56 茶
第五章 想の汪溢
朝からのシフトなので、その日のわたしの定時は午後六時だ。漸く仕事を終え、私服に着替え、年下の先輩店員たちに睨まれることもなく帰りの挨拶も恙なく済ませ、帰路に就く。
寒い通りを少し歩けば地上駅も地下鉄駅もあるが、何だか気分が高揚し、すぐ家に帰る気になれない。聡とのデートの予定はないから身一つだ。だからmeatまで出向こうかと考える。
城崎充とはクリスマスの日以来、会っていない。だから、もう一月以上、わたしはmeatに寄っていない。
わたしは彼を振った立場だ。が、振られた人間ほどではないにしろ、やはり心が痛んでいる。それを想うとmeatへの足が遠退いてしまう。
でも会いたい。わたしのこの想いは恋心だ。城崎充に対する……。わたしはそれを認めなければならない。認めて尚、彼を諦めなければならない。他人に話せば、ぜいたくな悩みだ、と揶揄されるかもしれない。けれども、わたしだって辛いのだ。けれども、わたしは何があろうと城崎充の気持ちを受け入れるわけにはいかない。彼の純粋な心を穢してしまうから……。聡に対するわたしの気持ちも本物だから……。
けれども、わたしの城崎充へ向かう気持ちは確実に大きくなり続けている。わたしはそれを認めなければならない。認めなければ彼を本心から振ることができない。
でも会いたい。困ったことに、それがわたしの正直な気持ちだ。が、既にわたしは城崎充を振っている。
……とすれば友人として彼に会うのは構わないのではないか。
そう思い直し、わたしがK街に足を向ける。けれども、そんなわたしを追う一対の目があることに、あのときのわたしは気づきもしない。
電車を乗り継ぎ、約二十分後にK駅に着く。ユア・タイム・ジュエリー社のO店舗(最寄駅は地上/地下ともO駅)とK駅は比較的近いのだ。K駅からmeatまでも歩いて大した距離ではない。
テナントビルの地下階段を降り、meatのドアの前に立つと覚悟を決める。頑張って笑顔を浮かべ、meatの少し重いドアを開ける。すぐに連城マスターがわたしに気づき、
「月曜日からバー通いとは隅に置けないね」
と話しかけてくれる。
カウンター席が空いていたので真っ直ぐ、そちらに向かう。その前に長めのダウンコートをハンガーにかける。
「日が空いちゃいました」
「今日からジュエリーの売り子をしてるって、零さんから聞いてるよ」
「零は何回か来たんですね」
「先月は月二で顔を出してくれた」
「マスター、告りました」
「告ったけど、全然本気にしてくれなくてさ」
「人生色々ですね」
「まあ、高校生の娘に、おかあさん、と呼ばれるのは厭だろうな」
「マスター、娘さんとは頻繁に……」
「いや、全然……。おれじゃない父親と暮らしているから……」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
「でも俺のことも認めてくれたよ」
そう言い、連城マスターが少しだけ表情をしんみりとさせる。が、その間も器用に手を動かし続け、
「オーダーを訊かなかったけど、お任せで、これ……」
連城マスターがコリンズグラスに入った紅茶色のカクテルでわたしを饗す。
「呑んでみて……」
そう言われ、わたしがカクテルを一口啜ると紅茶の味がする。
「アイスティーだ」
だから、わたしが連城マスターに言うと、
「でも紅茶は使っていない。ロング・アイランド・アイス・ティーって言う名のカクテル。一九八〇年代初頭、アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランドで生まれた」
「魔法ですね。所謂、レディー・キラーでしょ、これ……。甘いし、お酒の感じがしないけど度が高い」
「美緒さんみたいな、お酒に慣れた人でなきゃ、危なくて出せない」
「そういえば、わたし、お昼以来何も食べてなかったのを思い出した」
「危ないな。ピザでも取ろうか」
「そうしてくださると助かります」
「じゃ、そろそろ充が顔を見せる時間だから、あいつに連絡しよう」
連城マスターが言いつつスマートフォンを取り出し、城崎充に連絡する。
「今ピザって言ったけど、他には……」
「じゃ、餡饅……」
「へえ、美緒さんの趣味とも思えないけど……」
「売り子は立ち仕事だから甘いものが必要です。だけど暫くしたら太りそう……」
「充、あと餡饅だって……」
連城マスターが城崎充にわたしの意向を伝える。その後、二言三言あり、スマートフォンが切られる。ついで連城マスターがわたしに向き直り、
「太った美緒さん、って想像できないな」
先程のわたしとの会話の続きをする
「わたし、子供の頃、おばあちゃんに可愛がられて育ったから、いろいろ食べさせられて、脂肪細胞が多いんです。だから油断をすると太るんです」
「人には誰にでも悩みがあるね」
「わたしのは連城マスターみたいにハードじゃないですけどね」
「俺のだって、聞くほどハードじゃないよ」
「まあ、それは人それぞれの感性ってことで……」




