11 忽
第一章 天の配剤
結局その日は城崎充に駅まで送られ、素直に帰る。
約一時間後にアパートに帰り着くと当然のことだが部屋が冷たい。本日聡がわたしの部屋に来ていれば、今頃わたしは大きな悲しみの中にいる。が、本日聡がわたしの部屋に来ていないから、今わたしは絶えられる程度の不幸の中にいる。可笑しなことだが慣れは怖い。けれども聡を思い出せば涙が溢れる。
いったい、どうして出会ってしまったんだろう。聡との出会いが神の祝福のわけがない。寧ろ、わたしを黄泉の国に呼び込もうとする死神の企みではないか。
そんなことを考えていたら手に持っていたウィスキー入りのコップを床に落としてしまう。幸い割れはしなかったがウィスキーが床に零れる。城崎充と一緒に呑んだ、あれくらいの酒で酔ったつもりはないが、本日はもう酒を止めた方が良いかもしれない。
キッチンタオルで床を吹き、タオルをゴミ箱に捨て、手を洗う。アパートに帰ってすぐに湧かした風呂に入って寝ることにする。わたしは殆ど化粧をしないが、それでもゼロというわけではない。クレンジングは多数派(約五割)で入浴中に行う。
約二十分後、烏の行水のような感じで風呂から上がる。入浴中に歯も磨くので、もうモノは食べない。が、水は飲む。酒も飲む。本を読みながら寝つくまでウィスキーかジンを生で呑むが、この習慣は消えてくれない。約一年間の付き合いだ。
最初の頃は日本酒も飲んでいる。が、すぐに体重が増加し、蒸留酒に変える。聡と過ごす夜にはビールも呑むが、他では呑まない。太るからだ。ビールが飲みたいときはビール・テイストのノンカロリー飲料を飲む。
昨年、太り始めたとき、遂に肉を食べるのを止めてしまう。元々、狂牛病が騒がれ始めた頃から、わたしは牛肉を食べていない。わたしが師事していた高校・化学部の恩師はスクレイピーになる可能性があると羊肉を食べない人だったが、狂牛病を予言していたわけだ。だから牛肉を止めたのは恩師に倣ったことになるかもしれない。それでも豚と鳥は食べていたのだが、それさえ止めたわけだ。すると夏の暑い日に気になっていた汗の臭いがすっかり消える。それで絶肉が継続する。暫くすれば肉を食べたいとも思わなくなる。トンカツを見ただけで胸焼けを起こすようにさえなる(起こさない場合も多い)。
では何を食べているかというと多くが大豆製品だ。豆腐、味噌、枝豆、卯の花、納豆……。それ以外は魚(主に刺身で焼きもアリ)、しめ鯖、鰯/鯖/鮭の水煮缶詰、切干大根、蒟蒻&牛蒡、蛸か酢蛸、漬物、等……。
かなり以前に激太りして以来、ご飯やパンを多く食べていない。揚げ物も食べない。芋類と人参も食べない(G値が高いから)。牛乳も呑まない。時期にはカキやホヤを食す。麺類も食べない(ただし一週間に一食は許す。無理は禁物だ)。子供の頃から蕎麦が好きだったが、それも止める。チョコレートは極偶に食べる。飴だけは一日に何粒も舐める。唯一許している甘いものだ。最近は特濃ミルク飴ばかりを舐めている。そんなこんなが約一年間続いている。
もっとも食べ物だけ変えても痩せはしない。会社の帰りに一時間ほど歩いている(雨や雪の日以外)。土日にも歩いているが、自分で義務付けてはいない。ただし歩くときには重い靴を履く。
顔はともかく、わたしの脚は綺麗だと思う。重い靴を履き、数年かけた賜物だ。が、形は綺麗だが、わたしの脚には傷が多い。わたしが粗忽なせいだ。足に限らず、しょっちゅう何処かを打つけている。もっとも、わたしの粗忽がなければ聡と付き合い始めることもなかっただろう。
まさか、聡の足を踏んだとかいう話ではない。ジュエリーを落としてしまったのだ。
社用で社外に出かけるとき、自社製品のジュエリー、アクセサリーまたはリングを身に着けるという内規が、わたしの勤めるユア・タイム・ジュエリー(UTJ)社にはある。UTJとも関係が深いジュエリーデザイナーの新作発表会が急に開かれるから顔繋ぎに主席してくれ、と直属の上司から頼まれる。本来ならば庶務をも兼ねた総務部員のわたしの所に来る話ではないが、営業の人間が丁度その時間、全員出払っていた、というのだ。会社への行き返りのタクシーの手配をするなどの関係から、わたしがそのデザイナーの顔を良く知っていたので選ばれたようだ。手が空いた営業部員がすぐに向かうから、それまで場を繋いでいてくれ、ということらしい。それで仕方なく、わたしが出かける。
パーティー自体は恙なく終わる。約束の営業部員はパーティーが終わる約三十分前に駆けつける。それが峯村聡だ。社内で顔を見、総務部員として話したことはあるが、親しいわけではない。
ジュエリーデザイナーの新作発表会が終わり、わたしと峯村聡が会場だったホテルの一室を出る。暫くは気づかないが、何気なく耳に手を遣るとイヤリングが片方ない。事故でなくせば買い取りがルールだ。社員だから値段は受渡価格だが、それでも法外な金が飛ぶ。峯村聡に話すと、そりゃ大変、とすぐにイヤリングを探すのを手伝ってくれる。それこそホテルの廊下を這いずり周り、探してくれたのだ。
やっとのことでイヤリングを見つけた場所はパーティー会場の出入口付近。人が混んでいたので誰かに引っかけられたのかもしれない。見つかったイアリングが踏まれ、毀れていれば買い取り決定だ。が、これも幸いなことに無傷……。
せっかくだから、『イアリングが見つかって良かったな会』をしましょう、と峯村聡が呑気にわたしを誘う。訊くと、妻と子供が暫く実家へと帰っており、家に帰ってもつまらないから、と説明する。それで定時後、一旦社に戻り、上司への報告を済ませ、エントランスで待っていると程なく峯村聡が現れる。その後、ピザの専門店でマルゲルータなどを一緒に食べる。
あの日はそれだけで、それ以外の何事も起こらない。が、わたしと聡、二人の心に種が撒かれる。互いに互いを気に入ってしまったわけだ。けれども次の偶然がなければ、その事実も唯の予感……。
が、人は恋に落ちるもの……。
そういった意味ならば、わたしの恋も神の配剤なのかもしれない。