」ガリン・ウブチュブクの軍歴が始まった。
ガリンは母から、正しいホスワード語を身に付けられる様に教育された。ソルクタニは諸言語に通じていたが、其れは会話の疎通のみで、読み書きはホスワード語でも覚束無かった。
幼いガリンは馬に乗り、山野を駆け巡り、騎射で獲物を仕留める事に熱中し、勉学を嫌ったが、母を悲しませたく無い為に、最低限のホスワード語は習得した。
そして、軍に身を投じると、事有る毎に学問の必要性を感じていた様だ。
マイエと結婚し、カイを初め子供たちに高い教育を受けさせたのも、其の影響である。
レナはカイから、そんなガリン・ウブチュブクの出自を聞き、色々と考えさせられた。
彼女は何不自由無い貴族の出である。其れは経済的なだけで無く、家風としてもそうである。
ブローメルト家の現在の当主はティルだが、其の始祖はエルキトの名家の出で、メルオン大帝の覇業に若き日より武将として付き従い、将軍と為り、爵位まで与えられた。
彼はメルオン大帝の姪を妻とし、更に生まれた息子は長じてプラーキーナ貴族の娘と結婚した。
処が、この息子は実は若き日より、思いを寄せていた女性が居たのだが、其の女性は市井の女性で、其れを経ち切らせる為に、父から強引にプラーキーナ貴族との縁談をさせられた。
其れ以来、ブローメルト家はこの人物が当主と為ると、結婚は自由意思で行う様に、と家訓を出し、実際にティル・ブローメルトも妻マリーカと自由恋愛で結婚している。
尤も、カーテリーナの様に、後に皇帝と為るアムリート大公殿下と自由恋愛をした者も出ているが。
レナがカイと結婚するのを、ブローメルト家があっさり認めたのも、こう云った経緯に因る。
ボーボルム城でのカイの「大海の騎兵隊」の調練は、順調に進んでいた。
敵船への騎兵が通る桟橋の掛け方、騎兵隊の突入、船体防衛と騎兵隊防衛の為の兵士の武芸の訓練、そして速やかに離脱出来る様に、突入部隊帰還後の桟橋の撤収と、離脱運航。
更に、水弾の投石機は専用の兵士を選抜して任せたので、ほぼ高確率で目標物に当てる事が出来る様に為った。
また、逆に爆発物の投擲武器も在る。此方も選抜させた兵士に任せたが、危険物を扱う為、一番神経を使う調練だ。
部隊の滞在は六月末だが、其の二週間前にシュキンとシュシンの練兵場へ旅立ちの為、ささやかな別れの祝宴をした。
騎乗すれば帝都まで二・三日で赴けるが、輜重兵しての調練を受けるので、其の様な事は許されない。
余裕を持って、徒歩と馬車と水路で、二人は帝都の西部に在る、練兵場に行く。
二人の出発日、ボーボルム城の陸地側の正門前で、カイは並んだ弟たちの肩に、其々片手ずつ手を乗せ、静かに語った。
五年前にカイがカリーフ村から出発した時は、二人の頭に手を乗せていたが、今では双子の背は百と九十寸(百九十センチメートル)近く有る。
「怪我が無いようにな。繰り返しに為るが、指導員たちの言う事を好く聞き、応募してきた仲間に対して、奢らず謙虚に接しろよ」
「分かっています。ウブチュブク指揮官。この七月からが小官たちの本当の軍務の始まりだ、と云う事は」
「必ずや、教わる事をしっかり吸収し、改めて部隊の一員として相応しい者と為る所存です」
二人の姿は従卒用の軍装では無く、旅人用の服装だ。
カイは散々悩んだが、四月の書類提出時に、二人の名前は「シュキン・ミセーム」、「シュシン・ミセーム」、とする事にした。
父や自身の名声も有るし、何よりハイケが練兵場の造兵廠にしばしば赴いているので、特別扱いされない様に母の姓で登録した。
指導員の責任者のザンビエにだけは、其の旨を伝えてある。
こうして、二人はボーボルム城を徒歩にて離れ、出発をした。カイたち一同は彼らが見えなく為るまで、ずっと見送っていた。
