第二十二章 漸く
ようやく、って何でしょうね?
とにかく、ようやくなのです。
では、二十二回目の投稿、宜しくお願い致します。
第二十二章 漸く
1
薄暗い部屋にて、二人の男が粗末な机と椅子で対面に座り、語り合っていた。
明かりはこの狭い部屋の四隅に蝋が灯っているだけである。
時刻は昼で、外は明るいが、この二人はまるで其れを避ける様に、地下深くのこの部屋で話し合っていた。
「全員捕えられたか、または監視下に置かれた様だな」
「左様です。もう残るのは私と『師父』、貴方だけに為ります」
「名目上は、今はお前が『師父』だぞ」
二人は灰白色の外套を羽織っていたが、素顔は共に晒していた。
一人は三十歳前後の青年で、もう一人は五十近い中年の男だった。
恐らく、カイ・ウブチュブクがこの場に居たら、仰天したであろう。どちらも彼が直接見知っている男たちだからだ。
青年の名はパルヒーズ・ハートラウプ、中年の男の名はエレク・フーダッヒと云い、彼は表向きはメルティアナ州のスーア市の市長の座にある。
フーダッヒはホスワードに於けるヴァトラックス教徒の第三代目の「師父」に当たる。
「師父」とは、ホスワード帝国第五代皇帝フラート帝時代に、弾圧された時に、各地に散った教団員たちを一律管理する体制が造り上げられたのだが、其の指導者を意味する。
但し、フーダッヒが「師父」を継いだ時、既に彼はホスワード帝国の役人として働いていた為、腹心の男を仮の「師父」に仕立て、彼を介して、教団員の指導・管理をしていた。
真の三代目の「師父」がエレク・フーダッヒである事は、パルヒーズしか知らない。
フーダッヒの祖父は第四代皇帝のマゴメート帝の寵愛を受けた教団指導員だったが、フラート帝に因って、処刑された。
当時、少年だったフーダッヒの父は、辛うじて逃げ出し、其の後、この体制造りに大きく関わっていたが、十五年後に追跡を受けた挙句、捕縛され、獄死した。フーダッヒと謂うのはエレクの母の姓で、父は何とか妻と息子エレクをスーア市へ逃がした。
フーダッヒは表向きはスーア市の学院を卒院後、スーア市の役人試験に受かり、更に上級役人と為れるメルティアナ州の試験にも受かり、スーア市で順当に出世をして市長までに為った。
「数年の後に、バリス帝国とホスワード帝国は全面的な戦争を行うだろう。いや、行わせる。其れに際して、スーアは独立をして、バリスの保護下に入り、バリス軍の一時的な後方基地と為る」
「お言葉ですが、バリスは信用出来うる国でしょうか?彼の国の皇太子ヘスディーテはかなり油断の為らない人物です」
「信用などしていない。だが、ヘスディーテとアムリートが互いに全知を尽くして戦い合えば、どちらが勝っても、勝者は長期間の痛手を被る。其の時がダバンザーク王国の復活となろう」
スーア市の辺りは、曾てヴァトラックス教を国教としていたダバンザーク王国が在った。
そして、スーア市からボーンゼン河を挟んで直ぐ西はバリス帝国の領内だ。
スーア市がバリスに降伏して、其の後方基地と為れば、ホスワードとしてはかなりの痛手となる。
前年にバリス軍はホスワードに侵攻して、北西のラテノグ州の一部を領する事に成功している。
だが、フーダッヒが言った様に、この一連の戦いで、バリス軍はホスワード軍以上に実動部隊で被害を出した。確かに両国の事実上の総帥である、アムリート・ホスワードとヘスディーテ・バリスが、全知を尽くして戦い合えば、共倒れと云う事すら在り得る。
数年前より、フーダッヒは市長の名では無く、スーアで地下活動をしている教団の代表者としてバリス側に接触し、ホスワードとの全面戦争の折には、自分たちが決起しスーア市を占拠し、戦争中は其の後方基地として、全面的に協力する事を伝えていた。
其の相手こそがバリスの皇太子ヘスディーテであり、パルヒーズは其の連絡役であった。
「最早、ホスワードに居る他の教団員など、この策謀が漏れぬ為、全て捕えられた方が良い。其れ処か貴族の教団員に至っては、只、教えに耽溺するだけで、王国の復活の邪魔でしかない」
このバリスとの非公式の接触を行っているのも、フーダッヒとパルヒーズのみである。
「パルヒーズよ。バリスへ赴き、ヘスディーテ側に顛末を話し、バリスにて身を隠すのだ。ラスペチアでは、お前の人相書きが出回っているだろう」
「畏まりました」
この日の内にパルヒーズ・ハートラウプはバリス領へ入った。そして、ホスワードの関係者が赴かない様な場所に暫し身を隠す。
ホスワード帝国歴百五十六年四月の初め頃。二人の会合場所は、スーア市の市庁舎の地下深くであった。
市庁舎の地下深くは、曾てのダバンザーク王国の遺構が、かなり残っている。この場所と、入り方を知っているのは、フーダッヒとパルヒーズ、そして数年前に死んだ三代目の「師父」の代行だけだ。
十年以上前に死んだフーダッヒの母親は、此処の善神ソローの神殿跡近くに埋葬されている。
2
カイ・ウブチュブクが帝都ウェザールへ到着したのは、ホスワード帝国歴百五十六年七月十八日の昼前だった。数日前に帝国の最北東部のイオカステ州にある馬牧場から、騎行して到着した。
カイ・ウブチュブクは三日前の十五日で二十四歳に為った。軍装をしているが、其れは高級士官である事を表す濃い緑色だ。
ウェザールの正門である南の中央の門を、カイは下馬して進み、城内に入ると、直ぐ近くにある厩舎に愛馬を預けた。
そして、徒歩にて、ヴェルフ・ヘルキオス邸に向かう。周囲の人々の目がカイに集中するのは、高級士官の軍装をしているからか、其れとも規格外の体格を彼が持っているからか。
カイは身の丈が二尺(二メートル)を優に超え、軍装姿でもよく分かる、肩幅が広く、胸板が厚く、引き締まった腰回り、そして手足は長いだけでなく、骨太な太さも有している事も分かる。
