御霊会『ごりょうえ』 第1章
この題名でる、御霊会とは、思いがけず、死を迎えた者達の霊を、神の御霊により、崇を防ぐ儀式の事でる。
人は、生と死を誰しも体験する。それはすべて、神のなせる業なのだ。人は、死がおとずれるその日まで、地球に存在する全てものを愛し、そして、死を迎えたその時に、この世の未練を全て絶ち、天界へ旅立つのでる。
『御霊会』 第1障
霊 と 神
その男は、海沿いの細道を、息を荒げ重い足を引きずり歩いていた。
そして男は、何度も後ろを振り返った。
誰も追って来ない事を念じながら……。
国道まで出れば、何とかなるだろう……。
男は、僅かな望みを懸け海沿いの細道から獣道に入った。
しかし……。
男は、気が付かなかった。
何度も同じ道を、逃げていることに……。
その時男は、背後に冷たい気配を感じ、そして振り返ろうとしたその時だった……。
一瞬キラッと、何かが光った。
「ヒィッーッ! ギェーッエーッ。」
男は、その陰に怯え、甲高い悲鳴をあげた……。
と、同時に男の首から、天高く血飛沫が上った。
『ドッスン……。』
そして男の頭部は敢え無く地へ転がり落ちたのだ。
その男は恐怖を訴えるかの様に、大きく見開いた目と歪んだままの口を開け放ったまま、すでに絶命していた。
その男の切り取られた頭部から、さほど離れぬ場所に残りの胴体があった。
それは、しばらく痙攣を繰り返していたが、間もなく、ピクリとも動かなくなった。
それらは全て、神業的な一瞬の出来事だった。
そして、その一部始終を、怪しく光る赤い目だけが見ていた……。
( 1 )
佐多銀子は福岡の自宅を後に、長崎方面へ車を走らせていた。
カーナビが所要時間三時間と告げている。
道路は平日のためか渋滞に巻き込まれる事無く快適に走行していた。
このまま何事もなければ、2時間程で目的地に到着するはずだ。
銀子は助手席の窓を少し開けた。
窓の隙間からは心地よい十二月の風が銀子の髪を靡かせる。
空は快晴で冬の寒さも感じない。
銀子は、絶好のドライブ日和と感じていた。
車は諫早市に入った。
フロントガラスが海の日差しに反射して、キラキラと眩しい。
銀子はダッシュボードから、お気に入りのサングラスを取り出した。
その時、カーラジオから、賢そうな口調の男が語り始めた。
そのラジオの声に、銀子は興味をそそられた。
それは霊的な現象と、未確認飛行物体のテーマだったからだ。
その男は物静かに語り始める。
「人はストレスや、精神的な疲労を伴うと、幻覚を見ることがよくある。
しかしそれは実在しない物を脳が見たと勝手に判断している……。」
その男の語る内容で、銀子は以前に知人から聞いた出来事が蘇えってきた。
「私、小学校から使っている古い机が捨てられないのです。
結婚する時も、持って行くつもりです。」
と……。
そう知人が語ったのだ。
「そんな、古い机どうして持っていくの? 」
と、銀子が尋ねると、知人は暫く沈黙していたが、意を決したのか静かに語り始めた。
それは……。
半年前の事だったと言う。
知人は学生の頃に仲の良かった同級生と、道で偶然再会した。
二人は懐かしさもあって、近くのカフェへ行き、お互いの現況や昔話に華が咲いた。
その後、知人は自宅に戻り学生だった頃の卒業アルバムを取り出そうと、古い机の前に立った。
そして、その一番下の引き出しを開けたその時だった……。
「あっ! 」
と思わず知人は驚いた。
そこにいたのは、なんと小人だったからだ。
その男の小人は、知人の顔を見るなり慌てて逃げたのだ。
それは一瞬の出来事だったという。
知人は小人に対して悪いことをしてしまった……。
と、思ったそうだ。
自分が小人の居場所を、邪魔したかの様に感じたからだと語った。
それから二ヶ月程たち、知人も小人の事を忘れかけていた頃だった。
知人は又、何気なくその机の引き出しを開けた。
すると今度は、二人の小人がそこにいたのだ。
一人は、前回見た男の小人だったが、もう一人は女の小人だった。
女の小人は、知人の顔を見るなり慌てて逃げたが、最初に目撃していた男の小人は、最初とは違って逃げもせず……。
それどころか、余裕をもって座っていたのだという。
男の小人は、知人の方を振り返り(ヨッ!)と、声は出さないが挨拶をするように片手を挙げたのだ。
服装も前回と違っていた。
前回はイギリス風紳士のように、黒い帽子を被り黒いモーニング姿だったが、今回は赤いニット帽を被り、服は普段着風だったとう。
今度は知人も、その男の小人を凝視した。
すると小人は少し顔を歪ませ、迷惑そうに知人を睨み付けた。
知人は思わず、その小人に話しかけていた。
「帽子変えたのですか? 」
そう聞くと、その小人は照れ臭そうに笑ったのだと言う。
小人は人間に例えると、六十歳位の年配で、目は大きくギョロっとし、顔は浅黒く深いシワが何本も刻まれていたのだと語った。
「体長20センチ弱程で、顔つきは、昔何か悪いことをしたような感じで、とても善良な人には思えませんでした……。
その後、まだ引き出しを開けていません。」
そう知人は言うと、また言葉を続けた。
「私……。以前に聞いた事があります。
小人になる人は、元は普通の人間で、何かの罪を犯し地獄に送られず小人にされてしまったと……。
そうなのでしょか……。」
銀子は知人に、そう尋ねられたが、その小人とやらを、まだ目撃したことが無いのだ……。
「私には、残念ながら、答えられないわ。
小人の目撃経験が無いもの……。」
そう答え、知人との会話を終えていた。
今のラジオで語られた事だと、そういう現象は一種の幻覚症状という事にる。
しかし、その知人は喫煙やアルコール飲酒も無く、薬物などの依存も無いのだ。
その知人は、どこの学校にも一人はいるような、教室の片隅で静かに過ごしている、そんな大人しい女性である。
銀子は、さっそく大学教授をしている友人に、この事を相談する事にした。
しかし……。
やはり、その答えは今のラジオで語られた事と同じだった。
幻覚症状の一種だろう……。
そう答えが返ってきたのだ
「銀子は、その知人を、よく知っているのかい? 」
友人は、銀子の顔を覗き込む。
「いや、それほど親しいと言う訳ではないわ!
でも嘘ではないと思うのよ。」
と、銀子が言うと
「本人の意識の中では、まったく嘘では無いはずだよ。」
と、友人は言った。
人間が色付きで幻覚を見るのは、精神に何らかの異常をきたしている事が多いのだと言う。
「しかし……。」
と、友人は顔を曇らた。
「これは、銀子だから、言う事なのだが……。」
と、前置きし友人は自らの出来事を語り出した。
「これは、私たち夫婦の事だが……。
私たち夫婦は長いこと、子供に恵まれなかった……。
しかし、やがて妻が妊娠したのだ。
結婚して十三年目だった。
生まれたのは、かわいい男の子だったよ。
しかし……。
生まれて直ぐに、その子が亡くなってしまった……。
すぐに……だ。
妻はショックを受け、一時的に家事や外出さえも出来なくなっていた。
だが少しずつ立ち直り、又以前の様な明るい妻に戻ってきた頃だった。
私は、いつもの時間に就寝したのだが、その日は人の気配に目を覚ました……。
私は直ぐに辺りを見渡した。
そして、その時私の目に映ったのは、なんと亡くなった我が子だった。
その子が直ぐそこに立っていたのだ。
その日を境に毎晩私の夢枕に立つようになった……。
ある日、私はジュースを買う為にコンビニへ立ち寄った。
そして店の冷蔵庫の扉を開けた。
その時だった…。
たちまちフラッシュバックしたのだ…。
あの病院の霊安室に……。
あの冷風が……。
あの子が寝かされていた霊安室に記憶が戻り、あの辛い情景がフッラシュバックするのだよ。
その状態は三年も続いたよ。
しかし、その事は誰にも言わなかった。
妻に言うこともなかった…。
しかし……。
三年も続くこの状態を、私は、なんとかしたかった…。
そして、ようやく妻に、この事を打ち明けたのだよ。
それから、徐々に我が子が夢枕に立つことも無くなり、私の症状も落ち着きを取り戻していた……。
愛する者が居なくなると、精神状態は、バランスを崩すのだろう。」
そう言うと友人は、こみ上げる感情を抑えるように、素早く立ち上がり、お茶を入れる準備を始めた。
銀子は、それを断り教授室を後にした。
ラジオはすでに、ロックの曲に変わっている。
テンポの速い曲に体も自然と乗ってきた。
銀子は、快適に走行しながら、右手に広がる景色に目 を向けると、そこには老女と幼い少女が海を眺めていた。
その老女が笑うと少女も後を追う様に笑う。
そんな微笑ましい光景だった。
ふっと銀子も、祖母の事を思いだした。
祖母は銀子が小学生の時に、すでに亡くなってた。
銀子の両親は共働きで、幼い頃の銀子は祖母と過ごすことが多かった。
その祖母には霊視能力があった。
しかし、それを商売にした事は一度も無かった。
日々祖母は、誰よりも早く起床し、まだ暗いうちから豆腐作りに励んでいた。
近所の住人が、その豆腐を買い求めては祖母の霊感を頼りに、相談事を打ち明ける、その程度だった。
そんな祖母の霊能力を、銀子が受け継いでいるのだろう。
幼い頃より銀子は、頻繁に霊現象に悩まされていた。
それは、人の霊だけに止まらず動物霊や自然霊様々だった。
そんな銀子の霊体験の話を、祖母は黙って頷き聞いていた。
銀子は友人や両親にも、その事を隠していた。
子供ながらに言ってはいけないと感じていたからだ。
そんな祖母が、いつも口癖のように言っていた。
「銀子、人を憎んだり恨んだり人の陰口を言ったらダメだよ。
それは、地獄界と波長が
合ってしまい浮かばれない霊を呼んでしまうのよ。
その霊は、銀子を仲間だと勘違いして憑依してしまう。
そして銀子を思いのままに操ってしまうのさ……。
銀子が、そんな気持ちになったら神様に手を合わせ(ごめんなさい) と言って地獄界とのスイッチを切るのよ。」
と……。
そんな祖母の話を幼い銀子がどれ程理解し、実践出来たのだろうか……。
しかし徐々に霊現象は軽減したのである。
この地球上には、大きく分けると、プラスに働く波動とマイナスに働く波動がある。
プラス波動は暖かく、空気も軽く心地良い。
植物や生物が生きていく上で必要なエネルギーと言えるだろう。
霊的に視ると金色の輝きがある。
現在パワースポットに人気が集まっているが、気が落ち込んでいるときは、早めに行った方が良いだろう。
しかし、一番良いのは、日々気持ちをプラスに保ち人が喜ぶことや楽しい事をやることだ。
感謝を口に出すのも良いだろう。
その言葉のひとつ(ありがとう)の五文字には、言葉に出すその人の口から 、金色の靄が視え、その靄が相手の胸に入り込むのだ。
だから言われた相手は、暖かい気持ちになるのだろう。
その反対のマイナス波動は、重い空気と冷たい心の集まりである。
神社も廃墟になってる場所は、避けるべきである。
人の居ない神社は、霊のたまり場になっている事が多い。
憑依を避ける為に、行くべきでは無い。
特に川や海、滝のある場所は心が落ち込んでいるマイナスの気持ちの時は、避けるべきである。
銀子が懐かしく、祖母を思い出している、その時だった……。
車の前方に人影が見えた。
顔は確認出来ないが、何か嫌な予感がした。
ブレーキペダルに足を置き減速しようとした……。
その時だった。
その人影がいきなり、車前方に倒れ込んできたのだ。
「あっ……危ない! 」
そう叫び、咄嗟にハンドルを右へきった。
『キーッキッーキーッ……』
車は不気味なブレーキ音を響かせ、対向車線を越えガードすれすれで止まった。
銀子は息をのんだ……。
と、同時に腹が立ってきた。
文句のひとつも言ってやろうと、後ろを振り返った。
しかし、男の姿はどこにも見当たらない……。
轢いた形跡さえ無いのだ。
『霊だったのか……。』
と、一瞬脳裏を過ったが直ぐにその思いを打ち消した。
幼い頃なら別だが、今の銀子には、現世の者か霊の仕業かは判断できる。
男は確かに生身の人間だった。
銀子は再度あたりを見渡し、戸惑いながらもアクセルを踏んでいた。
しかし、足の震えは暫く続いていた。
銀子は考えていた。
もしあの時、対向車がいたら……。
そう思うと、また身震いした。
「神様、守護神様、ご先祖様、守って頂き、ありがとうございます。」
そう言うと、そっと手を合わせた。
これが、いつもの銀子の口癖である。
少し気持ちが落ち着いたのか、急激な喉の渇きを覚えた。
間もなく自動販売機を見つけ、そこへ車を止めた。
財布を取り出す為に、ハンドバックに手を差し込む。
その時……。
何故か違和感があった。
何かが足りないのだ……。
もう一度調べたが結果は同じだった。
銀子は気が付いた……。
御霊がない事に……。
御霊は銀子にとって命と同じ位大切な物だ。
何時も肌身離さず持ち歩いている筈なのに……。
御霊とは、身を守るために祖母から譲り受けた、透明の石の事である。
