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第十六章 父の言葉

 父ガリン・ウブチュブクがゾンビのように復活して、暴れまわる。

 という話では勿論ありません。(すみません)


 そんなわけで、久々にカイたち一家を中心としたお話になります。

 よろしくお願いします。

第十六章 父の言葉



 ホスワード帝国は広大な地域を領し、北は牧畜、南は稲作や野菜や果物の栽培、東の海岸地帯は漁業や塩業、そして中央部分は小麦やジャガイモを初めとする農業や、紙や陶器や織物や日用品の様々な製品が造られ、周辺諸国は元より、遠方の国々との交易も活発である。

 総人口は二千五百万を超え、ホスワード帝国以上の規模を誇るのは、主な大陸諸国では南方に位置するテヌーラ帝国位である。

 しかし、軍の精強さではホスワード帝国が勝り、テヌーラ帝国はホスワード帝国と陸戦と水戦で立て続けに大敗した。

 其処を勘案すると、ホスワード帝国こそ、大陸随一の強国と言って好いかも知れない。


 ホスワード帝国は幾つもの州に因って構成されているが、帝国のやや北西部に位置するムヒル州は、ホスワードでも人口の少ない州であり、州都のムヒル市でも人口は三万人程しかいない。

 其のムヒル市より、馬を北西へ二刻(二時間)程奔らせれば、カリーフ村という人口四百人の村が在る。

 北には常緑樹がある山々が聳える麓の村で、ホスワード帝国歴百五十五年九月三日、この日この小さな村は朝から一つの話で持ち切りだった。

 この村の出身にカイ・ウブチュブクなる若者がいる。彼は三年以上前に軍の志願の為に、この村を離れたのだが、何と美人の嫁を連れて帰った来た、と云う話である。

 カイ・ウブチュブクは二十三歳。この年で、然も兵に志願してから三年で士官。其れも最も最高位の「上級中隊指揮官」である。本来なら此れこそが驚くべき事なのであろうが、カリーフ村の人たちにとっては「美人の嫁さん」にしか関心を向けない。


 ウブチュブク家は馬牧場をしているので、朝に為るとモルティと云う住み込みの男が其れを担当しているのだが、シュキンとシュシン、そしてグライのカイの弟たちもモルティを手伝う。

 其の間にモルティの妻と母親のマイエと妹のセツカが朝食の用意をする。

 カイはやや遅く起きた為、母親たちの朝食の準備を手伝う事にした。

 客人のレナとツアラはカイに言われて大人しく食卓の席に着いていたが、レナは馬牧場が気に為り、特別に見学させて貰っている。

 前日、レナはカイの直ぐ下の妹である空き室と為っているメイユの部屋で就寝し、ツアラはセツカの部屋で一緒に寝た。

 勿論カイは自分の懐かしい部屋で熟睡した。

 カイは出来上がった食事や食器を並べている。其れを見たツアラが「手伝います!」、と言ったので、カイは優しい顔で「じゃあ、これを頼むよ」、と言って、二人は人数分の食器を並べていった。

 馬の世話を終え、服を着替えたモルティたちとレナが食卓の席に戻ると、ちょうど朝食の準備が終わり、他の者は皆席に着いていた。

 全員が座り、マイエの「さぁ、いっぱいお食べ」、で皆食事を開始した。昨日の夕食もこんな感じだった。

 カイは今日の様に夏休みや、学院が始まったら、次の日が休日なら、双子の弟たちのシュキンとシュシンに夕食時の飲酒を許した。但し、五合(半リットル)の麦酒(ビール)のみで、其れ以上強い酒精(アルコール)の飲酒は認めなかったが。

 マイエは余り好い顔をしなかったが、双子は大喜びした。


 朝食が終わり、カイは山羊の酪奬(ミルク)を飲んでいたが、ややカイが険しい顔をしていたのにレナは気づき、「如何(どう)したの?」、と尋ねる。

「いやあ、此れも旨いが、食事の後は茶の方が好いな、と思ってな。しかし、此処では茶など手に入らないしな」

 茶は流石の大国ホスワードでも産しない。テヌーラから交易にて入手して、愛飲するのも富裕層だ。

「ふむ。テヌーラを征すれば、幾らでも茶を飲む事が出来るな」

「随分、身勝手な理由で戦を起こそうと云うのね」

「おいおい、冗談だよ」

 この時、カイは自分の室内着を着ているが、レナは自分に合う室内着が無かったので、カイやハイケやシュキンとシュシンが十代前半から半ばの頃に着ていた服を身に付けている。

 手足の長さは丁度良いが、如何せん腰回りが緩く(ベルト)をきつく締めている。

 ツアラはセツカの服を借りている。


 程無くして、玄関からマイエの両親である前カリーフ村村長のミセーム夫妻と、現村長の息子のタナス・レーマックと其の妻メイユがウブチュブク家を訪ねてきた。レーマック夫妻はこの年に二歳に為る娘のソルクタニを連れている。

 居間に移り、レナとツアラは訪れた一行に型通りの挨拶をした。当然マイエの両親とタナスとメイユも挨拶を返す。

「マグタレーナさん。其の服ですけど、まだ在るのなら合う様に直しましょうか?」

「おぉ、其れが好い。レナ、メイユは裁縫の名人だ」

 メイユが居間から出て行き、カイたちが少年の頃の服を直しに行った。これらは末弟のグライでは逆に横幅が合わないので、全て女性用に修繕しても何の問題もない。

 ツアラは少ししゃべり始めたソルクタニを可愛がっている。其処に現れたセツカが「三人で遊ぼう!」、と言ったので少女たちと幼女の三人は、セツカの部屋で遊ぶ事に為った。

 マイエの両親も席を外し、マイエと共に別室で寛ぐ様だ。

 居間にはカイとレナとタナスが残った。


「まず一つずつ整理して話そう。五月の中頃にハイケが帰郷して、六月終わりまで此処に居たぞ。皇帝陛下の副官を為さっているのだな」

「そうだ。其れは良かった。ちゃんと彼奴(あいつ)も休暇が取れたのか」

 タナスはカイより一つ上の二十四歳になる。曾てタナスもハイケもムヒル市の役人をしていたが、現在レーマック一家はハムチュース村という、ムヒル市とカリーフ村の間にある村に住み、そこで夫婦で学院の教師をしている。