金の装飾と、大きな鷹の羽が付いた、軍装と同色の縁なし帽を取ると、短く刈った黒褐色の頭が露わになる。其の下の整った顔は精悍ではあるが、大きな目には真夏の太陽を思わせる、明るい茶色の瞳が輝いているので、表情と合わせて、彼の性格の一部である穏やかさや優しさが滲み出ている。
ヘルキオス邸は三階建てで、小さな子供たちが十分に遊べる広さの庭も在る。地下室も在り、地下室は基本的に食物や酒類の保存場所だ。
一階部分は二十人近くは一緒に食事が出来る食卓と其の調理場、やはり同じ位の人数が寛げる居間、そして風呂場から為っている。
二階部分は十部屋程の二人用の寝室で構成されている。
三階部分は主人のヴェルフの主寝室、カイの副寝室、カイの書斎、そして談話室から為っている。
各階には厠も設置されていて、汚物は水洗式で流れる様に出来ている。
ボーンゼン河から水を引いているウェザールは、この様に下水処理が整備されている。
帝都ウェザールは南から北へ向けて、建物が豪勢になり、つまり其れだけ身分の高い者や富裕な人々が住んでいるが、ヘルキオス邸はどちらかと云えば、南の賑やかな市井に近い所に在る。
なので、カイも南の正門から、其れ程長時間歩かずに到着し、先ずは広い庭を通り、玄関に立った。
「おーい、帰ったぞ」
カイは何とも呑気な声で、帰宅を告げた。自分の家族が揃っている照れ臭さがある。
中へ入ると、家族たちが揃って出て来た。母親のマイエが呆れて言う。
「三日前がお前の誕生日だったと云うのに、ヘルキオスさんに聞いたら、任務で遅れて到着するだなんて」
「ごめん、母さん。帝都の感じは如何だい?」
「ムヒル市なんて比べ物に為らない位、人が多いね。一人で外に出たら迷子に為りそうだよ」
ムヒル市の人口は約三万、帝都ウェザールの人口は約二十万である。
「ウブチュブク様。御家族との会話は居間にて為さるが好いでしょう。室内着を用意致しますので、御召し物を此方へ」
そう言ったのは、この邸宅で住み込みで家事全般を行っている、初老の夫婦だ。
カイは着替えの為、一旦別室に行き、改めて全員が居間に揃う。
居間には広い卓の周りに長椅子が置かれ、全員が座れる。卓や長椅子を初め、家具類の多くは前の住人から譲り受けた物が殆どで、最高級品とまではいかなくても、先ず庶民の収入からは気軽に購入出来る物では無い。
カイは自ら人数分の飲み物を用意して、ヴェルフ、マイエ、タナス、メイユ、ハイケ、シュキンとシュシンには茶を、セツカとグライには蜂蜜入りの酪奬を混ぜた茶を、姪のソルクタニには蜂蜜入りの酪奬を出した。邸宅の主人が礼を述べる。
「帰還早々、すまんなカイ。そうだ、三日遅れだが、今日の夕食はお前の誕生日祝いと云う事で、賑やかにやろう。レナ殿とツアラも呼んでな」
「ディリブラントは如何する?」
「彼は店の手伝いで忙しいだろう。何しろ俺がニャセル亭をウェザール屈指の宿屋兼食堂にした様な物だからな」
「其のディリブラント殿だが、ハムチュース村の家具職人たちが感謝していた。彼らの代わりに私が直接お礼を申し上げたいのだが、ヘルキオス殿、帝都滞在中に彼の実家への案内を頼めないだろうか?」
タナスがヴェルフに頼み込んだ。先のクラドエ州の俗謡の調査で、商人の振りをしたレムン・ディリブラントは、ハムチュース村で製作された簡易な木製の椅子を大量に売り捌いたのだ。
ヴェルフは其れを了承したが、カイが念を押して注意した。
「おい、ニャセル亭に行くだけだからな。お前の御贔屓の店にタナスを連れ回すなよ」
タナス・レーマックはこの年でカイより一つ上の二十五歳である。妻であるカイの妹のメイユと共に、現在はハムチュース村の学院の教師をしているが、元々はムヒル市で役人をしていた。其の当時の直接の部下としてハイケもいた。タナスの両親はウブチュブク家のカリーフ村の村長夫妻である。
カイの直ぐ下の妹であるメイユは一つ下の二十三歳になる。身の丈は平均的な成人女性と云った処で、如何もウブチュブク家の女性は目を引く体格には為らない様だ。黒褐色のやや波のある髪は、教師として働き出してから、肩の辺りの長さにしている。瞳の色はやや灰色っぽい茶色で、色白でどちらかと云えば細い方だが、家庭と仕事で忙しい為か、華奢な感じは無く、兄のカイよりも大人びた落ち着いた感じのする女性である。
ハイケはカイより三つ下の二十一歳になる。身の丈は百と九十寸(百九十センチメートル)を少し超え、細身ではあるが、皇帝副官として軍事に携わる様に為ってから、逞しさが日々増している。明るい茶色の髪はカイ程ではないが、短く刈っていて、黒褐色の瞳は常に沈着で、整った其の表情と合わせて、年齢に似合わぬ冷静さを醸し出している。彼は普段は皇宮の宮殿の一室に居住しているのだが、宮殿の女性の使用人たちは、この文武に高い識見を持った若者の噂話をせずには於けない。
ヴェルフが席を離れ、住み込みの使用人夫婦に色々と注文している。今日の夕餉の注文だ。カイの誕生日祝いで、客としてレナとツアラも呼ぶので、とびっきりの御馳走と、何より量が必要と為る。
夫は料理は海の物でも河の物でも魚を捌くのが得意で、内陸のウェザールでは、この様な調理技能を持った人間は重宝される。魚介の専門家とも云うべきヴェルフも其の腕には一目置いている。後は屋内の力仕事を必要とする掃除や、庭の手入れを主にしている。
妻の方はウェザールの家庭料理を得意としていて、後は屋内の軽掃除や、衣服の洗い物を担当している。
ヴェルフ・ヘルキオスはこの年で二十七歳。この若さでこの様な邸宅の主なのだが、軍に入って身一つで手に入れた。尤も、前の住人が体調不良から南方へ移りたいので、かなりの低価格で譲られた、と謂う幸運もあったが。
彼はホスワード帝国で最も南東にあるレラーン州のトラムと云う漁村の出身で、母親を早くに亡くし、父親は十年近く前、村が暴風雨と津波に晒された時に、村の漁船を一艘でも安全な場所へ戻そうとしていたが、結局流され消息不明、つまり亡くなっている。