その石の事を銀子は、御霊と称していた。
直径三センチ程の天然石で、七個数珠つなぎになっている。
普段は透明の石だが、いったん、霊的な現象を察知すると、七色に輝く不思議な石だった。
除霊の時や、結界(あの世とこの世の境)を引き、いち早く銀子の身を守るのだ。
祖母が亡くなる時、銀子に手渡した物だった。
「この御霊は、神様から譲り受けた宝物だ。
必ず銀子を守ってくださるよ。
だから、大切にするのだよ。」
と……。
そう言い残し、祖母は天界へ旅立ったのである。
不思議な事に、御霊を持ち歩くようになると、人々の背後に居る守護霊や風の神、火の神、水の神など様々な神の光を感じとる事を許されたのだった。
しかし、今その御霊がない……。
銀子は、携帯電話を取り出した。
友人の久美に電話を掛ける為だ。
恐らく自宅のテーブルに、置いているはずだ。
電話は直ぐに繋がった。
「もしもし、銀子姉? もう着いたの? 」
いつもの久美の声で、そう聞いてくる。
その問いには答えず、銀子は慌てて要件だけを伝えた。
「御霊を自宅に忘れてしまって……。」
それだけ言うと、久美は全てを察したのか、
「はい。了解しました。仕事が終わり次第、そちらに向かうわ。
お姉のおごりで夕食よろ
しく……。」
それだけ言うと、久美は用件が済んだ様に、電話を切ってしまった。
底抜けに明るい久美の声に、心なしか救われた気がした。
今日は久しぶりの一人旅のつもりだったが、いつもの様に、久美との二人旅になってしまうなんて……。と苦笑するも、何故か心強く感じていた。
銀子は缶コーヒーを飲みほし、車を出そうとした。
すると、その時……。
けたたましい、パトカーのサイレン音が響く。
サイレン音が頂点に達した時パトカーは呆気なく銀子の前を通り過ぎて行った。
『何かあったのか……。』
と思ったが、銀子は余計な詮索はしなかった。
御霊会 第2障へ
続く…
友人の中野久美は、二歳年下の幼な馴染みである。
幼い頃の二人は、飯事や、かくれんぼなどで遊んでいた。
久美は楽天家なのか、泣いたり悩んだりした顔を銀子は見たことがなかった。
いつもニコニコ笑う、そんな久美だった。
霊現象の悩みも、祖母以外に久美にだけは告白出来た。
そんな銀子の話を、怖がりもせず良く聞いてくれていた。
その明るい久美が、一度だけ涙を見せた事がある。
それは久美が結婚に失敗し、実家に戻っていた時だった。
銀子は久美が気がかりで、久美の実家を訪ねた。
久美は銀子の顔を見るなり、子供の様に大泣きした。
暫く久美は泣き続けていたが それ時以外に、銀子の前で涙を見せた事は無い。
久美の離婚後、カルチャースクールの経理事務の席が空いている事を知り、銀子は迷わず久美を紹介した。
久美は、持ち前の明るさで、すぐに皆と打ち解け、今も忙しく働いている。
人前では銀子の事を(先生)と呼ぶが、二人の時は(銀子姉エ)と甘えた口調に変わる。
そんな久美が、御霊を届けてくれる事に安堵していた。
走行中、車の窓から焼き牡蠣の香りが食欲をそそる。
その誘惑を跳ね除けながら、銀子はじっと抑えた。
その時、後部席からカサッ
カサッ……。
と車の動きに合わせた様に何やら音がする。
銀子は、再度車を止め車内を確かめた。
その原因は、直ぐに理解出来た。
それは、今日の為に買った、伊万里焼きの花瓶だったからだ。
それが木箱ごとシートから転がり落ちていたのだ。
先ほどの急ブレーキのせいだろう。……。
銀子は、恐る恐る木箱を振ってみる……。
何も音がしない。
どうやら、破損はしていない様だ。
銀子は安堵し、再度車を走らせた。
この花瓶は、銀子の友人が旅館を開業する事になり、その為のお祝いの品だった。
広い旅館の玄関にも目立つ様に、かなり大きい花瓶を選んだ。
銀子の仕事は、カルチャースクールで、手描き友禅を教えている。
友禅というと着物を連想するが、着物の需要も時代と共に減り、着物に限らず、洋服、ハンカチ、タペストリーなどの装飾品にも友禅を描いている。
銀子は講師として、そのスクールに所属しているのだ。
しかしそれ以外は展示会に向け、自主制作に悪戦苦闘の日々を過ごしている。
これから向かう、旅館のオーナー清田法子はカルチャースクールの元生徒である。
と言っても、銀子が教える手描き友禅では無く、法
子は料理部に所属していた。
今思えば、旅館経営の為に必要としての事だろう。
銀子は時折法子と顔を合わせるうちに、いつしか会話を交わす様になっていた。
その法子が、旅館で着る作務衣と客室の暖簾に、友禅描きをして欲しいとの依頼だったのだ。
展示会の準備も気になるが、法子の依頼を断りきれず、銀子は引き受ける事にしたのだ。
今日は法子と友禅の色、柄の打ち合わせも兼ねての一泊という事になる。
暫く国道を道なりに走行すると、カーナビが思い出した様に案内を開始した。
銀子は、案内通りに国道を右折した。
しかし右折と同時に警察官が停車の合図を出した。
先ほどのパトカーの警察官だろう……。
しかたなく、其の指示通り停車し、わざと迷惑そ
うに免許証を提示した。
「何処まで行かれますか? 」
その警察官は、窓越しから、車内を舐めまわす様に、見ている。
その目は花瓶を見ていた。
「あれは? 」
と、警察官が尋ねる。
「花瓶です。友人の旅館に、持っていくのです。」
八十センチ程ある、大きい包みが気になるのか、その警察官は銀子の顔を覗き込んだ。
「この先に旅館なんか、あったかなあ? 」
呟くと、別の警察官と、小声で話し始めた。
話が済んだのか銀子を振り返り
「そうですか……。では、お気をつけて。」
と警察官は敬礼をした。銀子は少し不愉快になり、今度は銀子が質問した。
「何か、あったのですか? 」
すると、警察官は、
『そこの海で焼死体が……。」
とそこまで言うと、別の警察官が目で合図した。
それ以上話す必要が無いという事なのだろう。
素早く、その警察官は再度敬礼し道を譲った。
銀子は、警察官が好きではなかった。
幼い頃は、婦人警官になるのが夢で、剣道や柔道を
習っていた事もあったが……。
ある事がきっかけで断念したのだった。
銀子は、暫く道なりに直進していた。すると、徐々に道は狭くなっていく。
民家も無ければ人影もまるで無い。
ただ、波の音だけが微かに聞こえる。
ここは釣り人の絶好のスポットと思えるが、それらしき人も居なかった。
しかし、前方に広がる大海原は、スポットライトを当てた様にキラキラと輝いていた。
本当にこの道で、間違い無いのか……。
銀子は不安に成りながら車を走らせていた。
その時、突如それらしき建物が目に飛び込んできた。
それはまるで回りの景色を独占したかの様に、誇らしげに建っている。
しかし、その建物は銀子
のイメージとかなり違っていた……。
カーナビが目的地到着を告げ、案内を終了した。
「やはり、ここで良かったのね、やっと到着したわ。」
銀子は誰に言う訳でなく、そう呟いた。
旅館の姿は、古風な平家が何軒か密集した、
小さな集落の様にも観える。
銀子は、駐車場を探すが、それらしき物が見当たらなかった。
仕方なく満潮時の事を考え、車は高台へ止める事にした。
細い道を上がり、旅館の直ぐ横に来たが、其処はすでに道は無く行き止まりになっている。
車はそこへ駐車する事にした。
下車した銀子が改めて旅館を眺めると、旅館は海に大きく突き出た岩の上に建っていて、まるで孤島のようである。
銀子は、陸と旅館を繋ぐ、なだらかな階段を歩き上った。
しかし其処には、玄関らしき物がなかった。
銀子が其処で戸惑っていると
「銀子先生……。」
聞き慣れた法子の声がした。
銀子が声のする方へ目をやると、厨房らしき小窓から顔を出し、手招きしている法子がいた。
「ごめんなさい。お出迎え出来なくて……。
着く頃には電話があると、思って……。」
そう法子は言った。
確かに、近くへ来たら電話をする様にと言ってくれたが、カーナビがあるから大丈夫と、銀子は伝えていた筈である。
やはり、携帯電話が、不通だったのですね。ここは、携帯電話が、使えなくて困るって、お客様から言われるのですよ。」
と法子が言った。
『携帯が通じないのか……』
銀子は、携帯電話を取り出し確かめる。
やはり、電話のアンテナは立っていなかった。
「ここはカーナビも、案内出来無いらしくて……。」
法子が続けて、そう付け加えた。
しかし銀子のカーナビは、確かにここまで、銀子を届けてくれたのである。
そう考えていると、
「銀子先生は、勘が良いか らでしょうね。」
と法子は怪しく笑った。
法子は、銀子の霊能力の事は知らない筈だ。
法子が言う勘が良いとは、霊能力の事では無
いのであろう……。
カーナビで来たことを伝えようとしたが、直ぐに伝える事を止めた。
それは、小窓から出ていた法子の顔が、もうそこには無かったからだ。
法子はドアを開け、作務衣姿で現れた。
なかなか似合っていると素直に思った。
旅館の女将とは、着物姿で髪を美しく整えているものだと、勝手に思っていたが、法子はそれとは違っていた。
「先生、紹介したい人がいるの……。
ちょっと、待ってくださいね。」
そう言うと、今出たドアから男性を連れ現れた。
口数少なそうに視えるその男性を、法子は板長の開と紹介した。
開は、照れ臭そうに下を向いたまま、目を合わせる事も無く小さく頭を下げた。
年の頃、法子より遥かに年上に視える。
恐らく法子の恋人なのだろうと銀子は思った。
板長との簡単な挨拶を終え、今度は銀子が話し始めた。
「本当に、お久し振りですね。半年振りかしら? 」
と言うと、法子が答えた。
「確かに……。それ位になると思いますよ。
スクールを辞めて、ちょうど半年ですから
……。
色々話したい事もあるので、今晩お部屋へ伺いますね」
そう言うと法子は、銀子の足元に下駄を差し出した。
下駄に履き替えろと言うことなのだろう。
銀子は素早く下駄に履き替え、法子の後を追った。
部屋に続く中廊下は石畳みになっていて、下駄の足音も心地良く響く。
銀子の前方を行く法子に、銀子が言った。
「法子さん、言うのが遅れたけど、後から中野さんが来るの。」
一瞬、驚いた表情をした法子が、すぐに笑顔に変わり、
「食事のことなら、大丈夫ですから……。
そうですか……。中野さんも……。久しぶりに一緒に飲みたいわ。」
法子は、歯切れが悪そうに、そう答えた。
「そうだわ。こちらから中野さんに電話をして、駅までお迎えに行きますから……。」
そう言うと、法子はまた、前を向き直し歩き始めた。
「よろしく、お願いします。」
と、銀子は言ったが、法子は振り返らず、
「まあっ。姉妹の様だわ。」
そう言うとカラカラと甲高く笑った。
その時、法子の口から一瞬赤い舌が覗いた様に感じたが、気のせいだと銀子は思い直していた。
石畳み沿いの壁は、天然の岩を利用し、後から岩に合わせて旅館が建っている。
岩の隙間からは山水が細長く流れ、その山水を小さな水車が受けていた。
その時、ふっと銀子は、ある一点に目がとまった。
山水が流れるその場所に、着物姿の女の子が立っていたのだ。
銀子は咄嗟に、この世の者では無いと悟った。
その子は、自分の存在が解ったと理解したのか、此方を凝視している。
銀子は慌てて、その子から目をそらした。
今の銀子には御霊がない。
御霊無しでは鎧の無い兵士と同じである。
この世に強い怨念を抱いていれば、銀子の命など、あっけなく滅び消え去るだろう。
まずは、手元に御霊が入ってからだ。
銀子はそう思い、その子から目をそらしたのだ。
法子は、そんな銀子の異変に気付く事無く、旅館の説明をしていた。
「……。でね。祖父が亡くなり、その後を私が引きついだのです。」
法子の話を察すると、元は法子の祖父の旅館だったという。
内装も祖父の少ない遺産で賄ったそうだ。
「難しい造りだから、なかなか大工さんも、こちらの思い通りにして頂けなくて……。」
と一人ごとの様に、愚痴を溢していた。
その法子の愚痴が、言い終わる頃、銀子の宿泊部屋へ到着した。
民家の一戸建て風に建てられた、その部屋の玄関入口には小さな池がある。
その池には金魚が泳いでいた。
格子戸を開け部屋へ入ると、部屋は十二畳程の和室で古風なテーブルと小さいテレビだけの質素な部屋だった。
しかし、窓から見える海の景色は窓全体に広がり、沖には小舟が一艘観え、夕日がその小舟を染めていた。
素晴らしいパノラマだと銀子は思った。
銀子は、部屋の片隅に荷物を降ろしたが、慌てて花瓶を持ち上げた。
「あっ……。
ごめんなさい、忘れるところでした。
私の気持ちです。」
銀子はそう言って花瓶を手渡した。
法子は少し驚いていたが、
「こんな事、しなくて良かったのに……。」
と言いながらも、素直に受け取ってくれた。
しかし、大きい花瓶を選んだ事を銀子は後悔していた。
正面玄関がない旅館に、あの花瓶は大きすぎる筈だ。
法子は、花瓶の置き場に困るだろうと、銀子は考えていたのだ。
旅館は全部で七部屋あるという。
