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第三章 縁の胸懐

「こんなこともあるんだな」

 峯村聡がわたしに言う。

「本当。まるで嘘みたいです」

 強い雨音を聞きながら、わたしが答える。

 まさかのホテルの一室だ。しかも二人しかいない。

「帰るに帰れないし、困ったな」

 時刻は午後七時をまわっている。

「奥さまの方は……」

「早めに息子を迎えに行ったよ。だから問題ない」

「そう、それなら良かった」

「小学校は公立にしたから距離も遠くないし……」

「看板が当たって怪我をする人もいますから……」

「そうだな」

「雨に濡れれば風邪を引くこともありますし、一応連絡をされては如何です」

「他に出来ることもないし、そうするか」

 峯村聡がスーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出し、家族に連絡を入れる。その姿を、わたしがじっと見つめている。

「ああ、大丈夫だったか。よかった、よかった……」

 峯村聡の声だけが聞こえる。

「こっちの方はちょっとね。電車は動いていないし、道は渋滞だし、夜半まで帰れそうもないよ」

 微かに空気が揺れる。

「じゃ、また……」

 峯村聡が通話を終える。そのまますうっとわたしを見る。

「何だか、照れるな」

「えっ」

「市原さんと、こんな近くにいて……」

 それはわたしも感じていたことだ。たぶん峯村聡がわたしに感じる以前から……。

 あのとき二人がいたのはジュエリーデザイナーと打ち合わせをするはずだった部屋。地方に拠点を置くデザイナーで、泊まるつもりでいたので、会議室ではなくシティーホテルを予約する。が、わたしと峯村聡を足止めした季節外れの大雨がジュエリーデザイナーも動けなくしてしまう。

 天気予報である程度の雨は予想されていたが、通過時間と規模が狂う。だから、どうすることもできない。

「このまま泊まることになるかもしれませんよ。大雨が居座るようなら……」

 窓を叩く強い雨音を気にしながら峯村聡に言う。

「そのときは、もう一部屋取らないとな」

「空き部屋がなかったら、どうします」

「確かに今現在、このホテルに避難してきた人もいるだろう」

「……」

「もう一回、天気と交通情報を確認してみるよ」

 峯村聡が言い、スマートフォンを操る。わたしは自分の胸の奥に浮かんできた気持ちに戸惑いと親しみを感じている。

「ダメだな。状況はさっきとまったく変わらない。電車は動かず、道は渋滞……」

「わたしを選んだ理由は何ですか」

 唐突に、わたしが峯村聡に質問する。誰かがわたしを選ばなければ、あの日、わたしはあの場所にいない。

「いや、ぼくじゃないよ。佐久間課長だ。市原さんを選んだのは……」

「佐久間課長……」

「技術的な話が出たとき一番適任なのはデザイン部の人間だけど、全員仕事が押していてさ。それでデザイン部以外でジュエリーそのものに詳しい人だと、ぼくに説明して、佐久間課長がきみを押したんだよ」

「本当ですか」

「嘘を言っても仕方がないだろう」

「じゃ、ちょっと、がっかり……」

「えっ」

「でも、いいです」

 子供みたいな恋の駆け引きだ。今なら、まだ引き返せる。あのとき、わたしはそう感じたはずだ。その気持ちに偽りはない、と思う。

 けれども、わたしはあのとき既に恋に落ちていたのだ。自分でも気づかぬうちに……。

 わたしの恋はいつだってそんな始まり方をする。峯村聡の場合は彼が妻子持ちだから初めてのケースだが……。

「市原さん、どうしたの……」

 峯村聡がわたしを見て驚く。わたしが泣いていたからだ。

「本当にいったい……」

 峯村聡が更に戸惑う。が、彼は本当にわたしの涙の意味がわからないのだろうか。峯村聡は、そこまで純情無垢な人間なのだろうか。

「何でもありません」

 わたしが言うと、

「何でもないことはないだろう」

 峯村聡が怒ったように声を荒らげる。

「本当に何でもありません」

「困ったことがあれば相談に乗るよ」

「相談したら、たぶん峯村さんが困ります」

 わたしが言うと峯村聡が顔をキョトンとさせる。そこまで言っても彼は、わたしの気持ちに気づかないのだろうか。

 けれども、わたしの憶測は間違っていたようだ。

「わかったよ、市原さん。それならば、その相談には乗らない」

 今までに見せたことがないような表情と声音で峯村聡がわたしに宣言したからだ。



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