第十章 帰郷
夏に海や山でのんびりするのって、いいですよね。
いつになったら、行楽地で私たちは羽を伸ばせるのでしょうか?
そんな思いを感じながら、書いた章です。(2020年の夏はすることがなかったので、昔から思い描いていた、このお話を本格的にまとめる事くらいしかしませんでした)
それでは新たな年が、羽を伸ばして遊べることを願いつつ、第十章よろしくお願い致します!
第十章 帰郷
1
ホスワード帝国歴百五十四年の七月一日の早朝。帝都ウェザールの西にある練兵場の志願兵の一棟に居住していた、カイとヴェルフたち二十二人は、各自故郷へと帰ることになった。二カ月半の休暇だ。
この日はこの年の志願兵の調練の初日に当たるので、各自其々忘れ物等がないかの確認をして、使用していた一棟を綺麗にして、退去した。
志願兵の調練の責任者であるザンビエに確認すると、本年志願して来たのは三百名程だという。数日前より志願兵は集まっているが、カイたちが使用していた小屋はザンビエの計らいで、今日から志願兵が使用できるようにしていた。
部下たちは全員小隊指揮官に任じられた。二十名の内、七名がバルカーン城、五名がメルティアナ城、四名がオグローツ城、三名がボーボルム城への所属となり、九月の第二週の終わりまでに直接赴任することを告げられていた。
そして只一人、軍を昨日付で辞める者が出た。其れは二十人の中で一番の小柄な若者で、彼は故郷に帰って役人の試験を受けるつもりだという。例の学問好きな若者だ。
一番それを応援し、後押ししていたのがカイだったので、カイはその若者に特に一番激励の別れの挨拶をした。
「お前なら、絶対に試験に受かる。いい役人になれよ」
「ありがとうございます。このような形でお別れになりますが、皆さん如何か元気でやってください」
カイはこの若者が武に向いていないから、役人になった方がいい、と進めたわけでない。其れを決めたのは彼自身だ。
実はカイは其れを聞いて初めは残念がった。彼の内に秘めた案で水上にて敵船に騎兵を突入させる、というものがある。此れは小柄な者たちによる軽騎兵で編成するつもりだったので、武芸はいまいちだが、騎乗が達者な彼には期待していたのだ。
しかし、彼自身が決めたことだし、抑々腹案として半ば封印していることなので、カイは彼が軍務から退くことを了承した。
一人の女性を先頭に、四十人ほどの女性たちが会わられた。女性たちは皆若く、服装も動きやすい褲に身に付け、長靴を履いている。内二十名は馬を曳いている。
先頭の女性がヴェルフに言う。
「それではヘルキオス殿。彼女たちシェラルブクの方々のイオカステ州への帰還をお願い致します」
「お任せあれ。ブローメルト殿。安全は保障します」
マグタレーナ・ブローメルトはこの年に二十一歳になる。貴族の娘なのだが、宮中で礼服で着飾っているよりも、このような場で軍装をしている方が、より彼女の溌剌とした美しさが溢れ出ている。
ヴェルフは故郷のレラーン州にある港で、イオカステ行の馬を乗せれる大型船に彼女たちの搭乗の手配をするのだ。遊牧民であるシェラルブク族の女性たちは、海に出れることの期待が半分と不安が半分、といった表情をしている。
つまりヴェルフは故郷への帰郷の途中まで、シェラルブク族の女性たちと行動を共にする。其れはカイも一緒だ。カイは其のままヴェルフの故郷であるトラムという漁村で、約一カ月間過ごす。
「ではレナ様。我々は出発致します。調練は怪我なさらず、安全にできることを願っています」
「ありがとう、カイ。今度会う時はもっと規模も大きくして、直ぐにでも任務に付けられる部隊にします。貴方は中隊指揮官なのだから、貴方直属の部隊というのも良いかもしれませんね」
ヴェルフに肘で突かれたカイはレナの正面に立った。二人はややぎこちなく手を出し握手をしたが、二人とも同時に視線を地面に固定してしまった。
「やれやれ、こいつはかなりの長期戦になりそうだな」、とヴェルフは内心で嘆息した。
こうしてカイとヴェルフがシェラルブク族の女性二十人を連れレラーン州へ、部下たちは其々の故郷へと馬を飛ばして去って行った。
士官という身分は改めて便利だと、カイとヴェルフは思う。
途上の軍施設は突然の訪問でも、速やかに宿泊を手配してくれる。軍施設が無い所では、市や村の宿に泊まったが、其れに対する代金を払うと、丁寧にお礼を言ってくれる。
カイは父ガリンの言葉を思い出していた。ガリンも士官になってから周囲の自分への対応が変わった為、しばしば戸惑ったという。同じく昇進した士官の中には、周囲に対する態度が豹変し、高圧的になった者も居たそうだ。昇進とは自分を律する事が求められる。其れが父の言葉だった。
そしてレラーン州に入り、大船が出港できる港湾都市へ行き、其処でヴェルフがイオカステ州への便に対して、二十名の客員と二十頭の馬の搭乗の手続きをした。
カイがシェラルブク族の代表の女性に、「到着する港に馬牧場の職員を出迎えに来させている様に、既に知らせているので、安心して船旅をお楽しみください」、と言った。
こうしてシェラルブク族の女性たちは人生初の海の移動をして行った。
「さて、俺たちはトラムへ行くか。此処からなら馬を飛ばせば半日で着くぞ」
時刻は午前の十の刻(午前十時)だが、天候もいいし、ヴェルフが言うにはこの時期のレラーン州は突然雷雨になることもあるので、天候が良い時には移動した方が良いと提案した。
両者は馬を飛ばし、トラムへ向かった。
トラムの村は海上に対して三十尺(三十メートル)以上の土地にあり、人口は約四百人程でほぼ全員が漁業に就いている。防波堤に囲われた所に、漁船が大小五十艘ほど海上に浮かび、其処へは村から階段を下りていく。
この防波堤は四年ほど前の暴風雨と津波で半壊したが、現在は復興しさらに強固な物に為っている。
