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48 袖

第四章 刻の交錯

 口紅の成分のせいだろう。これまでは殆んど付かなかった、わたしの唇の痕がワイングラスに残る。

「これ、洗うの結構大変なのよ」

 ワイングラスに残った口紅を指さし、わたしが城崎充に言うと、

「前にバイトで洗ったことがあるから知ってます」

 城崎充がわたしに答える。

「そうか。充くんはmeatでバイトをしていたこともあるんだよね」

「マスターにはお世話になりっぱなしで……」

「ところで、今日はマスターと歌わないのかな」

「興が乗れば歌おうかって言ってましたけど……」

「じゃ、歌いなよ。みんなも喜ぶから……」

「一応用意はしてあるんです」

「けど……」

「少し呑み過ぎました」

「だってまだ精々二杯くらいしか呑んでないじゃない。それに水割りだし……」

「お酒ではなく、美緒さんに酔いました」

「あはは……。ウケる」

「茶化さないでください」

「だって真剣は無理……」

「美緒さんに好きになって貰おうなんて思っていません」

「嘘吐き」

「嘘じゃありません」

「だって、そんな恋なんてないから……。存在しないから……」

「……」

「マスターのところに戻る」

「……」

「充くんには十分以上に時間をあげたわ。じゃ……」

 城崎充にそう言い置き、わたしが連城マスターのいるカウンター席に戻る。先程までその場にいた客が離れていったタイミングでもあったのだ。

「ただいま」

「お帰り。結局、充とは喧嘩をしたのか」

「充くんが無理なことを言うから……」

「それが青春だと思って許してあげてよ」

「マスターがそう仰るんなら……」

「さっき何かやってたと思ったら、それだったか……」

 連城マスターがわたしの唇の色に気づき、目を見開く。

「貰ったリップスティックを塗っただけです」

「初々しいね」

「若返ったんなら、それもいいかと……」

「別の美緒さんだね」

「中身は同じですよ」

「が、形から入るモノもある」

「まあ、ありますが……」

「充に付き合わせて悪かった」

「マスターが謝ることじゃありません」

「だけど仕向けたのは俺だからさ」

「マスター、今日は歌わないんですか」

「興が乗ればね」

「載っていないんですか」

「いや、機嫌はいいよ」

「プレゼント交換会の『We Wish You a Merry Christmas』を聞いて思いついたんですけど、マスターはイギリスのトラッドは得意ですか」

「有名どころならね」

「じゃ、有名中の有名で『Greensleeves』をお願いしようかしら……」

「渋いね」

「できますよね」

「じゃ、一丁、やるか」

 それで急所meat内に特設ステージが設けられる。わたし以外の他の客たちもマスターと城崎充のユニット(二人組だからデュオか)の歌声を待ち望んでいたのだ。

 meat内に熱気が滾る。やがて連城マスターのMCが始まる。

「えーっ、もう結構な時間なっております。それで遂に最後の曲になります」

 客たちが一斉に、えーっ、叫ぶ。所謂コンサート終了時のお約束だ。

「静かな曲をやります。イギリスのトラッドです。エリザベス朝の時代、イングランドとスコットランドの国境付近の地域で生まれたといわれています。が、詳細は不明です。十六世紀半ばまで口頭伝承で受け継がれ、十七世紀にはイングランドの誰もが知る曲となりました。現在でも多くのアーティストによってカヴァーされ、親しまれています。曲名は、グリーンスリーヴス」

 連城マスター、いやナイトまたはピースが題名を告げるとmeatのクリスマス客たちは察したように静かな拍手をNight and Peaceに贈る。やがて二本のギターが分散コードを奏で始め、城崎充の美しい中音域がmeat内に十六世紀を蘇らせる。

 

 Alas, my love, you do me wrong,(愛した人は残酷)

 To cast me off discourteously.(わたしを取り捨てる)

 For I have loved you so long,(わたしはずっと愛した)

 Delighting in your company.(近くにいる愉悦)


 Chorus:(合唱)

 Greensleeves was all my joy(グリーンスリーヴスは嬉しさ)

 Greensleeves was my delight, (グリーンスリーヴスは喜び)

 Greensleeves was my heart of gold, (グリーンスリーヴスは誠実)

 And who but my lady greensleeves. (緑の袖の人よ)


 歌詞に登場する『緑の袖』の解釈にはいくつかある。もっとも一般的なのは、レディ・グリーンスリーヴスが性的に乱れた若い女性という解釈。当時のイングランドでは野外で性交を行うことで草汚れがついた女性の服のを『緑の服(a green gown)』と呼んでいたからだ。一方、緑はイギリスの一部地域では伝統的に妖精や死者の衣の色であることから死を意味し、レディ・グリーンスリーヴスは彼を捨てたのではなく、あの世に旅立った(それで彼の許からいなくなった)という解釈もある。(第四章・終)


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