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28 掟

第三章 縁の胸懐

 勢いとは恐ろしいもので、その一時間後、わたしは聡に抱かれる。

 経験がないわけではないが、場数を多く踏んでいないから、とても気恥ずかしい。けれども、その気恥ずかしさが、わたしには嬉しい。照れはあったが、自分の身体を聡にすべて見て貰おうと願い、動く。わたし自身も聡のことをもっと知りたいと願い、動く。

 最後はへとへとになったが、あんな体験は初めてだ。

 思えば、あのときこそ、わたしが一番幸せだった時間だろう。聡の方も幸せを感じたのか、二人でシャワーを浴びた後、そのまま寝入ってしまう。わたしが聡と朝までいたのは、あの日だけだ。

 が、それからバタバタする。何故かといえば、次の日(目覚めた日)が平日だったからだ。幸い五時前に目が覚めたから、一旦自宅に帰り、出社することは可能だ。が、可能ではあるが結構キツイ。

 それで別れを惜しみながらも左右に分かれる。出勤時に一緒にいるところを見られるのはセーフだが、この時間帯に見られるのはアウトだろう。聡はハイヤーで、わたしは電車でそれぞれの住処へと向かう。聡は途中で電車に乗り換えたようだ。もちろん、その方が早く自宅に帰り着けるから……。

 当日の朝、わたしは社内に聡の姿を見かけない。探しまわるのもヘンなので、そのまま何もせず、そわそわながら過ごす。が、昼休みになっても連絡がない。だから、慎重な人だな、とわたしが少し剥れる。けれども仕方がない。これが自分の選んだ愛人の道だ。

 が、退社時間になっても一度も連絡がないから心配になる。まさか、誰かが見ており、それが上役の耳に入り……と厭な想像をしてしまう。実際には、聡は出社後すぐ営業に出向き、昼は営業先の相手と摂ったから、わたしに連絡する時間がなかっただけだ。夕方も同様……。

 しかし、その事情を知らないわたしはヤキモキしたり、冷汗をかいたり……。不安な気持ちで終日を過ごす。わたしが家に帰って暫くし、やっと聡から連絡がある。

「済まない、時間が取れなくて……」

「今度会ったとき、凡その仕事のスケジュールを教えてください」

 あの夜のわたしと聡との会話の要約だ。聡とスマートフォンで話し、事情を知り、わたしが理解した結果の言葉。

「スケジュール表を渡そうか」

「暫くは、いろいろと決めなくちゃいけないことが多そうですね」

 要約、その二……。

 愛人は最初から大変だ。けれどもスマートフォン経由でも聡と会話ができ、わたしは幸せ……。が、会話はいつまでも続かない。

「ああ、家が見えて来たから……」

 聡がわたしに告げ、通話を切ろうとする。

「お休み、美緒……」

「ああ、ちょっと待って……」

だから、わたしがつい口にしてしまう。

「何だい」

 聡は立ち止まり、その言葉を言ったのだろうか。

「いえ、ちょっとだけ、別れが惜しくて……」

 それとも歩きながらだろうか。

「ぼくも美緒との別れが惜しいよ、だけど……」

「ごめんなさい、長引かせて……」

「いや、そんなことはない」

「お休みなさい、聡……」

「お休み、美緒……」

 通話終了。

 聡からわたしに向けた『愛している』の言葉はない。きっと、そういう言葉をかける習慣がない人なのだろう。

 わたしから聡に向けた『愛している』の言葉もない。これは、わたしが躊躇ったからだ。

 ……というより怖れたのか。

 わたしは聡を愛しているから、二人だけしかいない状況で聡に『愛している』と言っても赦されるだろう。けれども、そのとき聡の目に見えているのが自分の家だったら聡はどう思うだろうか。胸に厭なしこりを感じるかもしれない。そのしこりがしこりのままであるなら、まだ良いが……。けれども、それが乳癌のように大きく育ち、わたしに対する鬱陶しさに変わるかもしれないと想像すれば……。

 わたしは『愛している』と言うことができない。『愛している』と言う言葉を封印しなければならない。少なくとも、それが素直に言える状況以外では……。少なくとも、それを言っても誰も傷つく者がいない状況以外では……。

 これも愛人の運命だろう。わたしは黙って受け入れるしかない。何故かといえば……。聡が長く、わたしを愛し続けてくれるように……。わたしが長く、聡を愛し続けられるように……。

 仮にわたしが聡の妻や息子から聡を奪おうと考えるような女なら、そんな運命に従う必要はない。単に聡を奪う計画を練れば良いだけだ。けれども実際にわたしがしている行為とは矛盾するが、わたしには聡の家庭を毀す意志が微塵もない。


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