ヴェルフの父はこの大津波で流されしまった。母は彼がまだ幼い頃に亡くなっている。
ヴェルフがトラムを出て志願兵へと出立した頃は、まだ七割ほどしか復興していなかったが、半年程前に今の強固な状態への完成をしたそうだ。
実はヴェルフは給金の大半をこの防波堤の復興の為に使っており、村の皆は其れに感謝していた。だが、ヴェルフが「軍に行く」、と言っていたが、「あいつは本当は盗賊稼業でもやっているんじゃないか」、と大量に送られる金銭に対して不審がっていたのだ。
ホスワードの正規の士官の服装にて騎乗し戻ってきたヴェルフを見て、村人たちは問題の無い金が送られていた事に安心したものである。
「これで分かっただろう。俺は何ら後ろめたい事など無く、金を稼いでいるという事を」
帰郷した騎乗姿の軍装をしたヴェルフは村人たちからの感謝の言葉を送られていた。ヴェルフの金がなければ、復興はトラムの僅かな財政とレラーン州の財政援助だけなので、まだ工事中だったであろう。
時刻はそろそろ日が沈む頃である。ヴェルフは自分の家ではなく、親類の家に泊まろう、と言った。手紙でその親類に帰郷を告げる事を伝えてある。
親類と言うのはヴェルフの祖父の弟にあたり、其の大叔父は妻と二人暮らしをしている。二人には子供がいないので、ヴェルフのことを実の孫のように可愛がっていた。
魚を運搬するため、中が氷で満たされ、溶け出して漏れないように特殊な補強をされた荷台がある馬車もあるため、村には厩舎もあり、其処に二人は馬を休ませ、荷物を持ちヴェルフの大叔父の家へ向かった。
途上ヴェルフに挨拶をする村人たちは、ヴェルフよりも若干ではあるが背の高い同行者を見て吃驚する。
「ヴェルフ。このお連れの方は、何者だい?お前のような大男は然う然う見れたもんじゃないのにな」
「カイ・ウブチュブクと言います。ヴェルフ・ヘルキオスとは志願兵として同期に当たります。この度は一カ月程、この村に厄介になるので、宜しくお願いします」
そう言われた、村人は更に驚く、軍の士官からこのように丁寧な挨拶をされたら、寧ろ困惑してしまう。夕方だが其の日の内にカイの存在は村中に広まった。
「すまんな。何しろ、俺も含めて此処の連中は皆学校を出ただけで、学院に行ってた奴らなんて居ないからな」
「いや、落ち着いた所で、いい人達じゃないか。海が見えて潮風がするけど、俺のカリーフ村もこんな感じだ」
2
「じいさん、ばあさん。俺だ、ヴェルフだ。帰ってきたぞ」
老夫婦が二人暮らしをするには若干大きいが、二名の大男が同居となると、少し手狭な家にヴェルフとカイは入っていった。
老夫婦が出迎え、妻の方から声をかける。
「もう既にあんたたちの噂で持ちきりだよ。ウブチュブクさんですね。どうぞ、手狭ですが入ってください」
「本日は御厄介になります。明日からはヴェルフの家で過ごすので、宜しくお願いします」
夫の方はカイをしげしげと見ながら二人に言う。
「此れはたまげたな。お前よりでかい男がいるとはな。料理の準備はしてあるが、海の物は大丈夫かね?ウブチュブクさん。此奴の手紙によると、内陸の出身だそうで?」
カイは「寧ろ楽しみです。遠慮なく頂きます」、と言い、二人は荷物を置き、夕食の間へと行った。
言われた通り、夕食は海産物が並んだ。多くは塩焼きや揚げた物だが、煮たり、蒸したり、更には生で食べるように綺麗に切り分けられた鱠もあった。鱠は特別な魚醤という調味料と山葵という薬味をつけて箸にて食す。
「新鮮なものは鱠で食べると聞いたが、全てがそうなのか?」
「全部がそうではない。ほんの一部だな。大半は火を通さないと駄目だし。中には部位によって毒を持っているものあるので、火を通しても食べられない魚もある」
カイは独特の歯ごたえと甘みがする烏賊の鱠が特に気に入った。
勿論、彼らは漁村の民だからといって、毎日魚を食べている訳ではない。魚を売って野菜や肉や米やパンやチーズなどを買うので、それら使った料理もある。
酒も大いに出され、大叔父はヴェルフに言った。
「お前が大金を振り込んだおかげで、お前に渡す俺の船も直った。毎日じゃないが試運転も兼ねて漁にも出ている。お前は如何するんだ?何時から軍を辞め、漁に専念する?」
「其の事だが、じいさん。暫く俺は軍にいるつもりだ。はっきりとは言えないが、俺が四十位になるまでは、船のことを頼んでもいいかな。生活費や整備費のことなら心配はいらない」
「お前が四十になったらって、其の頃は俺もばあさんもくたばってるぞ」
「其れだけ、食って呑んでりゃ、然う然う死にはしないだろ」
ヴェルフは明日、漁に出たいので、大叔父に船を使用することを言った。
「カイ、明日は早速、釣りに行こう」
この日は其のままヴェルフの大叔父の家に泊まった。
翌朝、カイとヴェルフはヴェルフの大叔父に連れられ、彼の船の元に案内された。
この船は半壊していたが、一年以上前でのエルキトでの戦いでのヴェルフの恩賞で完全に修復され、大叔父は操船には何の問題もない、と太鼓判を押していた。
幸いにも天候に恵まれ、他の船も幾つか進発し、防波堤を越え、外洋へと出ていくのが見えた。
漁船は当然特殊な作りをしている。先ず釣った魚を保存する空間がある。そこには氷があるのだが、これら氷はトラムの最も奥地で、日の当たらない氷室小屋で保存されている。
氷自体はイオカステ州からレラーン州へ十一月から翌四月まで、定期的に商品として送られてくる。
レラーンでは冬場に水を張っても凍るほどの冷気がない。この氷を輸送しているのは古くからある、決まった海路である「氷の道」だ。シェラルブク族を乗せた船も「氷の道」を通った。故にヴェルフはレナに安全を保障したのだ。
故郷のカリーフ村で川釣りをしていたカイだが、流石に海の釣りは勝手が違う。
