第二十五章 戦乱への胎動と国政改革
前回で「こうして二人は幸せになりました。おしまい」、として、終わらせちゃってもよかったんですが、
まだまだお話は続くので、改めてよろしくお願いします。
第二十五章 戦乱への胎動と国政改革
1
テヌーラ帝国の首都オデュオスの皇宮内の皇帝執務室で、二人の女性が対話をしていた。
一方は豪奢な机と椅子に座し、一方は其の机の前に立って報告書を手にしている。
座しているのは、テヌーラ帝国第十代皇帝アヴァーナ・テヌーラで、机の前に居るのは、度支尚書(財務大臣)のイビーサ・ラザンである。
アヴァーナ・テヌーラはこの年に四十一歳に為る。美麗だが硬質な顔の造りは益々鋭く、特に長い睫に覆われた大きな瞳は、周囲が暗灰色で瞳孔に近づくにつれ灰色がかった明るい褐色をしている。彼女が帝位に就いて、十五年以上。俄かに近づき難い雰囲気を発しているのは、長年大国の帝王として君臨しているからか。
頭には白磁の肌に対照的な漆黒の髪が束ねられいて、其の上に金銀で飾られた白の天鵞絨の帽子を被っている。
基本、執務中のアヴァーナの姿は上が白、下がやや濃い蒼の褲を身に付け、更にやや濃い蒼の胴着を上に着こみ、腰には黄金色の帯が輝き、長靴は真白だ。
身の丈は、女性としては比較的高く、百と七十寸(百七十センチメートル)程、既に夫である皇婿殿下との間に、十六歳に為る男子と十一歳に為る女子の、二人の皇子を儲けているが、二人の母と思えぬ程、家庭的な感じの無い女性である。
テヌーラ帝国は男女に関係なく、長子が後継として優先されるので、十一代皇帝は男帝と為る予定だ。
「陛下。カンホンのホスワードで主に商売を行う、商船団体から苦情が絶えません。ホスワードが直にカンホンへ来て、南方の商品を買い付けてしまうので、彼らがホスワードに行っても、殆ど売れないそうです」
先年のホスワードとの戦いで負けたテヌーラは、和約の賠償金をかなり低く抑えて貰った。其の代わりにテヌーラの一番の南部の商業都市カンホンで、ホスワードが商館を構え、南方の国々との交易を直に行う事を許した。其の為、今までカンホンからホスワードへ南方の品々を売る商船隊が困窮しているのだ。
中には商船団を解体して、ホスワードの商船に積み荷を降ろしたり、運んだりする運搬業者に鞍替えした団体も有るらしい。
「ホスワードが主に買い付けている物は、香辛料や野菜や果物や砂糖、其れとかなりの大量の護謨だそうだが、何故彼らはこんなに護謨を買い付けている?」
女帝の疑問にラザン度支尚書は答えられなかった。彼女もこの年に四十一歳と為る若き閣僚である。
消し護謨を大量生産して、教育体制をより充実する心算なのか、其の位しか彼女の頭の中には浮かんで来なかった。
「今まで、護謨は左程交易品として、扱っていなかったのだから、護謨に関してはホスワード側が独占的に扱う事を認め、其の代わりに、他の品々は本朝にも一部交易を許す事を認めさせる様に、ホスワードの通使館に言って於こう」
イビーサ・ラザン度支尚書が承知して下がると、アヴァーナは思案を巡らす。
この護謨の交易が活発に為ったのは、昨年ホスワードが南方の国々に使節団を出してからだ。
気に為る点は、テヌーラと南方で国境を接している、ヴィエット王国とジェムーア王国に、其々三十頭程の馬を、ホスワード側が献上した事だ。
まさか其の三十頭で、即座に騎兵隊が組織されるとは思われないが、この報を聞いた時の、ファーラ・アルキノ典礼尚書(宮内庁長官)の言葉を、アヴァーナは思い出していた。
「本朝でも数千人は居ます。ヴィエットにしろジェムーアにしろ、数十人の馬術の達人は居る筈です。これは早馬として、両国の相互の連絡を素早く行う為の物では無いでしょうか?」
ファーラはこの年でアヴァーナの一つ下の四十歳。そして、彼女の実兄はアヴァーナの夫である。
ホスワードは、ヴィエットまで直接に中途停泊無しで赴ける、連絡用の高速船を有している。
如何やら南方の国境付近へ、ある程度の兵力を駐屯させる必要性が有りそうだ。
テヌーラ帝国歴百八十三年の二月の初旬。
この日のオデュオスは暗雲が立ち込め、霙が降り、外に居る人々の吐く息は白い。この地ではやや珍しい寒さに包まれていた。
そんな中、ホスワードの通使館から、アヴァーナ宛ての親書が届いた。
驚いたのは親書の出し主で、其れはホスワード帝国の皇妃カーテリーナ・ホスワードだった。
其の内容は、極めて奇妙だったが、特に断る理由も無かったので、アヴァーナは承諾した。
其のテヌーラ帝国歴を採用している、エルキト藩王国は、一戦に望もうとしていた。
テヌーラ帝国歴百八十三年二月の半ば、西側で国境を接する、キフヤーク可寒国が七万の騎兵で以て、エルキト藩王国に侵攻をした。
以前より、エルキトとキフヤークはしばしば干戈を交えていたが、ここ数年はキフヤークは南のファルート帝国との紛争、エルキトは南のホスワード帝国との紛争が主だったが、共に両可寒国とも南の対峙している帝国とは、小康状態と為ったので、自然と緊張状態に入り、小競り合いが発生しだしていた。
エルキト藩王クルト・ミクルシュクは即座に迎撃の兵を組織して、西方へ向かった。
曾てバタル帝時代のエルキトは、キフヤークにしばしば侵略し、夥しい家畜や馬を掠奪していた。
キフヤークとしては、其の時の復讐である。現在のエルキト藩王国は、バタル帝時代の領域より、かなり小さい。
また、総帥である可寒のクルトが、南のテヌーラの役人出身だと謂うのも、この侵攻の一因だろう。
碌な騎兵隊も存在しない、南方の温暖な所で育った、文弱の指導者、と彼らは高を括っていた。
2
空は厚い灰色の雲で覆われ、風は強くないが、騎行して進むと凄まじい冷気を全身に浴びる。
草原である大地は雪に覆われ、南に見える山脈も殆ど白い。遠く北に見える森林は常緑の針葉樹林地帯だが、やはり白く覆われている。
クルト・ミクルシュク率いる六万五千も、当然全軍騎兵である。クルトの迎撃軍は、エルキト藩王国の最西端に達した。