そのうちの五部屋が客室で、後の二部屋を法子と従業員が使っているという。
従業員は板長の他に二人だという。
「銀子先生、この部屋から釣りをする方もいらっしゃいますよ。
五センチ程の、小さい魚
しか釣れませんけど……。」
そう言いながら、法子は窓を開ける。
その窓の下へ目をやると小岩に海藻が張り付き、揺
ら揺らと波に揺れていた。
「ここに居ると、時間も何もかも、忘れてしまいそう……。」
そう、銀子が呟くと、
「ええ……。皆さん、そう言われますよ。
現実逃避が出来るって……。」
法子は銀子と、暫く海を眺めながらそう言った。
「あっ……。いけない。まだ夕食の準備が残っていたわ。
銀子先生夕食まで、ゆっくり休んで下さいね。」
そう言うと、法子は慌てて部屋を出ていった。
夕食は六時と聞いているが、それまでは一時間程ある。
先ほど、法子が言ったが、旅館の裏山には、松林があるのだという。
夕食まで、そこへ行き過ごそうと考えた。
銀子は、先ほど脱いだ下駄にもう一度足を通し、旅館の裏手へ出た。
そこには、五十段程の石段がある。
迷わす銀子は石段を上り始めた。
銀子が石段を上り終えようとする時、その石段に腰を下ろし遠くを見つめる老人がいた。
老人は草木染めの着物姿で、高価そうな杖を持っている。
銀子は少しためらったが、その老人に軽く会釈し老人の横を通り過ぎた。
その老人も頭を下げた様に感じたが、顔は無表情のままだった。
銀子は、その老人の存在を不思議に感じたが、散歩で遠出したのだろうと思い直していた。
ようやく石段を上り終えた。
そこは一面松林で海の眺めもまた素晴らしかった。
銀子が歩く足元には、松の葉と実が落ちている。
それを下駄で踏みしめながら、松林の奥へと歩いた。
すると、そこには小さな祠があった。
良く見るとその祠は、きれいに手入れがされている。
恐らく旅館の誰かが、毎日お参りしているのだろう。
松の木の由来は、(祭りの木)から、その名が、付いたと言われる。
神の祭りに使った木と
いう事なのだろう。
その時だった……。
銀子は頭上に何かの気配を感じ恐る恐る見上げると、
それは確かに 存在していた。
全長三メートル程あるだろうか……。
薄いピンク色の羽衣を、風に靡かせ、松の木をクッ
ションにしているかの様に優雅に木から木へと飛び移っていた。
よく観ると髪を前割れにし両耳の前にまとめている。
顔は今にも笑い出しそうだが、声は聞こえない。
時折、羽衣を持ち口元を隠す仕草が、女性なのかと思わせた。
「こっ……。
これは何? ……。
これが天女という者なのか……。」
銀子は天女以外に、何も思い浮かばなかった。
どれだけの間、天女の舞を、眺めていたのだろう。
天女の姿が消えたと同時に我に返った。
しかし急に恐怖を覚え、その場を立ち去る事にした。
何時しか、辺りは暗闇に変わっていた。
銀子は、先ほど上った石段を足早に下る。
しかし、もうそこには老人の姿はなかった。
( 4 )
中野久美は、諫早の駅に到着していた。
しかし、一台のタクシーも停車していない。
「さあっ……。
ここから、どうしようかな……。」
と呟いた。
仕方なく、駅員に尋ねる事にした。
駅員は親切に、タクシーを呼んでくれると言う。
「お客さん、三十分程かかるそうですが……。」
駅員は申し訳無さそうに、久美に伝えた。
「仕方無いですね。ここで、暫く待ちます。」
久美は、駅員にお礼を言うと、駅構内の椅子に腰を下ろした。
回りを見渡すと、セーラー
服姿の女学生が椅子に座り本を読んでいる。
恐らく家族の迎えを、待っているのだろう。
久美は、銀子の高校生時代を思い出していた。
今の銀子と久美は仲が良い。毎日の様に顔を合わせているが、その頃一度だけ絶縁状態になった事がある。
しかし成人した後、久美がその事に触れても、銀子は何ひとつ覚えていないのだと言う。
あれは……。
銀子が高校三年の夏だった。
銀子の通学路は自宅から駅まで十五分程歩き、その後電車に乗る。
恐らく久美も、同じ道のりだったろう。
しかし二人は、通学時間を同じにした事はなかった。
銀子は、その日も自宅から駅に向かっていた。
路地裏から大通りに出た、その大通りの一角に、銀子のお気に入りのオープンカフェがある。
店に入った事は無いが、全面ガラス張りのその店は、外から店内が良く見えていた。
店はピエロという名のとおり、店内はピエロの人形やテーブルクロス、カーテンまでもがピエロ一色に統一され、外見もアンティーク調のデザインだった。
いつもの様に通り過ぎようとした時、銀子は店の貼り紙に目を留めた。
従業員募集と書いてあったからだ。
銀子は、思わずその募集欄を見直した。
しかし高校生不可と但し書きがしてある。
一瞬迷ったが、高校生という事は隠してアルバイトをしようと考えた。
幸いにも明日から、学校は夏休みに入る。
風貌にも高校生に観えない自信があった。
いつも、大人びた顔立ちだと回りの人から言われていたからだ。
銀子には、アルバイトをする目的があった。
それは夏休みを利用し車の教習所へ通う予定にしていたのだ。
教習費用は今まで貯めた全額を入れ、なんとか間にあったが無一文では通えないと考えていたのだ。
両親に言えば、まだ早いと反対されるだろう。
しかし銀子は、九月の誕生日には免許を取得し、一日も早く車の運転がしたいと、ただそれだけの理由だった。
早速、学校の帰り道ピエロに電話を入れた。
面接は呆気なくその日と決まり急いで自宅に戻った。
銀子は、大人びたスーツに着替えた。
面接も銀子が心配する程なく呆気なく採用となった。
「明日から、よろしく。」
と優しそうな男のオーナーがそう言った。
「はい。宜しくお願いします。」
と銀子は、ペコリと頭を下げた。
アルバイトの初日を迎えた。
夏休みの間は、朝から夕方までの勤務にし、その足で
教習所に通う事にした。
その日のアルバイトは、トレイの持ち手もまま成らず、一日目が終了した。
その様子を久美が店の外から見ていた事に、銀子は気付いていなかった。
「クスッ!」
と久美は笑った。
それは、銀子が異常に緊張していたからだった。
そんな銀子の姿を、初めて見た気がしたのだ。
銀子は十九歳という事で働くと聞いていた久美は、店へ顔を出す事をひかえた。
銀子は、その日から毎日休まずピエロへ行った。
それと同時に教習所へも通った。
少しハードだと思うが、若い銀子には、さほど苦にならなかった。
銀子が、アルバイトを始めて一ヶ月が過ぎ、夏休みも終わりに近い頃だった。
銀子もその頃にはアルバイトにも馴れ、常連客とも会話が出来るまでになっていた。
教習所の方も、持って生まれた銀子の運動神経で補修を受ける事無く順調に仮免許が取得出来ていた。
後は九月の誕生日と同時に、本試験に合格すれば銀子の念願である、車の運転が出来る筈だ。
銀子にとって、何もかもすべてが順調だった。
季節は九月を迎えていた。
学校が始まり免許を取得した事で銀子はアルバイトを夕方から夜までのシフトに変更していた。
その夜の常連客が顔を出した。
年の頃、銀子とさほど変わらないであろう若い男達で
ある。
銀子は、愛想笑いで出迎えた。
「いらっしゃいませ。」
その男達は、五、六人で、いつもの席に陣取って座った。
そして何時もの様に、甲高い声で話し大声で笑うのだ。
オーナーは何も言わないが、良く思って無いのは確かである。
銀子は、注文のチョコドリ
ンクを団体客に運んだ。
いつもの事であるが銀子の顔を見るなり、その客の一人が声をかける。
「彼女、いくつ?」
別の男も言った。
「今度、ドライブしない?」
などと……。
銀子が困った様子になると、すかさずオーナーが声を掛ける。
「銀ちゃん、麻雀店に、コーヒーの配達してくれないか。」
いつものオーナーの助け舟である。
銀子は慌てて、店の勝手口をでた。
夕方からは、麻雀店への配達が頻繁になる。
今日もこれで三度目の配達だ。
歩きで五分程の道のりだが店内ばかりより、時折外に出るのも良いと思っていた。
いつもの路地裏を通り、テナントビルに入る。
無事配達を終え来た道を戻っていた。
銀子が神社の裏手に来たその時……。
何故だか、赤い鳥居が気になったのだ。
いつもは素通りしている筈である。
銀子は無意識に赤い鳥居をくぐり、その日だけの簡単な参拝をした。
特に何も願い事は無かったが、ただ何故かそうしたかったのだ。
しかし、これが銀子の生き方を大きく左右する事になるとはこの時の銀子は知る由も無かった。
銀子は参拝後、直ぐに店に帰り着いた。
しかし、先ほどの団体客はまだ店内にいた。
「銀ちゃん、チョコドリンクもう一杯。」
男達は、そう言って追加注文をする。
銀子は、注文のドリンクをテーブルに運んだ。
その時、一人の男が声を掛けた。
「今日、車でツーリングやるから……。
銀ちゃんも一緒に来いよ。」
いつもの銀子なら、きっぱりと断るはずである。
しかし何故かその時ツーリングに行きたいと思った。
免許がある事も関係しているのだろう。
「いいよ。」
と銀子は軽く即決していた。
今までの銀子は、彼らを好まない気持ちだったが、なぜか、その時の銀子は彼らを嫌だと感じなかった。
よく見ると彼らは優しい人達に見える……。
銀子は、そう感じていたのである。
幸いオーナーも厨房に入って姿が見えない。
料理をしているのかこちらの様子に気付いていなかった。
彼らの一人が声を上げた。
「やったぜぇー」
その声を聞いて、彼ら全員が歓声を上げた。
「シーッ……。静かにして。」
銀子はその歓声を制した。
「じゃあ、今夜八時に、神社にいるから……。」
彼らはそう言うと、素早く店を出ていった。
銀子は、アルバイトを終え自宅に戻ったが家には誰もいなかった。
母は看護師で、今夜は夜勤とカレンダーに記してある。
父も会社の休みを利用し、趣味のカメラ撮影に出かけているはずだ。
両親に許可なく出かける事は、銀子にとって幸いだっ
た。
銀子は待ち合わせの神社へ向かった。
神社の駐車場には既に十台ほどの車がエンジン音を響かせ、銀子の到着を待っているかの様だった。
「銀子、こっち、こっち……。」
と彼らの一人が、銀子を呼んでいる。
『もう名前を、呼び捨て? ……。』
と、不愉快に思いながらも、その男の車に駆け寄った。
その男は助手席に乗るように、手で指示する。
銀子は、その男の指示に従った。
銀子が、助手席に座ると、男が言った。
「これ、着ろよ。」
銀子の膝に無造作に置いた物は、濃いブルーのツナギだった。
背中に(喧嘩剰到)と、金
色の刺繍が施してある。
このツナギを見たとき、彼らが暴走族だと気が付いたが、別に何も感じなかった。
それどころか、これから未知の世界に行く様で、銀子の心は期待感で一杯になっていた。
銀子は、服の上からツナギを着た。
銀子が乗る車の男が、後ろを振り向き合図した。
その合図と同時に、エンジンの爆発音が鳴り響き、銀子の乗った車を先頭に走り出す。
後方には他の車が列を成した。
車は徐々にスピードを増してゆく。
車は繁華街を抜け郊外へ入る。
道路は比較的空いているが、他の車両を次々に追い越して行き車は増々加速していた。
銀子は、そのスピードとスリルに陶酔している、その時だった。
漸く男が口を開いた。
「俺、名前言って無かったな……。
井岡翔一。翔と呼んでくれ。
銀子は、そのまま銀子でいいな……。」
そう言った男の顔を、初めて銀子は間近で見ていた。
その男は黄色く染めた髪が良く似合う、ハーフの様な顔立ちである。
色は白いが、眼付きは鋭かった。
「銀子もハーフか?」
と、翔が銀子に聞いてきた。
「違うよ。うちは二人とも、日本人だし……。」
と、慌てて否定した。
「二人か……。
いいな。
俺、母親だけだし……。
親父と会った事無いし、まあいいけどな。」
と翔は言い放った。
銀子は車の窓を開けた。
その窓から強風が吹き込み銀子の長い髪は、何度も銀子の顔を叩き付けていた。
その時だった。
「チェッ……。」
と、翔が、大きく舌打ちをする。
「銀子……。あいつ等まくるからな。」
翔の言葉は銀子にも理解出来た。
それはまだ遠くに聞こえる、パトカーのサイレン音だったからだ。
さらに車は加速し、県外へ逃げていた。
ようやくパトカーを遠ざけ、翔は工場跡の敷地に
車を止めた。
翔の後方から、次々に他の車も敷地に入り込む。
ここで、休憩という事なのだろう。
翔も銀子も車を降りた。
他の仲間も、それぞれ車を降りていた。
その時、一人の男が翔に
駆け寄る。
「翔さん。すみません。
今日サツ出ないと聞いていたので……。」
と申し訳なさそうに頭を下げた。
翔は無言のまま、前を見据えて頷いていた。
回りは、すでに二十名程の男女が座っていた。
その中の一人の女の視線が気になっていた。
その時、翔が口を開く。
「皆、聞いてくれ……。
俺の妹分の銀子だ、よろしく。」
と翔は言った。
すると先ほど、視線を送っていた女が言った。
「妹分じゃなく、本当の妹じゃないの?