しかし、当たりが来て見事釣り上げた。即座にヴェルフが網ですくい上げると、血抜きの活き締めをして、魚を氷と海水で満たされた保存場所へと入れる。
「今のは鰹だな。捌いた後、皮目を炙って、塩と大蒜と葱などの薬味をつけて食うと旨いぞ」
その後カイは様々な魚を釣り、ヴェルフから釣果を褒められた。
「やっぱり、お前は何をやらせても、一流だな。以前も言ったが真剣にこっちの転職を考えないか?」
「確かに楽しいな。でもお前がいるから楽しくできるのであって、俺一人ではまだ志願兵みたいなもんだぞ」
「まぁ、一応、将来の道の一つとして考えてくれ」
大いに海釣りを楽しんだカイはヴェルフに連れられ、ヴェルフの生家へ向かった。途上ヴェルフの母の墓参りもした。父は海に流されてしまったので、墓は無い。
ヴェルフの家は定期的に大叔母が掃除を初め、何時でもヴェルフが帰宅できるように整えていた。
家には大叔母だろうか、様々な食品や酒類が用意されていて、「若し食べる者が困ったら、何時でもウチに来なさい」、という一文まであった。
二人はこの日は釣ってきた魚とその食材で、二人で料理をして、夜遅くまで食べ、呑み、そして色々な事を話し合っては笑い、就寝した。
こうしてカイはトラムでの生活を楽しんだ。釣りは勿論、ヴェルフと共に集団の漁船による網による漁業を手伝ったり、魚を専用の馬車で市へ運搬の仕事も手伝った。また一番多くしたのは海中での水泳だった。おかげでカイはヴェルフの様に浅黒く日に焼けていった。だがこの時期のトラムは一日中大雨という事もあるので、其の時はヴェルフの家で何もせず、昼から酒を呑み、のんびりと過ごした。
ある一日、この日はずっと雨だったので、カイは一室で、酒を呑んで寝転んでいた。実家のカリーフ村で天候が悪かった時は、弟のハイケと読書をしていたが、ヴェルフの家には本などない。やる事といえば酒を呑み、考え事をする位しかない。
「まったく、こうも長雨だと、酒を呑むことくらいしかないな」
そう言って、ヴェルフは直ぐに無くなる家の酒の補充から帰ってきた。麦酒や葡萄酒は勿論、米で作られた酒や、蒸留酒も買ってきたが、この蒸留酒は原材料として甘藷を使用したものだ。
「如何した。お姫さんのことでも考えているのか?」
「お姫さんとは誰のことだ?」
「何時も、お前が心の中で思い浮かんでいる女性のことだよ」
「別にレナのことなど、考えていない」
「俺は一言も、ブローメルト嬢のことだと言っていないぞ」
「…好い方だ。だが仮にも陛下の義妹に在らせられる」
「そんなのは関係ないぞ。以前も言ったが貴人には身分などに囚われない人たちも多いんだ。まぁ、俺は気の強い女は好きだが、ああいったお姫さんはちょっと苦手だな」
「ほぅ、夜の大将軍閣下にも苦手な戦があるとお見受けする」
「さて、明日は晴れるのを願って、呑むとするか」
八月五日の早朝。この日はカイとヴェルフが、トラム村を後にして、カイの故郷のカリーフ村へ出発する日だった。前日はヴェルフの大叔父の家に泊まって、その日の夕食は初日に来た日と同じような御馳走を受けた。
カイとヴェルフは久々にホスワードの軍装に身を包み、老夫婦に挨拶をして、厩舎へと向かった。馬は毎日ではないが、一応定期的に二人は軽く走らせていた。
そして出発となったが、トラムの大部分の人たちが見送り現れたので、二人はゆっくり騎行し、何時までも手を振って別れの挨拶をした。そして村を完全に抜けたころに、二人は一気に馬を飛ばし、ムヒル州へと進路をとった。順当に行けば四日で到着するはずだ。
この日は晴れているが、何より日射が強く、湿気もあり、ただ動かずとも汗が止まらない。
それもあってか二人は速度を上げ、全身に風を浴びた。
3
ムヒル州の州都ムヒル市に二人が到達したのは、八月九日の午後の三の刻(午後三時)である。カイは実家に九日の夕方頃に帰郷する、と手紙を送っている。ムヒル市に寄ったのは妹夫婦に会うためだ。
ムヒルの市役所に赴き、「タナス・レーマックという人物はまだ勤務中ですか」、と聞くと、対応した市の役人は「レーマック氏は先日より、長期休暇で、今は家族と共にカリーフ村にいます」、と告げた。
カイの手紙を知ったタナスは自分も休暇を取り、カリーフ村で一家で過ごしているようだ。対応した役人に礼を述べると、カイは「馬を飛ばせば、暗くなる前にカリーフ村へ到着できるはずだ」、と言い、両者は馬を飛ばした。
懐かしい風景がカイの目に開ける。目的地である遠くに見える山々。整備された道。何も変わらない草地。そして途中に学院時代に通っていたハムチュース村の賑わい。
そしてカリーフ村の門前にカイたちは到着した。馬を下り挨拶をするが、門番は軍装をした大男二人が突然現れて驚いたが、一人が見知った顔なので更に驚いた。
「カイ!お前か!」
「久しぶり。みんな元気でやっているか?」
ヴェルフが帰郷した時の様に、カイたちの噂は直ぐに村中に広まった。
村人たちが次々に家から出てきて、カイたちを囲む。
「まるで、ガリンさんの様じゃないか!」
「もう士官なのか。すごいなぁ」
「おい、此方のでかい方は?お前みたいなでかい奴はガリンさん以外で見たことがないぞ」
カリーフ村村長であるタナスの父親が出てきて、皆を嗜める。
「カイの家は村の一番奥なのだから、お前たちがそうやって囲んだら、何時まで経っても家に帰れないじゃないか。話すことは何時でもできるのだろ。カイ?」
「はい、一カ月ほどいる予定です」
「ほら皆、解放して、カイたちを家に行かせるんだ」
カリーフ村の人々から解放されたカイはヴェルフを連れ、馬を曳き、自宅への道を進む。
そして二年以上振りに自宅を見た。何も変わっていない。取り敢えず、馬牧場をしている実家なので、馬を厩舎へ納め、深呼吸して、母屋の正面玄関で大声で言った。
「カイ・ウブチュブク。只今帰りました!」