「あの二人は居るだけで、周囲が明るくなるから、居なく為るのは寂しいね」
「カイ、従卒の件は如何する?特に今は俺たちの傍に連絡用の兵を置いて於く必要は無いが」
レナの言う事にカイは頷き、ヴェルフの意見にはカイも同感だった。
自身の身の回りの世話など、特別に誰かに遣って貰う必要など無い。如何してもヴェルフとの遣り取りに煩雑さが出てきたら、従卒の件は其の時に考える事にした。
5
カイ・ウブチュブクが主帥の部隊、「大海の騎兵隊」の本年度の予定が帝都の兵部省から伝えられたのは、シュキンとシュシンが帝都に向けて出発した其の日で、入れ違いで遣って来た。
先ず、七月から一カ月半の休暇。そして、八月の第三週より、ホスワードの最も北西に在る、ラテノグ州の城塞勤務を十二月半ばまで、と伝えられた。
カイは翌日に、ヴェルフを初めとする主だった幹部を城内の会議室に集め、以下の事を自分の部隊の全将兵に伝える事を指示した。
一つ、六月の最終日で部隊は現地解散とし、各自故郷に戻る事。
一つ、故郷が無い者、戻りたくない者は其の当日までに、直属の上司に連絡をして、自分がボーボルム城に滞在許可を出す様にヌヴェル将軍に連絡をする為、各上司は残りたい人員の名簿を自分に提出する事。
一つ、再集結場所と期日は、練兵場の造兵廠付近で、八月の第三週の初日の四日前で、午後一の刻とする事。
「何か、質問はないか?」
カイが言うと、オッドルーン・ヘレナトが質問を発した。
「現在、シェラルブクの地にて、部隊の女性二十名程が赤子を産み育てていますが、彼女たちを現役復帰させますか?其れとも他に未婚の女性を補充致しましょうか?」
昨年、二カ月半の休暇を「大海の騎兵隊」は取ったのだが、其の際シェラルブクの女性百名の半数は結婚し、程無くして、内二十名程が妊娠していた事が判明したので、彼女たちは赤子を産み育てる為に故地に戻ってしまっている。
現在、子育て中な訳だが、未だ一歳にも為っていない筈だ。
「申し訳ないが、其の事はヘレナト副指揮官に一任する」
カイはそう言って、希望する者は現役復帰、また補充兵も希望する女性のみを募り、無理に人員を揃える必要は無い、と言った。
さて、再びシェラルブクの女性たちが故国に帰還したら、また結婚騒動と為るだろう。
いや、其れ処か、「大海の騎兵隊」内で、如何もちらほらと好い感じに為っている女性兵士と男性兵士が居る。
主帥である自分が部下のレナと結婚をしているので、「部隊内の恋愛を御法度!」、等は有り得ない。
女子部隊は現在、ホスワード側で百名を超える程度、シェラルブク側は二十名程が子育て中なので、八十名程度だ。
中には、シェラルブク女性とホスワード男性の好い仲も居るらしい。
次の任務は、ラテノグ州の対バリスの前線の要塞である。
当地の責任者代理で、恐らくカイの直属の上司と為るであろう、ファイヘル・ホーゲルヴァイデ中級大隊指揮官から、「一体、卿の部隊は如何為っているんだ?」、と色々と難癖を付けられる事を想像して、カイは心の中でため息を付いた。
ヴェルフがファイヘルに暴発しない事を祈るばかりである。
六月の最終日、「大海の騎兵隊」はボーボルム城で現地解散をした。
約百名程が帰郷せずにボーボルム城に残る。
オッドルーンは当然、部下達を率いて故地のシェラルブクの地に戻る。
ディリブラントは、帝都ウェザールの実家であるニャセル亭に帰郷するが、カイから「あまり働き過ぎるなよ」、と半ば本気で注意された。
「そいつは難しいな。俺は今回はウェザールの家に戻るからな。カイ、レナ殿。じいさんとばあさんに宜しく言っといてくれ」
ヴェルフも帝都の自邸に戻るらしい。
カイとレナはヴェルフの故郷のレラーン州のトラムに在る、カイの別邸で過ごす予定だ。
この別邸の管理者がヴェルフの大叔父夫婦である。