全軍、厚手の黄土色の軍装の上に鉄鎧を身に付け、更に其の上と頭には獣皮の帽子と戦包を身に付けている。
既に敵のキフヤークの所在は偵騎に因り分かっている。
クルトはこの年に三十歳に為る。身の丈は百と九十五寸(百九十五センチメートル)を超え、体格は筋骨逞しい。明るい褐色の頭髪は、側頭部を剃り、後頭部を伸ばし、其れを編んで垂らしている。整った顔立ちは、他者を圧倒する険しさに満ち、細長い鼻の両目は落ち窪み、其処から発せられる鋭い眼光の瞳は、黄みがかった薄茶色である。
後方に五千の兵が輜重車を馬にて曳き、控えている。クルトは輜重車を前面に並べて、中に入った弩兵が敵騎兵隊を猛射撃する作戦は取らず、正面から挑む事を決した。
両軍は広い雪原で、対峙し、双方鬨の声を挙げると、馬が雪を跳ね上げながら、突進して、近接すると矢を放ち合った。
どちらも速射に優れた短弓だが、威力と飛距離を伸ばす為に、弓は木だけでは無く、動物の骨なども合わせた複合弓である。
双方の何十万本の矢が、灰色の空を覆い、共に致命的な箇所に射られた人馬は崩れ落ちる。だが、其のまま両軍は騎兵を進め突撃を敢行した。
キフヤークの接近戦用の武器は、先端に鉄製の片刃の斧が付いた、長さ百二十寸(百二十センチメートル)の木製の武器で、柄である木全体と先端の斧が嵌め込まれた処が、革で覆われ強固されている。
エルキト藩王国の接近戦用の武器は、鉄製の槍で、此方も長さは百二十寸だ。
どちらも手綱を操りながら、片手で振り回したり、両脚で馬を操りながら、両手で確実に振るう事が出来る。
当然、両国の兵たちは腰には帯剣をしているが、これは主武器を失った時の副武器だ。
クルト・ミクルシュクの武器は二尺(二メートル)を超える鉄製の三叉槍だ。この若き君主は、陣頭で馬を両脚で操り、この長大な槍で次々にキフヤークの振り下ろされる斧を弾き飛ばし、瞬時に一撃を相手に見舞う。
この混戦状態では致命傷を与えずとも、落馬させる程度の傷を負わせれば、十分に相手戦力は削れる。
クルトの槍捌きは、この効果的な攻撃で百人以上は、接近戦の開始から、半刻(三十分)とせずに戦闘不能にさせた。
キフヤーク側も総帥は可寒だが、彼は中軍にある牙門(大本営)で指揮を執っている。
「あれがテヌーラの狗か。奴の首級を挙げた者は、望みの褒美を幾らでも与えようぞ!」
キフヤークの可寒は将兵に発破を掛けた。キフヤーク可寒は五十歳前後と云った処だ。曾ての苦汁を舐めさせられたバタル帝とは同世代に当たる。
クルトは自身に敵兵が自身に集中して来るのを感じた。即座に近辺に居るテヌーラ人の近衛隊の数人を連絡兵に使った。
クルト自身が率いる軍勢に敵兵が集中しているので、別軍勢を率いるエルキト藩王軍の将たちは、クルトの近衛隊の連絡で、一気にキフヤークの牙門に直撃をした。
キフヤークの牙門は大混乱に陥り、キフヤークの連絡兵のある者は「部隊を引き牙門を守れ」、ある者は「構わず、敵の総帥を討て」、ある者は「一旦、全軍反転して、矢を浴びせながら後退しろ」、と支離滅裂な指令を各部隊に発していた。
これらは雪原で倒れているキフヤークの軍装を取り上げ、エルキトの西部付近に住むキフヤークの言葉に長じた者が連絡兵に変装して、キフヤーク軍中で吹聴して回ったからだ。
クルトは事前に誤認で彼らが討たれない様に、やや蒼い首巻を用意して、この変装兵の首に身に付ける事を指示していた。
キフヤーク軍は完全に混乱して、クルトは全軍に総攻撃の命を発した。
キフヤークの牙門は完全に機能停止に陥り、キフヤーク可寒は周囲に守られながら逃げて行く。
エルキト藩王軍の追撃は鋭く、執拗で、次々にキフヤークの将兵は討たれた。
全軍が騎兵と云うのは、遠くまで逃げ果せれば、立て直しが可能なので、徹底的な追撃をクルトは命じた。
雪原は紅く染まり、人馬が数知れない程、倒れ込んでいる。九割がたはキフヤーク兵だ。
漸く、クルトは追撃を止め、兵を纏め、最初の対峙位置まで戻った。
其処で勝鬨を挙げると、クルトは次々に指令を出す。生死を問わず、倒れている味方は、後方で待機している輜重車に乗せる事、敵の遺棄した使用可能な馬や、剣を初めとする金属類を奪う事、軽傷で倒れ込んでいるキフヤーク兵は縛り、治癒不可能なキフヤーク兵は其の場で苦痛なく絶息させる事。こうして大いに戦利品と捕虜を得て、エルキト藩王軍は戦場から去って行った。
テヌーラ帝国歴百八十三年は、バリス帝国歴百四十九年に為る。
バリス帝国は北部にラスペチア王国を初めとする、緑地都市国家群が在り、東部はホスワード帝国が在り、南部にテヌーラ帝国が在る。
そして、西部は高原であり、諸部族が割拠していたが、数年前にブホータ王国がほぼ高原を統一した。
其の領域もバリス帝国と遜色なく、総人口も千二百万程だ。
以前は、テヌーラ帝国もこの高原に対して、境を接していて、バリスとテヌーラは時にこれら諸部族に物品を与え、互いに相手国を侵犯させていた。
処が、三年前のバリスとテヌーラの和約で、バリスが全面的に境を接すると、高原の統一は一気に加速された。
ブホータ王国を建国した中核部族は、高原の諸部族で、最も上手く立ち回った部族だろう。
彼らは何十年も前から、バリスとテヌーラから同時に貢物を貰いながら、両国に対する侵犯は形程度にしかせず、ひたすら自部族の増強に努め、遂に高原の統一に成功したのだ。
但し、ブホータ王国は深刻な条件を突き付けられた。
臣従させた部族の中には、「高原統一の暁には、しばしば我らを傭兵の様に扱ったバリスに懲罰を加えん」、と言っていたので、ブホータの中枢部としては、バリスに対する軍事行動を起こし、諸部族の繋ぎ止めをしなくては為らない。
そんな中、昨年の夏にホスワードから使節団が遣って来た。
彼らが言うには、「バリスとは一年毎の不戦条約を結んでいるが、若し其れが破棄された場合、即座にブホータと軍事同盟を結び、バリスを東西から挟撃せん」、との内容だった。