戸を開けたのは母のマイエであった。懐かしさに母親は半分泣きながら抱きついたが、カイはそっと離して優しく言った。
「母さん。ただいま。ほら、こんなに汚れているから、そう抱きつかなくていいよ」
「こうやって軍装をして帰って来るなんて、あの人を思うよ…」
亡き夫を思い出して、母マイエは更に泣いた。
両者が家に入り、中へ進み、居間に着くと家族たちが勢揃いしていた。マイエの両親である祖父母もいる。但し現在帝都ウェザールに居るハイケは居ないが。
「カイ兄さん!」
真っ先に飛びついてきたのは弟と妹たちだ。シュキンとシュシンの双子の弟たちを見て、カイは吃驚する。
「お前たち随分大きくなったな。もう背丈は充分大人じゃないか」
「そりゃあ、毎日鍛えているからな!」
「何時でも俺たちは軍務に就けるぜ、カイ兄さん!」
双子の弟たちの背は百と八十寸(百八十センチ)を越えていて、細身ながらもしっかりとした体幹をしている。この年で十六歳になるが、年相応の少年な顔を除けば、確かに大人と云ってもいい位だ。ヴェルフは「カイを二回り小さくしたみたいな奴らだな」、と思った程だ。
そしてカイは妹のセツカを見た。何処となく直ぐ下の妹のメイユを思わせる、しっかりとした少女になっている。
「カイ兄さん。お帰りなさい。ええと、ヴェルフ・ヘルキオス様ですね。湯あみの用意もできているので、先ずはゆっくりと旅の疲れを癒してください」
ヴェルフが小声で、「随分としっかりしたお嬢ちゃんじゃないか」、と言ったので、カイは戸惑いながら、「そうだな。まずは湯あみをしよう」、というのが精一杯だった。十一歳の妹の言う事に素直に従うことにした。
そして一番末の弟のグライを見て、カイは若干首を傾げた。この年に八歳になるが、其の背丈は二・三歳は大きいのはいいとして、肥満体ではないが、何とも恰幅がいい。ウブチュブク家の男子は如何も背が高いのが特徴なのだが、其の体型は細身か、でなければ筋骨逞しいのどちらかだが、グライの様に恰幅がいいのは少し奇妙だった。セツカが補足する。
「この子ったら、食べる事しか興味がないのよ。後でカイ兄さん、よく注意してね」
「あぁ、分かった。とりあえず、湯あみをしてくる」
湯あみをして、室内着を着て改めて居間にカイとヴェルフは現れた。ヴェルフにとっては幸運なことに、この家では巨躯の男用の衣服が多くある。自分が身に付けているのが「無敵将軍」ガリン・ウブチュブクの着ていたものだと知って、流石のヴェルフも鼻白む。
カイは改めて住み込みで一家の面倒を見てくれているモルティ夫妻にお礼を言い、そしてメイユとタナス夫妻を見る。メイユは一歳になる幼児を抱いている。
「女の子か。名は何という?」
「ソルクタニって言うのよ。知ってる?お父さんのお母さんがその名前だったって」
カイはややぎこちなくメイユからソルクタニを抱きかかえ、返答した。
「うむ。聞いたことはある。父さんが軍に入る前に亡くなった事も…」
「カイ。ハイケの事は知っているか。彼奴は今帝都ウェザールに居るんだが…」
タナスの声にカイは返答した。「帝都で偶然会った。大学寮に入ったらしいな」、と答えた。
「カイ。落ち着いたらハイケについての話がしたい」
「さて、皆話し合いは食事をしてからにしましょう。私と奥様と若奥様とセツカ嬢ちゃんが作った料理です。ヘルキオスさんでしたね。何でも海の村の御出身とか。このような内陸の料理が御口に合うか、分かりませんけど、どうぞ遠慮なく食べてください」
モルティの妻が言ったので、皆は食事をすることにした。ヴェルフはトラムでカイが自分の大叔父夫婦に言ったように、「寧ろ楽しみです。遠慮なく頂きます」、と真似して言った。
広い食卓には大勢が座った。料理がその広い食卓に所狭しと並べられており、酒も大いに用意されている。
座したのは客人として、曾てガリンが座っていた席にヴェルフ、そしてカイと母親のマイエ、マイエの両親、シュキンとシュシンとセツカとグライの弟妹たち、モルティ夫妻、更にタナスとメイユ夫妻とメイユが抱いているソルクタニの十四人という賑やかさだ。
羊肉にジャガイモと人参と玉葱が入った鍋、鹿肉の肉排、子牛肉の揚げ焼き、焼いた鴨肉を様々な野菜と調味料挟んだパン、チーズやソーセージもあり、鮎の揚げ物が幾つもあった。
「カイ兄さん。その揚げ物は私が作ったんだよ」
セツカに言われ、カイは鮎の揚げ物を頭から食べる。
「うまい。すごいな下処理や油や火など、扱うのが危ないだろうに」
褒められたセツカは嬉しそうな顔をしている。
「こうして大勢で食べていると、野戦料理を食べていたことを思い出すな。カイ」
ヴェルフも感想を述べると、シュキンとシュシンが喰い付いた。
「ヴェルフさん、戦場ってどんな感じなの!」
「戦場では料理も自分たちで作らないといけないのか?ヴェルフさん」
カイはヴェルフに悪戯っぽい顔をして頼みごとをした。
「では、ヘルキオス隊長殿。我が愚弟たちに軍の厳しさをご教授願えないだろうか。勿論食事が終わってからだ」
「承った。食事中に話す事ではないからな。お前たち、後で存分に俺に付き合えよ」
食事が終わり、モルティ夫妻を中心に後片付けをする。如何やらセツカも其の手伝いに行っているようだ。
ヴェルフはシュキンとシュシンを捕まえて、居間の少し離れた所で、軍の調練と行軍中の話を熱心にしている。
要するに輜重兵としての重労働。特に排泄物の処理について延々と語っているようだった。
其の様子を見聞きしたカイは安心した。ヴェルフを連れて来て正解だったと、自分なら実の弟たちという事もあり、あまり生々しい事は語れなかったであろう。
カイはグライの相手をすることにした。確かによく食べていたので、半分眠たそうだ。
「如何する?もう寝るか?久々に抱き上げてやろうか?」