顔そっくり……。」
そう言うと、いきなり女は笑い出した。
「そんなこと、どうでも良いよ……。」
と翔は、そっぽを向いた。
銀子は、いつ翔の妹分になったのだろうと思ったが、それは翔の配慮だと考え、何も言わず仲間に軽く頭を下げた。
「さあ……。行くぞ。」
翔の掛け声と共に、全員立ち上り車に乗り込んだ。
翔の車は、また銀子を乗せ来た道と違う道を通り、出発地点へ戻っていた。
その車内で翔の話を、銀子は黙って聞いていた。
翔は十九歳で二十歳になると、族の決まりどおり暴走族を引退するという。
その翔は、二か月後、二十
歳を迎えるということだ。
「それで銀子に言うのも、なんだが……。
俺の引退後このグループを引っ張って欲しい
……。
銀子は何か底知れない、良い目をしているから……。」
翔は銀子に言った。
銀子は翔の話を無言のまま聞いていた。
一晩中、闇を走り続けた車は、夜明けと共に神社へ到着した。
外は薄っすらと明るさを増
している。
また誘うから……。
と言う翔の車を降り、銀子は家路に着いた。
一睡もしていない銀子の足元には、力が入らない。
やっとの思いで家に戻った銀子は、出かけた時と変わらず誰も居ない家に安堵した。
銀子はよろよろと成りながら、目覚まし時計をセットしベッドへ潜り込んだ。
学校に行くまで寝るつもりでいたのだ。
あっと言う間に、目覚まし時計のベルが鳴り響く。
銀子は、素早くベルのスイッチを切った。
しかし、そのまま起き上がれず、また寝てしまったのだ。
次に目を覚ましたのは、母の声だった。
「銀子、どうしたの? 体の調子が悪いの? 」
母は、銀子の部屋へ入るなりそう聞いてきた。
「うん……。体がだるくって……。」
熱があると、はっきり言えば仮病がばれると思い、わざと曖昧な言い方をしたのだった。
「学校に連絡したの? 」
と、母が聞いているが、返事をしない銀子に、母は不機嫌に言った。
「私が、しておくから。」
と言い残し、母は部屋を出て行ってしまった。
その日から銀子の日常は、激変していった。
毎週土曜日の夜から日曜日まで、暴走ツーリングは続いていた。
その日は、そのまま寝ずに、ピエロのアルバイトをした。
いつしか、銀子の中では、それが普通の日常となっていた。
アルバイトの事は、両親に打ち明けたが、暴走ツーリングの事は、内緒にしていた。
銀子が、暴走族になってから、二ヶ月が経っていた。
今夜の暴走ツーリングは、翔の引退と誕生祝いになっている。
いつもの様に、工場跡に全員集合した。
翔が仲間の前に立ち話し始めた。
明日で俺も二十歳になり、惜しくも今日で引退になる訳だが、俺の後を、達おまえがやれ。
そして、仲間も増えてきたことで、女のグループの頭は銀子に任せる。」
そう翔が言うと、達と銀子は前に出て挨拶した。
この日から銀子は、レディースの頭として誕生したのだった。
車は翔から譲り受け、翔は知り合いの、板金工場に就職した。
銀子は、高校の教室にいた。
卒業も間近になり、同級生も半数程しか登校していなかった。
大学入試や就職活動のせいだろう。
黒板には、(自習)と大きく書いてある。
其れでも銀子が、学校に来たのは追試を受ける為だった。
この試験を受ければ、如何にか卒業出来るからだ。
「ねえ銀子。大学進学どうするの? 」
と同級生の敏子が聞いてくる。
以前、一緒に警察学校を受験しようと言っていたからだ。
「ねえ銀子。大学進学どうするの? 」
と同級生の敏子が聞いてくる。
以前、一緒に警察学校を受験しようと言っていたからだ。
「うん。……。」
と銀子は気の無い返事をした。
今の銀子は将来の事など、どうでも良かったのだ。
以前の銀子なら、警察官になる為に、すでにその学校を受験していた筈である。
父親も銀子が警察に就職出来る様に、幼い頃から柔道と剣道を習わせていた。
銀子が警察官になる事は、父の望みでもあったのだ。
しかし、武道が実践出来たのは、暴走族同士の喧嘩の時だけだった。
少なくとも、暴走行為を、止めるサツには、なりたいとは思わなくなっていた。
暴走仲間が、サツから逃げきれず、ガードにぶつかり死亡した事や、車椅子生活や人工呼吸器無しでは、生きる事さえ出来無い仲間も数々みてきた。
今の銀子から見たら、サツはイコール敵なのだった。
「まだ、決めていないよ。」
と銀子は敏子に言った。
敏子には意外な答えだったのか、少し驚いた表情をした。
銀子は歌手になりたいと言った事もあるのだと、敏子が言う。
「そうだっけ? 」
と銀子は答えたが、確かにそう言った時期もあるが、そうだと認める事が照れ臭かった。
「歌手は、無理かもしれないけどさ……。
バスガイドなら、いいじゃない?
さっき職員室の前にポスターが貼ってあったよ。」
と敏子が言った。
銀子はバスガイドには、まったく興味は無いが敏子の気持ちを考えて、
「後で見に行くよ。」
と敏子に伝えた。
銀子は、暴走族メンバーの事を考えていた。
毎週走る事だけを楽しみにしていた銀子だったが、最近何かが違うと思うようになっていた。
メンバー達の事故が、頻繁になった事である。
何か間違っていないか?
と自問自答していた。
先週のツーリング中銀子は、後頭部に激しい衝撃を受けた。
誰かが殴ったのかと思い、後ろを振り返ったが当然誰もいない。
その時、銀子の耳元で男とも、女ともいえない声で
「お前は、いったい、何をしているのだ。」
そう聞こえた気がした。
あの声を聞いて以来、自分の行動に疑問を持つ様になっていた。
まさに、この頃だった。
久美が銀子を見かけ、いつもの様に手を振った。
「銀子姉ちゃん。」
と笑い掛ける久美に銀子が言い放った。
「なんだぁーお前は、人の名前気安く呼びやがって……。」
久美を、まるで知らない人の様に言ったのだった。
久美は、初めて銀子に恐怖を覚えた。
その恐怖は、銀子が発した言葉よりも、銀子の目が鋭く恐ろしい青色に光っていたからだった。
成人した後、その事を久美は銀子に伝えたが、銀子は何も覚えていないのだと言う。
銀子の中では、久美と最近会わないな……。
と思っていたのである。
( 5 )
銀子は卒業式を二日後にひかえていた。
しかし、まだ就職は決定していなかった。
銀子は、心の靄を消す為に知人を訪ねる事にしたのだ。
それは祖母が生前、親しくしていた祖母の友人に会う為だった。
銀子は幼い頃の記憶をたどり、その家屋を探していた。
道はここで間違い無いだろう…。
しかし、祖母が亡くなって十年の月日が経っている。
祖母の友人は祖母より若かった筈だが、生きていても八十歳を超えているだろう。
生きていて欲しいと銀子は願った。
そう考えていると、昔懐かしい家屋を見つけた。
この家に間違いないだろう。
たしか、家屋の横に犬小屋があったはずだ。
幼い頃、ここの白い犬とよく遊んでいた事を銀子は思い出していた。
激しく吠える犬だったが、銀子と仲良くなると銀子の姿を見るなり、尻尾を振って出迎えてくれていたのだ。
しかし、その犬小屋はすでに無かった。
銀子は、その家屋の玄関に立った。少し緊張するが迷わず呼び鈴を押した。
暫く待つが返答が無い。
もう一度呼び鈴を押そうとした時、家屋の奥から人の気配がし、玄関のドアが音をたてながら開いた。
そこに立って居たのは、思い出深い顔の老女だった。
「どなた様ですか? 」
と、老女が銀子の顔を見つめる。
「銀子です……。
佐多です。
佐多銀子です。」
暫く老女は考えていたが、その顔が明らかに変化し笑顔になった。
「あーっ。
あの銀ちゃん。
おハツさんの、お孫さんの……。」
銀子は、すかさず答えた。
「そうです。御無沙汰しまして。」
銀子の事を、忘れていない老女に安堵した。
しかし、老女の笑顔は、一瞬にして曇り銀子を凝視している。
「銀ちゃん。あんた、いったい……。」
と老女は言い放ち、そのまま銀子の腕をつかみ家屋の奥へと引き込んだのだ。
銀子は訳が解らず、老女のなすがままになっていた。
「ここへ、座りなさい。」
と老女が言う部屋に、銀子は無理やり座わらされた。
その部屋は神が祀ってあった。
神棚から放たれる金色の光が眩しい。
銀子は、目を開けることが辛く苦痛で思わず目を閉じた……。
「銀ちゃん。目を開けて、前を見なさい。」
厳しく言い放つ老女の声が恐ろしく感じた。
しかたなく銀子はゆっくりと目を開けた。
「あんた、おハツさんが亡くなる時、御霊を譲り受けたはずだ、なぜ持ち歩かない? 」
と老女は銀子を怒鳴ったのだ。
そう怒鳴られ初めて気付いた銀子だった。
そうだ、確かに最近持ち歩く事が無くなっていた。
アルバイトに行く時、小さいバックに御霊が入らず、それからずっと御霊の事さえも思い出す事が無かった。
うかつだったと銀子は思った。
それだけ言うと老女は神仏に手を合わせ声にならない小さい声で、何やら祈りを続けている。
暫く銀子は、老女の後ろ姿を見つめていた。
その時だった……。
銀子の体が、揺れ始めたのだ。
それと同時に、涙が無意識に溢れ出した。
『どうしたのだろう? なぜ涙が出るの? ……。』
銀子にも、理解が出来なかった。
暫く同じ状態が続いた。どれだけ時が経ったのだろう。
その老女は銀子の方を向き直し、今度は静かに語り出した。
「銀ちゃん、おハツさんの願いと正反対の事をしているよ。
いつ神社のお狐様に手を合
わせたの?
神社には、御本尊様がいるでしょう?
それを無視して、行き成りお狐様に手を合わせるなんて……。
おハツさんは、そんな事、あんたに教えて無いはずだ。」
暫く銀子は、老女の言う事を考えていた。
確かに、そんな事があった。
それは、アルバイトの配達の帰りに、赤い鳥居をくぐり何気なく参拝したではないか……。
ただ手を合わせただけだった。
祖母は、よく言っていた。
神社には、必ず御本尊様があり、その神社へ無事到着した事のお礼を言って、それぞれの信仰に合わせた神に手を合わせなければならないと……。
「銀子だって、他所のお宅の勝手口へ行き成り行くことは無いだろう?
そんな事は常識の無い、失礼な人だと思われるから……。」
そう祖母は、言っていたはずだった。
すると、老女が銀子に言った。
「銀ちゃんの中には、お狐様がいるのよ。
それも、ただの狐様じゃない……。
七ツの尾がある高貴なお狐様だ。
それは、白いお狐様で、目は青く輝いているよ。
銀ちゃん、そのお狐様が、入り込んでから何もかも、思い通りになったでしょう?