「其れとブローメルト殿は女子部隊の隊長とか、女子部隊が創設された事は、私も以前より知っております」

「ウブチュブク指揮官の御尽力が有って出来た部隊です。私がした事(など)、些細な物に過ぎません」

「ええと、これも私の知る限りの事ですが、皇帝陛下の御后(おきさき)であられる皇妃カーテリーナ様の元の姓はブローメルトと聞き及んでいます。御縁類でしょうか?」

「御縁類も何も皇妃のカーテリーナは私の実の姉です」

 タナスは飲み物を口に含まなくて良かったと思った。口にしていたら、絶対に吹き出していたであろう。

 しかし、暫く(むせ)ぶ様に咳き込んだタナスは何とか言葉を絞り出す。

「で、ではマグタレーナ様は皇帝陛下の義妹という事ですな」

「お前は何を分かり切った事を言ってるんだ。昨日酒でも飲み過ぎたのか?」

 カイが呆れてタナスの様子を見ていると、メイユが現れ、レナの服直しの為にレナの体の採寸をしたい、と言って来たので、レナも居間から出ていった。居間にはカイとタナスだけに為った。


「一体、如何なっているんだ?ハイケは皇帝の副官で、お前に至っては皇帝の義妹を嫁に迎えるだと!」

「嫁?レナが俺の嫁だと?誰がそんな事を言っている?」

「村中の噂に為っているぞ。勿論あの方が陛下の義妹とは知らんが、『カイが嫁を連れて帰ってきた』、と朝からずっと村中は大騒ぎだぞ」

「ちょっと待て。何故そんな話に為っている。俺が何時レナと結婚すると言った」

「其の様に呼び捨てと云い、畏れ多くも陛下の義妹に対して、馴れ馴れしく言葉を交わすではないか」

「俺は『僚友と帰郷する』、としか連絡をしていないぞ」

「つまり、あの方とは、そういった関係では無いのだな」

「関係か…」

 カイは沈黙してしまった。確かにレナの事は「僚友」として見ているが、其れ以上の感情が自分の中に有るのは薄々自覚している。だが彼女といると何故か軍事の話に為ってしまう。

「彼女は俺にとって色々な意味で大事な人だ。お前も言った様に陛下の義妹なのだから、戦場では常に守ろうと思っている」

「仲が良いと云うのは分かった。村人たちには後で俺が誤解を解いて回ろう」

 しかし、とタナスは思う。ガリン・ウブチュブクと云う大隊指揮官の様な、偉大な英雄がこの村に住んでいたが、其の息子二人は更に偉大な身分や地位に為ろうとしている。

 改めて幼い頃より、兄弟のように育ったこの二人を誇りに思うタナスであった。



 昼食を食べ終わると、マイエの両親とレーマック一家は帰宅する事に為ったが、レーマック家の娘のソルクタニがツアラとセツカともっと遊びたいと、駄々を()ねたので、母のメイユは妹のセツカに「夕飯前に迎えに来るから、其れまで娘をお願い」、と言って夫と二人で夫の実家であるカリーフ村村長宅へ戻る事にした。

 戻りながらタナスとメイユは話し合っている。メイユは服を幾つか持っていて、これらを夕までに直し、娘を迎えに行く。

「マグタレーナ様の服を作っていたが、あの方と何か話をしたか?」

「えぇ、カイ兄さんにはとてもお世話に為っているって、兄さんが四六時中目が覚めていて、常に戦い続けられる訳では無いから、其の時は自分が守る、とも言っていたわ」

「そうか、お互いに守り合いたい訳か」

「其れと、マグタレーナさんって、私と同じ年なのよ。あの年で、然も女性で士官って凄くない?」

 レナとメイユはこの年に二十二歳になる。同じ年の女性同士と云う事で話は弾んだ様だ。

「レナって呼んでって言われたわ。カイ兄さんもそう言ってるみたいだし。あの二人は其の内結婚するのかなあ。とてもお似合いじゃない?」

「其れ以外は特に何も話さなかったか?」

「何?さっきから貴方、ちょっと変よ」

 タナスは意を決して、あのマグタレーナ・ブローメルト様は皇帝陛下の義妹に当たる貴族だ、と説明した。

「そうなの!そんな感じ全然しないから、ちょっと吃驚(びっくり)。でもとても御綺麗だから、言われてみれば貴族の御令嬢と云う感じね。そして、ハイケは陛下のお側でお仕事をしているのだから、二人とも皇帝陛下と面識どころか、共に信頼されているなんて素晴らしいわ」

「今のは村の人達には話すなよ。更に大騒ぎに為るからな。俺はちょっと周囲の誤解を解く為に村中を回るから、メイユは先に家に戻って好いぞ」


 カイとレナはガリンの墓参りに行った。カイはしばしば父の様々な言葉を思い出すが、墓前に立つと、改めてそれらの言葉を強く咀嚼する。そして、其のまま二人は弟たちの武芸の上達ぶりを見る事にした。

 この年で十七歳になる双子の弟たちの騎射は更に磨きがかかり、レナも感心する。レナはメイユが直した動き易い外用の服を着ているので、彼女も馬を駆り騎射をした。

 此れにはシュキンとシュシンも驚く。双子の身長は百と八十五寸(百八十五センチメートル)を越え、細身ながら骨太のしっかりとした筋骨をしているのが服ごしでも分かる。手足も長く柔軟性も有る理想的な戦士の体付きだ。短く刈った褐色の毛と同色の瞳をしていて、「活発」が表情を含め全身から発している、そんな少年たちだ。

「次は剣術を見てあげましょう」

 そう言って、レナは摸擬剣を手に取り、双子のどちらかが相手をする事を要求した。摸擬剣は木で作られた、柄を除く剣の部分をやや細く削り、其の上に布を何重にも巻いた物である。頭や胴に皮の防具をレナは身に付ける。

 双子は恐れたが、其れは怖いからではなく、流石に女性相手だからである。仕方なく防具を付けたシュシンが相手をする。

 結着はあっさりついた。シュシンの摸擬剣は数合でレナに因って弾き飛ばされ、シュシンはレナから防具を付けた頭に摸擬剣の軽い一撃を食らった。

「其れが全力なの?若しそうだとしたら、本格的に鍛えないといけないね」

「おい、レナさんは恐ろしく強いぞ。手加減はするなシュキン」

 次はシュキンが手合わせをした。シュキンもレナの剣に防戦一方と為ってしまったので、何時しか本気で撃ち取りにかかった。処がカイが其れを止めた。

「時間を決めよう。一対一で戦い、お前たちのもう一人は百八十数えて、決着がつかなければ交代だ。レナ、其れで好いかな?」

「えぇ、構わないわ。じゃあ改めてシュシンからいくよ」


 こうしてレナは双子を代わる代わる相手に摸擬剣で戦い始めた。

 カイはグライの様子を見る。馬を見事に乗りこなす事が出来、騎射は馬を止めてだが、出来る様だ。

「すごいな。グライ!俺たちも摸擬剣で戦おう」

 グライはこの年で九歳ながら、その背丈は百と六十五寸(百六十五センチメートル)近くある。母のマイエの背を越えている。弛緩した肥満体では無いが、肉付きが良く、さらさらとした黒褐色の髪は短くして、やや灰色がかった薄茶色の瞳した、其の表情が何処か茫洋として見えるのは、体格に対して、顔の造りが追い付いていないからだろう。