勿論、これは秘密裏の会談に因る物で、表向きは統一されたブホータとホスワードの修好と、北の緑地都市国家群を通しての通商を大いに行いたい、と云うのが、両国が大いに喧伝した内容だった。
独力で自分たちはバリス相手に何処まで出来るのか。其れを図る為にブホータの中枢部は王族を総司令官とする、歩騎三万五千で以て、バリス帝国歴百四十九年二月初旬に、バリス国境を侵犯した。
中枢部からは、深追いは避け、大軍が迎撃に来たら、即座に退却する事が、強く伝えられた侵攻だった。
これは数年間に府兵制を布くバリス軍の労役を遅滞させようと、しばしばホスワード帝国の皇帝アムリートが部下の将軍に命じていた事に似ている。
先の使節団との会談でも、「バリスは頻繁な小競り合いは、労役に支障を来たすので嫌う」、との情報も得ていたからだ。
バリス帝国の国境の兵は最小限に留めてられている。
ブホータ軍はバリスの首都ヒトリールへ向かう様に進撃して行った。
但し、普段の労役でバリス国内の道路は整備され、即座にヒトリールにブホータ軍が侵攻した事が、伝えられる。
五万の迎撃軍が組織され、迎え撃ちに進発する。
結果、碌な戦闘も無く、ブホータ軍は撤退して行き、バリス軍の五万は一時的な休暇を得て、再び労役の再配置と為る。
二月初旬から、僅か一週間にも満たない小競り合いだった。
3
然し、バリス側では、この事態は深刻な物として受け止められた。
ホスワードの来寇は、テヌーラとの同盟で止める事が出来たが、このブホータが今後しばしば来寇すると為ると、又も労役の遅滞と云う問題を抱え込む事に為る。
ブホータ軍を一蹴後、程無くして、皇宮の朝議の間でバリス帝国第七代皇帝ランティスを中心に、今後の対策が話し合われた。
「ホスワードは、昨年の夏にブホータに使節団を出したが、この来寇はホスワードに唆された物では無いのか?」
「其れも有るだろうが、長年に亘って本朝は、西方に統一王国が出来ない様に、部族間同士の争いを増長させていた。彼らからすれば、自分たちは一枚岩だ、と主張する侵犯とも取れる」
「ブホータに大軍にて一戦して、我らバリスの強さを見せ付けようぞ!」
「いや、大軍を西へ動かすのは拙い。寧ろホスワードとの停戦条約の見直しが必要なのでは?」
此処で、一番の北面に座した皇帝から見て、直ぐ右側の席に座した若者が口を開く。皇帝を初め出席した文武の高官たちは、この若者に注視する。因みに直ぐ左側の席は帝国宰相が座している。
皇太子のヘスディーテだ。彼はこの年に二十四歳に為る。辛うじての長身と、虚弱では無いにしろ、線が細い華奢な体付き。其の体を包むのは、上下共に各所に銀の装飾が配された濃い灰色の衣服で、上の左胸には銀の双頭の鷲が配されている。
そして、帯と長靴は漆黒であり、上半身に羽織った白の肩掛けにも銀の装飾が施されている。灰色の瞳をした切れ長の目が印象的な、白皙の秀麗な顔立ちをしていて、其れに対を成す様な黒髪は、綺麗に切り揃えられた直毛である。この場では身に付けていないが、手袋は黒、帽子はやはり銀の装飾をされた白である。
「何れにしても二正面対峙は好ましくない。だがブホータが我らに攻撃的なのは、先に出た様に、長らく彼らを争わせ、利用していたからだ。だが、これは逆に今のブホータに、『お前たちは、ホスワードに好い様に利用されているだけだぞ』、と言い包める事が出来る」
「其の様な事が出来ましょうか、殿下」
「未だ統一直後で、中核部族の王族に対して、反発とまでは行かなくても、絶対的な忠誠心が無い部族も居よう。彼らを以て唆し、足並みを揃えた行動はある程度制限出来る。また、もう一つ出た一戦に因る一撃も成功すれば、年に数度の来寇が、数年に一回程度の来寇に抑えられる筈だ」
こうしてバリスの朝議の席では、ブホータの中核部族に左程忠誠心の無い部族の調略。三月中に六万程の征服では無く、敵戦力の撃滅軍の遠征が決まった。
だが、双方共成功しても、結局はある程度西方の守りに、兵を割かなければ為らない。
「ホスワードはエルキトの西にも、テヌーラの南にも、使節団を送っていたな。最悪の場合として、我ら三カ国を同時に相手にする覚悟を決めた様だな」
ヘスディーテが心中にそう思っていた、二月の中頃、エルキト藩王国とキフヤーク可寒国の大規模な会戦の報が入って来た。
次々に入ってくる詳細で、如何やらエルキト藩王軍の大勝に終わった様だが、キフヤークは致命的な痛手を被った訳で無く、エルキトは今後、西方に自分たちと同様にかなりの注意を向けなければ為らない、との事である。
ブホータ王国は半農半牧で、バリスに近い東方ほど、住民は定住して、市を作り、中には城塞化している軍事基地も在る。
三月に入り、バリス軍は其の軍事基地の一つを攻撃目標と定め、遠征軍の編成をする。
火砲も在り、五十門の口径が十寸(十センチメートル)の鉛玉を発射する砲と、着弾時に爆発をする榴弾の砲を、やはり五十門用意して、進撃した。
ブホータの城塞は五千の兵が詰めているだけで、当然攻囲される前に狼煙と早馬で首都に連絡をしたが、六万で攻囲したバリス軍は、火砲を用い、城壁の大半を破壊してしまった。
ブホータ軍の援軍が三万程と見たバリス軍は攻囲の兵を一万として、五万が迎撃に出る。
ブホータ軍の援軍の三万を一蹴したバリス軍は、城塞になだれ込み、占拠に成功する。
この一連の戦いでバリス軍は二千程のブホータ兵を捕虜として得て、自国へ引き返した。
城塞は砲に因って半壊しているので、占領せず、其のまま引き下がった。
この戦いも一週間程の短い期間であった。
戦闘終結から、バリスはラスペチア王国を通して、ブホータ王国の中枢部に使者を送りたい旨を告げ、ブホータ王国は其れを受け入れた。
バリス帝国がブホータ王国に告げた内容は以下の通りである。
「若し、今後本朝の国境を侵犯した場合は、今回は軍事基地の破壊だけにしたが、次からは市を占拠して、次々と貴国の領土を侵食せん」