でも……。
そのお狐様は、銀ちゃんの体から離れて頂かないと
いけないよ。
銀ちゃんの体には、生まれた時から神様がいるよ。
それはおハツさんも言っていたよ。
だから、あの子は将来自分と同じ道を歩く様になるのだと……。
そして、こうも言っていた……。
きっと銀子は、ここへ来る事になる……。
その時私は、既にこの世にいないから、銀子の事を宜しくお願いしますねと、おハツさんは私に頭を下げたのよ。」
懐かしそうに、祖母の事を語る老女の目が潤んでいた。
そして話を続けた。
「銀ちゃんは、お爺さんの事知らないでしょう? 」
祖父は、銀子の母が幼い頃、亡くなったと聞いている。
「はい。」
銀子は答えた。
「銀ちゃんの、お爺さんも、やはり、お狐様が付いたまま亡くなっているのよ。
おハツさんは、自分の力が足りなかったと嘆き悲しみ……。
それから、おハツさんと、
私の巡業の旅が始まったのよ。
力を強くしたおハツさんは、よく近所の方々の、悩みを解決していたよ。
看板を上げる訳じゃなく、お金を貰う訳じゃなく……。
お爺さんの、罪の償いと思っていたのだろうね。」
そう語る老女の顔は、すでに涙で濡れていた。
「さあ、除霊を始めます
よ。
相手が相手だけに三日かかるか、七日かかるか私にも解らない。
それにこのお狐様は、銀ちゃんが願い事を言わなかった事が、大変気に入ったと言われている……。
だから除霊の途中で、私が負けてしまう事もある。
しかし銀ちゃんの為、いや、おハツさんの為にやるから……。
銀ちゃんも、しっかりここに通うのよ。」
そう言うと、老女は神仏に向き直り、また祈りを始めた。
銀子も老女に合わせ、合掌していた。
銀子は、その日から毎日、老女の元へ足を運んだ。
老女は、日々やつれた顔になっていく。
かなり体力を、消耗しているはずだ。
銀子も、ここへ来ようとすると、頭痛や腹痛、それに歩く事さえ出来ない程の足の激痛と様々な症状が襲ってくる。
しかし其れは、お狐様の仕業だと考え己の体に鞭打つ様に除霊に通っていた。
その甲斐あって、徐々に銀子も変化が現れ始めた。
鋭い目つきが元の丸く大きい目に変わり、言葉使いやしぐさなどが著しくに変化していた。
その除霊が、終わりを告げる日がやってきた。
そして老女が言った。
「銀ちゃん。良くがんばったね。やっと高貴な、お狐様が神社へ帰られたよ。」
その老女の言葉を聞いて、既に銀子は泣いていた。
老女の疲労も頂点に達しているのか、
座って居る事さえ辛そうだ。
「ありがとう……。
ありがとうございました……。」
銀子は、もっと話したかったが、それが言葉に成らない程泣いていた。
「さあ、これからが、あなたの本当の人生ですよ。
高貴なお狐様だから、あなたの中にはポツンと穴が開いている。
そこに、新しい神様を入
れたから、あなたの中には二体の神様が入っているのよ。
だから、これからは人の為に力強く生きていくのよ。」
それだけ言うと、老女はその場に、倒れ込んでしまった。
銀子はその老女の娘だという人を呼び、老女を預けその家屋を後にした。
その頃久美は、銀子が暴走族と仲良くしている事を知り、銀子と会う事を避けていたが、銀子が卒業した事を聞きつけ、お祝いを言う為に銀子の家へ電話を掛けていた。
「もしもし、銀子姉ちゃん。いますか? 」
電話に出たのは、銀子の母だった。
「あらっ、久美ちゃん知らないの?
銀子は京都に行ったのよ。
まあっ、驚いた……。
銀子は久美ちゃんに、何も言わなかったの?
バスガイドになったのよ。」
そう銀子の母が言った。
「あっ、そうだった……。
確かに聞いていたけど、私うっかりして……。
すみません。」
と、取り繕い、久美は慌てて電話を切った。
銀子は久美に何も言わず、京都へ就職していたのだ。
その日から、5年の月日が経っていた。
久美は、市内の大学に通っていた。
その帰り道、家の近所のパン屋に立ち寄った。
そのパン屋に偶然銀子が、お客で訪れていたのだ……。
久美は、思わず掛け寄り声を掛けた。
「銀子姉ちゃん。」
銀子は、かなり驚いていたが、振り返った銀子のは、かつて良く知る、いつもの銀子だった。
「久しぶり……。久美ちゃん。」
銀子は京都に五年間いたが体調を壊し退職して、帰って来たのだという。
「体調が悪いと言っても、たいした事じゃないのよ。
母が大げさなだけで……。
病院を受診したら、ただの過労だったのよ……。
本当は里心が出ただけみたい……。」
と銀子は笑った。
そこからまた銀子と久美の、かつての友情が復活したのである。
久美は、まだ諫早の駅にいた。
先ほどまで読書をしていた女学生の姿は、すでに無かった。
久美が、思いに耽っている間に迎えが来たのだろう。
そう思っているとき、
「やっと、タクシーが来ましたよ。」
駅員が、久美にそう伝えた
久美は、椅子から立ち上がり、急いでタクシーに乗り込んだ。
それと同時に旅館の名前と住所のメモを運転手に差し出した。
「お客さん、ここへ行くのかい? 」
運転手は、後ろを振り返り、久美を見つめる。
「はい。
でも、どうして? 」
運転手の、不振な言い方が気になり、久美はそう尋ねた。
久美が尋ねる事を予期していたのか、運転手はすぐに答えた。
「あんな所、女一人で行くなんて、ろくな事無いですよ。」
そう冷たく言い放つが、あきらかに久美を心配した様に顔を歪めた。
「あそこに行った奴は、二度と戻っては来ないという噂だから……。
いやぁ、お客さんが、
どうしてもって言うなら、送り届けるが……。」
運転手は二度程、若い女性客を送り届けた事があるのだという。
しかし、送り届けた翌日
以降には、必ず何らかの原因で死体が発見されているのだ。
その度に、女性達が夜な夜な運転手の夢枕に立ち泣いて訴えるのだと言う。
「助けて……。
助けて……。」
あの日以来、まともに眠って無いのだと、運転手は語った。
「お客さん、悪い事は言わないから行くのは止めた方がいいよ。」
そう運転手は言うと、タクシーの後部ドアが開いた。
久美に降りろと、いう事なのだろう。
しかたなく久美は、そのタクシーを降りた。
久美は銀子に電話を入れようと、携帯電話を取り出した。
その時、誰かが久美に声を掛けた。
「中野久美さんですか? 」
久美が思わず振り返ると、一人の男が立っていた。
その男は、清龍旅館の板長だと名のった。
「はいっ……。
あっ、はい。」
と、その男を見上げ、久美は慌てて返事をした。
その板長は、法子に頼まれたと言うが、この時間に着くとは、誰にも伝えなかったはずだ。
久美自身も慌てて電車に乗り込み、到着時間を車内で尋ねた程である。
板長が言うには、法子が、久美に電話を入れたと言ったが、久美は銀子からの電話を終え、直ぐに会社を早退していた。
それは一刻も早く、御霊を届けたいと思ったからだ。
銀子は急ぐ様には言わなかったが、銀子の心境を察すると、少しでも早く届けたかったのである。
久美は、銀子の電話を終えた後、法子の住所と、旅館名を急いで調べた。
それはすぐに解った。
法子の、在籍録があったからだ。
その足で自宅に戻り、着替えを鞄に詰め同じマンションに住む銀子の部屋へ行った。
御霊はすぐに解った。
テーブルの上に置いてあったからだ。
御霊を鞄に詰め慌てて、駅に向かった。
偶然待ち時間も無く、電車に乗り込む事が出来たのだ。
法子が電話をしたとすれば久美が退社後の事だろう。
久美はそう考えていた。
久美は、板長に促されるまま、旅館の車に乗り込んだ。
しかし先ほどの運転手の話が気になった。
その事を、板長に聞こうと思うが、中々その事を言い出せなかった。
「喉が渇いたでしょう? 」
板長が缶コーヒーを差し出す。
久美は、その缶コーヒーを開けた。
「いただきます。」
久美は、そのコーヒーを飲み始めた。
コーヒーが久美の空腹の胃袋に染み渡っている。
そのコーヒーを飲み干す頃、旅館らしき建物が姿を現した。
板長が、旅館へ着いた事を、久美に告げた。
久美は素早く車を降り、石段を掛け上がった。
するとそこは、寂れた旅館だった。
それを目の当たりにし、久美は背筋が凍った。
『銀子は、本当に、ここに居るのか? 』
久美は、不安になってきた。
石畳の廊下を、足早に歩くが(メリッ、メリッ)と、何かを踏みつけている。
明かりの無い暗い廊下は、月の光かりだけが頼りだった。
そして暫くすると廊下の片隅の裸電球で、その音の正体が解った。
それは、想像を絶する程の無数の百足だったのだ…。
その百足が重なり合い、うごめいている。
「ヒィーッー。」
と、久美は悲鳴を上げた。
足元に纏わりつく、百足を避けながら岩壁に手をついた。
すると今度は、ヌルッとした感触がする。
久美は、岩壁に目を向けた。
なんとそこには、蛇が威嚇する様に頭を持ち上げていたのだ。
よく見ると、岩壁は蛇で埋め尽くされていた。
「ウワァーッ。」
と、久美は、また悲鳴を上げ銀子の名を呼び走り出していた。
「銀子姉―。
銀子姉―。」
久美は、目標なく走り続けた。
すると久美の進む方向に、一つだけ明かりが見えた。その明かりの点いた部屋を目がけ久美は一目散に走った。
『ガラッーガラッー』
と、音を立て久美は、その部屋の玄関を開けた。
そして思わず叫んでいた……。
「あッ……。銀子姉ちゃん。」
そこには銀子が、倒れていたのだ……。
しかし良く視ると、それは違っていた。
倒れていると思ったのは、久美の勘違いで、銀子はスヤスヤと寝息を立てていたのだ。
「生きている。
良かった……。」
安心したと同時に、強烈な睡魔が久美を襲った。
そして久美は、その場に倒れてしまったのだ。
久美は、程なくして目を覚ました。
するとそこには、銀子と法子が笑いながら話しをしている。
テーブルには、サザエや鯛の活き造りが贅沢に並び、ワインを飲みながら、二人は料理に箸をすすませていた。
部屋は先ほど目撃していた、蜘蛛の巣さえ無く、古風な造りだが綺麗に片付いている。
『夢だったのか……。』
と、思い久美は重い頭を持ち上げた。
「久美ちゃん、良く寝ていたわよ。
起こすのが可哀そうなくらいに。」
と、銀子は、いつもの様に笑った。
しかし、久美にはこの状況が暫く理解出来ずにいた。
久美が沈黙していると法子が言った。
「中野さんも、こちらで、一緒に飲みましょうよ。」
そう言われ、久美は、銀子の隣に座った。
久美は銀子と早く二人になりたいと、思っていた。
それは、タクシーの運転手が言った事や、この旅館の本当の姿を、銀子に伝えたいと思ったからだ。
恐らく銀子は、もうすでに憑依されているのかもしれないのだ。
早く銀子に、御霊を渡さなければと焦るが、法子の前では何も言えなかった。
このまま二人が、話し続ければ……。
そう思っていると、部屋の外から声がした。
「女将さん。」
と、法子を呼んでいる。
男の従業員のようだ。
「少し、待っていてくださいね。」
と、法子は言い残し部屋を出て行った。
久美は慌てて、御霊を銀子に渡した。
銀子は何これ……。
という表情をしたが、御霊を手にした途端、銀子の顔つきが一変した。
銀子は、素早く立ち上り祈り始め、行き成り結界を引いた。