 グライは防具を付けたが、カイは防具を付けなかった。

 グライが一撃をカイに見舞う。当然カイは其れを摸擬剣で受けるが、思っていた以上に一撃が重く手が痺れるのに驚いた。グライは次々に打ち込むがカイは其れを受け流し、単純に空を切らせ、がら空きのグライの体に軽い一撃を叩き込む。

「凄いぞ。俺でさえ、お前の頃には此処までは出来なかったぞ!」

 カイは褒めたが、時たま摸擬剣で受けるグライの渾身の一撃に、別の意味での不安感を持った。

 双子とレナの勝負は時間制限を設けた為か、結局其れ以降ずっと引き分けが続いている。

 三人とも呼吸を乱しているが、より息を乱し汗だくに為っているのは、代わる代わる相手をした双子の方だった。

「いい汗をかいたね。メイユさんに服直しを頼んで貰って良かった」

 尚、何処か余裕のあるレナを見てシュキンとシュシンは驚く。

「あの人はな。テヌーラの女帝をあと一歩という処で、撃ち取る事が出来た英傑だぞ。お前たちが別に弱い訳じゃない」

 カイは先のテヌーラとの水戦の話をした。つい先日まで帰郷していた次兄のハイケから、其れは聞いてはいたが、改めて長兄からの話に弟たち三人はじっと聞き入っていた。


 夕刻前にメイユがレナの服を持って来て、代わりに遊び疲れ寝てしまったソルクタニを抱いて、レーマック家へ戻って行った。

 湯あみの準備が出来ているので、レナから順次入る事に為った。セツカとツアラは夕飯の手伝いをしているが、カイはセツカを捕まえて、「ツアラ、すまないが。ちょっとセツカと話をしたい」、と言ってセツカと二人きりに為った。

 セツカはこの年で十二歳。今年いっぱいで学校は卒業で、一月からはハムチュース村の学院に通う。

 明るい茶色の髪は長く、其れを二つ結い(ツインテール)にしていて、少し黄みがかった灰褐色の瞳をした年齢相応の体格をした少女である。その顔の造りは段々メイユに似てきている。

「セツカ、学校でグライは周りから揶揄(からか)われたりしていないか?」

「あの体でしょ。たまに意地悪な事を言われてるよ」

「グライはそんな時、如何してる?」

「如何もしていないよ。相手にしていないみたい。あの子はのんびりした子だから、意地悪されてる事自体に気付いていないんじゃないかな?」

 だがセツカが一喝をすると意地悪は無くなるらしい。カイが心配したのはグライが怒って何かした時だ。手合わせをして分かったが、グライが其の気に為れば、大人でも怪我をさせる事が出来る。ましてや、子供相手なら最悪の事が起こり兼ねない。グライの優しい性格とセツカが居るから今は大丈夫だろうが、来年からセツカは学院通いで、グライと一緒に居られ無い。

「分かった。有難う。グライとは直に話し合った方が良さそうだな」

 ウブチュブク家の面倒事(トラブル)の種と言えば、双子のシュキンとシュシンだったが、今や彼らは心身共に大人へと為りつつある。

 だが、次はグライが面倒事を起こさないとは限らない。カイはグライに色々諭さなければ為らない様だ。

 今はのんびりした性格だといっても、成長して行けば体格だけでなく、心だって変わって行くかもしれない…。



 カイは湯あみの前にグライを、一室で二人きりで話がしたいと連れた。

「グライ。学校は如何(どう)だ?嫌な目には合っていないか?」

「うん。時々揶揄(からか)われるよ」

「そんな時、お前は如何思っている?」

「嫌だな、とは思うけど、相手にするとセツカ姉さんにも迷惑をかけるから、我慢してるよ」

「そうか、偉いな。お前には俺が父さんから、一番初めに教えられた言葉を伝えよう。俺が最も大事にしている言葉の一つだ。そして、お前もこの言葉を大事にして欲しい」

「うん、お父さんの言葉って聞きたい!」

 父ガリンが死去した時、グライはまだ六歳だった。其の為ガリンはあまりグライに接する事が無かった事を悔いていた。

「強い力とは、己を誇示する為の物では無く、弱き者を守る為に使うんだ」

「誇示?」

「要するに周りに見せびらかせる為の物で無いと云う事だ」

「それって、僕が将来、カイ兄さんの様に兵士に為るって事?」

「将来の事はまだ好い。兎に角、お前の其の力は無暗に使ってはいけないと肝に銘じてくれ」

 カイは自分が十一歳位の時の事をグライに話した。


 カイは其れまでは「周囲より少し大きい」程度の子供だったが、十一歳を過ぎると急速に背が伸びだし、数カ月で百と七十五寸(百七十五センチメートル)近くに為った。まだまだ背は伸びそうで、まるで朝を迎えると、一寸(一センチ)は伸びている様な感覚だった。

 ある時、カリーフ村の学校でカイは、同じ歳の少年から、其の体の大きさを揶揄(からか)われた事がある。

 余りにも執拗なので、遂にカイは其の少年を突き飛ばしてしまった。

 カイは軽くやった心算(つもり)だったが、其の少年は大きく飛ばされ、机に体を打ち、大怪我とは云わずとも、其の日の内にカリーフ村の診療所へ担ぎ込まれ、治療を受けた。幸いにも骨折などは無かった。

 この時、たまたまカリーフ村で休暇を過ごしていた父ガリンは、即座に其の少年の家へカイを連れて謝り、其の少年の両親も逆に英雄に頭を下げられ謝罪される事に、寧ろ戸惑った様だ。