そして、本年度中に其れが守られれば、捕虜の二千は来年に全員帰国させる、とバリス側は伝えた。
捕虜は厳重な監視下の元、バリス国内で尤も力仕事が必要とされる箇所で、労役に当たらされた。
処が、数日後、約五十名程のブホータの捕虜の帰還が許された。
捕虜の厳重な取り調べで、この五十名はブホータの中核部族に最後まで抵抗していた部族の出身と分かり、彼らに自部族に帰還後、族長に「今のブホータの体制はホスワードに操られているだけだぞ」、と確実に伝える事を条件に、解放が許されたのだ。
同時期、エルキト藩王国でもキフヤークの将兵の取り調べが行われていた。
つまり、先の侵攻はホスワードに唆された物であるか如何かだ。
捕虜たちは可寒の身近にいる者たちでは無かったので、其の様な上層部の決定事項は知らなかったが、但し、キフヤーク人の中には、先のバタル帝時代に家畜を奪われた者が夥しいので、エルキトに恨みを持つ者が多い。其れ故、我らも侵攻に進んで参加した、との供述位しか得られなかった。
「俺はバタルとは違う。国を豊かにするのは、掠奪では無く、産業の充実を重視する。だが、我が領域へ侵攻するのなら、奪える物は幾らでも奪うと、貴様らの主君に強く伝えて於け。また次からは捕虜は全て労役に就かせ、身代金が届かない限り、永遠に本朝で重労働に従事する事に為る、と思っても貰おう」
そうクルト・ミクルシュクはキフヤーク将兵の捕虜の代表に言って、捕虜を全て解放させた。
こうして、三月中にバリス帝国とエルキト藩王国は西方に接する国への処理を終えた。
だが、共に付き付けられた事実として、今後かなりの注意を西方に向けなければ為らない事だった。
三月の半ば頃。テヌーラ帝国の首都オデュオスの皇宮内の皇帝執務室。
この日も二人の女性が話し合っていたが、机の前に立っているのは典礼尚書のファーラ・アルキノで、当然座している相手は女帝アヴァーナだ。ファーラの兄はアヴァーナの皇婿である。
「昨年の夏にホスワードはキフヤークとブホータに使節団を派遣しました。そして、昨年の年末に掛けて本朝の南方に接するヴィエットとジェムーアに使節団を送っています。数カ月後、両国の本朝に対する攻撃の可能性が高い、と臣は愚考致します」
「有るかもしれぬし、無いかもしれぬ。国境には既に兵を送ってある故、即座の対応は出来よう」
「このホスワードの挑発的な行為。何らかの懲罰は必要かと思いますが」
「具体的に如何する?」
「バリスと連絡を取り、ホスワードとの和約を破らせ、メルティアナ城を共同で攻略するのは如何でしょう。更にエルキト藩王国にも同時にホスワードの北方を扼して貰います」
「出来ない事も無いが、三カ国とも大軍は送れず、期間も短い物と為ろう」
「メルティアナ城をバリスが領有する事を此方が認める、と約束すれば、彼らも大軍を送って来ると思われます。ブホータへの備えは彼らの兵数からすれば、五万も在れば十分な筈です」
「例えば、其の場合、バリスが十五万、妾たちが五万の計二十万なら、メルティアナ城の攻略は容易だろう。だが、そうなった場合、国境線が歪に為るな」
メルティアナ城が在るメルティアナ州は、ホスワードの南西部に在り、其の直ぐ南のレーク州はホスワード最南西の州だ。
処が、其の西はテヌーラ領のカートハージ州で、これだと三国とも突出部や孤立部が出来てしまい、上手く立ち回らないといけない。
ホスワードは、いやアムリート帝はメルティアナ城に対する、バリス・テヌーラの共同戦線が薄いと見ている様だ。何故なら未だ駐屯している兵は一万。更に司令官を南方の使節団長として、長期間外している。つまり、この利害をしっかり処理せず、短絡的な冒険行為に走れば、其の場でバリスとテヌーラのメルティアナ州やカートハージ州の領有に関する争いに為る、と見ているからだろう。
「只、妾らが共同戦線を張らない、とアムリートが判断している理由は、其れだけでは無いな。今のは政略的な懸念点だが、他に戦闘などの困難さで判断しているのか…」
アヴァーナは流石に自分を理解している。如何足掻いてもあの男と戦場で対峙して、打倒するのは困難で有る事を。
この日のオデュオスはまるで一カ月以上は季節が先に飛んだ様に、何とも暖かな気温であった。
4
ホスワード帝国歴百五十七年一月八日の早朝。帝都ウェザールから、数人の軍関係者が二手に分かれて、騎行して行く。
一方はウェザールより、南西に在るメルティアナ城司令官であるウラド・ガルガミシュ将軍の一団で、もう一方は北西に在るラテノグ州の建設中の城塞司令官のラース・ブローメルト将軍だ。
ラースは更にこの建設中の城塞の南に在る、メノスター州のバルカーン城の司令官職も兼任している。
つい二日前まで、両将軍はカイ・ウブチュブクなる高級士官の結婚式の為に、帝都に留まっていた。
このカイ・ウブチュブクはウラドの下で任務に就く事が多く、また新婦はラースの実妹であるマグタレーナなので、両将軍は列席していたのだ。
この日のウェザールは、珍しく晴れ渡っているが、北風は骨身に染み入るほど強く冷たい。そんな中、両将軍と其の側近たちは、其々の任地へと発った。
翌日にはカイの家族がムヒル州へ帰る日である。カイの妹夫婦のタナス・レーマックとメイユ・レーマックは共に学院の教師で、冬休みは年末年始の二週間だけなので、もう学院は始まっている。
特別に少し長く休暇を取っていたのだ。
また、カイのもう一人の妹のセツカも学院に通っていて、末の弟のグライは故郷のカリーフ村で学校通いだ。
此方も事前に少し長く休みを取る事を連絡してある。
旅立つのは、母のマイエ、マイエの両親のミセーム夫妻、セツカ、グライ、そしてウブチュブク家で住み込みで働いてくれているモルティ夫妻、レーマック家からはタナスとメイユと彼らの娘のソルクタニだ。