そして、久美の除霊を始めた。
「アビラウンナンソカ。」
大声で呪文を唱える。
「リンビヨウトウシャ……レツザイゼン。」
と数回力強く呪文を唱えた。
そして静かに合掌した。
銀子は目を開け語り出した。
「ここは、現界と幽界の、境になった世界なのよ。
自分の意思と反して、命を落とす者も多くいたから、怨念や悪霊が渦まいている筈だわ……。」
いつもの声より低い声で、銀子はそう語った。
暫く憑依を避ける為、二人は結界の中にいて、様子を視ることにした。
そこへ、法子が戻って来たのだ。
法子は二人の顔を見るなり、顔つきが険しく変化し始めた。
法子は直ぐに、結界に気付いたのだ……。
それでも法子は、顔を引きつらせて二人の側へ寄ろうとしている。
しかし、それは神が許さ
なかった。
法子は金色に輝く結界が眩しいのか両手で顔を覆っている。
いつもの法子の顔は、もう
そこには無かった。
目は赤く鋭く光り、顔色はどす黒く変化していた。
「ウォーッ、ウォーッ。」
息苦しそうに、法子は奇声を上げた。
「もう少しのところだったのに……。」
そう言うと悔しそうに、法子は二人の前から姿を消した。
テーブルの上の御馳走は、すでに腐り悪臭を放っている。
久美は、気分が悪いのか、トイレへ掛け込んでいた。
銀子はこの敷地全体に、結界を張ることにした。
それは、苦渋の決断だった。
悪霊は、ここから出る事は出来ないが、それは銀子も久美も同じである。
二人が無事ここから生きて帰るには、必ず悪霊を説得し人の心を取り戻させ、天界に送らなければ、何の意味もないのだ。
必ず神のいる元に返す事を成功しなければならない。
しかし銀子の力だけで、この悪霊に立ち向かう事が出来るのか、不安になりながらも、直ぐにその気持ちを打ち消した。
祖母もあの老女も、命をかけて銀子を除霊しくれたはずである。
これまで、銀子が無事
に生きられたのは、人の為に見返りなど求めず、命をかけてくれた人達が居たからだ。
あの老女も言っていたが、銀子の中には二体の神が居るのだと言っていた。
その神に全てを、委ねればいいのだ……。と銀子は決断した。
「久美、私はこれから、この境の世で何があったのか、調べに行くわ。
その間久美は、この結界から、絶対に出てはダメだよ」
そう言うと銀子は合掌し、また呪文を唱え始めた。
銀子は、人体から自分の魂だけを浮かばせた。
人体から離れた魂は、細く白いトンネルへ入る。
そのトンネルから、小さい光が見えてきた。
銀子は迷わず、その光を目指し進む。
その光が徐々に、大きく広がってきた。
「ここだ。」
銀子の魂がその光の中に、舞い降りた。
そこはまさしく、この旅館の風景で、時代は昭和初期のようだ。
海の方へ行くと、そこには着物姿の女が、両手首を縄で縛られ軒下に吊り下げられている。
その女の姿は、着物も原型を留めていないほど、切り裂かれていた。
その切り裂かれた箇所から、鮮血が滴り落ちていた。
女の背中に何度も男の鞭が、容赦なく打ちつけられる。
女はその度、苦しそうに悲鳴を上げていた。
打ち寄せる波も、男を手伝うかの様に女の傷を叩き付けている。
女の悲鳴も頂点に達した時、全身の力が抜けた様に、動かなくなっていた。
もう既に、男の鞭にも反応すらしない。
女はその時、絶命したのだった。
「チェッ。」
と、男は舌打ちし鞭を大事そうに懐に入れ、何事も無かったかの様にスタスタと帰っていく。
銀子は男の後を追った。
男は部屋に戻り、大きな金庫を開けニヤニヤと札束を数えている。
これが、この旅館のオーナーだろう。
だとすれば、法子の祖父という事になる。
なんと言うことだ……。
銀子は、先ほど絶命した女の所に戻った。
女の遺体は、風と波で振り子の様に揺れていた。
いったい、何があったのか……。
銀子の魂は、その女の中に入った。
女はチエと呼ばれていた。
幼いチエは祭りに行こうと父親に誘われ、喜んで着いて行った。
貧しい生活だったがその日は特別で、チエが欲しがってい風車を、買ってくれると言う。
しかし父親は、祭りとは逆の道を歩いている。
「父ちゃん、祭りじゃないの? 」
と、チエが尋ねる。
「祭りの前に、父ちゃんの、友人の所へ行くから……。
祭りはその後だな。」
チエは、その父の言葉を、最後まで信じていた。
しかし、父は祭りどころか、借金の方に、娘をここへ連れて来たのだった。
チエは此処での生活を、余儀なくされていた。
そして、チエは成長するにつれ、知らない客と夜を共にする事を強いられていたのだ。
最初は拒否し抵抗もしていたが、その度、あの男の容赦ない折檻を受ける事になる
そのうちチエは、抵抗する事さえ忘れていた。
チエの意思は、すでに無くなっていたのだ。
もうどうなっても良い、いつ死んでも誰も悲しまない……。
そんな時だった、チエは妊娠に気付いた。
誰の子供でも構わない……。
自分の子供に変わりは無いなのだ。
絶望的なチエの心に一筋の光が射した。
しかし、この事をあの男が知れば他の女達の様に女の物に棒を差し込まれ腰を蹴られ、無理やり堕胎させられてしまう……。
あんな男に殺されてたまるものか……。
チエは、この小さい命を守り通そうと決意した。
しかし、無事に生むまでは何が何でも隠し通さなければならない。
絶対男に逆らわず言い成
りでいよう。
そうチエは考えていた。
チエは、日々自分の中で育つ我が子が愛おしかった。
その腹部に手を置き優しく撫でる。
「元気に産まれてね。」
そして、朝方それは突然おきた。
チエの腹部に嘗て無い程の強烈な痛みが襲う。
陣痛が始まったのだ。
それはチエの予想より遥かに早かった。
そして陣痛は、徐々に激
しさを増している。
チエは、急いで裏山に掛け上った。
そして松林をひたすら走った……。
やっと祠の裏まで辿り着き、そこで可愛い元気な女の子を産み落としたのだった。
チエはその子を人目に付かぬよう石を積み上げ、蔵を造り、そこへ我が子を隠した。
そして、その日から男の目を盗みチエは乳を飲ませる為裏山へ通っていた。
いつもの様に、チエは蔵にたどり着き我が子を抱き上げようと中を覗き込んだ。
しかし……。
そこに居たのは、愛らしい我が子の無残な姿だった。
チエは、その場に佇み震えていた。
「ウッ……。ウッウッ……。」
チエは、声を出すことさえ忘れていた。
それは、手足を切り離され、首も皮一枚で繋がっている我が子の亡骸だったからだ。
チエは、茫然とした。
そして、亡骸の我が子を優しく抱き上げる。
しかしその時、我が子の首が、音を立てゴロンと地に落ちた。
チエは直ぐに、あの男の仕業だと考えた。
あの男は常に斧を磨いていたからだ。
我が子の切り口は、その斧で切りきざんでいるはずだ。
そう思っている時だった。
チエは背後に、人の気配を感じ思わず振り返った。
チエの予想通り、やはりその男は、チエの背後に立っていたのだ
男は、いきなりチエの髪を掴み蔵から引き擦り出した。
そしてそのまま、銀子が目撃した、あの軒下にチエを吊り下げたのである。
男は容赦なく、チエの体を鞭で打ちつける。
チエは、この男を許せなかった
「おのれー、許さんー。おまえの祖先まで、何代でも呪い殺してやるぞー。
覚えておくがいいー。」
そう言い残し、チエは絶命したのだった。
そのチエの怨念に、次々と他の女達の怨念が賛同して徐々に大きく、さらに強い怨念の塊になったと考えられる。
銀子は、事の成り行きを見届け、銀子の魂は、白い光のトンネルを抜け銀子の体に戻って来た。
銀子は、静かに目を開けた。
「お姉、どうだったの? 」
久美が待ちきれずに銀子に尋ねた。
銀子は、今見た出来事を全部話した。
「許せない……。それで、その男はどうなったの? 」
そう久美が尋ねた時、部屋の外から声がした。
「
銀子さん、ちょっといいですか? 」
と、男の声である。
「どうぞ。」
と、銀子が答えると、男が部屋へ入ってきた。
それは板長の開だった。 開は一礼すると、申し訳無さそうに、その場に立ち尽くしている。
しかし、その顔は苦悩
の表情だった。
久美が開を、睨み付けた
「開さん、私に睡眠薬の入った、コーヒー飲ませたでしょう。」
久美がそう言うと、開は小さく頷いた。
「すみません。その事も含め、お二人に話を聞いて頂きたいのです。
今、法子は、その睡
眠薬を飲ませ、眠らせています。
恐らく朝まで、目を覚ます事はないでしょう。」
そう言うと、開は銀子の前に正座した。
そしていきなり深々と頭を下げた。
「どうか、どうか、法子を助けてください。
今の法子は……。今の法子は、本当の法子ではないのです。」
そう言うと、開は静かに語り始めた。
「あれは、大正時代が終わりを告げようとする頃の話です……。
この旅館は、私の祖父母の物だったのです……。」
( 7 )
明治の年号が、大正から昭和に変わろうとする頃だった。
開の父、清田和馬がこの世に誕生した。
和馬の父、松信と母、春子は、長い年月待ち望み漸く我が子が授かった。
二人はその子に全力で愛情を注いだ。
松信は地元の大地主で、回りの信頼も厚く、困った人を放って置けない善良な人柄だった。
母、春子もまた同じような人柄で、金持ちを鼻に掛ける事なく、気さくで明るい性格だった。
そんな両親の元で、和馬は素直に成長し、すでに十歳になっていた。
その日、和馬は学校から戻ると、そのまま自分の部屋へ入り、机に向かった。
すると階段の下から、いつもの怒鳴り声が聞こえてきた。
それは、和馬にも理解出来た。
和馬の嫌いな叔父の声だったからだ。
「あいつ、また来たか。」
和馬はそう呟くと、そのまま、勉強を始めた。
暫くすると、今度は珍しく父の声も聞こえる。
父と叔父は言い争いに、なっている様だった。
広い家だが、その声は徐々に激しさを増していく。
勉強どころではない……。
和馬は教科書を閉じ、階段を下り始めた。
だが……。
下まで行くのを躊躇し、階段から居間の様子を窺っていた。
父、松信と母、春子にも、ひとつ悩みの種があった。
それは松信の弟、松治の事だった。
弟、松治は何かと、兄、松信に金をせびっては、賭博に使い果たし賭博に負けると、また金をせびりにやって来るという、その繰り返しだった。
仕事をやる訳でなく、喧嘩を繰り返しては警察にも、世話になる程の狂暴な性格であった。
松信と松治は、ひとつ違いの兄弟で顔も双子の様に似ていたが、性格は全くの正反対だった。
今日も何時もの如く金をせびる為に兄の元へ、やって来たのだった。
「おい、金出せよ。」
と、松治が兄に言い寄る。
「今日という今日は、ゆっくり話そうじゃないか。」
そう言うと、松信はソファへ座るように松治を促す。
家政婦が二人の前にお茶を差し出した。
そのお茶を松治はグィッと一気に飲み干した。
そして行き成り松治は、大声を出し始めた。
「何だい兄貴、金出せねぇって事かよ。」
松信は、静かに答えた。
「……。いや、そうじゃないがブラブラせずに、ソロソロ仕事したらどうだ。」
その松信の言葉に、松治が行き成り甲高く笑い出した
「ギャーㇵ―、何を言うかと思ったらソロソロ?
ブラブラだとう?