 其の帰途にガリンはカイを怒鳴りつけるでも無く、諭す様に先の言葉を使い、カイに力の使い方、使うべき時、使うべき相手、何故使うのか、(など)を色々説明した。

 そして、最後にこう締めくくった。

「若し、お前が存分に力を発揮したいのなら、俺が相手に為る。武芸の訓練で沢山出し切るんだ」

 以降、カイは志願兵の調練でヴェルフ・ヘルキオスに出会うまでは、重傷前の父以外に其の力を人相手や人前で本気で発露しなかった。

「俺相手なら、幾らでも其の力を使っても好いぞ。明日からは俺も少しは本気を出すからな」

 そう言って、カイは末弟の頭を撫で、次の風呂の番となったグライに、湯あみに行く様にと勧めた。

 そして、カイは「おや?」、と思った。確か自分が父の様に軍務に就きたいと、明確に意識したのは、この時の父の言葉だった。

「むむ。若しグライが真っ直ぐに育っても、今の言葉を契機に軍務に就きたがったりはしないだろうか?」

 カイは自分たち息子五人が、軍事に関連してしまう可能性を考え、母のマイエに申し訳ない事をしたのではないか、と多少後悔した。


 以降、カイとレナとシュキンとシュシンとグライは、朝は馬の世話と厩舎の整備、昼食以降は武芸の訓練を主にした。時には朝の十の刻(午前十時)に用意した昼食を携え、皆馬にて夕近くに帰れる様に遠出をした。勿論この遠出にはセツカとツアラも連れている。セツカはカイの前に、ツアラはレナの前に乗っている。移動もグライに合わせて、ゆっくりした騎行だ。

 また、カイとレナは、セツカとツアラに騎乗を教えたり、武芸を教えたりもした。

 天気の悪い日には勉強となり、カイは双子の弟たちの学院での進捗状況を聞いた。

 学院は十八歳に為る年までしか居られないので、双子は来年の年末で、強制的に卒院だ。

 だが、如何やら選択していた科目の残っている物は、本年度中で修了予定だと聞いて、カイは安堵した。

 学院では五十以上は有る様々な科目を選び、各自受講し、修了試験に合格すれば、其の科目は修了と為る。

 多くの生徒は十科目位しか選ばないので、大抵の者は二・三年程で卒業する。

 ウブチュブク家の子弟は皆二十以上の科目を選択していたので、卒業までに時間が掛かるのだ。

 ハイケに至っては四十近くの科目を選択して、十七歳になる直前で全て修了したのだから、ハムチュース村の学院の開校以来の英才と謳われたのは当然だった。

 既にウブチュブク家内ではレナが貴族の娘で、然も実の姉が皇妃という事は承知している。

 左程、一家が貴人に抵抗が無かったのは、カイが生まれた頃だが、現兵部尚書(国防大臣)で、当時将だった軍人貴族のヨギフ・ガルガミシュが共も連れずに、ウブチュブク家に数日宿泊して、赤子のカイをあやしていた影響だろうか。


 九月も第三週に入ったので、長い夏休みは終わり、シュキンとシュシンはハムチュース村の学院へ、セツカとグライはカリーフ村の学校へ、朝食後に登校する様になった。 

 また数日前にレーマック一家もハムチュース村に戻っている。教師であるタナスとメイユは登校日前までに、生徒たちが学院に来て直ぐ授業を受けられる様に、学院で準備をしなければ為らない。

 レナは既にカリーフ村の学校関係者に言ってあるが、ツアラを九月の終わり頃まで数日間特別に生徒として受け入れる様に頼んでいた。

 そして、初日にはレナは授業の参観も許されたので、この日の午前、ウブチュブク家はカイとマイエとモルティ夫妻と云う、何とも静かな状況である。

 カイは居間で酪奬(ミルク)を飲みながら読書をしていた。今度休暇で実家に戻る時に備え、茶の淹れ方を習い、茶葉や茶器一式を揃えた方が良さそうだな、と思いながら本を読んでいた。ニャセル亭以外にカイは帝都ウェザールにて、茶器も扱っている、茶を出すお気に入りの軽食店を見つけている。本はハイケの部屋から拝借した歴史や地理に関する物で、其の内容はプラーキーナ朝の大陸統一前の各地域史について書かれている。

 やはりメルティアナ州の北西部にあるスーア市の辺りは、曾てヴァトラックス教を国教とした、祭政一致の国が在った様だ。


 其の国の名は今のスーア市を首都としていたダバンザーク王国。プラーキーナ王国の近辺に在り、プラーキーナ王国の本格的な勃興期に滅ぼされている。ラスペチア王国を初めとする、西方との交易に因る富みを得んとした、プラーキーナ王国の拡張の最初期の標的とされた様だ。

 戦闘自体はほぼ一戦にて決着がついたが、完全占領自体は長期間に渡って続いた様だ。

 王と神官、そして全住民がヴァトラックス教徒であるダバンザーク王国は支配層の王や神官たちが廃されても、其の地の民衆たちが熾烈な抵抗(レジスタンス)を長年続けていたらしい。

 遂には業を煮やした、アルシェ・プラーキーナに因る、大規模な住民の虐殺がダバンザークで行われた。

 辛うじての生き残りは、遠くラスペチア王国へ逃れる者もいれば、現在のホスワード帝国の各地に散ったと言われている。

 ダバンザーク王国の建国は九百年程前で、約千年程前に建国されたラスペチア王国から、建国当初より強い影響下に在った様だ。

 処が、其れから四百年が経つと、当のラスペチアは宗教色が薄れていき、逆にダバンザークは教えが強固な国へと変貌した。

 両国は通商という関係でも強い結び付きに在ったが、この頃ダバンザークの王族や神官たちはラスペチアの世俗化を、しばしば非難する親書や通使を送っていた。

 そんな中、ダバンザークはプラーキーナに滅ぼされる。友好国で同じ信仰を持つラスペチアと仲違いとは謂わずとも、其れに近い状態だったので、ラスペチアは抵抗(レジスタンス)に対する援軍もせず、亡命者の受け入れ位しか行わなかった。

 カイは今年の一月にスーア市に赴いたが、神殿を初めとするヴァトラックス教を思わせる建築物は一切無かった事を確認している。これは先年ラスペチア王国へ駐在武官として一時期滞在して居たので、ヴァトラックス教を国教とする国の有り様は直に知っている。

 プラーキーナに滅ぼされて、五百年。彼の地には完全にヴァトラックス教を思わせる物は何も無い。



 九月も終わりに近づいて来たので、カイたちの帝都ウェザールへの帰還日と為った。

 カイとレナは久々の軍装に身を包んでいる。レナはメイユに繕って貰った幾つかの気に入った服を持ち帰る様だ。

 カイは母に次に自分が従事する任務について詳細に述べた。

「恐らく北のエルキトとの戦いに為ると思うけど、既に数カ月前から準備と情報収集をしている。ホスワードの軍の関係者たちは皆優秀だから、俺たち戦士たちが存分に力を発揮出来る環境を整えてくれている。戦地に赴くけど、心配はいらないよ。手紙は戦いが終ってからに為るから、暫く書けないけど安心してくれ」