ウェザールの正門まで見送りに来たのは、カイとレナことマグタレーナの夫婦、カイの盟友である高級士官ヴェルフ・ヘルキオス、皇帝副官であるカイの弟のハイケ・ウブチュブク、カイとヴェルフの従卒をしているシュキンとシュシンのウブチュブク家の双子の兄弟、カイの部隊である女子部隊副指揮官オッドルーン・ヘレナト、参軍のレムン・ディリブラント、そしてブローメルト邸で養育されいるツアラだ。
「レナ様。息子の事を宜しくお願い致します。長く一緒に居てお分かりだと思いますが、この子は優しく親切です。其れが強すぎる故、時に他者とぶつかり、自身で多くの事を抱え込もうとします。如何かカイを支えて下さい」
「義母様、其れは好く分かっています。私もカイも欠点だらけです。お互いに補え合える様に致しますので、其の点はご安心を。また、私たちは二人きりではありません。この様な素晴らしい仲間たちが居ます。皆お互いが支え合うのが、私達『大海の騎兵隊』の部隊の理念です」
レナとマイエだけでなく、其々が別れの挨拶をしている。カイがウェザールの冷涼な気候を吹き飛ばす様な、太陽の様に輝く明るい茶色の瞳を輝かせて、満面の笑みで言った。
「さあ、こんな寒い中で、何時までも話し込んでいると、風邪を引くぞ。永遠の別れじゃないんだ。お互い笑顔で別れよう!」
こうしてカイの家族たちはムヒル州へと出発した。
「ねぇ、カイ。明日のツアラの学院の入学説明会、一緒に出てくれる?私が保護者代表で出るんだけど、夫も居た方が好いでしょ」
「構わないが、軍装でも好いのか。其れとも式服の方が好いのか?」
「保護者の職業が分かり易いから、軍装で構わないよ。只二人とも軍装だと、周囲に圧迫を掛かるから、私は式服を着る事にする」
カイは内心笑ってしまった。レナの式服とは男性用のを自分の身体に合わせた物である。軍装と大して違わないではないか、と思ったのだ。
この年に十三歳に為るツアラは明日より、学院に入学だ。初日は教師陣因る各種説明会と為るので、保護者が同伴する。
因みにツアラが通う学院は、やはりこの年に十三歳に為るオリュン大公も通うので、恐らくオリュンの母のタミーラ妃と、警護として数人の近衛隊も現れるだろう。
「では、俺たちは明日、ボーボルム城に即座に出発だ。ツアラの学院の説明会を受けたら、お前さんたちはパールリ州のブローメルト家の別邸で二週間程過ごし、ボーボルム城に来るのだな」
ヴェルフが確認する様に、カイとレナに言った。二人は新婚の旅行と休暇を兼ねて、ブローメルト家の荘園で過ごす事が決まっている。
カイの部隊である、「大海の騎兵隊」は現在幹部以外は、全てボーボルム城に赴任中だ。
駐在予定は六月末までで、当地で調練と哨戒が主と為る。
「すまんな、ヴェルフ。部隊の事は一時的にお前に任せる」
「別に一カ月間だって好いんだぜ。兎に角、ゆっくり楽しく過ごしとけ」
こうして、カイ、ヴェルフ、オッドルーン、ハイケ、シュキンとシュシンは帝都内のヘルキオス邸へ、レナとツアラはブローメルト邸へ、レムンは実家のニャセル亭へ各自戻った。
ハイケはヘルキオス邸に戻り次第、荷物を纏めて、彼の本来のウェザールでの居住場所である、皇宮に戻る。
「そういや、カイとレナ殿は、今後ウェザールでは何処に住むんだ?まさかあの二人の事だから、普通に何も考えずに、俺の家にカイが、ブローメルト邸にレナ殿が、と別々に住みそうだな…」
ヴェルフ・ヘルキオスは自邸への歩みの途上、そんな事を考えていた。
5
ハイケ・ウブチュブクが皇宮に戻った頃、近衛隊の一人がハイケを見つけ、声を掛けて来た。
「副官殿。実は今、宰相閣下が陛下の執務室の隣の部屋で、話があると滞在中です。陛下と宰相閣下が、若し副官殿が戻られたら、其の部屋に来て欲しいとの事です」
ハイケは荷物を宮殿の五階の自室に置くと、即座に四階の談話室へ入った。
皇帝アムリートと宰相デヤン・イェーラルクリチフが座している。
ハイケは緊張した。まさか宰相から兄の結婚式で皆が大騒ぎした事を、陛下と自分が揃って苦言と云う名の説教でも受けるのではないか、と思ったのだ。
この年で七十歳に為る、イェーラルクリチフは相手が誰であれ、直言する事を憚らない人物として知られる。
アムリートがハイケに座する様に進める。
ホスワード帝国第八代皇帝アムリート・ホスワードは、この年に三十二歳に為る。白を基調した上下の執務服は所々緑で飾られ、腰の帯と長靴は黒褐色である。服ごしでも分かる細身ながら、骨太な逞しい体付きは手足が長く、身の丈も百と九十五寸(百九十五センチメートル)近くの長身だ。
やや癖のある金褐色の髪は長く、其の下の顔付きは貴公子然とした端正な顔立ちだが、宮中の優男風では無く、戦場の美丈夫と云う風格に溢れている。特に、其の双眸はホスワードの色である緑がかった薄い茶色をしている。
ハイケは十歳年上の主君の命に従い、席に着いた。
軽い咳払いをして、イェーラルクリチフが口を開いた。落ち着いたと云うには、やや冷たさを感じさせる声だが、彼は若き日からこの様な話し方をしていたらしい。
「カイ・ウブチュブクとマグタレーナ・ウブチュブクの婚礼が恙無く終わったと聞いて、臣も安堵しております。そして、明日はオリュン大公殿下の学院の入学手続きでしたな。同世代の様々な子弟との交流。必ずや殿下にとって良き御経験と為りましょう」
そう前置きして、宰相は核心を言い放った。
「臣は以前から思っていたのですが、マグタレーナ殿を初め、女子部隊が軍中に在るのなら、役所の中枢にも広く女性にも門戸を開くべきだ、と愚考致します」
ハイケは驚いた顔をした。この宰相は女性にも自分の様に学院を出たら、役人試験や上級の役人試験、更には大学寮にも受験の対象者として、合格すれば広く各部署に採用すべきでは、と問題提起しているのだ。
成程、女性の兵士や指揮官が居るのなら、女性の市長や知事、そして閣僚が居ても不思議では無い。