元々親が残した金だ。
俺が使って何が悪い。
俺にも使う権利はあるぜ。
おまえ一人の、自由にさせてたまるか。」
と松治は、増々大声で怒鳴り始めたのだ。
その声に動じる事無く、松信が語り始めた。
「実は、旅館の事だが、料理の評判も良く予約も多い。
客室も満室状態で人手も足りない。
よければお前に、その旅館を手伝ってほしいと思っている。
そうしてくれないか。」
松信は新しい事業として、旅館を始めていた。
それは松信夫婦が、長男和馬の将来を考えての事だった。
その旅館も人手不足に成るほど繁盛していた。
そこで、松治も仕事をすれば、少しは立ち直ってくれるだろうと、松信は、はかない期待を寄せていたのだ。
「俺がぁー。
その旅館で仕事だとう? ギㇵ―。」
そう笑い飛ばし、松治は松信の話に耳を貸そうとしない。
それどころか、金庫の前に駆け寄り、足で金庫を蹴り出した。
それでも松信が動じ無いと解ると、今度は、その回りの装飾品を片端から壊し始めた。
「やめるのだ。松治……。」
松信は声を荒げた。
その言い方がよけいに松治を逆なでしたのか……。
「やろうー。」
と松治は懐に隠し持っていた短刀のサヤを抜き、松信の腹部を目掛け行き成り突き刺したのだ。
松信の腹部からは、鮮血が噴出し衣服を赤く染めていく。
「ウーッウ―。」
と、松信は声を押し殺す様に、その場に座り込んだ。
その姿を見た松治は怯む事無く、今度は松信の胸を、勢いに任せ何度も突き刺した……。
短刀の刃は心臓部に届いたのか、松信はすでに動かなくなっていた。
その異変に気付いた春子が、松信に駆け寄る。
「ギァー、あなたー。」
今度は、その春子の首を、呆気なく切り落としたのだ。
春子の悲鳴を聞いた、家政婦も駆け着けたが、余りの残虐な状況を目の当たりにし、その場にへたり込んでしまった。
すると松治は、家政婦の襟元を掴み引き寄せた。
「おい、金庫の鍵よこせ。」
と、松治は家政婦に言い寄った。
「しっ……知りません。」
と家政婦は声を震わせた。
「チェッ。やくに立た無い奴だ。」
と、言い放ち躊躇無く家政婦の胸部を突き刺したのだった。
その惨劇の一部始終を、息子の和馬は階段の影に隠れ目撃していた。
しかし、余りの惨劇を目の当たりにし、和馬は全ての記憶を失くしてしまっていた。
ほどなくして、通報により、警察官がやってきた。
通報したのはまぎれもなく、松治本人だった。
しかし、警察官に語る松治の内容は、事実とはかなり異なっていた。
「私が帰宅したら、弟の松治と私の妻が……。
こんな姿に……。
誰がいったい、こんな事をしたのだ……。」
と兄の松信に成り済まし、演技をしたのだ。
松治は警察官の前で兄の口調と、顔つき癖までも、完璧に真似ていた。
警察官は号泣する、松治の嘘を信じ同情さえしたのだった。
警察官は、幼い和馬にも事
情を聴こうとするが、何を聞いても和馬は頭を横に振るだけだった。
その時、すかさず松治が和馬を優しく呼びよせた。
「和馬、こちらへ来なさい。
これから父さんと二人きりだ。
力を合わせて生きていこう。」
と、周りに聞こえる様に言ってのけたのだ。
警察側は強盗殺人として捜査したが、松治の噂が良くなかった事もあり、警察側の見解は、松治が人に恨まれた末、松信の妻と家政婦が巻沿いになった……。
ということで、容疑者も上がらず、いつしか事件は、お宮入りしたのだった。
和馬の記憶喪失は、警察関係者にも気付かれず、和馬自身も記憶喪失になっている事さえ、気付いていなかった。
天は、松治の味方をしたかの様に、殺人事件は幕を閉じたのだった。
松信に成り済ました松治は、賭博に行く事を、暫く止める事にした。
土地も金も、全部松治の物になった今、後は金庫の鍵だけだ。
金庫のダイヤル番号は、恐
らく和馬の生年月日だろう。
兄、松信の考える事位手に取る様に解る……。
と、松治はニヤリと笑った。
和馬を生かしていたのは、鍵の有りかが知りたかったのだが、幸いにも和馬が記憶喪失になり、松治を父と呼ぶ事が、今の松治には都合がよかったのだ。
『和馬の記憶さえ、戻らな
ければ大丈夫だ。
このまま生かしておこう……。』
そう考えている時、ふっと神棚が目に入った。
松治は、ひらめいた。
『あんな所に置いているのか……。』
松治は神棚の上を見た。
松治が思った通りに、そこに金庫の鍵があったのだ。
松治は、またニヤリと笑った。
その殺人事件から、三年の月日が経っていた。
旅館はすでに、繁盛しなくなっていた。従業員も一人、二人と辞めていく。
宿泊客も居ない日が続いた。
松治は、土地と金を、殆んど使い果たしていた。
このままでは食べる事さえまま成らず、松治は金貸しを始めようと考えた。
そして、それは松治が予想する以上に大当たりしたのだ。
高い金利だったが、松治は、笑いが止まらない程の
利益を上げていた。
客の中には、金を返済出来ず、娘を差し出す者も多かった。
松治は、旅館を売春宿に変え、娘達に客を取らせていた。
その頃になると、松治は和馬の存在が邪魔になってきた。
和馬の記憶の回復も気になるが、それ以上に和馬の顔が、兄の松信に見える時が、あるからだった。
松治は、仕事が忙しいという理由で、松信の知り合いに大金を渡し、和馬を預ける事にした。
( 8 )
和馬は、知人の夫婦の元で育ち、すでに大学生になっていた。
「ただ今帰りました。」
和馬は大学から自宅に戻った。
育ての親である叔母は、いつもの様に台所に立っていた。
「あらっ。お帰りなさい。今日お隣から和ちゃんの好きな、カボチャを頂いたのよ。」
そう言うと力任せに、包丁で切り始めた。
その時だった……。
「あっ、痛い……。」
叔母が手の指を切ったのだ。
叔母は止血をするように、手で指を押さえたが、深く切れて
いるのか、手の隙間から、鮮血が滲み出ている。
「大丈夫? 」
と和馬が駆け寄った、その時だった……。
和馬の頭に、激痛が走った。
それは、立っていられない程だった。
すると突然あの日の出来事が、走馬灯の様に和馬の脳裏に蘇えって来た。
それは、まさしく叔父の松治が、両親を殺害する光景だった。
『なんて事だ。僕は、両親
を殺害した叔父を、父と信じていたのか……。
あの時僕が記憶なんて失くしていなければ……。
叔父は今頃、刑務所の中にいる筈だ。』
和馬は、衝撃を受けた。
そして、そのまま何も告げず、叔母の家を飛び出していた。
ひたすら和馬は、当てもなく走っていた。
拭っても拭い切れないほど涙が溢れてくる。
いつしか、以前両親とよく来た公園に和馬は佇んでいた。
辺りはすでに日が暮れている。
和馬は暫く考えていた。
これから如何するかを……。
今頃叔母は、和馬の異変を不思議に思い、松信と思い込んでいる松治に連絡を取っているだろう。
松治は即座に、和馬の記憶が戻った事を察する筈だ。
もう叔母の家には戻れない……。
少しでも早く、松治の手の届かない所に、逃げなければ……。
和馬は長崎の駅に来ていた。取りあえず、夜汽車に乗ろうと思った。
以前、大学の友人と学校の休みを利用し、その友人の実家へ行った事を思い出し
たからだ。
和馬は宮崎駅までの切符買い、その友人に電報を打ち、この状況を知らせた。大学を辞める事も、その電報に記していた。
宮崎の実家には、友人が電報を打ってくれるだろう……。
和馬は、何度も汽車を乗り換え、無事に宮崎の駅へ着いたのは翌日の昼近くになっていた。
そこから和馬は山奥まで、三時間程歩き、ようやく友人の実家へ辿り着いていた。
友人の両親は少し驚いていたが事情を話すと、和馬を心よく受け入れてくれた。
和馬の気が済むまで、ここに居るようにと、言ってくれたのだ。
そこから和馬は友人の実家で、長い年月を過ごす事になった。
友人の父親は、炭を造る職人で和馬は日々炭造りを手伝った。
友人の実家には、友人の
妹のサヨがいた。
いつしか和馬は、サヨに好意を抱き二人はその後、結ばれ長男が誕生した。
その四年後に開が誕生したのだった。
幼い頃、父、和馬に妹が欲しいと話していた。
「実は、妹じゃないが、お前と血の繋がりのある、女の子がいる……。
その子は、開より八歳年下だから、今ちょうど五歳になる頃だろう。
その子の母親は昨年亡くなり、今は鹿児島の、児童施設にいる筈だ。」
と父は開に打ち明けていた。
その頃から開は、暇を見つけては、施設へ足を運ぶ様になっていた。
その子が法子だった。
開はその頃から、法子が成人した現在まで法子を見守ってきたのだった。
法子は、福岡の証券会社に就職し開もすでに、福岡の建設会社で働いていた。
二人は時間を取っては、よく会うようになった。
ある日、法子が言った。
「開兄ちゃん、私、自分の料理を出せる様な、お店を持ちたいの。
少しばかりの貯金もあ
るし……。
でも福岡では無理なのよ。土地も家賃も高いし……。」
法子は、そう言うと顔を曇らせた。
その法子に、開は意を決し話し始めた。
諫早には、祖父の土地が有ることを……。
しかし開は、父から聞いていた詳しい事情は、法子には伝える事が出来なかった。
二人は会社を退職し、諫早の寂れた旅館の開店準備に取り掛かった。
しかし、二人の貯金では、客部屋二棟と厨房を造るのが限界だった。
後は、銀行から借りるしか無いと考えていた。
その頃旅館の周辺で奇妙な噂が、囁かれ始めたのだ。
旅館を建て直す為の大工や
内装関係者が、次々と変死したからだった。
開はすぐに、この旅館の怨念の深さを感じ経営を断念する様にと法子に伝えたが、法子は、全く聞き入れなかった。
開は仕方なく、祈祷師にお祓いを頼み除霊を行ったが、
その祈祷師達も次々と変死したのだ。
その頃から、法子の様子も徐々に変わり始めた。
不眠を訴える様になったのだ。
開は、すぐさま心療内科を受診させた。
その時、睡眠薬と安定剤を処方されていた。
薬の効果か、法子も元の明るさを取り戻した様に思えた。
しかしそれは、開の思い過ごしだと、気付かされたのだ。
酒を飲まない開は、毎日風呂上りに缶コーヒーを飲む事が日課となっていた。
しかし、そのコーヒーを飲むと、すぐに眠くなる。
開はその事を法子に言った。
「そういう、体質なのよ。コーヒーを飲んで、目が覚める人は、聞いた事が有るけど、眠く成るなんて……。変なお兄ちゃんね。」
言って法子は、笑ったのだという。
開も不思議に思い缶コーヒーを飲まずに、その日は就寝したのだ。
すると、夜中に物音がする……。
開は目を覚ました。
裏山から女の悲鳴もした。女の宿泊客だろうか……。
こんな時間に、通いの従業員が、いるはずがない。
しかし、悲鳴は一度だけですでに落ち着いていた。
気のせいだと思い、開は、もう一度寝る事にしたが……。
しかし今度は、法子の事が気になり部屋を出た、その時だった……。
法子が廊下に座り込み、ブツブツと呟いている。
開は咄嗟に身を隠し法子の様子を窺った。
「ピチャ……。ピチャ……。」
と何やら音がする……。
開はじっと目を凝らした。
すると今度は斧を持ち上げた。
「ドン、ドン、ドン……。」
何かを叩いているようだ。
「あっ……。」
と、開は、声が出そうになるのを必死で堪えた。
そこには、首の無い胴体を斧で切り刻む法子がいたからだ。
その肉片を大蛇に食させ、自ら法子も食していた。
人の太もも程の大蛇は、大きな口を開け法子の差し出した肉片を丸呑みにしている。
大蛇の口からは時折、チョロ、チョロと赤い舌を覗かせる。
それが余計に不気味だった。
法子は、大蛇と話しているのか笑顔さえ見せている。
「これは、いったい……。」
開は自分の目を疑った……。
いや、疑いたかったのだ……。
と、その時、人の気配を感じたのか法子が後ろを振り返った。
その法子の口からは、肉片の血が滴り落ちていた。
まるで涎を垂らす様に、ポタポタと地に落ちているのだ。
「なんてことだ。」
開は信じられない、と言う様に頭を抱えた。
そして茫然としながら、部屋へ戻ったのだ。
翌日、女性客は、やはり居なくなっていた。
その事を法子に尋ねた。
「急に用事を思い出したと言われて帰ってしまわれたのよ。」
と、法子は、何事も無かった様に笑ったのだ。
しかし、開は信じなかった。法子に殺されたに違い無いのだと……。
その後も、宿泊客は、何らかの理由で居なくなっていた。
この頃になると、すでに法子の病気も完治し明るい法子になっていた。
そんな時法子が言った。
「明日カルチャースクールの友禅の講師が宿泊されるの。」
開は、またか……。
と、思ったが何事も無いかのように装った.