普段はそんな身内の不幸があったなど、全く感じさせない陽気な大男で、其の身の丈はカイより指を横に三本程並べただけ低い。屈強其の物という体付きは、やや日に焼けた浅黒い肌もあって、精悍さが際立つ。少し縮れた黒髪は短く刈っていて、黒褐色の双眸は任務中は鋭く、この様な日常では呑気な感じで輝いている。
3
「シュキン、シュシン。手紙にも書いたが、如何する?俺たちの従卒をする気はあるか?従卒の役割はモルティさんから聞いただろう。あと既に今年の志願兵の調練も始まっている。来年の為に見学をして行くか?」
カイは双子の弟たちを見て言った。ウブチュブク家とレーマック家は休暇で此処に来ているが、二人が了承すれば、二人は帰郷せず、カイたちと行動を共にする。
「従卒の役割はモルティさんから聞いている。要するにカイ兄さんとヴェルフさんの身の回りの世話で、特に相互の連絡役が主体と為るんだろう」
「そして、来年の志願兵の調練が終ったら、従卒では無く、正式にカイ兄さんの部隊の兵に為れるんだよな。見学は勿論するよ」
モルティとは、曾て彼らの父であるガリン・ウブチュブクの従卒をしていた男で、ガリンが軍籍を離れると同時にムヒル州の衛士をしていたが、ガリンの死後は妻と共にウブチュブク家の面倒を見てくれている。今はカリーフ村で夫婦で留守番中だ。
シュキンとシュシンはこの年で十八歳になる。共に身の丈は百と九十寸近くあり、細身ながらしっかりとした体幹を持っているのが分かる。褐色の髪は尊敬する長兄のカイの様に短く刈り、褐色の瞳と表情は常に元気さと明るさで輝いている。騎射も武芸も、そして泳ぎも達者だが、二人は海を見た事が無い。初任務が外洋に出ての航海なので、数日後に全員はトラムのカイの邸宅に行き、漁船ではあるが船に乗ったり、また海に関する注意をヴェルフから受けなければ為らない。
カイは母のマイエに向き直って、真摯に言った。
「母さん。二人を危険に目には絶対に合せない。来年の調練に上手く慣れて入れる様に、軍の実態と云う物を体験して貰うだけだ。其れに此奴らはもう一人前の男たちだ。自分で判断し、出来ない事は無理をしてやる様な奴らではない」
「まぁ、其の辺はカイ兄さんの方が危なっかしいけどね。俺も出来うる限り、傍に居るし、二人の事は大丈夫だよ、母さん」
ハイケがそう補足して、カイはハイケに対して呆れる様な視線を向けたが、何も言い返せなかった。
「分かっているよ。お前たちはあの人の息子たちだからね。如何してもそういった冒険心が出てしまうのだろう。無理に抑え付けても、良くない事だしね」
マイエはシュキンとシュシンが軍務に就く事を了承した。
「調練の見学だが、セツカとグライも見に行くか?女性も参加しているんだぞ」
カイは下の二人の妹弟に語りかけた。
セツカはこの年で十三歳で、現在はハムチュース村の学院に通っている。身の丈は百と五十寸程で、明るい茶色の髪は長く、其れを二つ結いにしていて、少し黄みがかった灰褐色の瞳をした少女だ。
兄妹の中で彼女が一番の小柄で、事実黙って座っていれば、何処かの良家のお嬢さんと謂った感じである。
だが、彼女は毅然と立ち、長兄にはきはきとした口調で言った。
「カイ兄さん。私は学院では護身術を初め、多くの身体を動かす科目を履修してるの。軍に入る心算は無いけど、自分自身は勿論、家族も守れる、そんな大人に為りたいから。見学の件だけど、何か参考に為りそうなので出来ればしたいです」
事実、ウブチュブク家の血か、セツカは其の方面でかなり良い評価を得ていて、家ではモルティに教わり、騎乗も上達している。
「来年、シュキンとシュシン兄さんたちは志願兵に応じるから必要だと思うけど、関係ないセツカ姉さんや僕が見学に行ったら、調練の邪魔に為ったりしないかなあ?」
そう酪奬入りの茶を飲みながら、のんびりした口調で末弟のグライがカイに言った。
「うむ。去年だったら、邪魔に為ったであろうけど、今年は左程志願者が居ないからな。調練の責任者に頼めば許してくれるだろう」
今年一月からのバリス帝国との停戦条約の影響からか、本年度の志願兵は男性で二百人程、女性は二十名に届くか如何かだそうだ。
グライはこの年で十歳になるが、短くしたさらさらとした黒褐色の髪と、やや灰色がかった薄茶色の瞳した顔付きだけが年齢相応で、其の体付きは完全に大人であった。
先ず、身の丈は百と七十五寸近く、重さも九十斤(九十キログラム)を超えている。弛緩した肥満体でなく、がっちりとした骨太の筋骨の上に脂肪に因って全体的に包まれている、と云った感じの体付きだ。
ヘルキオス邸の住み込みの夫婦も、この少年が十歳と聞いて驚いた。当然であろう。夫婦よりグライの方が体は大きい。そして何より何でもよく食べる。
時刻は午後の三の刻近くであった。既に一刻ほど前から夫婦は今日の夕餉の買い物に行っている。
すると、玄関の呼び鈴が鳴った。買い物に行った夫婦は食堂に通ずる、別の出入り口を使用する筈だ。
現れたのは、ヨギフ・ガルガミシュ兵部尚書(国防大臣)とティル・ブローメルト武衛長(軍事警察長官)であった。当然両者は軍装をしている。
対応に出たヴェルフが両者を居間に招き入れ、ヴェルフとカイとハイケは直立して、右の拳を左の胸に当てる敬礼をした。
シュキンとシュシンも慌てて立ち上がり、見様見真似で敬礼をする。
「マイエ。随分と久しぶりだな。何時かカリーフ村に行こうと思っていたが、なかなか時間が取れず、現在にまで至ってしまった。だが、此方に来たと聞いたので、少し仕事を放り出して訪れた訳だ」
ヨギフがマイエに挨拶をした。曾てヨギフはカイが生まれた頃、しばしばカリーフ村に身一つで訪れていたが、其の後、彼は国家の重臣へと出世した為、自由な行動が制限されてしまった。マイエも「お久しぶりです。ガルガミシュ閣下」、と返事を丁寧にする。