「う~ん、カイ兄さん。僕のこと持ち上げられる?」
「調練の厳しさに比べれば、何てことないさ」
そう言ってカイはグライの大きな体を抱き上げた。丁度ソルクタニを抱いているメイユが呆れる。
「ちょっと。もうこの子は赤子じゃないんだから。何をしているのよ」
「そう言うな。此奴は父さんに一番触れる時間がなかったんだ。まだ少しは大人に甘えるのも問題は無いだろう」
そうメイユに言って、抱き上げているグライの顔を覗き込みながらカイは言った。
「グライ。学問も武芸も自分に合わないと思ったら必死にやる必要はないが、周りを困らせる事だけはするなよ。いいな、これは俺との約束だぞ」
「分かったよ。カイ兄さん。僕なんか眠くなってきちゃった」
「じゃあ、このままお前の部屋まで行こう」
グライを寝かしつけると、カイは家の手伝いをよくするセツカに言った。
「今日の料理は美味しかったぞ。だがお前はまだ子供だ。そんなに背伸びをせずとも、グライの様に少しは甘えたっていいんだぞ」
「カイ兄さんありがとう。でもモルティさんたちに全部を頼っちゃうのって、良くないでしょう?」
「そうだな。そこは偉い、と俺は思うが、だからといってまだ八歳のグライには強く当たるなよ。彼奴にはちゃんと言っといたから。お前ももうお休み」
そうしてセツカも自室へと就寝するためへ行った。その後にまるで酒でも飲んだかの様に、ふらふらと双子の弟たちがカイの目の前に現れた。
「なぁ、カイ兄さん。ヴェルフさんの言っていた事は本当なのか?」
「カイ兄さんも、そんな事をずっとしてたのか?」
二人は厩舎で馬の世話をしている。故にそういった作業は実体験として持っている。「だが人の『物』の世話までするとは!」、という顔付きだった。
「そういうことだ。お前たちが来年入ろうとしていた、志願兵とは半年間ずっとその調練の繰り返しだ。しっかり覚悟を持ったら、二十歳になる年に志願兵に入ることを許す」
「よく分かったよ。今日はもう寝る」
「俺もだ。何か今日は変な夢を見そうだ」
二人はヴェルフの半ば説教とも言うべきもので、すっかり参ってしまったようだ。
メイユがソルクタニを連れて、自室へと行き、マイエもモルティ夫妻も其々の自室へ寝るために行ってしまった。
マイエはヴェルフに「ヴェルフさんが寝るところは、今は使用していないお父さんの部屋で宜しいでしょうか?」、と言ってきたので、ヴェルフは慌てて其れを断った。英雄の服を着ているだけでも恐れ多いのに、其の寝室で寝るなど、絶対に寝付けないと思ったからだ。ヴェルフはハイケの部屋で寝ることにした。ガリンの部屋はマイエの両親が使用することになった。
そして居間ではカイとヴェルフとタナスが残った。時刻は夜の十一の刻(午後十一時)近くになっている。居間の蝋燭の明かりは大部分が消され、暗い中での話し合いとなった。
4
マイエが用意した蒸留酒とそれなりのつまみで以て、三人の男は話し合った。ハイケについてである。先ずタナスが切り出した。
「繰り返しになるが、今ハイケはウェザールで大学寮で高級官僚になる為の勉強をしている」
「其れは別に結構なことだと思うが、何か問題があるのか?」
ヴェルフの問いにタナスが返答する。
「大学寮は貴族の子弟が多く通っている。貴族は卒業したら、中央の官僚になるが、ハイケのような地方から来た庶民は、国境地帯の州の高官になる可能性が高い」
「つまり、場合によっては戦乱に巻き込まれ易い場所に就くわけか」
カイはつい数カ月前までいたイオカステ州の馬牧場の設営責任者である工部省(国土省)の高官シャペルのことを思い出した。彼も確か庶民出身だと聞いている。
「然も彼奴は軍の階級まで得ている。場合に因っては高級士官の参軍として、軍務に就く可能性も高い」
「彼奴は其れを知って、受験をして軍の調練まで受けたという訳か」
「そうだ。俺は止めたがな。何と言っていいのか、お前の活躍に刺激を受けたというか…」
タナスは酒を一気に呷った。カイも呷り、既に空のヴェルフの杯の三杯に、カイが蒸留酒を注いでいく。
「お前も含めて、ウブチュブク家は英才ぞろいだな。だがそれ故に残った家族を不安にさせている。あの御母堂のことを思うと、正直俺は居た堪れないぞ」
ヴェルフは幼い頃に母を亡くしている。その為かカイには執拗に母へ定期的に手紙を書け、と促す。確かに自分と弟は家に残している母を心配させ過ぎている。
「カイも何か問題を起こしたのか?」
タナスの問いにヴェルフは昨年の十月のテヌーラ軍のカートハージ占領時に起こった、軍の高官の縁類の若い指揮官と、カイと自分が問題を起こした顛末を話した。
「彼奴も何だかんだ言って、カイ、お前に似た所があるからな。貴族の官僚相手に例え正論でも強く主張する危うさがある」
「レーマック殿。其処はそれ程までに神経質にならずともいいぞ。アムリート陛下は貴賤を問わず、公平に人々に接する御方だ」
「だが、ヘルキオス殿。陛下とて、全てが見通せる訳ではなかろう」
三人は暫し呑み、翌の午前の一の刻前にはカイは久々の自室、ヴェルフはハイケの部屋、タナスは妻であるメイユの部屋で就寝した。
翌朝、やや遅く起きたカイとヴェルフは朝食を食べた。既に牧場の仕事はモルティとシュキンとシュシンとグライがしている。学校も学院も七月の第二週目から、九月の第二週目の終わりまで休みだ。
タナス一家はカリーフ村に再来週まで居るそうで、今日の朝から帰る一日前までをタナスの実家である、カリーフ村の村長の家で過ごすようだ。前村長であるマイエの父と母も朝食後に帰っている。
カイとヴェルフはガリンの墓参りをした。流石のヴェルフもガリンの墓前では緊張している。カイは心の中で帰郷した事を告げ、幼き頃から受けた父の教えが色々助けになっている事に、墓前で改めて感謝した。
そして午後、カイたちは双子の弟たちの騎射や武芸の腕を見ることになった。