「宰相。良く気付いてくれた。これは今、余が行っている民力休養の考えに非常に合致している。だが、反対者も出て来るだろうし、早急には決めず、今後の朝議の場で少しずつ各高官や貴族たちを説得しよう。具体的にはテヌーラには閣僚に女性が居るな。彼の国の制度を丸ごと真似する必要は無いが、大いに参考とは為ろう」
ホスワードでは役所で女性も働いている。但し、正規の役人では無く、学院で簿記などの資格を所得した女性が、職員として採用されているだけだ。
ハイケはムヒル市で役人として働いていたが、確かにそう云った女性職員が数人居た。
「ハイケよ。卿は大学寮を出たが、あそこは寄宿する処だろう。女性と男性で生活する場所を分けるのには、其れなり工事と資金は掛かるか?」
「いいえ、陛下。最小限の工事で十分に分けられるかと」
アムリートがハイケにそう問うたのは、ハイケが二年程前まで大学寮に通っていたからだ。
イェーラルクリチフは以前よりかなり具体的な草案と、制度の設定案を個人的に作成していたらしく、この日に初めて皇帝に上奏したのだ。
但し、彼も役人試験を受け大学寮も出ているが、これに関しては五十年も前の事なので、流石の明晰な彼でも記憶の薄らぎの為、具体案が作成出来なかった。其処で、同じ経歴を持つハイケに役人試験や大学寮試験について、補助をして欲しいとの事である。
「陛下。宰相閣下の案は臣も全面的に支持します。臣の及ぶ限りの処で、閣下のお手伝いを致したいのですが、宜しいでしょうか」
「勿論だ。では頼んだぞ、ハイケ。場合に因っては宰相府にずっと居ても構わんぞ」
こうして、ホスワード帝国の国制改革は、この宮殿の皇帝執務室の隣の談話室で始まった。
後年、軍に於ける女子部隊創設以上の偉大な改革だと、アムリート・ホスワードが大陸の歴史上随一の名君と謳われる、これが其の第一歩であった。
話し合いは、何時の間にか軍事に及んでいた。アムリートは先ずはやはり戦場での勇士なのだ。
「テヌーラの話が出たが、テヌーラとバリスとの共同軍に因るメルティアナ城の攻撃は低いだろう。あっても左程の兵をバリスは送らぬな」
「其れはバリスとテヌーラが事前に、どの様に本朝の奪い取った領土を国境としなければ、と争いの種と為るからですか」
「そうだ。だが其れ以外にも、単純に戦闘自体がバリスにとって行い難い」
宰相の言にアムリートは答える。
バリスは火砲を擁している。だが、ホスワード兵とテヌーラ兵が乱戦中に、砲を打ち込むだろうか。同盟して共同作戦をする場合、注意して砲を運用しなければ、其の場で同盟は解体だ。
「砲を大規模に使用して来るのは、単独でホスワード領土を侵攻する時だ。ラテノグ州の現在建設中の城塞や、バルカーン城などに対してだな」
火砲の対策として、護謨に因る水弾と、其れを飛ばす投石機為らぬ投水機が、練兵場内にある造兵廠で大量生産中である。
また、其れとは逆に、先年のバリス軍との戦いから残された、榴弾の残骸を分析して、爆発物の投擲兵器も作成中である。
一月十日。ツアラの学院の付添いを昨日無事に終えた、カイとレナは二騎で東のパールリ州のブローメルト家の荘園を目指した。
両者共に軍装で、腰には剣を佩き、弓矢まで持っている。何とも物々しいが、カイはこの様な移動時には弓矢を携帯する事にしている。
曾て、パルヒーズ・ハートラウプなる国事犯を追っていたが、弓矢を携帯していなかった為、逃がしてしまった。其れ以来、万が一と云う事で、弓矢を携帯している。
これはカイが高級士官だからこそ許される行為なのだが、彼はパルヒーズに関しては自身の特権を躊躇無く使用する傾向がある。
途上、軍施設が無かったので、二人はある村の宿に泊まる事にした。
カイが宿屋で、普通に二部屋を取ろうするのを見たレナは呆れて言う。
「別に二つの床が在れば、一部屋で好いでしょう。他の泊まる人にも迷惑じゃない」
「そうか。ついうっかり普段の癖で二部屋取ろうとしてしまった。そうだ、一部屋で十分だ」
こうして十二日にはパールリ州に入り、程無くしてブローメルト家の荘園に二人は入った。
空は灰色に覆われいるが、微かに太陽の光が感じられる。海が見え、潮風は冷たい。降雪があったのか所々雪が掻き集められ、積まれている。
家の造りも、全体的な村の雰囲気も、ヴェルフの故郷のトラムと異なり、のどかな村だ。
住民の大半は漁業では無く、農作業に就いている。海が見えるが、村自体は高い崖上に在るので、海岸へ行くには、五十尺以上はある削られ、木製の手摺りを付けられた階段を下りて行かなければ為らない。
ブローメルト邸はそんな崖上の村で点在する農家の中に、自然と溶け込む様に在った。
6
ブローメルト邸は木造の三階建てで、其の規模も部屋の数なども、カイのトラム村の別邸より、僅かに広く大きい位である。
厩舎と納屋も在るので、馬を繋ぎ、武器は納屋に納め、二人は正面玄関から邸宅に入った。
レナの母親のマリーカの両親が居住していて、何人かの使用人も居るので、無人の邸宅では無い。
そして、使用人たちが、レナとカイに挨拶をする。
「レナ様。お久しゅう御座います。レナ様がご結婚為さるとは驚きです。此方が御主人ですね。話には聞いていましたが、本当に天にも届きそうな大きな方ですのね」
「初めまして、カイ・ウブチュブクと申します。短い期間ですが宜しくお願い致します」
三日前に帝都から戻って来たマリーカの両親を初め、高齢の者たちが多いので、夜の九の刻(夜九時)前には、全員各部屋で寝てしまうそうだ。
家の事は何もせず、お互い好きな時間まで過ごして構わない、とマリーカの父親に若夫婦は言われた。
「では、お爺様の言葉に甘えましょう、カイ」
頷いたカイは、濃い緑の厚手の帽子と外套を脱ぎ、両手の茶色の手袋を取った。
笑顔の初老の使用人が、其れらを受け取り、衣装戸棚へ納めに行く。
