表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

言語とペンギンの世界

作者: 野兎症候群

これはバベルの塔によって動物たちの言語が統一され共生するようになった世界のお話。(関連作品:パッシァ)

 不毛な土地である。氷点下二十度を下回る極寒の世界には降ったら何時までもそこにあり続ける雪の白と空の色を映す氷の灰色、バイカル湖を取り囲む生命の息吹を感じさせない枯れ木の灰汁色ばかり。言語が統一されても世界の色合いはそんなに変わっていないように思える。


 踏みしめた氷床がザラザラした感触を返すがそこに対話はない。風が左右からうねりを伴って吹き付け、ヒューヒューと言う音が耳朶を打つがそこに意味は感じられない。


 そもそも言語が統一された、というのは実に曖昧で不正確な表現である。そもそも言語とは個々に訳し得ない歴史と深みを持っているものである。それが統一されるというのはどうにも理解しがたい。


 たしかに、出自を異とする生物間において意思疎通が出来るようになったことは紛れもない事実である。ペンギンや兎、人間が会話できるようになり、共生関係が構築されたことは、である。


 しかし、どう統一されたというのか? 言葉が通じるというだけであればそれは統一とは程遠い。統一という言葉を選らんだ学者だか、政治家だかは余程の愚者であったに違いなく、またその取り巻きも同様であっただろうことは容易に推察できた。きっと奴らは辞書があれば言葉なんて簡単に伝わるものだという愚かな考えを持っているのだろう。言語とはもっと奥ゆかしく、翻訳しがたい威厳を持っているのである。特に我らが種族、ペンギンの言語はまさにその代表であり、その真意までも他の種族が理解できているとは思えない。言語の統一とは名ばかりで、ただ単純な意図が通じるようになっただけ、というのが実情であろう。


 我は義憤と諦観を背負いひとり雪で覆われた透明な大地、バイカル湖の氷上を歩んで観測拠点に向かっていた。湖から上がったばかりの羽毛は表面に若干の水分を含んでいたが、極寒の突風のひと吹きで直ぐに氷へと変わり、氷の粒だけが風に運ばれて何処かに流れていった。冬至にはまだ遠いがこの地域の冬は寒い。人間と違って寒さに耐えられないわけではないが、暖かい場所にいることに越したことはない。我は足場の水平性を確認し、腹ばいになった。


 身体の構造上、我が種族は陸歩きには向いていない。鳥類のように飛ぶことは出来ず、おまけに脚が短い。水中に入ればまた違うのだが、今は別にたいして役に立たない張り合いをする必要はないだろう。


 我は平らな手で腹の横の地面を打ち付け、そりの要領で前進していった。腹部の毛はつるつるとしており、雪との間の摩擦が少ない。多少の力で押してやれば少ない力で簡単に移動できる素晴らしい移動方法である。これをトボガンという。我々の種族の典型的で高度な移動方法である。


 半時ほど経ち、観測拠点にたどり着く頃には雲は厚くなり、降り出した雪が吹雪になっていた。


 バイカル湖の遺物を探索するための観測拠点はバイカル湖のほぼ中央に位置するところにある。観測拠点のテントは一つのみである。バイカル湖には数多くの遺物調査事務所が参入しているが湖自体が広大であるが故、滅多に他の事務所の連中と遭遇することがないのだ。


 広大な自然の中にある小さな観測拠点の使い古された迷彩柄のテントの表面は今にも吹雪によって飛ばされそうな様子ではためいている。風前の灯火といった風体であるが、不思議なことに二ヶ月以上もこの状態で耐えている。テントの脇には断末魔のような轟音を立てながら発電機が振動している。人間は毛皮を持たないがこういう人工物を生み出す能力に長けていると感心しながらテントに入った。


 テントの中はさながら狭い洞窟の様相である。大きな機械が不健康そうな回転音を立てながらほとんどの空間を埋めている。我が上司である成瀬女史は奥の方にある機械のモニターを覗いていた。ジジジ、という不快な音と共にモニター上の波形が右から左へとうごいていくのが見えた。


「ただいまー」(帰還した)

「あら、一号さん。おかえりなさい。ちょっと吹雪いてきましたね、寒かったでしょう?」それまでしていた作業を停止した成瀬女史が振り返る。

「そんなにー」(我は誇り高いペンギンであるが故、この程度の寒さは取るに足らない)

「もー、強がっちゃって。カメラを頂戴、こっちで解析しておくからその間ストーブで温まってていいよ」

「やったー。なるせさん、ありがとー」(成瀬女史の心遣いに甘んじさせてもらうとしよう。感謝する)


 我の言葉が成瀬女史にどのように伝わっているかは分からないが、その優しげな反応から察するに十二分に洗練された誠意は伝わったようである。背中を向けて背負っていた調査用のカメラの付いたバッグを取ってもらう。


 成瀬女史は勤勉で優秀な女性である。成瀬女史の本来の言葉は理解できないが、業務指示の意図の明快さや彼女がこなす仕事の複雑さから察するに、きっと人間の中でも相当に優秀な存在であろう。また、種族を異とするにもかかわらず、我々に対する待遇も良く考えてくれている。例えば漁協と交渉して我々ペンギンの食料としてバイカル湖のオームリの捕食権を勝ち取ってきてくれた。信頼すべき良い人間であることに疑いはない。


 成瀬女史の隣を横切り奥に設えられた休憩室に入る。休憩室と言っても周囲は相変わらず機械だらけで、その筐体の間にノイズのひどいテレビと大きなダルマストーブが置かれているのみである。休憩室には先客が居た。