「では、皆様お気をつけて」
そう言ったのは、トビアス・ピルマーと云う下級中隊指揮官で、彼には故郷が在るが、残る部隊員の纏め役を自ら買って出て、彼が八月の集合期日までに、練兵場に率いる事に為っている。
「ヴェルフ。もしハイケに会う事が有ったら、無理はせぬ様に、と言って於いてくれ」
「分かった。流石に陛下もハイケに休暇は出すだろう。俺やお前なんかより、彼奴の方が余程、国家の柱石だからな」
こうして各自、馬を飛ばし、または運河や河川の船着き場へ行き、オッドルーン達はドンロ大河を東へ進み外洋へと出た。
カイとレナは騎乗して、トラムを目指す。例に因って弓矢も携帯している。
この時期のドンロ大河沿いは、日中だとやや蒸し暑さを感じる。降雨も頻繁に有るので、二人は空模様を見ながら、東へと進んだ。
「ラース兄様はラテノグ州の城塞の監督役じゃないの?」
「現在、ラテノグ州の城塞は七割程完成と云った処だ。ブローメルト将軍は七月末まで、城塞の進捗具合を見て、八月から城塞の完成まで、バルカーン城の司令官職に就く、と聞いている」
ラテノグ州の城塞は、年内の完成を目指しているので、専門的な建設業務には携わらないが、資材の運搬等の作業を、「大海の騎兵隊」は当地で命じられる可能性がある。
ブローメルトの兄妹は、つまり入れ違いと為る。
トラムの家に着くと、既にヴェルフの大叔父夫婦が居て、夕に近かった事もあり、食事や風呂等の家の事は、この老夫婦が行ってくれた。
勿論、ヴェルフからの手紙に因り、彼らはカイとレナが結婚した事を知っている。
夕食はトラムで獲れた海の物を中心とした、老夫婦からお祝いとして、豪勢な料理が並び、カイとレナは舌鼓を打った。
夕食時の語らいでは、今頃ヴェルフが帝都の歓楽街で遊び回っている事に、大叔父夫婦は呆れ、次に赴く任地がホスワードで一番の北西のラテノグ州である事には、驚いていた。
一番の南東のレラーン州からは、殆ど異国としか思えぬ地だ。
ドンロ大河を果てしなく長く渡るが、南のテヌーラ帝国の方が、レラーンの人々にとっては、余程、文化的にも、心理的にも近しい地である。
昨年の南方使節の出港地であるオースナン市は、レラーン州の副都とも云うべき港湾都市で、トラムからは北へ半日程徒歩で進めば、到達出来る。
ヴェルフの祖父や其の弟の大叔父が生まれた頃は、オースナン近辺までテヌーラの支配が及んでいた。
彼らが生まれた頃は、第四代皇帝マゴメート帝の混乱後の時代で、所謂「北東ドンロ地帯」はテヌーラ帝国が領していた。
其の影響からか、交易都市のオースナンの住人は元より、トラムの住人にもテヌーラ語が堪能な者が少なからず居る。
カイとレナは家事を分担して、レナは日用品の買い物と衣類の洗濯を担当している。
買い物でトラムを回っていると、レナは改めてトラムは、テヌーラの文化的な匂いが強い地だな、と思った。
これは昨年のテヌーラの南の港湾都市であるカンホンに滞在していた影響からの印象だ。
彼女の買い物は、出会う村の人達との談話も入るので、長時間だ。
村の人たちは彼女が貴族の娘で、然も、実姉が皇帝陛下の御后である事は知ってはいるが、話していると其れを全く感じない。
レナは、この時期に合った動き易い衣服を着て、日差しが特に強い日には、麦わら帽子を被るか、日傘を差している。
曾て、カイの邸宅には、とある貴族が住んでいたが、其の人物もまた気さくな人物であった。
トラムの住人は、自国の貴族とは、こうなのか、と勝手に思っているかも知れない。
さて、邸宅内外の掃除と風呂の準備がカイの担当だ。
食事の用意や食べ終わった後の洗い物は、台所が十分な空間が在るので二人で行っている。
但し、茶だけは拘りのあるカイが淹れていたが。