カイ・ウブチュブクはこの年で二十五歳に為る。身の丈は二尺(二メートル)を軽く越えていて、濃い緑色の軍装は、ボタンを初め装飾は灰色で、右胸には黄金色の三本足の鷹が刺繍されている。軍装姿でも良く分かる肩幅の広さ。手足が長く太く、腰の引き締まった骨太の屈強な体格をしている。帽子を取った頭は短く刈った黒褐色の髪。其の下の顔は整った優しげな造りで、特に大きな目に光る明るい茶色の瞳は、今の時期である寒さを吹き飛ばす、常夏の太陽の様に輝いているのが印象的だ。
同じく、レナも厚手の薄緑の帽子と白の外套を脱ぎ、茶色の手袋を合わせて納めて貰っている。
レナ・ウブチュブクはこの年で二十四歳に為る。身の丈は夫よりも三十寸(三十センチメートル)以上低いが、平均的な成人女性としては寧ろ高い方である。全体的な身体の造りは、顔が小さく、手足の長い、一見細身な令嬢、と云った処だが、躍動感としなやかさを感じさせるので、華奢な感じはしない。
彼女の軍装は白を基調としていて所々緑が配され、左胸に金で刺繍された三本足の鷹がある薄緑色の胴着を上に着こんでいる。金褐色の髪は軽く波がかかった短髪で、白皙の顔は美しく、どの様な表情をしても同性や異性からは魅力的だが、やはり笑顔や、任務中の凛々しい顔が一番であろう。特に手入れもしていないのに、綺麗に細く流れるような眉毛の下にある目は、表情が良く分かる様に大きく、瞳は青灰色に輝いている。
帯と長靴は夫婦とも同じ褐色のものを身に付けている。
カイは一応、室内着や寝間着を用意しているが、事前にマリーカの両親から、カイの体格について聞いていた使用人が、幾つか服を作ってくれていて、「合いますでしょうか?」、とカイに渡した。
試着の為、一旦別部屋に行ったカイが戻って来ると、「大丈夫です。問題ありません」、と自分の衣服を作ってくれた使用人に礼を言う。
レナの服は、別邸と云う事もあり、この家に一通り揃っている。
時刻は夕の五の刻を過ぎている。一人の使用人が「お風呂の用意は出来ていますので、ご一緒に如何ですか?其の間に私たちは夕食を作ります」、と言って来たので、カイはしどろもどろに為る。任務や他人の危機には、即断し、明確な指示を出し、瞬時に行動を起こす男だが、この種の事に関して、彼は全くの柔弱である。
レナがカイの腕を引っ張って、「では、私たちはゆっくり湯あみをしますので、宜しくお願いします」、と行動しなければ、彼は四半刻(十五分)は、色々と如何でも好い事を捲し立てていたであろう。
風呂から出た二人が食卓に現れると、既に様々な料理が並べられていた。
海産物は左程多くなく、貝類位である。但し、牡蠣や雲丹等、ヴェルフからの知識で貴重な物が並んでいる。其れを除けば、カイの故郷のカリーフ村と変わらぬ田舎の素朴な料理だったが、サラミソーセージが絶品だった。
この地域では作物として、キャベツやアスパラガスなどを生育している。
もう数カ月後だったら、アスパラガスの様々な料理が提供されていただろう。
「食器の洗い物は、明日私たちが行うので、其のまま調理場に置いといて構いませんよ」
そうマリーカの母親が言って、彼女たちは程無くして、就寝の為に各自の部屋に行ってしまったが、結局カイとレナは食事を終えると、二人で食器の後片付けをした。
明日は、早朝の七の刻には起きて、朝食の用意をする、と彼女たちは言っていた。
この日は旅の疲れを癒す為、二人はある寝室の広大な床で、夜の十一刻前には寝てしまった。
同衾と云うには、余りにも大きな床で、カイが二人分手足を伸ばして寝る事が出来る。
この部屋は曾て、アムリート少年が夏休みにブローメルト家の三姉弟と、四人で寝ていた部屋である。
パールリ州は海に面しているが、内部へ行くにつれ、起伏のある草原や、山野に満ちている。
葡萄の栽培が盛んで、ホスワードでも随一の白や赤の葡萄酒の産地だ。
また、豚の飼育も盛んで、山風や海風に晒され、製造されるサラミソーセージは、帝都ウェザールを初め、各地の富裕層に愛好されている。
漁業は沿岸域で定置網で鰯等を獲る事が多い。鰯は食用としても消費するが、家畜の肥料として使われる事もある。
この時期のパールリ州は殆ど太陽が出ず、空は灰色に覆われ、外にいると寒さが骨身に沁みる。
其れは当然で、パールリ州の北は、ホスワードで最も北東の州であるイオカステ州だからだ。
吹雪こそ無かったが、降雪が時折あり、カイとレナは一日の大半を邸宅内で過ごしていた。
主人のティル・ブローメルトの物であろう。邸宅には珍しい書物も在り、カイとレナは其れらを一緒に読んで過ごした。
主にプラーキーナ朝の文人の詩集や挿絵のある物語集だ。ティル・ブローメルトはホスワードでも屈指の名将と謳われていたが、この様に文化的な物を愛好する一面を持っている。
7
ハイケ・ウブチュブクは二月の初め頃から、宰相府で過ごす事が多く為った。
宰相府に限らず、各省庁は何時でも対応出来る為、交代制で宿直の役人が泊まる。
其れ故、食堂や風呂や、就寝用の個室が在るのだが、ハイケは宰相府の個室を其のまま自分の執務室として、寝起きしながら作業に没頭していた。
二月半ば現在、彼が着手しているのはテヌーラの役人試験の問題を、ホスワード語に翻訳している事だった。
一月半ばの御前会議で、アムリートが宰相イェーラルクリチフの案として出された、女性にも広く政治に携われる国制改革案を発議したのだが、当然議論は紛糾した。然し結果、各省庁の高官が承認したので、「二年以内に本格的な稼働」、と決まった。其れに伴い各省庁から人員を選抜し、其れらを監督する者として、何と皇妃のカーテリーナが選ばれた。無論、アムリートが説得して就けたのは、想像に難くない。補佐役として、提案者のデヤン・イェーラルクリチフが就いている。
ハイケも其の一員だが、この特別な組は宰相府の一区画で作業をしているので、其のまま彼は宰相府を生活の場としたのだ。
「無理はいけませんよ、ハイケさん。貴方の本業はアムリートの副官なんだから」
そう言って来たのは、リナこと皇妃カーテリーナだった。宰相府の一室での定例会議前である。
リナは男性用の式服を手直しした、衣服を着ている。金褐色の長い髪は後ろで束ねられていて、この姿を見ると、彼女がレナの姉だと云う事が好く分かる。
