4 温
第一章 天の配剤
男が不思議な表情で、わたしの顔を見つめ、 その目の暗い光に、わたしがまたハッとしてしまう。
「いいですよ。おれで良ければ……」
男が言う。
「だけど高い店には行けません」
男がわたしから受け取った五百円硬貨を見せながら少しだけ愉しそうに言う。
「奢るわよ」
「恐縮です」
「あなたは、この辺りのお店を知ってる」
「安い所ばかりですよ」
「別に構わないわよ」
「せっかく、あなたが綺麗な格好をしているのに……」
「見せたい人にドタキャンされたのだから仕方がない」
「子供が熱を出したとか……」
「……」
不意に男の口から発された言葉に、わたしが無言で顔色を失う。
「済みません。当たってしまいましたか」
「……」
男に言われたが、わたしはまだ口を利けない。
「どうして……」
漸く精神状態が安定し、わたしがそう口にすると、
「歌を作るには、まず人間を見るんです」
「それで……」
「綺麗な服を着ているあなたの顔が幸せそうには見えなかったから……」
「わたし、そんなに不幸な表情を浮かべていたかしら……」
暫くし、わたしが訊き返すと、
「今は、お幸せそうに見えますよ」
わたしの顔を一瞥してから男が言う。
「目が濡れて、本当に素敵だ」
「ありがとう。あなたって嘘吐きね」
すると男がキョトンとした表情でわたしを見つめる。男にその気はないのだろうが、男の瞳がわたしの心をざわつかせる。
「あなたの知ってるお店へ、わたしを連れて行って……」
わたしが男の左隣に周り、男と腕を組む。
聡と逢瀬をするとき、わたしは必ず聡の右側に立つ。わたしの左手と聡の右手を絡め易いように、だ。聡が妻や子供のことを思い出さないように、わたしは聡との逢瀬の際、左指に指輪を嵌めない。そのことが逆に、わたしに詮無い望みを思い出させるのだが……。
わたしが男の左腕に自分の右腕を絡ませると男は吃驚したようだ。が、わたしの動作を冗談と思ったのか、無理に腕を外そうとしない。わたしにされるが儘だ。腕を外さず、器用にアコースティック・ギターをケースに仕舞う。そのまま右肩にかけ、歩み始める。わたしが男の歌声に惹かれ、男に近寄って行った方向に進む。つまり本日、わたしが夜の公園に入って来た逆の出入口に向かったわけだ。
わたしはこの街について詳しくない。聡との逢瀬に、この街を選んだのは、わたしたち何方の知り合いも住んで/働いていない場所だからだ。それが理由。知り合いが遊び場としても頻繁には行かない街だと思うが、こればかりは予想できない。わたしと聡二人の知り合いがいない街であるから当然のようにわたしたち二人にも馴染みがない。精々知っているのは聡と入ったレストランやラブホテルくらいだ。
「あなたは気を遣う人なのね」
男に腕を引かれながら、わたしが言う。
「……」
「だってさ、男の人って歩くのがもっと速いじゃない」
「ああ、そのこと……」
男がわたしに言い、薄く笑う。
「昔、身に着いた癖……」
「もしかして、あの歌の彼女……」
「あれは創作ですよ」
男は言ったが、わたしは信じない。
「あなたは嘘吐きね」
「また、それですか……」
「へへっ……」
わたしが男に笑いかける。
「ところでわたし、あなたの名前を聞いていない」
「そんなことを言ったら、おれもあなたの名前を聞いていませんよ」
「良かったら教えて……」
一瞬の間があり、男が言う。
「城崎充……」
「そう、わたしは市原美緒。旧い話だけど『家政婦は見た!』で主役を張っていた市原悦子さんの市原に、美しいに、糸編に者で、いとぐち、って意味の、美緒……」
わたしが言うと、
「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に言われた。二三年で出なければ後は心配はいらない、兎に角要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――我慢出来たら五週間位居たいものだと考えて来た。」
男がある小説の冒頭を語り始める。
「記憶力が良いのね。志賀直哉の『城崎にて』の城崎か」
「そうです。市原さんが知っている人で良かった」
そう言い、わたしにほんの少しだけ明るい笑顔を向ける。暗い顔より明るい顔の方が、あなたはずっとチャーミングだ。わたしは思うが口にしない。男、いや、城崎ミツルに笑い返しただけだ。
ついで城崎ミツルに訊ねてみる。
「で、みつる、の方は……。もしかして潮が満ちる……」
「残念でした。中身がいっぱいある、の方……。充実、充溢の充です」
「城崎が充ちているのか。いいね、それって、温泉男じゃん」
「何ですか、それは……」
城崎充が、また少しだけ明るい顔でわたしに笑いかける。が、身構えていたので、わたしはハッとしない。
「何かさあ、こんなイメージ……」
城崎充に、わたしが愉しそうに説明する。
「大小大勢のカピパラが幸せそうに浸かっている温泉みたいに癒される男ってことよ」
城崎充に言うが、あのときのわたしには自分自身が温泉のカピパラになりたいと思っていたなど、気づきもしない。