26 遂
第三章 縁の胸懐
結局、あの日には何も起こらない。いや、何も起こらないと言っては嘘か。わたしも聡も互いに自分の気持ちを認め、無言で相手に伝えたのだから……。
が、それ以上のことは起こらない。謂わば、未遂の恋か。
交通機関の一部が動き始めたのが午後八時過ぎ。それで、これから帰ります、と会社に連絡を入れたが、上司がいない。
「村松課長は定時で帰られましたよ」
代わりに電話に出た経理部の人間が、
「現在会社にいるのは我々経理部の二人とデザイン部の人間だけ……」
と続ける。
「社長が、今日は早く帰れ、って皆を嗾けてましたし……」
つまり、わたしの勤めるユア・タイム・ジュエリー(UTJ)社はそんな会社というわけだ。前の震災のときも午後三時過ぎに、
『今日の仕事は終わり。経理的には有休をとって貰うことになると思うけど帰りなさい』
避難先の駐車場で社長が宣言し、社員全員を家に帰らせている。
「とにかく、市原さん、お疲れさま。村松課長の机にメモを残しておくから……」
「済みません。お願いします」
わたしが経理部員に礼を述べ、スマートフォンを切る。その姿を、先に同様の通話を終えた峯村聡が見つめている。
「市原さんの方も終わったか」
「はい」
「じゃあ、帰るか」
「雨も急に弱くなってきましたね」
窓の外に目を遣り、
「一時間前が信じられない」
と続ける。
「ぼくもだよ。本当に信じられない」
蟠りない峯村聡の言葉だ。が、それはどちらの意味だろうか。
「ホテル代はもう戻って来ないし、市原さんは泊まっていけば……」
「峯村さんもご一緒してくだされば、そうしますけど……」
「さすがに、それは無理……」
「ですよねーっ」
二人でともに会釈し返すが、何方の笑顔にも戸惑ったような表情が混じる。だから峯村聡が、わたしを食痔に誘ったのだろうか。
「まだ電車は牛詰めだろうし、タクシーも捕まらない……」
「はい」
「市原さん、ご飯を食べに行こうか」
「そういえば、そろそろ、お腹が減ってきました」
弱い雨の中、ホテルに着いたのが午後五時前。デザイナーから、行けない旨の電話がかかってきたのが午後六時頃だ。雨はデザイナーの住む地方を経、こちらに向かう。午後六時には篠突く雨へと変っている。
後にテレビであの日の映像を見たが、雷を伴った大雨は気象兵器を連想させる。自然災害とも思えない派手さと破壊力なのだ。
午後五時の時点でサンドイッチを補給したから、それほど、わたしのお腹は空いていない。が、ここで断ることもないだろう。
「面倒臭いから、この部屋で取りませんか」
「そっちの料金は出ないよ」
「それはわかってます」
「しかも高くつく」
「峯村さんはしっかり者ですね」
「……というより、この辺りなら知ってる所があるんだ。今日もやっているかどうかはわからないが……」
「顔が広いですね」
「そんなことはないだろう」
「この前の怪我のときは知り合いのクリニックに連れて行ってくれましたし……」
「そういえば、市原さん、脚はもういいの」
「治療が早かったから全然平気ですよ」
「若いと治るのも早いよね」
「厭ですよ、そんなに違わないじゃありませんか」
二人でつまらぬ会話をし、重い腰を上げる。会計を済まし、ホテルを出ると幸いなことに雨が上がっている。が、辺りは水浸しだ。
「こりゃ、真っ直ぐ帰った方が良さそうだな」
「はい」
「でもまあ、ちょっとだけ……」
「お供します」
そして連れていかれたのが、まさかの屋台だ。
「親父さん、大雨の間は何処にいたの……」
知り合いらしい屋台のオジサンに峯村聡が訊ねる。屋台のオジサンは俳優の悪役にいそうな体格と顔をしている。
「いくつか隠れ場所があってね」
オジサンが謎めいた言葉を峯村聡に返す。
「今日は可愛い子を連れてるじゃない」
「仕事でサポートを頼んだけど相手に振られた」
他に客もいない屋台で峯村聡が愉しそうに話す。
「じゃ、ぼくは大根とハンペンと……」
峯村聡が注文を始め、
「市原さんも遠慮しないで食べてよ」
それとなく、わたしに注文を促す。口調から察すれば、奢ってくれるようだ。
「ええと、じゃ、わたしも大根と糸蒟蒻とつみれと……」
それで、わたしも注文をする。
おでんの屋台はテレビで見たことがあるが暖簾をくぐったのは初めてだ。だから勝手がわからない。
「市原さんはイケる口……」
わたしのおでんの注文が終わったところで峯村聡が訊くから、
「まあ、呑めますけど……」
わたしが答え、二人でコップ酒となる。
「乾杯」
「乾杯」
わたしと峯村聡が互いのコップの端を合わせる。
「今日は後半働いていないから半分タダ酒だな」
「そうですけど、そろそろデザイナーさんから連絡があるんじゃありませんか」
「……そうか、じゃ、食べ終わるまでスマホを切っておくよ」
「そんな、営業の人の言葉とも思えない」
「今日はイレギュラーだから向こうだって無理は言わないだろう」
それはその通りだろうが、わたしには少し心配だ。が、それ以上に、峯村聡がわたしとの時間を守ってくれたことがわたしには嬉しい。