「法ちゃんの友達の、銀子先生だろう? 」
そう、開が言うと、
「あら、お兄ちゃん、よく覚えているのね。
女性の名前は、一番に覚えるのだから。」
と、笑い夕食の献立を嬉しそうに考えていた。
昼の法子は、いつもの法子だが、夜の法子
は……。
と、そう考えると、開は恐ろしかった。
開が飲む缶コーヒーにも、何等かの方法で睡眠薬を混入しているはずだが、缶を開けた形跡が無い。
法子に確かめる事の出来ないもどかしさを、開は感じていたのだ。
法子は、開が寝たのを確認後、犯行に及んでいると、開は考えていた。
しかし、あの法子の光景を目撃してから、缶コーヒーを飲まなくなったが仕事の疲れも有るのか、開は早くに就寝し朝まで起きる事が無いのだ。
法子の犯行を目撃したのは、あの時の一度だけだった。
このままでは、友人の銀子も、法子は殺すに違いない。
それは必ず止めなければと開は思った。
銀子は、夕方に旅館に着いた。
何かと楽しそうに、法子と会話をしている。
開は銀子と挨拶を交わした。
その後二人は中廊下を歩いている。
開はそっと、二人の後をつけ、会話に聞き耳をたてた。
その会話の中で中野久美という、同じカルチャースクールの女性が来る様になったと話していた。
法子は恐らく、久美には電話を入れないだろう。
銀子一人の方が犯行に及びやすいと、考えている筈だ。
宿泊客は一人の時のみ行方不明に成っていたからだ。
開は、電車の時刻表を見た。
五時に着く電車と、六時五十分のどちらかで来る筈だ。
どちらの時間も、駅へ行けば良いのだ。
人も疎らな静かな駅だ。
顔は知らないが、多分銀子と同じ位の年齢で、女一人なら見つけ
易い……。
開はそう思っていた。
法子は、銀子を部屋に送り届け大きな包みを抱えて戻って来た。
「銀子先生から、頂いたの。」
と、嬉しそうに言っていたが、久美の事は何も言わなかった。
「銀子先生の、食事だけで良いの? 」
と開は試しに尋ねたが、
「どうして、そんな事聞くの? 銀子先生だよ……。」
と、法子は、悪気なく言い放った。
[ 9 ]
開は、知っている事を洗いざらいに銀子と久美に話していた。
「すいません。久美さんに
渡した缶コーヒーは睡眠薬入りなのか自分の思い過ごしなのか知りたかったのです。
缶を開けた形跡が、無いのですから……。
しかし、やはり久美さんが寝てしまったので睡眠薬が入っていたのですね……。
試す様な事をして、申し訳ありません。」
と、また開は頭を下げていた。
「話の全貌は理解出来ました。
しかし松治の、その後がよく解らないの。
開さんのお父様を知人に預けた後の事だけど……。」
そう銀子が尋ねると、開は頭を横に振った。
「その事については、父は何も話してくれませんでした。
恐らく知っていた筈です。しかし、話題に出すのも嫌だったのでしょう。
その父も昨年亡くなりました。
もう誰も松治の事を知る者は、居ないでしょう。」
そう開が言うと、久美が笑った。
「開さん、それは大丈夫です。
銀子先生はお得意ですから。」
久美が開にそう言ったが、開は何の事だか理解出来ない様子たった。
「それでは、もう一度行ってきます。」
そう言うと銀子は、また合掌し、体から魂だけを浮かばせた。
銀子は、松治の生前に舞い降りた。
松治が、和馬を知人に預けた後、直ぐに竜子(りゅう
こ)と言う賭博仲間の女と一緒に住む様になっていた。
若い竜子は、当然の様に松治の子を妊娠し女の子を産み落とした。
その子を道子と名付けた。
その道子が法子の母親である。
暫く竜子は、道子の世話をしていたが、そのうち、松治と道子を捨て若い男と駆け落ちしたのだ。
竜子が家を出た後、仕方なく道子の世話は松治がしていたが、道子もまた十五歳の頃、松治の狂暴的な性格に付いていけず、松治の元を去ったのである。
「チェッ。道子も和馬も、見つけたら、ただじゃ済ませない……。」
そう松治は呟いた。
しかし、この頃松治は毎晩悪夢にうなされていた。
松治の背後から、顔の無い化け物が松治を襲って来るのだ。
しかし、これ位の悪夢なら、兄夫婦と家政婦を殺害した時から続いている。
最近の悪夢は、大蛇が恐ろしい形相で松治を丸呑みするかの様に襲うのだ。
今も松治は、悪夢の恐怖に飛び起きていた。
「ウワァー……。ちきしょうー。」
と、松治は誰に言う訳で無く叫んでいた。
その頃から松治は、不眠に悩まされ、昼間も起き上がれない程衰弱していた。
食事の支度を人任せにしない松治は、食事や水さえも自分で摂取出来なくなっていた。
恐らく毒を盛られるとでも思っていたのだろう……。
とうとう松治は、寝たきりになってしまったのだ。
そんな、松治の耳元で、また、女の不気味な笑い声が聞こえる。
「許してくれー。許してくれー。」
と、何度も叫び松治は、この世を去ったのである。
その松治の最後を、旅館で働いていた女郎が目撃していた。
その女郎は松治が事切れた
後警察署へ駆け込んでいた。
女は警察官に、事情を話していた。
「私は、あの男の様子を窺いに男の部屋へ行きました……。
あの男を、見掛けない日は
無かったのに最近は見掛ける事がなくなったからです……。」
その女は足抜けの機会を窺っていたのだ。
チエが松治に殺された、一か月後だった。
「私も、チエ姉さんみたいに殺されると思ったから……。」
それは、チエと同じく子供を宿していたからだった。
今日が足抜けの日だと、その女は思い立っていた。
しかし、あの男が後を追って来たら逃げきれない。
その女は、そっと男の部屋へ行きドアの隙間から、中の様子を窺っていた。
「あっー。」
女は思わず声が出そうになった。
それは男が、何度も自らの腹部や足に短刀を突き刺し
ていたからだ。
「もう、許してくれー。俺が悪かったー。
だから……。」
と、何度も同じ言葉を、繰り返していたのだという。
そして最後は、その短刀で留めの様に、己の首を切り落としたのだ。
その一部始終を、警察署で語っていた。
そして女郎は号泣した。
松治への同情では無い。
女は生き延びた、という安堵感だけだった。
旅館は、松治の死亡で昭和十三年冬、幕を閉じた。
皮肉にも清田松信として死亡届けが受理された。
遺産は和馬に入る事になり、和馬はそれを頑なに拒否したが、この旅館だけは、和馬の手元に残ってしまった。
旅館は、そのまま廃墟となり、地元の人々は幽霊屋敷と噂し誰も寄り付く事はなかった。
(悪霊との戦い)
銀子は、松治の最後を見届け二人の元へ戻った後、松治の最後を全て開に話し終えた。
その話しを聞き終え、開が語り始めた。
「銀子さん、父は松治の死亡を知り、その後、母との結婚を決めたのですね……。」
そう呟き、開は話しを続けた。
「私は、毎日裏山の祠に、霊が静まる様にと手を合わせ、お願いしていたのです。
あの祠は、海の神が祀られています……。
銀子さんの顔を見たとき、何故かこの人なら、法子を救ってくれる様な気がしました。
だから、だから……。」
そう言うと、開は泣き崩れ後は声にならなかった。
裏山の階段に、腰を下ろしていた老人は、恐らく開の父なのだろう。
そう銀子は思っていた。
「二人にお願いが有るの。風車を二本作って欲しいの……。
大至急でお願いします。……。
では、これから、御霊会を始めます。」
銀子はそう言うと、二人をさらに銀子の側に寄せた。
そして法子を自由に操る、悪霊を呼び出す為の、呪文を唱えた。
暫く呪文を続けると、冷たい風が吹き始める。
部屋のドアが、バターン…。と大きな音を立てた。
すると行き成り声が聞こえた。
「貴様か、私の事を呼んだのは……。」
そこに現れたのは、女が大蛇に姿を変えた、大きな化け物だった。
口は耳まで裂け、目は
鋭く爛々と赤く光っている。
着物らしき袖からは、鱗で覆われた腕が覗き、爪は鋭い鎌の様に尖っている。
「そう、私が呼んだのよ。」
と、銀子は冷静に力強く言った。
「何をーこしゃくなー。お前も、あの祈祷師達の様に、成りたいのか。
殺してやる……。」
と、怒りまかせに言い放ち赤い舌をペロッペロッと出した。
それと同時に、黄色い涎を垂ている。
その化け物に、銀子は毅然と言った。
「私は、まだ天界には行かないわ。
でも、あなたには天界に行って欲しいと思っている。
天界に行く為にもう一度、あなたを元の美しい姿に戻すのよ。」
と、銀子が言った。
化け物は何も答えず、何度も結界を越えようとする。
しかし結界は、ゴムのロープの様に、そこから化け物を弾き飛ばしていた。
化け物は、疲れと焦りの表情になっている。
すると突然、化け物が笑い出した。
「何の事だか、さっぱり解らぬ……。
貴様は一体、何を言っているのだ。ハッハッハッ
……。」
化け物の、空きが出たと判断した銀子は、素早く神から預かった金の鎖を化け物に巻き付けた。
「何をするー貴様―。」
化け物はそう叫ぶが、明らかに苦悩の表情に変わっている。
化け物は、苦しそうに続け
た。
「うっ……。
私を、化け物の様に思っているが、私は人間だ……。」
化け物は、苦し紛れに叫んだ。
その化け物に銀子はすかさず言った。
「そう、以前は確かに、美しい女性だった。
でも今のあなたは、その姿の影さえ無い程に変貌しているのよ。
あなたが、人を恨み続けた結果だ……。」
と、銀子が言い放った。
すると化け物は答えた。
「お前に何が解るのだ。
あの男は私の希望も夢も、全て奪ったのだ……。」
銀子はその時、御霊を振りかざした。
そして、金の光で神の鏡を造り、その化け物の前に
差し出した。
「ギャアー。」
と、化け物は大声で驚き、仰け反った。
「こ、これは、私では無い……。」
と叫ぶ化け物に、銀子が言った。
「いいえ、この姿が今の、あなたの姿なのよ。」
化け物は信じられないと言うように、頭を横に振っている。
すると化け物が言った。
「まだ、私には、やる事があるのだ……。
まだまだ行かぬ……。」
そう、言い放つ化け物に、銀子は風車を二つ立てた。
「これは……。」
と、化け物が驚き、興味を示した様だった。
そして銀子言った。
「そう、あなたが幼い頃、風車を買いに行こうと、お父様に言われ此処へ連れて来られたでしょう。
その時の風車なのよ。
この大きいのが、あなたのお父様が買った物。
そして、その小さい風車が、あなたの子供風車よ。
その子供の風車は、私からの贈り物よ。」
と銀子は言った。
その嘘が何処まで通用するか、銀子は賭けていた。
化け物は、驚いてその風車を無言で凝視している。
しかし、その目からは、大粒の涙が溢れ出していた。
銀子は、その様子を黙って見届けていた。
その時、神の光が化け物の心を照らし始めた。
化け物は徐々に本来の姿に、戻り始めたのだ。
蛇の肌は鱗が剥がれ、白い肌が覗き爪も元に戻った。
顔は美しいチエの姿に戻っていた。
銀子はチエの体から、神の鎖を外した。
「さあ、これから、あなたの子供を呼ぶわ、そしたら子供と一緒に仲良く天界に行くの
よ。」
銀子はそう言うと、水車の側にいた女の子を呼んだ。
するとチエは、少し成長した我が子を愛おしそうに抱き寄せ、涙を流し何度も頭を下げた。
その時、天から金色の輪が降りてきた。
神の許しが出たのだ。
「さあ、手を合わせ、あの光に乗るのよ。」
そう銀子が言うと、チエと子供は静かに頭を下げ金の輪に乗り天界に旅立ったのである。
それと同時に、銀子は意識を失くし、その場に倒れて
しまった。
( 追憶 )
銀子が目を覚ますと、ベッドの上だった。
辺りを見渡すと久美が笑って銀子を覗き込んだ。
「ここは……。」
と、銀子が久美に尋ねた。
「ここは、病院だよ。
あれから意識を失くし開さんが、此処まで運んでくれたのよ。
お姉はここで三日間も、眠り続けたのよ。
でももう安心ね。」
久美はそう言った。
久美が言うには、悪霊の除霊には、五時間程掛かったのだという。
開は、銀子を病院に送り届け、法子が心配だと旅館に戻り、その足で警察へ自首したのだそうだ。
銀子は退院し、自宅に戻っていた。
久美も銀子の部屋で、
昼食を作ってくれている。
銀子はテレビのニュースに思わず聞き入った。
それは、法子と開の事だったからだ。
久美も既にニュースを聞き入っていた。
テレビの画面は、あの旅館を写し出した。
アナウンサーが早口で事件の経過を語り始める。
それによると、以前から警察は、この旅館の経営者に目を付けていた。
それは、死体に付着していた松の枯れ葉が、決めてと成っていたからだ。
松の葉は、クロマツという品種で、死体の発見付近には、旅館の裏山にしか生息していなかったのだ。
しかし、決定的な証拠がなく警察側も逮捕状を、躊躇していたのだった。
それが、開と法子の自首により、事件は解決へ向かっている様だった。
しかし、法子の精神状態は、取り調べを受けられる状態では無い程に、精神が病んでいるのだと、アナウンサーが告げている。
裏山の祠の付近からは、無数の白骨化した頭部が、発見されていた。
その頭部は、最近の物だけでは、無いのだとも告げられた。
開は、死体遺棄の容疑を、追及されているとの事だった。
恐らく開は、法子の犯行を隠す為に、頭部を裏山へ埋めたのだろう。
法子も暫くは、精神の治療が必要になるはずだと、銀子は考えていた。
あの恐ろしい事件から、一か月が過ぎた。
銀子は、普段通りの生活を、取り戻していた。
そこへ、久美が新聞を持って、銀子の部屋へ現れた。
「銀子姉、これ見てよ。
あの旅館が燃えたのよ。
若い男達が肝試しと称して、遊んでいたみたい。
その中の男が吸ったタバコの不始末が原因だって……。そう書いてあるわ。」
『如何して、肝試しなど……。』
銀子はそのまま、久美と旅館へ向かった。
旅館は、新聞に記してある通りに全焼していた。
「なんて事に……。」
銀子は呟いた。
しかし、そこには煤で黒く変色した伊万里焼きの花瓶が、持ち主を待つかの様に寂しく立っていた。
其の花瓶に、抱えていた花を差し、銀子はそっと手を合わせた。
そして、銀子は考えていた……。
祖母や老婆の様に、どれだけ人の役に立てたのだろうと……。
これが果たして、人助けに成ったのか……。
もっと早い時期に、法子の異変に気付いていれば、法子は、殺人をする事も無かった筈だ……。
開もまた、法子との新たな未来を歩めた筈である ……。
銀子の心には、何故か空しさだけが残っていた。
そして、此処で銀子は、巡業出る事を決意するのである。
祖母と老女が経験したように……。
この時、銀子はまだ気付いていなかった。
不振火を出した、若者の身の上に、また新たな悪霊が憑依している事を……。
御霊会 第2障へ続く
この小説は、著者が実際の体験を元に、一部変更し作成した物語でる。