そして、二人はカイの漁船での釣りや、特にカイは海水浴も楽しんでいた。
日々の夕食の主菜は、大体この日に釣れた魚介類が主である。
天気の悪い日には、生真面目な性分の二人は、勉学に勤しむ。暇さえ有れば、この二人はエルキト語のシェラルブク方言や、テヌーラ語の本格的な習得に努めている。
6
其のトラムから南へ半日程、馬で軽く騎行すればドンロ大河に達する。ほぼ河口近くである。
そして、其のドンロ大河をほぼ真南へ横断した処に在る、テヌーラ帝国の首都オデュオスへ、バリス帝国の皇太子ヘスディーテに因る親書が、テヌーラの女帝アヴァーナに届けられたのが、カイとレナが休暇を楽しんでいた、七月の中頃である。
其の親書の冒頭には、返信の期限が本年の十二月の第一週の末までで好い、と始まり、十分に皇帝を初め重臣達と協議した末に、返信して構わないと記載されていた。
アヴァーナは、其の冒頭のヘスディーテの内容に、まるで自分が小馬鹿にされている様で、頭に来たが、其の内容は確かに十分に時間を掛けて、協議すべき内容であった。
「この件について、諸卿らの率直な意見を聞きたい。妾は即断はせず、十分に協議をした末に結論をヘスディーテ殿下へ送ろうと思う」
テヌーラ帝国歴百八十三年七月二十日。オデュオスの皇宮の閣議室で、各閣僚たちはアヴァーナ宛てに届けられた親書を模写された物を熟読していた。
冒頭は返信期限に関して書かれ、内容は対ホスワードの共同戦線についてであった。
先ず、具体的な領土の分割に関して書かれ、メルティアナ州はメルティアナ城を含めて、南部がテヌーラ、北部がバリス、そして其処から南のホスワード最南西の州のレーク州から、東へバハール州、ラニア州、クラドエ州、レラーン州は全てテヌーラが領して好く、其の為の軍事援助をバリスは一切惜しまない、と有った。
注で、クラドエ州の一部は自治領と云う形で、ホスワード人のヴァトラックス教徒の居住区を造る事を、認めて欲しい旨も書かれてある。
「壮大な事ですが、仮に実現したとして、これだと本朝はホスワード全土の六か七分の一程を領する事に為りますな。残りはバリスが領するのか」
「其の仮の話を続けたとして、ホスワードを其の様に滅亡させれば、北のホスワードに付いているエルキト諸部族は、エルキト藩王国の物と為ろう。寧ろ、我々とミクルシュクでホスワードの地のバリス領を北と南から挟んでいる格好と為る」
閣僚たちの話に、女帝が注意を促した。
「仮定の話は其処までだ。書面に有る様に、先ずはこの内容は確定がされるまで、妾らだけの情報とする事を徹底せよ」
閣僚たちは改めて、書面に目を遣る。
内容に「若し、この事を返信前に、ホスワードに対して漏れる事が有れば、貴国との共同戦線の話は打ち切りで、我がバリスは単独で貴国とホスワードに対しての軍事行動。或いはホスワードと同盟しての、対テヌーラの軍事行動に及ぶ物とする」、と有るのだ。
アヴァーナはこの件について、早期に結論を出さずに、徹底的に議論がしたいらしく、自身は勿論、模写をした主席秘書官、そして今此処にいる閣僚たちは、この閣議室から一歩出たら、この内容を口外する事を禁止とした。
無論、書面も持ち帰りは許されず、全て厳重に保管させる心算である。
閣僚たちの話し合いが始まった。
「然し、自国のみで本朝とホスワードを同時相手するとは、大した自信ですな。寧ろそちらの方面に持っていき、あの青白い薄気味の悪い小僧を、懲らしめるのも一興ですが」
「待て、其れだと、エルキト藩王軍が使えない。藩王国はバリスと直接境を接していないからな」
「ホスワードに頼み、藩王軍をシェラルブクを初めとする、親ホスワード圏のエルキト領内の通過の許可を貰えば好かろう」
「其れは、流石にホスワード側は認めぬのではないか?」
