14 期
第二章 恋の揺籃
「でさ、午後は出かけるの」
スケッチブックを一通り見終わると零が問う。
「例の新しい男の所……」
「何よ、その言い方……」
「別に恋をしたとは言ってないじゃん」
「まあ、そうだけどさ」
「好い男なんでしょ。しかも若い」
「わたしにとっては若過ぎるわよ」
「男はいくつになっても若い女を好むぞ」
「そりゃ、わたしだって若い子は好きだけどさ」
零が口にした『新しい男』というのは城崎充のことだ。あの日、城崎充と出遭い、食事をし、酒を飲んだことは既に零に報告してある。その後、メアドを交換し合ったmeatの連城マスターから連絡があり、店を開ける前に城崎充と一緒にミニ・コンサートをするから見に来ないか、と、お誘いがある。零には、そのことも話したのだ。連城マスターには、行けたら行きますが、でもわかりません、と即座に答えている。そのままずるずると土曜日が来てしまったわけだ。
「美緒が行くなら、あたしもお供するよ」
「えっ、珍しい」
「だって興味湧くじゃん。その若い男に……」
わたしは城崎充の亡くなった彼女の話を零にしていない。が、作家の卵の勘なのか、零は薄々城崎充の込み入った事情に気づいたようだ。
「美緒、どうするの」
「じゃ、行こうか」
遂に、わたしが決心する。このまま城崎充に会えば、いずれわたしは二人の男を同時に恋してしまいそうな予感する。それでK街行きを思案していたのだが……。
が、零が一緒に来るなら大丈夫だろう。たとえ予感があろうと恋にまで発展するわけがない。
「ねえ、美緒、気に入ったら、その男貰ってもいい」
「別に構わないけど……」
「しかし、わたしは美緒と違って三十前には見えないからな」
「だから何よ」
「あたしがその男と付き合ったら完全に若いツバメじゃん」
「あはは、確かにそうか」
けれども零はどこまで本気で言っているのだろう。ときどき、わたしは零の気持ちがわからなくなる。普段は良くわかるだけに、わからないときには不安が募るのだ。
それとも零は、もう完全に失恋の呪縛から立ち直っているのだろうか。零に直接訊ねてみたい気もするが、わたしはまだ口にしていない。デリケート過ぎる話題だと蓋をしたままだ。
「コンサートの始まりは何時……」
間延びした声で零が問う。
「午後三時だって」
だから、わたしも間延びした声で答える。
「……ってことは、二時過ぎには、ここを出た方が良いわね」
「まだ十時だよ。時間を心配するには早過ぎない」
「いや、単なる確認……」
零が言い、さすがに温くなっている緑茶を啜る。
「だけど、することがないな」
「勝手に、ここに来たのは零でしょ」
「それはそうだけど、することがない」
「何なら差し入れでも作ったら……。零は料理が上手いんだし……」
すると零が顔を耀かせ、
「そうか、その手があったか」
ポンと手を叩くと嬉しそうに、わたしを見る。
「わたしはデザインをするから手伝わないよ」
一応、零に断りを入れると、
「あっ、それは一向に構わない」
零が買い物の準備を始める。
……といっても、単に上着を着ただけだ。
「買い物に行くけど、美緒は何か欲しい」
零が訊くので、
「枝豆を切らしてる。あればカキが食べたい。あと筍の水煮」
だから簡潔に、わたしが答える。
「酒の肴かよ。でさ、野菜はいいの」
「じゃ、白菜の漬物かな」
「やっぱり、酒の肴だな。肝心のお酒は……」
「今呑んだら出かけられないから、いらない」
「まあ、そうなるか」
「うん」
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
わたしが見送り、零がわたしのアパートから駅前のスーパーマーケットに向かう。
……と思いきや、すぐに舞い戻り、
「眼鏡を忘れた……」
と、わたしに言う。ダイニングキッチンのテーブルの上に置き忘れた眼鏡をかけ、再度スーパーマーケットまで出かける。去り際に、
「頑張れよ」
と、わたしに声をかけることも忘れない。
零は記憶が良いので、数回この街に来ただけで凡その店を覚えてしまう。わたしが知らない花屋で花を買い、このアパートまで来たこともある。職業は経理部員だから、庶務をも兼ねた総務部員のわたしより事務能力も高い。
これまで何度か喧嘩をしたこともあるが、不思議と友だち関係が続いている。だから互いに長生きをすれば、お婆さんになっても友だちのままでいられるかもしれない、とわたしは(おそらく零も)思っている。