確かに二人ともかなりの腕前だ。これだけなら十分に兵としてやっていける、とカイは感心した。
だからこそ、最初の出発点は一番厳しい輜重兵としての調練を受けて、軍役の実態というのを其の身で体験して欲しい、とカイは思った。
木で作られた、柄を除く剣の部分をやや細く削り、その上に布を何重にも巻いた摸擬剣で、カイはシュキンと、ヴェルフはシュシンの相手をした。頭や胴には皮の防具に身に付けている。
結果として、カイたちは一本も取られなかったが、かなり全力を出さなければ、数本は取られていたかもしれない。別れた部下たちの中にも此れほどの使い手は居なかった。
本気で悔しがる双子の兄たちを見て、一部始終を見学していたグライが、「僕もやってみたい」、と言い出したので、カイはグライに付きっ切りで、乗馬や武芸を教えた。
その間、ヴェルフは例のようにシュキンとシュシンに軍務についての様々な話をした。流石に少しは自分たちが活躍した事や、軍船に乗った話、そして何より海の話には二人とも目を輝かせて聞き入った。
其れからこの五人は、午前中は馬の世話、午後は騎射や武芸の訓練。武芸の訓練はヴェルフが一人でシュキンとシュシンの相手となり、カイはグライに曾て父ガリンが自分の幼い頃に施していた騎行や武芸を教えることにした。
其れだけでなく、近くの川で魚釣りをしたり、ただ馬にての遠乗りをしたりもした。遠乗り時にはグライはカイの前に乗っている。
天気の悪い日の午後はカイは弟たちの学問の面倒を見たり、又は読書などをしていた。ヴェルフはウブチュブク家に本が大量にあることに驚いている。父ガリンがしばしば読書や学問が好きなハイケの為に色々な所から買い集めてきたものだ。
程無くしてタナス一家がムヒル市に戻る前日となったので、この日の夕食はタナス一家を含めた久々に豪勢なものとなった。
「実はまだ先の事だが、俺もムヒル市の役人を辞めようと思っている」
「何だ?お前まで軍を目指すというのか?」
「俺にできるわけが無いだろう、カイ。ハムチュース村で学院の先生をするつもりだ。既に資格も取ってある。子育てが落ち着いたら、メイユも資格を取るので、三人で其処で住んで夫婦で先生をするよ」
「そうか。ムヒル市での学院ではしないのか」
「ハムチュース村なら、此処から近いだろう。少しでも親類が近隣に住んでいる方がいいと思ってな」
「すまないな。お前たちには色々迷惑をかける」
メイユが娘のソルクタニをあやしながら、兄に問いかけた。
「兄さんは、誰かいい人っていないの?」
「其処はご安心を、此奴にはちゃんとお姫さんがいます…うぐっ!」
ヴェルフがカイから軽く横腹を殴られ、途中で言葉を遮られた。
「余計な事は言わんでいい」
翌朝、タナス一家がムヒル市行への馬車に乗り、ヴェルフを含むウブチュブク家の全員と、タナスの両親である、レーマック村長夫妻が其れを見送った。
其の日の午後、遂にシュキンとシュシンはヴェルフから一本を取った。ヴェルフは二人を相手にした時から、武器を剣でなく、両端にやはり布を何重にも巻いた長い木の棍を使用していた。
うまくシュキンが攻勢を掛けたかと思えば、わざと隙を作ったりして、ヴェルフの注意を引き付けて、見事にシュシンが厚手の皮の防具で覆われたヴェルフの頭に摸擬剣での一撃を叩きつけた。見ていたグライが興奮して拍手する。
「すごいや。兄さんたち!」
「いてて、昨日カイに殴られたから、今日の俺の動きは今一つだったな」
「そいつは酷い言い訳だな。ヴェルフ」
「なぁ、ヴェルフさん、一本取れたから、今日の夕食は約束だぜ!」
「男に二言は無いって、言ってたよな、ヴェルフさん」
「何だ、ヴェルフ?此奴らと何か約束をしていたのか?」
「あぁ、実は、俺から一本取れたら、夕食に麦酒を飲ませてやると、約束したんだ」
「…あのなぁ、お前。母さんに如何説明すればいいんだ?」
夕食になり、シュキンとシュシンは念願の麦酒を提供された。マイエはカイとヴェルフから頼まれ、「今日だけ」、という事で如何にか折れてくれたが、セツカが二人の兄に食って掛かった。
「信じられない。二人とも何を考えてるの!」
「煩いな。これはヴェルフさんとの男の約束なんだ」
「功を立てれば、其れに対して賞が出るんだろ。信賞必罰は軍の基本なんだよな。カイ兄さん」
「男の約束なんて知りません!それに此処は軍ではありません!今日からシュキンとシュシン兄さんたちがお酒を呑んだら、食べて飲んだ食器は全て、自分たちで洗う事。分かった!」
ヴェルフが肩を竦めてカイに小声で言う。
「しっかりというより、ちょっと怖いなこのお嬢ちゃんは」
「いや、俺が家を出る前はこうでは無かったんだが…」
5
九月に入り、一週間が過ぎた。この日はカイとヴェルフが帝都ウェザールに戻る日である。二人とも久々の軍装だ。天気も良く、軽く吹く風がやや冷たさを含んでいる。
「カイ。気をつけてね。もしハイケに会ったら、無理せず何時でも家に戻って来てもいいんだよ、と伝えてね。其れとヘルキオスさん、息子とずっと仲良くしてくださって、改めて有難う御座います。貴方のような方が息子の傍に何時も居るというのは、感謝しかありません」
「うん、分かったよ、母さん。モルティさん、皆の事を宜しくお願いします」
カイとヴェルフは馬を曳き、家族たちはカリーフ村の門前まで見送るため、一緒について来た。其れを見ていたカリーフ村の人々が一斉に材木を処理したりの仕事の手を休め、門前までついて行く。
門を出ると二人は馬に跨った。そして軽く走らせ後ろを向きずっと手を振る。
家族たちとカリーフ村の人々もずっと手を振り、大声で声援を送っている。
やがて見える村の人々が小さくなる頃に、カイは大音量で叫んだ。
「カイ・ウブチュブク、必ず又戻ってきます!皆さんそれまでお元気で!」