そして、ヨギフは自身とティルの紹介をした。慌てたのはタナスである。彼は立ち上がり、右腕を胸の下へ横に置き、軽く頭を下げる。これは役人が主に軍の高官に対して行う敬礼の仕方だ。
「タナス・レーマックと申します。両閣下にお目通りが出来るとは、至極に存じます。小生はムヒル市にて微力ながらお国の為に尽くしていましたが、現在は学院にて妻と共に教師をしております」
「ふむ。カイの妹の旦那か。学院の教師なら、其の様な礼は不要だ。楽にせよ。寧ろ無礼をしているのは私とティル卿だからな」
ヨギフはそう言って、タナスに元の位置に座る様に言った。
「君たちがガリン・ウブチュブクの家族か。何とも賑やかで結構だ。こんな小さな子もいるのかね。ガリンの孫かな?」
「左様です。ブローメルト閣下。ソルクタニと申します」
「こんにちは!ソルクタニです!」
そうメイユに言われたティルは、元気に挨拶をしたこの年に三歳になるソルクタニを抱き上げる。
「曾て、尚書閣下はこの様にカイを抱き上げ、あやしていたのですか?」
「そうだ。まったくあの日々の頃が、つい先日の様に思い出されるよ」
ヴェルフが二人に「今日の夕食はカイの誕生日祝いで賑やかにやるので、ご参加致しますか」、と言ったが、流石に両者は断った。
「いやいや、私たちの様な年寄りの軍の高官が居たら、楽しめんだろう。皆の顔を見に来ただけだ。そろそろ仕事に戻るよ」
そう言って二人は一人一人に挨拶をして回り、兵部省へ帰って行った。特に従卒となり、来年は志願兵の調練を受けるシュキンとシュシンには多くの時間を割いて、激励の言葉を与えていた。
4
「ガルガミシュ尚書閣下とお父様が来てたの?」
夕餉に招待されたレナが驚いて言う。食卓には様々な料理が並び、酒類もふんだんに有る。カイの誕生日祝いでもあるからだ。
小麦粉で作られた茹でた麺を、魚介の具の入ったスープで絡めた一皿は、南方の香辛料で味付けしてあるので、この一皿の具材だけでもウェザールではかなりの高値と為る。
魚料理は、他に下味され、バターで焼いた白身魚の小麦粉焼きもある。
ジャガイモやピーマンやタマネギやハムやベーコン、更に海老や浅蜊が入った、巨大な卵料理もあり、これは切り分けられ、各人の前の皿に盛られている。
ウェザールは小麦粉を使用した料理が多く、小麦粉で作られた皮の中に、羊肉と椎茸や韮などの野菜を餡にして包んで、蒸し上げた包子も多く並べられている。
また、牛肉と豚肉の合挽き肉に下味したものを、掌ほどの塊にして、小麦粉をまぶし、両面を焼き上げた膾の肉排もウェザールの定番料理だ。これは北方のエルキトで乗用の馬が不能になった時に、解体した物を新たな馬の鞍の下に置いて、乗用して柔らかくし、肉鱠として食べていた物が起源である。
他には、野菜が多く入ったクリームスープ、パンやチーズ、焼きソーセージや茹でソーセージなど、広い食卓はこれ等の料理で埋め尽くされていたが、ヴェルフとウブチュブク家の息子たちが大半を征していく。
麦酒や葡萄酒もカイとヴェルフを中心にどんどん無くなっていく。
食事もあらかた終わり、マイエは使用人の夫婦に無理を言って、洗い物の手伝いをしている。セツカとツアラとソルクタニは居間で遊んでいる様だ。其れをメイユが近くで見てくれている。
シュキンとシュシンは麦酒を五合(半リットル)を二杯と、葡萄酒が二合(二百ミリリットル)入る杯で三杯も飲んだので、マイエとカイから「其れ以上は不可!」、と言われて半ば残念がって居間で大人しく寛いでいる。
食卓では残りを片付ける様にグライがまだ食べていて、数人の大人たちが葡萄酒から作られた蒸留酒を前に話し合っていた。カイとヴェルフの杯だけが、やたらに大きい。
「トラムへは十日後に出発しよう。其れまでは調練の見学と、帝都の見学だな」
カイが提案して、皆は了承した。取り敢えず、明日ヴェルフはタナスを連れてニャセル亭へ行き、カイは練兵場へ赴き、調練の責任者のザンビエに見学の許可を貰いに行く。
「調練の見学が終ったら、皆さんを私とハイケさんで帝都内のご案内としましょう。カイもヴェルフさんもこの地で詳しい所は偏っているし」
レナにそう言われたら、カイとヴェルフは大人しく留守番するしかない。
こうしてトラムへの出発までの過ごし方は決まった。
レナとツアラはこの日、ヘルキオス邸に泊まった。
翌日、ヴェルフはタナスを連れて、ニャセル亭へ赴き、タナスがディリブラントにハムチュース村で製作された椅子をほぼ売り捌いた礼を述べに行き、カイは練兵場へ行き、志願兵の調練の責任者のザンビエに自分の弟妹達の見学の許可を取りに行った。
どちらも無事に終わり、この日は次の日の備えて、準備をする。調練の見学が終ったら、ウブチュブク家とレーマック家は、レナとハイケに因って、帝都ウェザールの各所の見学だ。
カイとレナに連れられ、練兵場への調練の見学に赴いたのは、シュキンとシュシンとセツカとグライ、そしてツアラだ。
時期的に幕舎の設置と昼は野外料理のを訓練と為っている。炎天下の中、志願兵たちは指導員たちに指示や大声で注意され、動き回っている。夕近くに為ると、一部の者たちが汗を流す為の浴場の用意すらする。
「この様な事が十二月終わりまで続く。ガリン・ウブチュブクの息子、カイとハイケ・ウブチュブクの弟、だからと云って特別扱いはされぬぞ」
カイはシュキンとシュシンに強く言った。
シュキンとシュシンは其れ以上に力強く、覚悟の意を長兄に述べた。
翌日からはレナとハイケ、そしてツアラに因って、ウェザールの各所の見学をウブチュブク家とレーマック家は楽しんだ。
移動は馬車、或いは歩きである。カイとヴェルフは大人しく留守番だ。
また、シュシンとシュキンとセツカとグライとソルクタニは、主にこの日以降、泊まるのもブローメルト邸と為っている。ブローメルト邸はヘルキオス邸より、一回り以上は大きい。