「カイ、武功を上げるなんて事は考えず、只無事でいて、貴方もハイケも。其れだけが私の願いなんだから」

「分かっているよ。自身も含めて、戦場では部下たちの命を第一に考えている。此れは父さんの教えだからね。其れとハイケについてだけど、陛下は厳しい為人だが、無謀な事は絶対に臣下にさせない御方だ。ハイケの事は全く心配しなくて好いよ」

 そうカイは言って、身を屈めて母親の額に軽く接吻をした。

 そして、カイは一人一人の弟妹たちを軽く抱きしめていき、モルティ夫妻に改めて家族の事を頼む。

「お母様。ツアラ共々大変お世話に為りました。セツカ、ツアラと仲良くしてくれて有難う」

「セツカちゃん。今度はセツカちゃんがウェザールに遊びに来てね。宜しいですか、レナ様」

「えぇ、何時でも歓迎よ。セツカ」

「うん!絶対に行く!良いでしょう、お母さん」

 マイエは「じゃあ、来年の夏休みだね」、と言ってセツカの要望を承諾した。

「貴方達も一緒に来なさい。私の父はガリン・ウブチュブク指揮官と親しかったのだから。色々貴方達のお父様の話も聞けるし、何より父は武芸の達人だから、ひと夏鍛えて貰いましょう」

 シュキンとシュシンとグライは揃って、心此処に非ずと云う何と言えない顔をして、曖昧に頷いた。名門軍人貴族の元将軍に鍛えられる等、流石のシュキンとシュシンも鼻白む。

 こうしてカイたちは村の門前まで、馬を曳きカリーフ村を出て、先ずはムヒル市を目指して出発した。

 村の門前では家族が何時までも手を振っている。


 早朝に出発した為、ムヒル市には昼前に着いた。ムヒル市から歩いて半刻(三十分)程ある所に、河があり、其処には船着き場が在る。ウェザール方面へ向かう馬も乗せられる船は午後の三の刻(午後三時)発なので、カイたちは暫くムヒル市で時間を潰すことにした。

 市の広場では旅楽団が演奏するらしい。楽団と謂っても歌い手兼洋琵琶(リュート)を奏でる男女、打楽器と擦弦楽器(ヴィオラ)手回し鍵盤楽器(ハーディ・ガーディ)縦笛(リコーダー)の六人組である。

 カイたちは其の演奏会を聴きに行った。

「うわぁ、素晴らしい。此れに比べると、申し訳ないけど、ボーボルム城での即興の楽団は只の騒音ね」

 レナとツアラは、特に洋琵琶を奏でながら歌う男女に魅了されている。曲に因っては掛け合い。或いは調和(ハーモニー)をする。ボーボルム城での騒音とは、五月のテヌーラとの水戦の勝利後、歌や演奏に自慢の有る兵たちが、即興で楽団を結成して宴席を盛り上げた事である。

 カイも聞き惚れている。特に洋琵琶を弾きながら歌う男性に見ていて、或る事に気付いた。

「すまない。ちょっと席を外して調べ物がしたい」、とカイは言って、レナとツアラを演奏会の広場に残し、市庁舎へと向かった。カイはムヒル州に興行やって来た団体などを、ムヒルの市庁舎の担当の部署にて調べる心算である。

 カイの頭の中は曾てバハール州で観劇した、パルヒーズ一座のパルヒーズ・ハートラウプの朗々とした独唱(アリア)で一杯に為っている。


 劇などをする興行団は州や市の役所に、興行を行う場所と逗留期間を記載する決まりが有る。

 カイは其の担当の部署にて、ここ数年のムヒル州に来た興行団を調べていた。無論カイが上級の士官だからこそ、予約無し(アポなし)で出来るのだ。この件に関しては、カイは自身の地位に因る特権を躊躇無く使用する。

 二刻(二時間)程して、カイは市庁舎から広場に戻った。既に演奏会は終わっている。レナがカイが離れた理由を聞くと、其の成果を聞いた。

「で、如何だった?」

「いや、大規模な劇団や音楽家たちは、ここ数年ムヒルには来ていないな。多くても十人前後の奇術(マジック)滑稽話(コント)をやる集団だけだったよ。彼は歌も上手かったし、多分楽器演奏も巧みそうだったから、或いは小楽団か、一人で吟遊詩人でも遣っているのかと思ってな」

「其れは例のパルヒーズ何とかをとっ捕まえて、『もう一回お前の歌を聞きたい』、って催促する為?」

「我ながら、中々此れに関しては執拗だと思っているよ」

 苦笑するカイにレナは、そろそろ帝都へ向けての水路の船の出航時間に為る、と言ったので、カイは調査を諦めムヒル市を出発する事にした。

「パルヒーズ・ハートラウプ。お前は今、何処で何をしている?スーア市に居るのか…」

 カイは心中で曾てホスワード南方のバハール州で観劇し、ラスペチア王国で巡礼に来ていたパルヒーズの事を思ったが、帝都に近づくにつれ、其の思いは心中の別の中に仕舞い込み鍵を掛け、(きた)るべき戦に対して集中する事にした。

 九月二十九日。カイとレナとツアラは帝都ウェザールに到着した。レナとツアラはブローメルト邸へ、カイはニャセル亭へと別れる。時刻は夕の五の刻(午後五時)近くだった。


「おう。休暇は充分に取れたかね。ウブチュブク殿」

 既に半ば酔っているヴェルフが例に因って、ニャセル亭での飲み友達であるウェザールの商人や職人と盛り上がっている。

「お前、この分だと、昼から呑んでいるな」

「まぁ、今日は存分に疲れを癒せ。俺だって毎日こうじゃ無いぞ。週に一日は士官の会合や、兵部省に赴き情報を集めていたのだからな。明日、その詳細を話そう」

 本来、この九月はカイもレナもヴェルフも完全休暇なのだが、週一とは云え、ヴェルフは任務に従事していたらしい。其れを思うと、ヴェルフのこの醜態を許してしまうカイであった。

 そしてカイは半ば帝都に於ける宿泊場所である、ニャセル亭の二階の部屋に荷物を置き、夕食を取る為に一階の食堂のヴェルフたちの宴席の輪の中に入った。

 翌日、朝食というより、午前の十一刻(午前十一時)にカイとヴェルフは起き、一階にて朝食兼昼食を取ると、二階のヴェルフの部屋にて話し合いと為った。云うまでも無く、前日は夜遅くまで飲み明かしていた。


