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第三章 縁の胸懐
「ごめん。子供が風邪を引いた。今日のデートをキャンセルしてくれないか」
佐々木零がわたしのアパートを訪れた翌週、二度あったはずの聡とのデートは二度ともキャンセルされる。理由は両方とも同じで聡の子供の熱だ。聡の家族の事情にわたしたちのデートが振りまわされることに、わたしは早くから覚悟を決めている。だから最初のキャンセルのときには気持ちにまだ余裕がある。が、それが二度続ければ、やはりショックだ。
結局、その週は社外で聡の姿を見ていない。社内で短い時間、遠くから眺めただけだ。それでも夜にはスマートフォンで聡の声を聞けたから完全な擦れ違いではない。けれども寂しさと悲しさと切なさで、わたしはまたしても涙を流してしまう。恋する人の不在が、わたしの心を鋭く切りつけたからだ。
気分転換に本でも読もうかと本棚に手を伸ばすがが、数行読んでは聡のことを思い出し、内容が頭に入らない。だから聡とのスマートフォンでの短い遣り取りを反芻しながら寝ることにする。が、時間が早いせいか少しも眠くなれず、却って眼が冴える。仕方がないのでベッドを離れ、キッチンで独り酒を始める。
あのとき飲んだのは買い置きのビールだ。だから酔ってもほろ酔いが限界。それ以上に酔えはしない。ビールの力で気分は若干明るくなったものの、聡のことを考える呪縛から、わたしは逃れることができない。
今では短い時間にジンやウィスキーを三分の一から半分も呑めば、聡のことを忘れられる。朝までぐっすりと眠ることができる。
日本酒だと、そこまでのアルコール量を摂取すれば翌日は悪酔いする。が、わたしの場合、ジンやウィスキーならば平気なようだ(カティーサーク等を除く)。ナイトキャップでは。わたしはモノを食べないから、その意味でも悪酔いしない。ただし、さすがに七六〇ミリリットル瓶で半分を超えると、翌日が辛い。二日酔いをした日の夜はできるだけ酒を控える。が、最近ではそれも難しい。
こんな生活を、あと何年も続けていれば、最後には肝臓を傷め、病気になるだろう。運が悪ければ死んでしまうかもしれない。そう考えれば、一時的に怖くなり酒を控えるが長続きしない。時には、いっそのこと、酒で死ぬことができれば楽なのに……とまで考える。
幸か不幸か、わたしはまだ健康体で生きている。が、この先はどうなるかわからない。
ごく最近ではジュエリー・デザインに時間を割くようになったせいか、酒量が減る。ガサツな頭をジュエリー・デザインに使い、脳が疲れるから、少しの酒で眠ることができるのだろうか。ジュエリー・デザインを終え、風呂に入り、その後、体温の低下に合わせて寝るので寝つきが良いのかもしれない。以前は食事を終えるとすぐに風呂に入っていたので自然な体温の降下を睡眠に利用できなかったのだ。血圧的には風呂直後のお酒は禁物だが、翌日の準備があるから、さすがに少しは時間が稼げる。それでも死の危険とは背中合わせだが、今のわたしに酒を止めることはできないだろう。いつになるのか知らないが、わたしが聡と別れる日まで、こんな呑み方が続くのかもしれない。それより先にわたしが死んでしまえば、話はまた別となるが……。
愛人のわたしが聡と会えない土曜日が遣って来る。家に籠ってばかりでインプットがなければ新しいジュエリー・デザインのアイデアも浮かばないだろう。そう思い、わたしがアパートを出る。最初は近所を散歩し、猫や花の写真を撮っている。が、ふっと引かれるように電車に乗り、気づけばK街にいる。ついで迷わず、例の公園を目指してしまう。聡とのデートがキャンセルになり、その結果、城崎充と初めて出会った公園だ。
あのときは夜だが、今はまだ朝……。淡い期待を抱きつつ、公園内をヨタヨタと歩く。つまり、わたしが履いていたのは例の重い靴だ(一足当たり約一・二キログラム)。
あの夜にはわからなかったが、結構広い公園だ。園内には池もある。池には噴水もある。池の近くのベンチで、わたしが休憩を取っていると声が届く。聞き間違いようもない城崎充の声だ。朝からミニ・コンサートでもしているのだろうか。
わたしの耳に届く城崎充の曲の歌詞には怖い要素がない。朝だから遠慮しているのか、それとも別の理由があるのか。せっかくだから、とベンチから腰を上げ、城崎充の声がする方向へ……。順路は違うが、見えて来たのは、あの夜と同じ花のない桜の木だ。城崎充の専用コンサート会場なのだろうか。ふと、そんなことをわたしは思ってしまう。
以前とは違い、斜め後ろ方向から桜の木に近づいたので、わたしには城崎充の後姿の一部しか見えない。代わりに城崎充の許に集まった数名の聴衆たちの顔がわかる。その中の一人、背の低い少女の笑顔に、わたしは少なからずショックを受ける。愉し気に微笑む少女の顔に恋する女の色が浮かんでいたからだ。
少女の恋の相手は、恐らく、城崎充だろう。そうでなければ、あれほど熱心に城崎充のことを見つめないはずだ。
わたしはふっと溜息を吐く。それまでの間、息を止めていたようだ。自分の心と身体の、そんな一連の反応で、わたしは自分の中に確実に芽生えている城崎充への想いを認識してしまう。が、彼を想う人が彼の近くにいるのなら、彼より九歳も年上のわたしに芽生えた淡い想いなど滑稽なだけだ。
そう思い、わたしがその場から去ろうとする。
……と同時に、城崎充の歌声が止む。
曲が終わったのだから、それは不思議ではない。が、同じタイミングで後ろから声をかけられ、わたしがギョッとする。
「もしかして、市原さん」
わたしに声をかけたのはmeatの連城マスターだ。連城マスターの声も、わたしには聞き違えようがない。
「まさか、充の曲を聞きに……」
振り返ったわたしに連城マスターが問う。わたしは何と答えようかと惑ったが、
「そうじゃありません。自然と足が向いてしまって……」
正直な事情を連城マスターに打ち明ける。
「けれども充くんを好きな娘がいるなら、わたしは邪魔なだけ……」
「ああ、玲奈ちゃんか」
目を細め、城崎充の歌を聞きに集まった聴衆を窺い、連城マスターがわたしに言う。
「まあ、俺がとやかく言う問題じゃないけど、美緒さんくらいの人生経験を積んでいないと充の心の闇を癒せないと思うな」
「マスター、人生経験って……。わたし、そんなに年寄りじゃないですよ」
「まあ、どっちにしても最後は本人たちの気持ち次第だけどね」
わたしに笑顔を向け、連城マスターがそんなことを言う。