図書館を訪れたが、其の広さと、様々な種類の本の蔵書数に驚く。
今は夏休みだが、ツアラの通っている学校、そして彼女が来年から通う予定の学院も見学した。この学院には同じく来年より、皇帝アムリートの甥である、オリュン大公も通う予定である。
時計塔も訪れた。時計塔は内部が水力を使用した歯車に因る機械式で、朝の六の刻(午前六時)から夜の八の刻まで一刻毎に最上部で、自動的に鐘が鳴る様に出来ている。
この様な機械式時計塔が都市にあるのは、ホスワードでも限られている。当然ムヒル市にはない。通常の市や村では、時刻を知る為には特定の場所に管理された、水時計や日時計を使用している。そして、人力で鐘を鳴らし時刻を知らせる。
其の他、レナがお気に入りの軽食店や、ハイケが曾て学んでいた大学寮を外部からであるが、見学した。大学寮のある所は官公庁のある箇所なので、自然と宰相府やカイやヴェルフの勤務する兵部省なども外部から見学した。兵部省はカイかヴェルフが居たら、中に入れたかもしれない。
極め付きは皇宮である。と云っても、宮殿の内部ではなく、宮殿の背後に聳える塔の頂上まで上がった。大小の塔が幾つもそそり立っているが、最も高い塔だと九十尺(九十メートル)を超える。其の塔の頂上まで上がった。
ウェザールの北面はこの様に城壁と塔から為っているが、これはプラーキーナ朝では軍事基地だった影響である。高い塔は見張り兵の遠望用だ。
兵士は城壁からこの塔に入るが、レナとハイケに連れられた皆は宮殿の一階部分の奥にある、分厚い扉から鍵を開けて入った。何処までも続かと思われる階段を上る。マイエとソルクタニを背負ったタナスは途上息切れする。
こうして一番の頂上まで到達した。広さはほぼ円形で、直径で三尺(三メートル)、円錐状の屋根の底部である、天井までの高さも三尺あるが、周囲は一定の間隔で縦横五十寸(五十センチメートル)の空いた窓が並び、周囲が見渡せる。
北に目を向けると、ボーンゼン河が流れ、更に北のエルマント州との境目の山脈が見える。
南に目を向けると、帝都全体が一望出来、更に皇族の陵墓まで遠景出来る。
東に目を向けると、森林が広く続いている。この森林は狩場であり、鹿や兎や栗鼠や、様々な野鳥の棲家だ。
西に目を向けると、練兵場が一望出来、つい先日見学していた志願兵たちが豆粒の様に見える。
天候が良いので、全方位何処を見ても飽きないが、高所の為か、やや風が有り、少し肌寒い。
冬季用の為か、炉が設置されていて、毛布まである。
「お気を付け下さい。時折突風も有るので、あまり外側に立たれない様、お願い致します」
当直の兵が一同に注意を促す。レナもハイケも此処には数度しか昇った事が無い。
中には椅子が有る。この椅子は当直の兵の物であるが、実はしばしばアムリートは昼夜を問わず、この場所に赴く事が多く、其の際は当直の兵は入り口の外で待機している。
特にユミシス大公が亡くなってから、この場所でアムリートは一人座し、一刻程居る事が多い。
流石に三階以上の宮殿内は見学対象とはされず、塔を降り、宮殿を辞する時に、ハイケは宮殿の五階の一角を指し示し、「あの辺りが自分が普段居住して居る所だよ」、と教えた。
主に奇術師や軽業師が芸を披露する、野外の舞台、本格的な演劇や演奏会が観劇できる劇場施設なども、ウェザールには有り、これ等は市民の余暇の楽しみである。
また、所々に大きさはまちまちだが、緑地の広場が有り、今日のような天候の良い日は散歩をする者もいる。
レラーン州のトラムへの出発の前日。この日は皆家に居て荷物の纏めをしている。
カイは住み込みの夫婦に、トラムの休暇が終ったら、自分たちは其のまま任務の為、ボーボルム城へ行く事を言い、家族はハイケがウェザールまで送り、一日ヘルキオス邸に泊まってから、ムヒル州へと帰郷する事に為る、と告げた。
ハイケは一旦、皇帝アムリートに最終事項が無いかの確認をしてから、ボーボルム城へ工部省の技術者たちと赴く。
5
七月二十八日の早朝。一同はウェザールからレラーンのトラムに向けて出発した。順当に進めば四日以内に到着できる。
其処でカイの邸宅で過ごし、八月の末で、ハイケに連れられ、ウブチュブク家とレーマック家とツアラはウェザールに戻り、両家は一日ヘルキオス邸で休んでから、カリーフ村とハムチュース村へ帰郷する。
この帰郷にはシュキンとシュシンは加わらない。双子は九月の一週目の最後に、カイとヴェルフとレナ共に、船にてドンロ大河を遡上して、ボーボルム城へ赴く。
馬車と騎乗の一団は、河川や運河で馬をも乗せられる船に乗り、南東を目指す。
馬車に乗っているのは、マイエとセツカとツアラとグライ、そしてレーマック家の三人。
騎乗しているのはカイとヴェルフとレナとハイケ、そしてシュキンとシュシンだ。
騎乗者は皆軍装である。従卒用の軍装もカイは事前に調達していた。勿論、兵部省で其の登録もしてある。
と云っても、従卒の軍装は一般兵と特に変わりの無い、灰色がかった緑の上下で、同色の縁無し帽子、そして褐色の手袋と帯と長靴である。
唯一、通常の兵と異なるのは、帽子の周囲に赤糸が線の様に縫い付けられている事と、右胸の三本足の鷹がやはり赤糸で刺繍されている事だ。これは従卒であることを表し、緊急の場合の連絡兵として、他の高級士官に直接面会出来る印と為っている。
軍装に身を包んで、騎乗する二人は流石に誇らしげだ。馬は練兵場の厩舎から予備を取り寄せた。
馬術に関しては、二人は全くの問題は無い。
独特なのは、ハイケの軍装であろう。抑々、皇帝副官は近衛隊の隊長が兼務するか、軍の高級士官から選ばれるのだが、大学寮を終えて抜擢されたハイケは元々は役人である。故に其の軍装は近衛隊と女子部隊と従卒の軍装が混じった物である。