「十月の半ば頃に、エルキト藩王国は本朝(わがくに)の影響下に在るエルキトの諸部族への侵攻。バリス帝国も国境を越えての侵攻だが、如何もバリスの方は北方のラテノグ州への侵攻と為る様だ」

 ラテノグ州はホスワード帝国の最も北西に在る州で、其の西の大半は曾て長らくバリス領だった。

 彼らとしては失地回復なのだろうが、南のメルティアナ州が攻略対象とされない事は意外だった。

 何故なら、今年の四月にメルティアナ城はテヌーラ軍の攻囲を受け、其れはアムリート率いる軍に因って駆逐されたが、まだメルティアナ城は、テヌーラの攻城兵器で壊された城壁の修繕中である。故にメルティアナ城の攻略の方が容易だし、場合に因ってはテヌーラの援軍や補給物資の援助も期待出来る。

「俺たちはやはりエルキト藩王国の侵攻を食い止める為、エルキトの諸部族と同盟しての戦いか」

「そうだ。全軍騎兵で、ウェザールより騎兵二万五千。オグローツ城より騎兵一万。シェラルブク族が騎兵一万。その他のエルキト諸部族が騎兵五千。計五万の騎兵と為るな。ウェザールの騎兵の内二万は重騎兵で、他は全て軽騎兵だ」

 オグローツ城とはホスワードの北方に在る城塞で、この城塞にも付近の見張りの塔なども合わせると、約二万の兵が常時駐屯している。ヴェルフは更に説明を続ける。

「ウェザールの進発日は十月六日。十日までに今言った全軍はシェラルブク族の居住地に集結だ。そして、総司令官はエドガイス・ワロン大将軍だ」

「ワロン大将軍か…」

 カイは呟いた。カイもヴェルフもこの将軍に余り良い感情を持っていない。曾て二人に懲罰人事を下した人物である。だが現在は大将軍に任じられた代わりに、将校に対する警察権は取り上げられたと聞く。

「そして、おまけとして、あのファイヘル・ホーゲルヴァイデも同じく配属だ。叔父の元、さぞ軍功を立て易くして貰えるのだろうな」

 ファイヘル・ホーゲルヴァイデは、ワロン大将軍の姉の息子に当たる。彼はこの年でカイと同じ二十三歳だ。軍に於ける席次はカイとヴェルフと同じく、上級中隊指揮官である。そして、カイとヴェルフが懲罰人事を受けた一悶着を起こした相手でもある。

「彼は決して、叔父の威を借るだけの無能者でも、臆病者でもない。只、軍主流の貴族の考え方がああなのだろう。俺たちに親しくしてくれる軍人貴族のガルガミシュ家やブローメルト家等が、寧ろ特殊なのだ」

 二人が初めて任務に就いたバルカーン城司令官のムラト・ラスウェイ将軍や、ボーボルム城司令官のヤリ・ナポヘク将軍と其の後任のアレン・ヌヴェル将軍。彼らもこの様な特殊例に入る。

 だが、今回二人が加わる遠征軍の軍上層部の貴族たちには、こう云った人物たちは居ない。

 如何も戦闘よりも、自分たちが承服出来る軍命を彼らは発してくれるのか、其の辺りが二人としては不安な所である。



 バリス帝国の帝都ヒトリールの皇宮の一室で、皇帝ランティスと息子の皇太子ヘスディーテが会話をしていた。バリス帝国歴百四十七年九月の初頭である。ホスワード帝国歴では百五十五年と為る。

 彼らの会話は親子の親愛を楽しむ為の物では無かった。この親子は私的な場所でも、公的な場所でも実務的な会話しかしない。

 父帝は実務一辺倒の人物では無く、私的な場所や時間では愛犬と遊んだり、テヌーラとの修好後は皇宮の一部に動物を収容する施設や植物園を造り、南方の珍しい動物や植物を贈与して貰い、政務の間の自由時間には、其れらを愛でたり、時には動物の世話や植物の生育をするのが趣味だった。

 ランティスの皇妃、つまりヘスディーテの母親は数年前に薨去しているが、やはり動植物が好きで、ランティスとはこう云った趣味の一致が有り、夫婦仲は大変良かった。

 息子のヘスディーテは幼い頃は学問、長じては政務にしか関心が無いと云う人物で、皇太子として武芸や軍略などの軍事的な教育も施されたが、自分に合わない、と悟ってしまうと最低限の技能しか身に付けず、自ら修了してしまった。辛うじて彼の趣味と云えるのは様々な読書や、周辺諸国の語学の習得である。ヘスディーテはほぼ同言語といえるホスワード語は勿論、エルキト諸語、テヌーラ語、更にはラスペチア語や其の西方に在る国々の言語にも通じている。


 第七代皇帝ランティス・バリスはこの年に五十四歳であり、皇太子ヘスディーテ・バリスはこの年に二十二歳である。

 ランティスはどちらかと云えば小柄で、肥満体では無いにしろ、やや小太りである。白を基調とした膝下まで届く外衣(ローブ)を着込み、(ズボン)は灰色で、短靴(ハーフブーツ)は漆黒である。そして外衣の上にバリスの色である赤褐色の外套(マント)を羽織り、この外套には金銀の様々な華麗な装飾が施されている。頭にはこの時、帝冠を被っていない為、頭部が露わに為っているが、後頭部と側頭部にしか残っていない黒褐色の毛は、抜け落ちる必死の抵抗(レジスタンス)を長年続けている。丸顔で眠たそうに垂れ下がった眼の瞳の色は灰色だ。

 ヘスディーテは辛うじて長身と云う部類に属するが、其の体格は虚弱では無いにしろ、線が細く戦士の体付きでは無い。着ている衣服は上下共に濃い灰色で、各所に銀の装飾がされ、上着の左胸には銀の双頭の鷲が配されている。そして、(ベルト)長靴(ブーツ)は漆黒であり、上半身に羽織った白の肩掛け(ケープ)にも銀の装飾が施されている。顔の造りは白皙の秀麗で、其れに対を成す様な黒髪は綺麗に切り揃えられた直毛だ。切れ長の目の瞳は、父親と唯一共通する灰色をしている。


