31 励
第三章 縁の胸懐
佐々木零がわたしのアパートの現れたのは通話から約一時間後だ。わたしが自分のアパートに帰って来たのが午後十一時だから、もう翌日。しかも平日なのだ。スマートフォンをかけ、もう遅いから、こちらに来ないように、と零を説得することもできたはずだ。が、わたしは何故か、そうしない。激しく零に叱られたいと内心願っていたのかもしれない。
「お邪魔するよ、美緒……」
ドアチャイムが鳴り、わたしがドアを開けると零がいる。
「取り敢えず死にそうな顔はしてないな」
わたしの顔をつくづくと眺め、そう続ける。
「零、ごめん。わたし……」
「気が動転していたんだろう」
「うん」
「だから、いいってことよ」
「ありがとう」
零がわたしに告げ、ニカッと笑う。それから口調を変え、宣言する。
「明日……っていうか、今日、あたし、ここから職場に行くから……」
「えっ」
わたしはちょっと驚き、改めて零の姿をじっと見る。確かに、零が肩からかけているのは丈夫そうな通勤用のバッグだ。服装も、いつもわたしと遊ぶときと比べれば派手さがない。
「美緒を一晩中苛めるつもりじゃなくて、単に面倒臭いから……」
「零……」
「まあ、話があるなら聞くけどね」
「うん、助かる」
わたしが言い、
「とにかく上がって……」
と零を促す。
「では遠慮なく」
零が言い、勝手知ったる、わたしの部屋へと上がる。
「煎茶で良い、それとも一杯、呑む……」
ダイニングキッチンの椅子に零を座らせ、わたしが訊ねる。
「美容には良くないが、ここは一献かな」
零が即答し、二人で酒盛りとなる。
「実はツマミを持って来たんだ」
そう言い、零が犬印鞄製作所製のバッグからジッパー付きストックバッグに入れたプラスチックの食品保存容器を取り出す。
「餃子の皮を揚げたのと、麩辛しと、単なる大カットのキャベツだけどね」
「上等じゃない。でも日本酒用かな」
「美緒の家には日本酒はないの……」
「いや、貰ったのがあるはず……」
「じゃ、それで……」
零が言うので、わたしがシンク下の棚を開け、日本酒を探す。正月に実家に帰ったとき、母から、
「ウチじゃ呑み切れないからアンタにあげる」
と無理矢理持たされたものだ。他にも缶詰や菓子など、実家に寄る度に必ず荷物が重くなる。
四合瓶から茶碗に日本酒を注ぎ入れながら、わたしが零にそのことを愚痴ると、
「美緒のお母さんは美緒のことを構いたいだけよ」
と零が笑う。
「まあ、それはわかるけどさ」
「美緒が結婚しなくても心配、恋人ができれば、また心配……」
「だから煩くて家を出たのよ」
「心配されている内が花だぞ」
「それはね」
「美緒が不倫をしたら、お母さんに何も話せないんだよ」
「早速、説教か」
「他に役がいないから仕方がない」
「好江がここにいれば、二人から糾弾だったね」
「うん。今は幸せな主婦をやってんだから、知ったら、血相を変えて怒るだろうな」
「本当、目に浮かぶわよ」
それから暫く、結婚したわたしたち二人の親友、谷川好江のことが話題となる。
「結局、ハネムーンベイビーはできなかったな」
「好江が専業主婦だから早く欲しいんだろうけど、旦那の佐渡くん次第だからね」
ついで避けていた本題に話題が戻る。
「でさ、美緒は本気で愛人を遣る気なのね」
「ごめん、零。でも彼と一緒にいたい気持ちが消えないから……」
「子供は作れないよ。それもルール……」
「わかってる」
「自分の経験があるから言っても無駄だと知ってるけど、止めなよ」
「できない」
「辛いぞ」
「既に、もう辛いから……」
「でも今が一番幸せな時だって美緒は知ってるのかな」
「えっ」
「時が過ぎれば、愛人に慣れるとか、思ってない」
「慣れないわけ」
「それ、ないから……」
「……」
「いつまでも、ずっと辛いから、悲しいから、淋しいから……」
「零は、わたしを慰めに来てくれたんじゃないの」
「わかってないな、美緒は……。わたしは美緒を励ましに来たんだよ。美緒に引き返す気がないことを確認したらだけど……」
「零……」
「だから、もっと沢山、美緒に厭なことを言う」