先ず、白を基調とした上下に緑が配され、黒褐色の手袋と帯と長靴は近衛隊っぽいが、其の上に緑の胴着を身に付けいるのは女子部隊っぽい。更に緑の肩掛けを羽織り、其の背には銀で縁取りされた赤色の三本足の鷹が刺繍されている。また、緑の縁無し帽子に縫い付けられた飾りと、胴着の右胸の三本足の鷹の刺繍は、銀糸と赤糸で組み合わさっている。この意匠は何処か従卒を思わせる。
女子部隊の指揮官で、「大海の騎兵隊」の別帥である、レナことマグタレーナ・ブローメルトは、この年で二十三歳になる。短くした金褐色の髪と、青灰色の瞳した顔の造りは、他者からは目を引き程に美しく、確かに貴族の令嬢其の物である。
だが、身の丈が百と七十寸(百七十センチメートル)を超える細い肢体は、機敏さとしなやかさと力強さの見事な融合で、其れに身を包む女子部隊の軍装はどんな礼装よりも、彼女の律動的な美しさを際立たせているだう。
白を基調とした上下は薄緑が配され、褐色の手袋と帯と長靴。そして、右胸に金の三本足の鷹が刺繍された、薄緑の胴着を身に付け、更に白の肩掛けを羽織り、其の背には銀で縁取りされた緑色の三本足の鷹が刺繍されている。また、薄緑の縁無し帽子には士官を表す銀の装飾と、鷹の羽が二本刺さっている。
カイとヴェルフとレナとハイケは帯剣しているが、シュキンとシュシンは武器を携帯していない。
基本的に従卒は正式な戦士では無いのだから、時と場合に因り、仕える高級士官の判断で、武器の携帯を許されるのだ。
また、ハイケ以外の三者は弓と矢も携帯していた。これは万が一の場合である。
クラドエ州で逃走するパルヒーズを追っていた時に、弓矢が無かった事が、逃した一因だった。
故に、カイは其れ以来、この様な移動時には、常に弓矢を携帯する事にしている。
移動の懸念としては、河川や運河を航行する際に、馬五頭も乗せられる大型の船が限られている事と、この時期のホスワードの南部地域はしばしば豪雨がある事だ。
だが、其れらの懸念も殆ど発生せず、出発して三日目にはレラーン州へと一同は入った。
人数が多いので、カイは場合に因っては軍施設を途上の宿泊に使用する事も考えたが、幸運にも宿泊は全て市などの宿屋で済ませる事が出来た。仮に軍施設を宿泊に使用した場合は、私用で使っているので、其の際はカイは自分の名を明記させ、自分の給金から使用料を引き落とす心算であった。
トラムの付近で、馬車に乗っていた一行は下りる。騎乗の五人も下馬し、馬を曳いて村へと入って行く。この辺りまで定期的に運行される最終の馬車だったので、到着時は三十一日の午後の夕方だった。
騎乗組は厩舎に馬を繋ぎ、カイの案内で、新装された邸宅へ赴く。ヴェルフは其の管理者である自分の大叔父に帰郷の連絡と、邸宅の鍵を取りに行く。
既に夕焼けだが、一同は邸宅の立派さに驚く。特にカイとレナは新装前の状態を見ている為に、まるで新築の様に為っている事に感心する。勿論、内部の確認をしなければ為らないが。
ヴェルフと彼の大叔父夫妻が遣って来た。三人とも両手に食料品を持って来ている。今日の夕食を大叔父夫婦が用意してくれるそうだ。
カイはヴェルフから渡された鍵を使い、玄関をの扉を開ける。
新築特有の臭いがする。
全員が入り、カイは各部屋を見て回り、内装も完璧に仕上がっている事に感激した。既に職人は戻り、トラムには居ないが如何にか時間を作って、彼に会って直接礼を言いたい、とカイは思った。
老夫婦は挨拶もそこそこに、早速料理に入った。
大叔父は今日、延縄漁で獲れた黄肌鮪の幾つもの柵から鱠を作る。
鱠は大叔父の仕事で、後は鯵や烏賊などを次々に捌いて行く。
大叔母は其の他の火を使った料理を行い。ヴェルフは又も大叔父夫婦の家に戻っている。酒類を持って来る為だ。
調理場は広く、食卓もヘルキオス邸の様に広い。カイたちはやはり同じく広い居間で、荷物を下し、カイ自身は風呂の用意に行った。
皆は手伝おうとしたが、何より海の暮らしが分からないので、大人しく居間で寛ぐことにした。
風呂の用意が終わったカイが、先ず女性陣が先に入り、次に男性陣が入る事を提案した。
風呂場は十人近くは一緒に入れる大きさだ。
レナ、マイエ、メイユ、セツカ、ツアラ、そしてソルクタニが、室内着に身を包んで、風呂から出てきた時には、料理はもう半分以上出来、ヴェルフも十分な酒を持って戻って来ていた。
「よし、俺たちも風呂だ。しかし、この慌ただしさは、何か調練を思い出すな」
カイが言うと、男性陣は風呂へと向かった。外は暗くなり始めたので、女性陣は邸内の各所に設置された蝋の明かりを灯していく。
全員、風呂から出ると、食卓には既に食事が並べられていた。席に着いている者たちはの殆どは、生魚を食すのは初体験である。
「ハイケは海は見た事は或るんだろう?生の魚は食さなかったのか?」
カイが弟に尋ねた。
「陛下の巡幸で海辺には行ったが、短期間の滞在だったから、食べなかったよ。其れに此処と違って漁業の盛んな所では無かったし」
鮪は得も言われぬ、鼻に抜ける香りとさっぱりとした味がする。鮪は夏場に獲れるのは香りが好く、冬場に獲れるのは脂が乗って、まるで獣肉の様な濃厚さが有るそうだ。
部位に因って赤みの多い所と脂身の多い所、両者の中間な所が有るが、カイはこの中間な部位が特に気に入った。山葵と魚醤に合う事この上ない。
鯵は其のままの鱠を生姜を入れた魚醤で食すか、肉鱠の様に、生姜を初めとする薬味を混ぜた物を包丁で叩いた鱠が有り、更に切り落とした物に下味と小麦粉をまぶして揚げた物も有る。どれも美味で幾らでも食べられる。
烏賊はカイの好物でもある鱠や、胴体の中にチーズや米を詰めて焼き上げた物も有る。これの味付けは烏賊の墨や鰯の塩蔵だ。
食卓の半分近くが、生の魚だった為、初めは不思議がっていたが、全員気に入った様だ。
酒は米を原料に使用した、醸造酒も出された。
食事中にヴェルフの大叔父が言った。