「はい。ですが、あれ程膨大なテヌーラの試験問題が、良く入手出来ましたね」
「私自ら、アヴァーナ帝に親書にて頼んだからね。兵器等の技術的な物なら難しいでしょうけど、過去の試験問題なんて、特に致命的な国家機密漏洩には当たらないでしょう」
リナを監督としたのは、女性も役人としているテヌーラとの交渉が、行い易い様にする為でもある。
この日の会議が終わると、宰相がハイケに話が有ると、宰相執務室に呼んだ。
話とは国制改革案の事では無く、ある市の市長が市の防衛案として纏めた物を、州知事に提出したのだが、州知事は独自では決められず、宰相の審査を頂きたい、と提出して来たのだ。
其のある市とはスーア市で、市長エレク・フーダッヒに因る物である。
スーア市とはメルティアナ州の北西部に在り、直ぐ西へ行けばバリス領と為る。
現在はバリス帝国とは、一年毎の履行確認が有るとは云え停戦中だが、何時戦乱と為るか分からない。
実際にバリスは西のブホータ王国と、エルキト藩王国も西のキフヤーク可寒国と対峙中との情報が入って来ている。
フーダッヒ市長の提出した案は、大きく次の二つに分けられる。一つは若しバリス軍がスーアに殺到したら、住民を即時に非難させて、近辺の村落に匿う事、其の為に近辺の村落に避難用の施設を造って欲しい事。
もう一つは単純にスーア市の防備の強化と、有事の際には、フーダッヒ自身が市の衛士や役人を直接指揮出来る権限が欲しい、との事だった。
「そう言えば、カイ兄さんとレナ様は、スーア市長に直に面会した事が有ったそうだな。二人にフーダッヒ市長の為人を聞けないかな」
そう心中に思いながら、ハイケはこのフーダッヒの提案書を見つめていた。
「バリスが将来メルティアナ州を併呑する野心を持っているのなら、メルティアナ城をテヌーラとの共同作戦での攻略では無く、単独でスーアから侵攻する可能性は高いと思います。基本的にこの案は承認して好いかと思いますが、念を押して、メルティアナ城のガルガミシュ将軍か、直ぐ北のバルカーン城のブローメルト将軍が、フーダッヒ市長と直に合い、定期的な連絡を取れる様にするべきだと思います」
「では、この案は陛下に最終的な裁可を仰ぎ、両将軍のどちらかをフーダッヒ市長の監査役とする方向で好いのだな」
「はっ、左様です。閣下」
アムリートはウラド・ガルガミシュ将軍が監査役として、このスーア市長の案を承諾した。
カイとレナのウブチュブク夫婦が、休暇を終え任地であるボーボルム城塞に到着したのは、二月の初旬である。
部下たちは当然歓呼して、大騒ぎして二人を迎えるので、何とも照れ臭い。
ボーボルム城司令官アレン・ヌヴェルも笑顔で二人を祝福し、更に「二人の結婚祝いでは無いが」、と言って改良した騎兵突撃用の特殊大型船を明日見せるので、今日はゆっくり休む様に、と言った。
流石に任務なので、レナは女子部隊の居住棟、カイは高級士官の居住棟へと別れる。カイの一室には執務室へ扉で繋がった副官用の部屋が在るが、此処にはシュキンが居住している。同じ様な一室であるヴェルフの一室ではシュシンが居住している。
そして翌日、カイたちはヌヴェルとボーボルム城の技術者たちの案内で、特殊大型船が収容されている船渠へ赴く。
外観はあまり変わらない。船首が極端に大きく、正面が開いた箱状となっており、幅二尺半(二メートル五十センチ)、長さが十尺程突き出ていて、両側の縁は一尺程あるのは、其のままだ。
但し、船底の触角は付いていない。
変わっていたのは甲板上だった。
甲板に幅二尺半近く、長さ六尺、厚さ五寸(五センチメートル)程の鉄版が載っている。
この鉄版の先は五十寸程が三角形に尖っていて、更に下に滑車が付き、鉄板の後ろには鉄棒が在り、其れを押すと、船首の上を走り、先端が突き刺さる様に出来ている。船首上には其の為の軌条が付いている。
当然、滑車の留め具も在り、更には鉄板上には左右から、鉄の縁が五十寸程外に開き、固定する事が出来る。
つまり、無理やり相手船に対して、桟橋を架けてしまう訳だ。
船体防衛の兵がこの鉄板を押して、突き刺し、其れでも相手船に馬が移乗するのに障害物が在れば、破壊する。
こうして、初めて騎兵の通路が確保出来る。
撤退時には、逆にこの鉄板を引っ張り、甲板上に戻せば好いのだ。
「これは調練の遣り甲斐が有るな、カイ」
「あぁ、六月末までに完璧な物とせねば為らぬな、ヴェルフ。ヌヴェル将軍、有難う御座いました」
「いやいや、礼は彼ら技術者たちに言ってくれ、私は予算の承認位しかしていないんだからな」
そうヌヴェルに言われたカイは、技術者たちに礼を言っていく。
「これだけじゃなく、水弾の調練も必要なんでしょう」
「そうだ。ブローメルト…、いや、レナ・ウブチュブク指揮官。水弾の注意点として、使用した護謨は極力掬い上げるのだ。ドンロ大河の水質の汚染と為るからな」
「水弾の方は調練の遣り方を色々と考えなければ為りませんね」
カイ・ウブチュブクは自分の仲間たちを見た。妻で女子部隊指揮官のレナ、副帥のヴェルフ、女子部隊副指揮官のオッドルーン、参軍のレムン、そして自分とヴェルフの従卒である弟たちのシュキンとシュシン。
六月末の調練の終わりは、この双子の弟たちが志願兵として、練兵場へ半年間の調練に赴く、一時の別れの日でもある。
妻を持つ身と為ったが、この五カ月間近くは、極力弟たちとの時間を多く取ろう、と思ったカイ・ウブチュブクであった。
第二十五章 戦乱への胎動と国政改革 了
一応、アムリートさんが国政改革に乗り出すんじゃないかって事は、ちらりと第六章でふれましたが、
こういった形で行う事になりました。
架空世界ものをやってるのに、妙に現実的な話になって、すみません。
【読んで下さった方へ】
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