そして二人は正面を向き、馬を疾走させた。
ムヒル市に入ったが、二人はタナス一家には会わずに其のまま過ぎていく。
ムヒル市を過ぎる頃には、カイの顔は完全にホスワード軍の士官のものと為っていた。もう安らぎの日々は終わりだ。
帝都ウェザール付近である練兵場にカイとヴェルフが着いたのは、九月十日である。遠望すると、今年の志願兵の調練が行われているのが分かる。二年前まで二人はあそこで調練を受けていた。
其の様子を見た後、馬にて帝都ウェザールに入り近くの厩舎に両者は馬を預けた。
貴族か、又は貴族の付添でもない限り、馬での移動はできない。唯一帝都で馬を飛ばしてよいのは急報の伝令兵のみだ。
二人は其のため兵部省(国防省)への長い道のりを歩くことにした。賃金を払えば、馬車での移動はできるが、徒歩なら途中ハイケと出会えないか、とも思ったからだ。
しかし、二人が帝都に入ったのは午後の三の刻(午後三時)だが、相変わらず、人で賑わっていて、特定の人物を見つけるのは困難だ。最もこの様な市場や歓楽街に今ハイケがいるとは思えないが。
逆に帝都の人々が軍装をした二人の大男が大股でのし歩くのに驚く。
カイ・ウブチュブクはこの年で二十二歳になった。二尺(二メートル)を越える背、肩幅広く、胸板厚く、腰回りが引き締まった、筋骨逞しい手足の長い体つき。黒褐色の髪は短く刈り、海水浴を楽しんだ為か、やや日に焼けていることもあって、整ったその顔は近年精悍さも増している。だが大きな目には、この晴れた初秋の太陽の様に輝く明るい茶色の瞳が、優しげに光っている。
ヴェルフ・ヘルキオスはこの年に二十五歳になった。其の体つきはカイとほぼ変わらない。指を横に三本ほど並べただけ背が低い位である。同じく日に焼けた精悍な顔つきをしていて、やや縮れた黒い髪は短く刈っている。そして黒褐色の瞳は鋭いが、時折悪戯っぽくも陽気にも輝く。特に女性に対しては。
二人は官公庁のある通りに入った。考えてみればハイケはこの辺りにある大学寮で住み学んでいる。勿論、士官とはいえ部外者である二人は立ち入り禁止である。二人が入ったのは兵部省だった。
官公庁の建物はどれも大体、外部も内部も同じ造りで、重厚さのある石造りの六階建をしている。一階が受付と各種待合室、二階から五階までが職員の仕事場だが、上に上がるにつれて地位が上の者の執務室と為っているので、一部屋が広くなっていく。そして最上階が尚書の執務室と大会議室となっている。
カイとヴェルフは受付で、九月の中頃まで休暇の予定だが、次なる任務の指令が出ているかの確認をしたい、との旨を告げ、担当の職員から待合室で待つように、と言われたので、暫く一階で待つことになった。
待合室は幾つも有り、二人が入った時も十人近くが居たが、幸いにもまだ座れる余裕があったので、二人は座り、旅の疲れを癒すように座ると二人は黙ったままだった。
処がカイの視線が歩いている一人の人物へと向けられる。相手も同じだ。
「レナ様。お元気そうで何よりです」
立ち上がって挨拶をするカイにレナは言った。
「シェラルブクの方々の件では、お世話になりました。随分船旅を楽しんだそうですよ」
「其れは良かった」
ヴェルフが立ち上がって「厠に行ってくる」、と言って立ち去ってしまったので、改めてカイとレナは座り直した。
「少し、日に焼けましたね。カイ」
「ええ、ヴェルフの故郷でよく海水浴をしましたから」
「海水浴かあ、子供の頃は夏になったら、一家でパールリ州によく行ってました」
パールリ州とはほぼウェザールを真東に行った州で、帝都の北を流れているボーンゼン河の河口がある州でもある。
「今は海にはあまり行かれないのですか?」
カイは少し気になる興味が湧いてきた。
「ここ数年はね。昔は毎年夏になったら、一家で海へ行って…。そうそう陛下も一緒に、当時はご即位前だから、大公殿下でしたけど。皆で泳いだり、船に乗って遊覧とかしましたね」
「ではレナ様は馬術だけでなく、海や水上がお好きだと」
「嫌いではないですよ。でも何で其の様な事を聞くの?」
「あっ、いや、特に此れと云って何でもありません。処でレナ様は何故此処に?」
「私の部隊が本格的に部隊として、登録が出来るようになったからです。今日はその登録です。カイは次の任務を聞くために?」
「そうです。処でレナ様の部隊は全て軽騎兵になるのでしょうか?」
「はい、曾ての女子軍が偵騎を創設時にやっていたというので、其れに倣って。今は三十名になりました」
三十名の女性の軽騎兵で隊長は水上に問題は無いか、とカイは心中で呟いた。
「それにしても彼奴は何時まで厠なんだ?」
「イオカステ州にて馬牧場の管理官をしていると思っていたが、こんな所で何をしている。カイ・ウブチュブク」
数人の取り巻きを引き連れたファイヘル・ホーゲルヴァイデが現れた。彼も士官の軍装をしている。
「別に貴官に説明する必要はない」
「此処は軍政の場だ。女と遊ぶ所ではないぞ」
何か言おうとしたレナをカイは軽く制した。
「此の方は正式な兵士だ」
「ほう。噂では女子軍などと云うものが作られたと聞いたが、この女が其れか」
「陛下御自らお決めに為さった事だ。其れ以上の言は陛下に対する不敬と取るぞ」
「ふん。陛下の義妹に取り入ったから、俺に盾突ける、と思い上がっているのか」
「如何取ろうが貴官の自由だが、別に貴官と争うつもりは無い」
「此れは随分久しぶりですな。ホーゲルヴァイデ指揮官殿。まさかこの小官をお忘れじゃあ無いでしょうな」
ホーゲルヴァイデ達の背後から現れたヴェルフが声をかける。ホーゲルヴァイデの取り巻きはこの巨躯の男に驚き恐れる。
取り巻きの様子を見たホーゲルヴァイデは「行くぞ」、と言い其のまま去って行った。
レナは立ち上がり何か言おうとしたが、カイも立ち上がり、レナの正面に立ち、そっとレナの両肩に大きな手を置いた。