「カイさん。各部屋の寝具は既に私達で整えています。食事は如何します?この様に此処は市場に行っても半分は魚介が並んでいますからね。ヴェルフの奴も一通りは魚を捌けますが、私たちが毎日この様に食事を作りに来ましょうか?」
「そうですね。この人数ですから、お願いします。でも此処は俺の別宅だし、出来たら俺にも料理を教えてくれませんか?」
カイがそう言うと、レナとメイユとセツカとツアラも「習いたい」、と言った。こうして五人がトラムの家庭料理を習う事に為った。
この日は旅の疲れを癒す様に、皆食事が終わると、程無くして、其々宛がわれた部屋にて眠った。
主寝室以外では、四人部屋が三つあるので、一つがレーマック一家、一つがレナとマイエとセツカとツアラ、一つがハイケとシュキンとシュシンとグライだ。
ヴェルフと彼の大叔父夫婦は、其々自宅へと戻った。
主人であるカイの部屋は、ウェザールのヘルキオス邸のヴェルフの主寝室よりも広い。これは机と椅子と書籍を置ける書斎部分も、其の一室に含まれているからだ。床も巨体のカイが手足を伸ばしても、はみ出ない十分な大きさだ。
翌日は大雨と云う程では無いが、一日中雨だったので、カイたち五人は丸一日ヴェルフの大叔父夫婦から、トラムの家庭料理を習っている。
マイエとタナスも興味深く見学している。
カイ以外のウブチュブク家の男子たち四人は、居間で如何でもいい話をしては、笑っている。
「ヴェルフは如何しているんです?」
「多分、明日は晴れるでしょうから、彼奴に渡す私の漁船と、カイさんの漁船の点検に行っていますよ」
大叔父はカイに様々な魚の捌き方や、下処理の仕方を教えながら答えた。
狩りで獲物を獲った時の血抜きや、野戦料理の経験などで、カイは刃物の使い方は慣れている。大叔父は呑み込みの速さに感心する。カイが弟たち四人に言う。
「お前たち、料理を学ぶ気が無いのなら、ヴェルフの所へ行って、彼奴を手伝え。場所は分かるだろう」
「えー。この雨の中で?」
「いや、行くぞ!志願兵の調練は天候に関係なくやるんだからな!」
四人の兄弟たちは雨の中、波止場へと行った。カイはちゃんと弟たちの為に、風呂の用意をする予定である。
「深慮遠謀の皇帝副官殿も、此処では長兄の言う事を大人しく聞く、素直な若者なのね」
同じく、魚を捌き、立て塩と云う塩水に、切り身を浸すレナが笑いながら、カイに言った。
6
八月二日。この日は朝から快晴で、南方特有の焼けつく様な太陽が、雨雲を散らし、大地と海に其の日の光と熱を浴びせていた。
前日の整備のお陰で、両漁船は問題無く出航出来た。既にこの日の朝早くから、遠方ではトラムの漁師たちが延縄の仕掛けを終えている。
ヴェルフとカイの船は、其れらを邪魔しない様な箇所で、釣竿に因る漁をする事にした。
勿論、主目的は海釣りの娯楽だが、ヴェルフの船にはシュキンとシュシンが乗り込み、ヴェルフから色々と説明を受けている。漁船と軍船、そして遠洋航海用の使節船は、其々造りや運用方法は異なるが、基本的な事は変わらない。
カイの船は基本的に女性たちが乗っている。母のマイエは余り気乗りせず、「波止場で見ているよ」、と言っていたが、カイが説得して乗せた。セツカとツアラは釣竿を垂らして、楽しそうに話している。カイは操船と網で掬う事に専念している。活き締めと血抜きも教わっている。
波止場から少し離れた所には、砂浜も有り、此処では海水浴も楽しめる。
遠方まで泳ぐ事は危険である。ヴェルフが設置した浮標を越えて泳ぐ事は禁止され、基本的に大人たちは砂浜で見守る事に為った。
こうして内陸育ちのウブチュブク家とレーマック家の人々は海遊びを楽しんだ。
カイは自身がこの場所に邸宅を構えている事も有り、休暇が取れれば、何時でも此処に来る事が出来るので、彼らの遊びに対する、安全の見回りに専念する。
時折、ヴェルフはハイケとシュキンとシュシンを自分の船に乗せ、かなりの遠方まで長時間の航海する。これは当然十月からの任務の調練を兼ねている。
「お前も上級役人の試験を受けて、合格したら、こういった海が見える所で、仕事をしていたのかもな」
「州の上級試験か。基本的には自分の出身地の州にて、州政府の高官か市長に為るな。確かに稀に中央に引き抜かれ、遠方の任務に就く者もいるらしいが」
カイとタナスは海を眺め語り合った。南方の献上品と為る、イオカステ州の馬牧場の管理責任者は、ジュペルと云う者で、上級役人に為った後に中央の工部省に引き抜かれたらしい。当の本人は初めは故郷で市長に為りたかったそうだが、今ではこういった他地域の仕事に遣り甲斐を感じている。
「だが、市長と云っても国境付近だと大変だぞ。先年のバリス軍の侵略では、ラテノグ州の各市は無防備宣言を出して、降伏する事を認められたが、市に因っては降伏されては拙い所も在るだろう」
カイは曾て訪れた、メルティアナ州のバリスに近いスーア市の事を思った。
あの市は宿場が多く、物資も補給出来る十分な施設も多い。若し将来バリス軍が侵攻したら、確実に占拠して、其れらを接収して、メルティアナ州併呑の為の後方基地としそうだ。
砂浜では、セツカとツアラとグライとソルクタニが砂遊びをしている。其れを見守る様にレナとマイエとメイユが後方に居る。
カイとタナスは其の更に後方で、語り合っていた。そして、遠くに帰還してくるヴェルフの船を両者は確認した。
トラムの八月の気候は、蒸し暑い炎熱か、一日中の雨だ。大体三・四日に一日は長雨と為る。
結果、一同はかなりの時間を邸宅内で大人しく過ごし、色々な事を話し合っては笑って過ごした。
八月も終わりに近づくと、母のマイエがやや寂しそうな顔をする様に為る。
八月の最終日は帰郷の出発日と同時に、息子たち、特にシュキンとシュシンとの別れの日であるからだ。
八月の最終日。この日は天候に恵まれ、既に荷造りを終えている、ウブチュブク家とレーマック家、そしてツアラは、ハイケに連れられ、ウェザールに向けて出発した。