「抑々、何故バリスはホスワードと戦端を開きたいのでしょう。彼の国とホスワードは一年毎とは云え、停戦条約を結んでいるのに」
「一つ思い当たる節がある。今年の初め頃に妾宛てにアムリートの妻である皇妃から、とある依頼が来た。其れは本朝で行っている、役人試験の過去数年間の問題が欲しいと云う物だ」
アヴァーナは其れがホスワードの国制改革、つまり女性にも人材を広く徴募する体制を整える一環だと知ったのは、つい最近に為ってからである。
「つまり、ヘスディーテ殿下は、其れに因り、何年も停戦したままだと、自国とホスワードの国力差が開くと危惧している訳ですな」
月日が経てば、バリスはホスワードを打ち破る以前に、単純に国としてあらゆる面で後塵を拝してしまい、最悪の場合、数年後か十数年後かには、ホスワードに因る併呑の憂き目に遭うのではないか、少なくともヘスディーテは、この改革を其の様に解釈しているらしい。
「其れはバリスに関わらず、本朝にも当て嵌まる事かと思われます」
そう発言したのは、典礼尚書(宮内庁長官)のファーラ・アルキノだ。
「現状、ホスワードはかなりの無理をしますが、本朝とバリスとエルキト藩王国の三カ国を、同時に相手出来得る体制を整えつつあります。更にこのまま月日が経てば、其の無理は軽減され、三カ国を同時に問題無く対峙出来る国と為ります」
テヌーラは南のヴィエット王国とジェムーア王国、バリスは西のブホータ王国、エルキトは西のキフヤーク可寒国と、対峙とはいかなくても睨み合いに近い状況である。
強大化したホスワードがこれらの諸国と連携すれば、三カ国は寧ろ一気にホスワードに押される。月日が経てば、バリスのみが脅威に晒されるのでは無い、とファーラは説いた。
実際に、ファーラはホスワードの女性部隊に精強さを其の身で体験していて、屈辱的ながら悲鳴まで発した。先年のドンロ大河でのホスワードとの水戦で、女子騎兵隊に因ってだ。
これで、更に軍内だけでなく、内政面でも多くの女性が登用され、充実した国力を得たら、最早三カ国での包囲自体が、左程脅威には為らない。ホスワードを叩くとすれば、少なくても早期、二年以内にするべきで、期間が経てば経つ程に打倒が難しく為る処か、逆に脅威と為る、ともファーラは力説した。
其の後もテヌーラの皇帝と重臣たちは、喧々囂々たる議論を戦わせたが、結論をアヴァーナは急がせなかった。
「来月から月に二回、この議題に関しての特別会合を行う。十一月の二回目の会合で最終的な判断を出し、ヘスディーテ殿下に返信する予定だ。繰り返すが、この件は卿らの副官や秘書などの身近な者に相談する事も禁ずる。この場に居る者だけが共有する議題で、他の通常時の会議でも、この件に関して発言する事も禁ずる」
そして、アヴァーナの主席秘書官は、閣僚の前に置かれた複写された書面を全て回収して、アヴァーナの執務室に向かい、鍵付きの書棚へ厳重に保管した。
テヌーラ帝国歴百八十三年の十一月の最後の会合で出される結論が、如何であれ、来年より大陸は戦乱の時代へ突入する事を、閣議室から退出して行くアヴァーナを初め、テヌーラの首脳陣は覚悟を持った。
第二十六章 野望迷宮 了
なんとなく、最終地点が、ほんのりと遠くに点のように見えてきました。
ですが、更新間隔があるので、最終話の投稿自体は、まだまだ先になりますね。
【読んで下さった方へ】
・レビュー、ブクマされると大変うれしいです。お星さまは一つでも、ないよりかはうれしいです(もちろん「いいね」も)。
・感想もどしどしお願いします(なるべく返信するよう努力はします)。
・誤字脱字や表現のおかしなところの指摘も歓迎です。
・下のリンクには今まで書いたものをシリーズとしてまとめていますので、お時間がある方はご一読よろしくお願いいたします。