「このような場所で、大声はなりません。折角部隊として認められたのですから、如何かご自重を」
レナはカイの顔を見つめ、その太陽のような瞳を見て、心が落ち着くのを感じた。
カイは受付の職員が自分たちを呼ぶのを聞いたので、レナの両肩に置いた両手を離した。
「では、そろそろ任務の説明を受けに行くので、失礼致します。次ぎ会う時はレナ様と一緒の任務だといいですね」
6
「流石は騎士殿。お姫さんの扱いはお見事ですな」
「その『お姫さん』はレナの前では言うなよ。ヴェルフ」
「しかし、あの野郎もしっかりと昇進してるんだな。どうせ大した事などして無い癖に」
「もう奴の事は忘れよう」
二人は職員に案内され階段を上り、五階の一室へ入った。中に居たのはこの兵部省の長であるヨギフ・ガルガミシュ兵部尚書だったので、二人は直立して右手の拳を左胸に当てる敬礼をする。
「休暇は楽しめたかね。あぁ、楽にせよ。其処に座ってもよい」
二人はヨギフに示された椅子に座った。椅子といい机といい、この部屋の調度品が最高級のものであることが二人でも分かる。
「さて、卿らの任務だが、以前も言った覚えもあるが、遠方の国への駐在武官として赴任して欲しい」
そう言うと、部屋の中に居たヨギフの副官が机の上に地図を広げた。大陸の広い地図だ。そしてヨギフはホスワード帝国からずっと左上の方へ、つまり北西に対して指をさした。バリス帝国の北西側にある所だ。其処には「ラスペチア王国」、と記載されていた。
ラスペチア王国は千年以上も昔から存在していた王国である。東西交易の要所で、西から来る商人はラスペチアからバリスに入り、ヒトリールに向うのが一般的である。国の大きさはホスワードの州程度で、その周囲は砂漠か山脈で、そんな中にある緑地都市国家である。
プラーキーナ朝の建国者であるアルシェ・プラーキーナは、曾てこの地を併呑しようとしたが、ラスペチアの巧みな外交と、東西交易の要地としての重要性を鑑みて、半従属国とするに留めた。当のプラーキーナ帝国が崩壊しても、其のまま現在に至るまで存続している。ホスワード帝国はプラーキーナ帝国の後継国家という立場から、ラスペチアに通使館を設置しているが、バリス帝国も同様に設置している。また地理上エルキトとも近接しているので、国内にはエルキトの人々も多く、当然西方からの商人も多いという、一種の多民族国家である。
ヨギフの副官が様々な物を、また机の上に出してきた。ヨギフは一つ一つ取り上げて説明をする。
「先ず、此方が陛下からのラスペチア国王に対する親書。これは通使館の長に対しての任命書。それと此れがある意味一番重要だな。ラスペチアで作られた腕章だ」
ラスペチアは云わば様々な国の緩衝地帯となっている。ラスペチアの腕章を身に付けていれば、ホスワードの軍装をしていても、途上でバリス領やエルキト領に入っても、ラスペチアで任務に赴く兵として咎められない。
其の腕章は上質な絹の灰白色でラスペチアの紋章である、烏の精巧な刺繍が施されている。両端には留め具も付いていて、左腕の上腕に烏が見えるように身に付けることを二人はヨギフから指示された。
「さて出発は一週間後だが、それまで如何するかね?良ければ我が家で泊まってもよいが」
「では、ご厚意に甘えて…うぐっ!」
カイはヴェルフから軽く横腹を殴られ、途中で言葉を遮られた。
「尚書閣下。我々は出発日まで以前行った『ニャセル亭』にて、泊まります。あそこの士官殿には大変お世話になったので」
「そうか、ではこれらは大事な物故、出発日まで此処で預かって置くがよいかな?」
「…か、閣下、その任務の期間は何時までになるでしょうか?」
カイがヴェルフに殴られた箇所に対して、やや苦しみながら問う。
「期間は無い、というより、戦か其れに類する事態が発生する場合は、即座に卿らはホスワードに帰還だ」
「如何いう事です?」
「恐らく、そう遠くない内にエルキトとバリスの会戦が起こるはずだ。卿らの主任務はその戦の督戦で、其の闘いの内容を詳細に調べることだ。特にバリス側のな」
「エルキトとバリスは同盟国では?」
「バリスは五年前の同盟の報償を止めた為、両国関係は悪化している。エルキトは卿らも知っているようにテヌーラとの関係を強化して、バリスに報償を止めた事に対する懲罰を加えんとしている。陛下は其れに対してのバリスの動きを知りたがっている。卿らならバリスの実態を明らかにできる、と期待されておるのだ」
「分かりました。改めてそれらの大事な品々を受け取るため、一週間後、再び参ります」
部屋を辞し、兵部省を後にした二人はニャセル亭へ向かう。
「おい、ヴェルフ。さっきは何で俺を殴った?」
「一週間だろ、ニャセル亭を拠点に英気を養わなければいかん。尚書閣下の邸宅では、拠点とならぬからな」
「まったく…。夜遊びは程々にしとけよ。出発日にはちゃんと素面で兵部省に赴けるようにしろ」
ホスワード帝国歴百五十四年九月十日の夕刻。もう日が沈むのが早くなり、完全に沈むと軽い寒気を覚える。そんな中、カイ・ウブチュブクとヴェルフ・ヘルキオスは帝都ウェザールのニャセル亭で、任務前の一週間をゆっくりと過ごすことにした。
ラスペチアという遠い国での任務だが、其の付近で彼らはエルキト帝国とバリス帝国の壮絶な戦いを目にする事になるとは、まだ知らない。
第十章 帰郷 了
次回は久々にヘスディーテ君が活躍するお話の予定です。
彼に関してはカイ君やアムリートさんよりも、色々と考えに考えて造形したキャラです。
足りない頭を振り絞ったためか、作者としてはある種愛着のあるキャラなので、その活躍をお楽しみください。
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