「攻撃対象をメルティアナ城でなく、ラテノグ州にしたそうだが、其の理由は何だ?確かに彼の地の大半は本朝(わがくに)の物だったが」

 ランティスは息子に侵略の目的地についての質問を発していた。メルティアナ城の方が攻略が容易だし、何よりテヌーラの援助が期待出来る。

「先ず、今回の侵攻はエルキト藩王国との同時侵攻と為ります。若しお互いホスワードへの侵略が順調に進めば、両軍の結集も可能です」

 ヘスディーテは無表情で答える。父帝はかなりの政略や外交を息子に任せている。

「そして、メルティアナ城ですが、仰る通り確かに攻略は容易でしょう。しかし、此処でメルティアナ州の多くを本朝が領すれば、テヌーラ側に脅威を与えます。まだ彼の国の高官にはホスワードとの修好を望む者も居ますし、先の敗戦でホスワードとの対立状態を避けたいと思う者も居るでしょう。我らのメルティアナ城占領で、其れが加速され兼ねません」

「では目標としては旧領回復、と云う事だな。動員はどの位に為る?」

「十万を動員します。恐らくエルキト藩王国にホスワードは中央軍から三万近くを向けるので、迎撃に現れるのは五万を少し超える位でしょう」

「問題は我らの十万がどの程度運用出来るかだな。恐らく数カ月程だろう」

期限(リミット)は二カ月です。二カ月間の前に、侵攻を止め全軍をラテノグ州の領した西半の保持に回し、ひたすら防備に徹します」

「例の武器は使えるのか?」

「攻撃に使用するには、まだまだ改良をせねば為りませんが、今言った防備では実戦に堪え得るかと」

 武器とは火薬を使った筒から爆発物を発射する装置である。先のエルキト戦では長い導火線を付けた物だったが、今回の武器は其れを必要としない。

 ランティスは余りこの武器を好んでいなかった。戦で人馬が倒れるのは乱世で在るのだから仕方ない。だが、あのように大量の馬が殺傷されたのは、動物好きのランティスの心を痛めつけた。

 彼はあの戦いの後、戦場に残された累々たる馬の死骸を手厚く葬るように指示した。そして、一応ついでにエルキト兵の死骸の埋葬も指示した。


 エルキト藩王国はテヌーラ帝国を宗主国と仰いでいるので、歴にテヌーラ歴を使用している。テヌーラ帝国歴百八十一年の九月の中頃、エルキト藩王国の首都で最高指導者であるエルキト可寒(カカン)のクルト・ミクルシュクは周囲に文武の高官を並べた。

 特色は数十人程がテヌーラ人である。クルトは元々テヌーラの駐在エルキト通使館の長だったが、エルキト帝王バタルを自ら弑して、ホスワード帝国の影響下である部族を除く、エルキト諸部族の統一に成功し、内には可寒と名乗り、外には藩王と名乗っている。通使館の部下達はクルトに完全忠誠を誓っており、其のまま藩王国の文武の高官と為っている。

 首都は移動式の(ゲル)と定住式の建物が混ざった様式で、元々此処は南庭と呼ばれるエルキト帝国の冬場用の首都であったが、クルトの統一で、首都は此処に固定された。夏場の首都であった北庭は、今は可寒を初めとする高官たちの避暑地として改築中である。


 エルキト可寒のクルト・ミクルシュクはこの年で二十八歳。生まれはテヌーラ帝国の帝都オデュオスだが、彼の家系は元々プラーキーナ朝末期に権勢を誇った、相国ビクトゥル・ミクルシュクを祖とする。更にミクルシュク家はエルキトの有力者の血が濃い家系で、謂わば彼は遠い祖先の故郷の地に帰って来た様なものである。

 クルトはエルキトの色である黄土色の上下である軍装に身を包み、帯と長靴は黒褐色。そして、頭に被った帽子も、上に羽織った外套も獣皮である。

 背丈が百と九十五寸(百九十五センチメートル)を越え、この様な厚着でも好く分かる引き締まった筋骨逞しい体をしている。

 エルキトに通使館の長として来てから、彼は明るい褐色の毛の側頭部を剃り、後頭部は伸ばし、其れを編んで垂らしている。まだ若いのに其の整った顔立ちは、他者を威圧する険しさで、細長い鼻の両目は落ち窪み、其処から発せられる眼光の瞳は黄みがかった薄茶色である。

「来月の半ばより、バリスがホスワードのラテノグ州へ侵攻するので、我らも其れに合わせ、ホスワードのエルキトの影響地域に侵攻する。今現在我らが動かせる兵は六万程だが、バリスが大半のホスワード兵を受け持つので、我らが相手をするのは最大で見積もっても五万程であろう」

「シェラルブク族を初め、其の影響下の軍と共に行動する為、ホスワード側は全軍騎兵で迎撃に来る事が予想されます」

 そうたどたどしいエルキト語で、テヌーラ出身の武官が説明した。

 クルトは自分に忠誠を捧げてくれているテヌーラ人にも、安心させる内容で部下たちを鼓舞した。

「先のホスワードとの戦いで、我らの宗主国テヌーラ帝国はホスワードにしてやられた。諸卿らにはアヴァーナ帝に勝利を捧げん為に、其の活躍を期待するや大である」



 ホスワード帝国の帝都ウェザールの兵部省(国防省)にて、北のエルキト藩王国に対する迎撃の兵をシェラルブク族の居住地に派遣する期日は決まったが、バリス帝国の侵攻を迎撃する兵の期日は決まっていない。

 何しろ、バリスでの諜報員に因ると、十万を超える数でラテノグ州に殺到すると言う。

 若し、其処で一戦して敗れれば、ホスワード側としては其れを迎撃する兵が無くなる。

 また、バルカーン城やメルティアナ城にも同時攻撃をかけてくる可能性も有る。

 その為、バリス兵の迎撃には、他の戦線にも現れない事の確認が出来次第、進発する事が決まった。

 ラテノグ州の州知事や各市には、バリス兵が来襲したら、無防備宣言をして、降伏しても構わない事を伝え、兎に角住民を安全な所に避難させる事を第一とする様、アムリートは早馬を奔らせた。

 中央で用意出来る兵は五万。若し他の戦線にバリス兵が来なければ、ボーボルム城とメルティアナ城から五千ずつ、バルカーン城から一万の兵を援軍として動かす事をアムリートは決め、この三つの城塞にも早馬を奔らせている。

 先ずボーボルム城からラース・ブローメルトが歩兵五千を率い、メルティアナ城に入り、其のままメルティアナ城からウラド・ガルガミシュがやはり騎兵五千を率い、両者の一万がバルカーン城のムラト・ラスウェイ率いる歩騎一万と合流して、北のラテノグ州を目指す。

