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29 泣

第三章 縁の胸懐

 聡との次の逢瀬は最初からホテルだ。恋の初めで二人とも盛り上がっていたのかもしれない。けれども初めてのときのような激しい愛し愛され方は既にない。もっと優しい肌の触れ合いだ。わたしは益々聡のことが好きになる。

 人の気持ちとは不思議なものだ。つくづくと、そんな想いを噛み締める。やがて別れを惜しみ、午後十時前に二手に分かれる。途端に、わたしが独りになる。だから、ついスマートフォンに手を伸ばしてしまう。瞬時躊躇い、聡にメールを送る。本当は声が聞きたい。けれども聡も電車だから迷惑だろう。そう判断し、メールで我慢する。

『会いたい。M』 

 と打ち込み、送信する。送信してから、聡の妻が見たらどう思うだろう、と考える。その答えも出ぬまま、聡から返信だ。

『ぼくも同じだよ。会いたい。聡』

 聡の言葉に嘘はないだろう。けれども、それは叶わぬことなのだ。わたしが耐えるしかない。それが愛人でいることだから……。

 が、やはり我慢できずに、わたしは聡のスマートフォンに通話してしまう。通知音が続き、やがて聡が出る。

「会いたい」

 わたしが言い、

「ぼくもだよ」

 聡が答える。

「……」

「……」

 次は互いに沈黙だ。言うべき言葉がないからではない。おそらく、あり過ぎるから沈黙してしまうのだ。

 そんな沈黙が逆の意味で重くなる前に、わたしが聡に伝える。

「次は何時会えるかな。愉しみです」

「今週中に会えると思う」

 聡の即答だ。が、その予定はわたしも知っている。それでも、わたしは口にしたのだ。

 夫婦でも正式な恋人でもないわたしと聡は互いの想いでしか繋がることができない……。そして相手が目の前にいないときの想いは言葉にしなければ伝わらない。

 わたしはそんなふうに考えたのかもしれない。

「今、何処……」

「電車の中だよ」

「へへっ、そうですよね」

「市原さん、大丈夫……」

「ああ、名前は言わない方が……」

「そうだった。しかしあなたと呼ぶのも気恥ずかしい」

「きみ、でいいですよ」

「何処かの社長みたいで厭だな」

「そう言えばウチの社長は、社員の名前に、さん、付けですよね」

「偶に名札を見て確認することもあるけど、割と覚えているよね」

「ウチの社長ってデザイナー出身じゃないんですよね」

「最初から商売人だよ」

「中野副社長と最初に組んだのが良かったんですかね」

「副社長のジュエリーデザインを見て、絶対売れると思ったんだろうな」

「かなり繊細ですよね」

「副社長の見た目は豪放磊落にしか見えないけどね」

「わたしのジュエリーデザインは繊細さに欠けます」

「いいんじゃない。それも個性だと思うよ」

「あなたにそう言っていただけると嬉しいです。……って、確かに、あなた、って呼ぶの恥ずかしいですね」

「……だろう。じゃ、そろそろ乗換駅だから……」

「ああ、済みません。別れた後まで付き合わせちゃって……」

「全然構わないよ。ところで今気づいたけど、あなたは声も素敵だ。じゃ、また……」

「はい、お休みなさい」

 わたしの方も乗換駅が近い。電車を乗り換えたら、もう一回通話しようか。すぐに、そう考えている自分に笑ってしまう。ついで胸が締めつけられ、苦しくなる。寂しくて辛くて切なくなる。

 他人から声が綺麗だなんて言われたのは生まれて初めてかもしれない。恋愛の初期だから聡はわたしを褒めてくれたのだろうか。それとも……。

 とにかく今はじっと耐えよう。やがて、そんな時間さえも愉しくなるかもしれない。あの頃のわたしは本当にそんなことを考えている。何とも前向きなのは、やはり恋愛初期だったからだろうか。

 左手に握り締めたスマートフォンをじっと見つめ、諦めたようにポシェットに仕舞う。今日は泣かないぞ、と思いつつ、すぐ近くの車窓に映る自分の顔を凝視する。

 わたしは本来、泣き虫ではない。どちらかといえば余り泣かない可愛げのない女だ。ところがどうしたことか、今では、すぐに泣く女に変わっている。げに恐ろしきは恋愛……というわけか。


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