 一羽は我が信愛なる同胞、二号である。今日は非番であったが、テレビを見るためにわざわざ出社したらしい。元々我々の種族にテレビを嗜むなんていう習慣はなかったはずであるが、人と共に暮らす過程で変性してきたのであろう。テレビは雪のない南国の風景を映していた。暖かそうである。


 もう一人は所長である。珈琲カップを片手に、もう片手をストーブにかざしながらのんきにテレビを見ている。働き者の成瀬女史とは対照的な存在であるが、しかし、時として所長は鋭い洞察と驚異的な行動力を発揮することを我は知っている。それがこの男に秘められた力であり、成瀬女史がここで働き続ける理由であろう。であるからにして我はこの男の普段の行動に対して呆れはするが、存在への敬意は払っている。

我はしばらく保存食の瓶から酸っぱいピクルスを啄みつつテレビを眺めていたが、人工音ばかりの空間に次第に息苦しくなってきて休憩室を出た。


 我は顔だけをテントから出して外を見た。途端に我は黄昏時を過ぎて暗くなり始めた風景を眺めた。途端、極寒の吹雪が吹き付けてきた。ゴ、ゴゴ、と不連続な風の波が耳朶を打つ。


 視界は雲と雪で白く覆われている。晴れている時もバイカル湖の対岸は森から出てくる霧に覆われているから視界の広さは変われど見える風景はあまり変わらない。長く見てきた此処の自然の表情である。


「なあ、一号」

 突如として頭上から降ってきた声に引かれて空を見上げようとしたら嘴が何かに当たった。所長の顎である。フードを被った所長が我の真似をしてテントから顔を出していた。

「どうしたの?」(なんであるか?)

「お前はこのテントの中と外の風景の対比をどう思う?」

「どういういみ?」(抽象的で質問の意図が掴み切れない)

「補足しよう。方や全てが人工的で高精度に組み合わされたシステムの世界、方やお前たちが長い世代を重ねながら生きてきた自然の世界。バベルの塔が出来るまでは二つの風景は人間だけが理解し、見てきたものだった。しかし、今はお前のような別の種族も同じ風景を見れるようになった。自然から生まれた種族であるお前から見て、それをどう思うか? ……はははっ、単なる好奇心だよ」


 複雑怪奇なことを聞く。同時に哲学的である。我は首を伸ばしたり頭を傾けたりしながら熟考する。


 目の前に広がる茫洋たる世界はもともと我々が住んでいた場所である。そこには倫理や法律はなく、捕食者と被捕食者が生き残るために日々を過ごす、生産性とはかけ離れた世界だった。品格高き我らが言語は自然には通じることはなく、余裕のない弱肉強食に怯える日々であったと、口伝として伝え聞いている。ゆえに単純であったともいえる。精度の高い情報はいらない。必要なのは機械ではなく、生存本能と捕食者が居るか居ないか、獲物が近くで取れるかどうかといった単純な情報だけであった。


「ぼくたちのせかいはひろいよ。てれびのなかのせかいもひろい。てんとにでたりはいったりすればかんたんにいききできる。せかいがつながったみたい」(我にとって自然とは広く狭い世界である。広い空間の中にはテレビの中に渦巻いているような複雑性はなく、大河のような大きな流れがある。経験的に我はその中で生きる術を知っている。それは人工物の中にはない世界である。人工物の世界は情報に偏っている。我らの世界は経験に偏っている。我らは偏りの中にいる。いまや我はバイカル湖に居て、バイカル湖の外の世界を知ることが出来る。ゆえに我は思う、テントは世界の偏りの境界であり、出会いであると。バベルの塔は偏りのある広く狭い世界を繋いだのやも知れぬ)

「そうか、そうだな。確かにその通りだ。面白い考察だ。お前はこの小さな頭の中に広い世界を観ているようだな」


 所長はそう言うと遠くを見た。何かを見つけようとするように、じっと虚空を見つめている。我はその表情が美しいと思った。不思議な感覚である。その口からどんな言葉が紡がれるのか、我は黙って待っていた。


「或いは救世主の作ったバベルの塔は辞書みたいなものだったかもしれない。神の御業のごとき万能の辞書だ。しかし、その救世主にしても種族の持つ言語の深みを正確には理解していなかったのかもしれん。万能の辞書によって誰とでも意思疎通が図れるようになったとしても、その辞書で表せないものもあるということを、な。……いつかお前の本来の言語で話してみたいものだ」

「ぼくもー」(ああ)


 所長はそう言って我の頭を撫でて再び遠くを眺めるように目を細めた。我も視線を遠くに向けた。暗闇の中、テントからこぼれる明かりが数メートル先の吹雪を照らしている。


 我らは今同じ風景を違う高さで見ているのである。所長は今、何を考えているのだろうか。こういう疑問を持つようになったことも、或いはバベルの塔が世界にもたらしたものであるのかもしれない。理解は世界を広げ、同時に新たな疑問を生む。疑問は理解を求める。言語を巡る連鎖が繋がり背中が少し泡立った。


「所長、いつまでも休んでないで仕事してください! あと、面白い結果が出たので一号さん一緒にきてくださいね」

「ははは、素直に一緒に話したいと言えばよいではないか、成瀬くん! では行こうか、一号!」

「りょりょー」(今行く)


 テントの中から成瀬女史の声が聞こえた。きっと次の仕事であろう。次は何をするのか、大変興味深い。我は首を伸ばしながらテントの奥へと歩を急がせた。床に敷かれた断熱タイルがパタパタと音を立てた。


End


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