 この二万の軍団の総司令官は閲歴が一番古く、年齢も一番上のラスウェイが担当し、ラースとウラドは副将となる。此れで合計七万の迎撃軍が組織出来る。

 期待は薄いだろうが、若しエドガイス・ワロン大将軍が率いる軍団が、エルキト藩王国の侵攻を早期に退けたら、其の五万の騎兵の軍団もラテノグ州を侵攻するバリスに当たらせる事も出来る。

 何れにしても、ラテノグ州が戦火に塗れるのは間違い無く、其の為アムリートは自ら中央の五万の兵を率いる事にした。騎兵一万五千、歩兵三万五千、の編成である。


 十月に入ってからの皇宮の朝議では、宰相デヤン・イェーラルクリチフがアムリートに親征を控え、対バリスの総司令官には兵部尚書(国防大臣)のヨギフ・ガルガミシュに担当させる様に進言した。

 既にこの年の四月から五月にかけてアムリートは自ら軍を率いて、テヌーラとの連戦をしている。

 此処で皇帝に万が一の事が有ったら、と宰相が諌めるのも当然だろう。

 ヨギフも宰相の意見に同意した。

「陛下、如何か臣めにバリスに対する総司令官役をお任せ下さい。陛下は帝都に在って、決してこの様な失策は致しませんが、若し万が一、臣とワロン大将軍が敗れた場合、其の残兵を糾合して復仇戦に備えて下さい」

 アムリートは静かに拒否した。

「敗れた場合の残兵の糾合に因る復仇戦は兵部尚書に任せる」

 ヨギフがアムリートに帝都に居て欲しいのは別の理由もあった。

 アムリートの甥であるユミシス大公が一カ月程前から重篤な状態と為り、医師たちは本年度中の御覚悟を、と恐る恐るアムリートに述べた。

 其れを知ったヨギフはアムリートには、ユミシスの傍に居て欲しかったのだ。

 結局、朝議は此のまま解散となり、ヨギフはアムリートから何時でも本隊五万が速やかに、ラテノグ州へ進発出来る様、準備する事を命じられた。

 この日はワロン大将軍が二万五千の騎兵を率いて、シェラルブク族の居住地へ赴く日であった。


 アムリートは宮殿の四階の執務室へは行かず、五階に上がりユミシスと其の母親のフィンローザの部屋に入った。

 室内は医師や看護師たちもほぼ常駐して居て、其れでも尚、十分な広さを誇る部屋である。

 周囲に看護師とフィンローザがいる豪奢な(ベッド)へ、アムリートは歩を進めた。

義姉上(あねうえ)。合図もせず、入室して申し訳ありません。ユミシスの具合は如何(いかが)でしょうか?」

「陛下。本日は意識があります。話し合いたい事があれば、どうぞ此方の席へ」

 そうフィンローザは言って、自分の座っていた席を皇帝に譲った。

「恐れながら陛下、長時間のお話は御控え下さる様」

 医師の命に素直に頷いたアムリートは床に横たわる甥の顔を見る。

「叔父上…」

「起きずとも好い。其のまま余の話を聞いてくれ」

 ユミシスの顔は青白く、其の頬は痩せこけている。この年で十六歳に為るのだが、其の命は風前の灯火である事は誰にでも明白であった。

「余はこれより戦に出る。必ず勝利して帰還するから、お前もこの戦いに勝って欲しい」

 自分の言っている事が極めて不条理だと承知はしているが、そう言わずには於けないアムリートだった。

「叔父上、必ずや勝利して下さい。私の願いは只其れだけです」

「では、勝利したら、軍功第一はユミシス、お前だ。その言葉、(しか)と受け取ったぞ」

 アムリートは席を立ち、医師や看護師たちに付きっ切りの看病に感謝の意を述べ、そしてフィンローザには「如何か、義姉上は御休息を取られます様に」、と言って部屋を退出した。


 部屋を出ると、もう一人の甥のオリュンと副官のハイケが居た。オリュンは目に涙を溜め込んでいる。

 オリュンはこの年で十一歳。背格好は年齢相応で、薄茶色の髪とホスワードの色である鮮やかな緑の瞳をした少年である。この少年は毎日の様に学問や武芸に励んでいる。特に一カ月前から大好きな従兄が重篤に為ってからは、其れを少しでも忘れようと、更に熱心だ。近くで其の様子を見ているハイケは何とも胸が痛い。

「オリュン、すまぬ。この様な時に余はまた出陣だ。戦の勝報で病が治る事など無いのにな。だが余には此れしか出来ない」

「叔父上、ユミシス兄様も僕も戦場で武勇を振るう叔父上が一番大好きです。必ずや勝って下さい!」

 其の言葉を聞いて甥の頭を軽く撫でた皇帝は、宮殿の五階の一室に住んでいる副官に向かって言った。

「ハイケ。執務室にて、協議がしたい。勝利の為に卿の知恵も借りたい」

 ハイケは直立して、右の拳を左胸に当てる敬礼をして皇帝の命を受けた。そして、オリュンに優しく語りかける。

「オリュン大公殿下。では勉学は終わりにしましょう。武芸の稽古も暫く休憩です。大公殿下のお年の方はよく食べ、よく遊び、よく寝るのも、重要な訓練です。此れは私の父の言葉で、私が殿下の御年の頃によく言われた言葉です」

 ハイケは時たまオリュンの勉学を見たり、武芸の訓練の相手をしていた。同じ年頃の妹弟がいるハイケは「畏れながら」、と思いながらもオリュンの事を弟の様に可愛がっていた。オリュンも学識高く、武芸も出来るハイケにすっかり懐いている。

 皇帝と副官は宮殿の四階のアムリートの執務室へと向かった。


 ホスワード帝国歴百五十五年十月六日。帝都ウェザールより、大将軍エドガイス・ワロン率いる騎兵二万五千が、北方のシェラルブク族の居住地へと進発した。

 カイ・ウブチュブクとヴェルフ・ヘルキオスは上級中隊指揮官として、其々五百名の軽騎兵を率いている。

 マグタレーナ・ブローメルトは七十名の軽騎兵を率いているが、これは全員シェラルブク族の女性たちだ。部隊内のホスワードの女性三十名は、現在調練中の女子志願兵の指導員をしている。欠員の三十名はシェラルブクの地にて、三十名の女性を補充予定だ。

 ホスワード帝国の命運を賭けた血戦が、今始まろうとしている。


第十六章 父の言葉 了

 そんなわけで、以降は次第に殺伐とした話になっていくと思います。

 極力抑えるつもりですが、主要キャラの退場もあると思います。

 登場人物のファンになってくれた方には、申し訳ありません。



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