8 閂
第一章 天の配剤
「ごめんなさい。おれ、どうかしていました」
わたしの言葉に城崎充が正気を取り戻す。
「じゃ、飲みに行きましょう」
照れ隠しのつもりか、早口で言い、わたしから目を逸らす。それで、わたしが城崎充の左腕に自分の右腕を絡める。マイ・ディナーを出てから、わたしたちは腕を絡めていなかったのだ。
城崎充が相変わらず女性の速度で歩み始める。今はもうこの世にいない城崎充の彼女は、彼のこの歩みに気づいていたのだろうか。城崎充の左隣で、わたしがそんなふうに想いを馳せる。暫く無言で歩き、わたしと城崎充が公園を抜け、やがて夜の街に戻る。わたしが公園を振り返るとクレープのキッチンカーにカップルが群れている。
「市原さん、甘いものが食べたかったですか」
わたしの視線に気づいたのか、城崎充がそんなことを言う。
「いや別に……。どっちかっていうとわたしは左党だ」
「お酒が好きな人の中にも甘いものが好きな人は大勢いますよ」
「いつまでも市原さんじゃ、何だかな……。いっそのこと下の名前で呼んでよ」
「彼氏に叱られますよ」
「いいの。向こうのことは……」
「じゃ、美緒さんはおれのことを何て呼びますか」
「充ちゃん」
「ちゃん、って……」
「子ども扱いされているようで厭……」
「そんなことないですが……」
「それなら充くんだな」
「じゃ、それで手を打ちましょう」
「うん。ところで充くん、何曲くらいストックがあるの」
「オリジナルで完成したのは十曲ないです」
「……ってことは、割と最近ギターを始めたわけか」
「弾き語りはそうです」
「言い方は悪いけど、ああいった感じの曲が多いの……」
「ああいった感じは、あと一曲だけです」
「聞きたいな」
「いずれ……」
「じゃ、いずれ……」
それから暫く無言が続く。無言が破られるのは旧いテナントビルに着いたときだ。
「ここです。ここの地下……」
「わたしはてっきり大衆居酒屋にでも連れて行かれるかと思ってたよ」
思わず年寄り言葉が口に上る。ふと気づけば、城崎充と一緒にいる安心感みたいなものを、ふうわりとわたしは身に纏っている。
聡と一緒のときも、わたしは安心感に包まれる。が、それは針の筵の上の安心感かもしれない。しかも一時しか続かない。聡がいない多くの時間、わたしは不安の中に住んでいる。不安の住人だ。改めて名付けると笑ってしまう。住めば都と言うわけではないが、慣れというのは恐ろしい。一年前と比べ、今は不安に鈍感になっている。けれども今のわたしには聡と別れることができない。
そんなことを頭の隅で考えつつ、狭くてmeat暗い階段を降りる。木製のドアには『』と看板がある。だから、出会い(meet)じゃなくて肉(meat)かよ、と独り心でツッコミを入れる。まあ、発音は同じだけど……。ついで、そう考え、実は深い意味なのかもしれない、と勘繰ってしまう。
「今晩は……」
ドアを開け、中に入ると城崎充が挨拶する。暗くて顔がはっきりしないが、バーテンダーに声をかけたのだろう。マイ・ディナーでのときと同じように傘立てにギターケースを置く。この店の常連なのだろうが、城崎充がバーテンダーに目配せし、やはり目配せでバーテンダーに許可を与えられてからの行為だ。ついで躊躇なく、城崎充が開いているカウンター席に向かう。わたしと二人、席に座ると、
「充が女性を連れて来たよ」
冗談なのか、本気なのか、驚いたようにバーテンダーが言う。
「それも飛び切りいい女……」
「ありがとう」
お世辞とわかっていても、そう言われれば嬉しいものだ。だから、すぐにお礼を言う。
「まさか、逆ナン……」
バーテンダーがわたしに訊くので、
「結局、そうかな……」
わたしが答える。
「コイツ、モテるけど女の子を相手にしないんですよ」
「わたしはオバサンだからね」
「まあ、十代には見えないか」
「微妙なお世辞かな」
「で、お飲み物は何にしますか」
「この間、出先のホテルで見たんだけど、光るモノを作れますか」
「最近流行りの……」
「そう答えるってことは知ってるんだ」
「ええ、知り合いのママから教わりました。ファンタスティック・レマンなんて、いかがです」
「おっ、それはいいですね、それ……。幻想的な日本酒のカクテル……。」
「では、お客さんにはファンタスティック・レマンを……」
わたしとバーテンダーとの初めてとは思えない遣り取りを城崎充が目を細めつつ眺めている。