47 拭
第四章 刻の交錯
「いや、美緒さんには大人の魅力があるから……」
慌てて城崎充がわたしに言い繕う。
「わたしの場合は本当に薄いけど、すっぴんに見せるメイクって、それなりに時間がかかるのよ」
思わず口にしてしまったが、これもわたしの八つ当たりだ。自分がフッた男を想う女に嫉妬している。なんて厭な女だ。即座に自分で思う。が、一瞬後、考え直す。もしかしたら、それが女の本質かもしれないと……。
いや、男だって同じだ。聖人君子など滅多にいない。それが現実の世の中なのだ。
「ごめん。今言ったこと忘れて……」
が、城崎充には、わたしが口にした言葉の意味がわからなかったようだ。だから単に、
「えっ」
と聞き返すのみ。それで、わたしも、
「いえ、わからなかったのなら、それでいい……」
と事態を有耶無耶にする。ついで急に思いつき、
「ねっ、今、これしてみようか」
プレゼントのリップスティックを手で弄び、わたしが城崎充に提案する。
「今つけている口紅って簡単に落ちるんですか」
城崎充からの質問だ。口紅に詳しくなければ当然思い浮かぶ内容だろう。
「そりゃ、簡単には落ちないわよ。落ちない口紅は口紅開発の歴史でもあるから……」
が、わたしもそれ以上のことを知っているわけではない。
「偶々かもしれないけど、わたしが使っているメーカーの口紅はリップクリームの油分で結構落ちるわよ」
城崎充に説明し、わたしがmeatの化粧室を見る。すると丁度一人入ったところだ。ドアの前には次の人が並んでいる。わたし自身にはまだ尿意がないし、口紅を落とすためだけに店の化粧室を占領するのも考えものだ。
それで、わたしはポシェットから愛用のリップクリームとコットンとコンパクト・ミラーを取り出し、その場で口紅を落とし始める。わたしがいつも選んでいる口紅の色は赤だから、ルージュ(フランス語で赤の意)を落とすと表現した方が色っぽいかもしれない。
「さすがに暗いわね」
プレゼント交換会が終わった時点でmeatの照明は、その前の明るさに戻されている。それがいつもより明るいとはいえ、化粧を落とすには不向きだ。
「こんなもんかな」
ある程度ルージュを落としたところで、わたしが城崎充に言ってみる。
「専用のリムーバーがあれば、もっときれいに落ちるんだけど携帯してないし……」
が、城崎充からわたしへの言葉はない。おそらく何と答えたら良いのかわからないのだろう。その昔、わたしが短期間付き合った筋トレ好きの男に、エキセントリック、カーフ、サムアラウンド、パンプアップなどという専門用語を聞かされたときと同じだ。因みに、それぞれの筋トレ用語の意味は、筋肉が伸びるときに力を出す状態、脹脛、親指を巻きつけて握る、トレーニングの後に毛細血管に血液が流れ込み筋肉がパンパンに張った状態になる、だ。
更にもう一回コットンを使い、わたしが城崎充の方を見る。化粧をすべて落としたわけではなく、ルージュを拭っただけだが、その顔を相手に見せるのは恥ずかしい。だったらしなければいいのに、と急に生まれた別のわたしがルージュを拭ったわたしに忠告する。が、始めてしまったからには引き返せない。
「人前でこんなことをするのは初めてよ」
まるで何かを誘う言葉のようだ。
「じゃ、塗るから……」
城崎充に宣言し、わたしは直接にではなく、指の腹に口紅を取り、それをポンポンと叩くように唇に乗せる。ついで口紅を唇全体に乗せ終えたところで上下の唇を軽く擦り合わせる。基本はこれで終わり。あとは指先で輪郭を整えるだけだ。
「どう。少し肉厚になったけど……」
指に残った口紅をリップクリームとコットンで落としながら、わたしが城崎充に問いかける。
「美緒さん、すごく似合います」
「じゃ、今度から、これにしようか」
「だけど口紅だけで随分印象が変わるんですね」
「まあ、それが口紅の威力だから……。具体的にはどんな感じ……」
「若返ったっていうか、清楚になったっていうか」
「じゃ、今までのわたしは清楚じゃなかった……って、まあ、そうだよね」
「……」
「マスターにも見せて来る」
軽い気持ちでわたしが言うと、
「もう少しここにいてください」
切羽詰まった感じで城崎充がわたしに訴える。
「あと少しだけ、美緒さんを独り占めしたい」
「困った子ね」
「済みません」
「じゃ、もう一杯頂戴……」




