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第一章 天の配剤
ホットドッグ一つを食べるのに三十分はかからない。それでも十分以上かけ、わたしがその夜の食事を終える。すると、そのタイミングで歌が聞こえてくる。綺麗な声だ。絶唱タイプではなく、中音域で伸びやかな声質。背景音はギターだ。アコースティック・ギターでコードをアルペジオ弾きしている。
耳を澄ますとコード進行は結構複雑だ。が、言葉の流れが自然なので、そうは思えない。例えばドイツのフォーク・ディオ、クラウジウスの楽曲を思い浮かべれば良いかもしれない。
歌声に惹かれ、わたしが歌い手の許に寄って行く。すると季節的に花のない桜の木の根元に細身の男がいる。ボトムは黒いジーンズにスニーカー、トップにはパープルのブルゾンだ。歳は二十代後半に見える。が、声からわたしが得た印象はもっと若い。
あの声は男から発されたものだとわかる。男の周りには、数は少ないが聴衆がいる。わたしが更に男に近づく。すると男がわたしに気づく。チラリと一瞥をくれたのだ。
その目の暗い光に、思わずわたしがハッとしてしまう。が、わたしが男に向けた想いには気づかず、男がわたしから目を逸らす。
後から思えば何の変哲もなかった曲が終わり、次の曲が始まる。綺麗だが悲しい感じのメロディーが男のギターから奏でられる。やがてイントロが終わり、男が歌い始める。
きみがまだいたあのひ そらはあおい
ぼくがまだいたあのひ うみはあおい
きみはわらい なき めをかがやかせる
ぼくはわらい なき きみをだきしめる
みらいはどこまでもつながり とぎれることがない
かこはどこまでものぞきこめ うしなうものがない
しあわせだということばがなくとも かんかくがある
いきているというおもいがなくても いきいきとする
だけど あのひは もうもどってはこない
だから あしたは もうにどときやしない
キミがまだいたあの日 空は青い
ボクがまだいたあの日 海は藍い
キミは笑い、泣き、目を耀かせる
ボクは笑い、泣き、キミを抱きしめる
未来は何処までも繋がり 途切れることがない
過去は何処までも覗き込め 失うものがない
幸せだという言葉がなくとも 感覚がある
生きているという想いがなくても 生き生きとする
だけど、あの日は、もう戻って来ない
だから、明日は、もう二度と来やしない
男の曲を聞くうち、わたしの目に涙が溢れる。男の綺麗な声で歌われた曲の内容が余りにも衝撃的だったからだ。実話だったら悲し過ぎる。だから、わたしは歌の内容を男の創作だと思おうとする。そう思い込みつつ、繰り返される歌の歌詞を聞く。
この歌には続きがないのだろうか。二番というモノが存在しないのだろうか。
男の歌に対するわたしの想いが妙な方向に折れ曲がる。男の歌ととも男自身にも、わたしが強烈に惹きつけられる。
やがて男の歌が終わる。
「では口直しに……」
と言い、明るい曲を弾き始める。が、歌詞が異常だ。
ぼくのとうさんはがいこくでしんだ
どうろをつくるしごとをしてしんだ
ながいながいどうろをつくるしごとだ
それがようやくかんせいしすうじつご
ばくげききがどうろをこわし
それでとうさんがこわれたよ
こわれただけではなくとびおりたのさ
ねていたへやのまどからみをなげてね
「やめて……」
気づくと、わたしが叫んでいる。男の歌とギターが止まる。わたしが慌てて辺りを見まわすと、それまでいたはずの数少ない聴衆がいない。男の曲の異常な歌詞を聞き、いなくなってしまったのだろうか。
「誰だか知らないけど、あなたには刺激が強過ぎたようだ。済まなかった」
男が素直に、わたしに謝る。が、わたしは男に謝って欲しいわけではない。
「怖い歌を、ありがとう」
わたしが男に近づき、勇気を出して言う。ついで財布から小銭を取り出し、
「これ、少ないけど、チップ……」
迷った末、五百円硬貨を一枚、男に渡す。男は黙ってわたしから五百円硬貨を受け取り、公園の水銀灯の光で矯めつ眇めつしている。まさか偽コインだとでも疑っているわけでもなかろうが……。
「悪いけど、それは本物よ」
わたしが言うと、
「あなたにとって、おれの曲に、これだけの価値があったなら嬉しい」
ぶっきらぼうに男がわたしに自分の気持ちを伝える。
「そうね。吃驚したわ」
だから、わたしの男への興味は尽きそうもない。それで普段は内気なわたしが珍しく一歩を踏み出し、男を誘ったのか。
「あなたに時間があるなら一緒に食事をしない。わたし、今日さ、予定をドタキャンされちゃって……」
言わなくても良いことまで付け加えてしまう。