「母さん。繰り返しになるけど、二人は俺とヴェルフの傍に常にいる。初任務が南洋の航海だけど、これは俺たち皆が初めての事だ。だから全員慎重を期すし、安全にはより一層の注意を払う」
出発前にカイは母に改めて強く言い、シュキンとシュシンも家族たち一人一人に別れの挨拶をする。
「兄さんたち、ちゃんとカイ兄さんやヴェルフさんの言う事をよく聞くんだよ」
「母さんより、お前の方が煩いな」
「分かっているよ。帰ったら、モルティさんに宜しくな」
セツカに対して、双子は答えている。元々二人が「兵に為る」、と騒ぎ始めてから、一番家庭内で口論をしていたのは、妹のセツカだった。
ハイケが自分の馬を曳き、皆は荷物を持ち、徒歩にて遠距離用の馬車の停留場まで進む。
残ったカイ、レナ、ヴェルフ、シュキンとシュシン、そしてヴェルフの大叔父夫婦は、彼らが見えなく為るまで手を振っていた。
「さて、お前らは今日から俺の家で過ごす事に為るから、荷物を纏めて於け」
ヴェルフがシュキンとシュシンに言うと、シュシンが疑問を呈した。
「何でだ?ヴェルフさん。いや、如何してですか、ヘルキオス指揮官。小官は指揮官の従卒ですが、シュキンはウブチュブク指揮官の従卒ですよ」
「まだ任務は始まっていないから、そんな言葉使いはしなくて好い。残りの休暇は二人っきりにしてやらんとな。そうしないと何時まで経っても結ばれん。全く、あの二人は出会って何年だ?」
シュキンとシュシンは、ヴェルフの言わんとする事を了解したので、二人は先は邸宅に戻り、荷物を纏めてヴェルフの家で残りの休暇を過ごす事にした。彼らのボーボルム城への出発日は九月十日である。
カイとレナが見送りを終えて、のんびり散策しながら、家に戻ると、誰も居なかった。
つい先程まで、この邸宅は大人数で賑やかだったが、「こんなに静かな家なのか」、と二人は感慨に耽る。
カイは居間で紙切れを発見した。シュキンとシュシンに因る伝言で、「出発日までヴェルフさんに軍に於ける諸注意を受ける為、俺たち二人はヴェルフさんの家に泊まります」、と記されていた。
カイはレナの顔を見て、ポツリと呟いた。
「此処で俺たちは二人っきりで過ごす…のか」
「じゃあ、料理は一日置きの交代で、お風呂の用意と部屋の掃除はカイね。私は買い物と洗濯を担当するから」
「いや、ちょっと待て、二人きりだぞ」
「部屋が沢山あるから、掃除は嫌だって事?私も少しは手伝うよ」
「…まぁ、好い。今日の食事は俺がやろう」
この日の昼食はトラムで唯一在る食事処で二人は食べ、夕食は主に茹でた海老の入った焼飯や、貝類を蒸した物をカイが提供した。
「海老は茹でても、生で食しても旨いが、蟹と云う茹でると絶品な甲殻類が有る」
カイは葡萄酒を飲みながら言った。他人が聞いたら、これが若い男女の語らいなのか、と首を傾げるであろうが、当の二人は真剣だった。
「トラムでは獲れないの?」
「この辺りでは獲れない。もう少し北の寒流域辺りだ。焼飯の具材に使っても、旨いらしいぞ」
食器の後片付けを終えたカイは、居間で寛ぐレナに彼女と自分用の茶を置いた。
「良い家だが、一人は勿論、二人で住むのも、広すぎるなあ。パールリ州のブローメルト家の別邸の広さはどれ位なんだ?」
「う~ん、同じ位かな。赴く時は家族だけでなく、家の使用人たちから四・五人と行くから、こんな静かな状況は無いね」
二人は此処トラムとブローメルト家の荘園であるパールリ州の村について語り合った。
海に面して、人口が五百に満たない処は一致しているが、レナに因ると、当地の住民たちはトラムの住民の様に賑やかで活発で無く、大人しくのんびりした人たちだそうだ。
「あの村の人たちも皆親切だから大好きだけど、私には此処の様な活発な村の方が合ってるなあ。あそこはリナ姉様用ね」
カイは茶を口にすると、酔ってもいないのに自分でも意外な事を言った。
「では、此処で俺と一緒に住むか。家族が出来たら、其れなり賑やかに為るだろう」
「うん。好いよ」
カイはゆっくり十を数えてから、「一体、今俺は何を言ったんだ?」、と思うと、確認する様に問い直した。
「つまり、今後休暇が貰えたら、此処で俺はレナと暮らしたい、と言ったのだが、好いのか?」
「私と一緒になって、家庭を持ちたいって、と云う意味で言ったんでしょ。だから、好いよって答えたんだけど」
「そうか、好いのか。しかし、現役の将兵同士が結婚をした例など、ホスワード軍の人事履歴には無いからなあ。アルシェ一世の女子軍で一般の将兵と結婚した事例を調べねば為らんのかな?」
「其れって調べないといけない事?」
「いや、必要ないな。お互いの親に報告だな…。あっ!皇帝陛下と皇妃様にも、直にご報告しなければ為らんのか!」
居間で広い卓を囲む長椅子で、茶を前にして、対面で語り合っていた二人だが、レナはカイの隣に寄り添うように座り、建設的な事を言った。
「今は急いで決めなくても好いんじゃない。十月からの任務が無事終わってから、この事はお互いの親とアムリート兄様とリナ姉様にご報告すれば、問題無いでしょう?」
カイ・ウブチュブクは、自分は今後、如何やらこの女性に色々と指図される人生を、自ら選んでしまったのか、と困惑した。勿論、其の困惑は後悔からでは無く、愛情から来ている。
ホスワード帝国歴百五十六年八月三十一日。時刻は夜の九の刻(夜九時)近く。レラーン州の漁村トラムは二人を落ち着かせるように、雨が降り出した。そして次の日の早朝まで、天は誰にも二人を邪魔させない様に、強い雨を大地と海に叩き付けていた。
第二十二章 漸く 了
いつの間にか、グルメ小説になってますね。
よく食べる登場人物が多いからでしょう。
次は南方のグルメツアーとなります。
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