1 震
第一章 天の配剤
電車に乗り、丁度動き出したところでスマートフォンが震える。買い換えたスマートフォンで最初に経験したときには慣れない感覚の震えだ。が、今ではすっかり慣れている。慣れた上に感じ方まで変わる。メールの内容が予想できてしまう。そんな震え方だ。厭な震え方……。
が、確認しないわけにもいくまい。幸い、電車も混んでいない。満員電車で迷惑なゲームを始めるわけではないのだ。メールの確認くらいなら他の乗客も大目に見てくれるだろう。
けれども、そう考えるわたしのことを気にかける人間は車内にいない。もしかしたら世界中に一人もいないのかもしれない。
スマートフォンを白いポシェットから取り出し、画面を確認する。
『今夜のデートは中止だ。』
ビンゴ!
いやな予感が当たったわけだ。
『申し訳ない。子供が熱を出した。妻に早く帰って来てくれとせがまれた。いずれ埋め合わせはするから、今回は赦してくれ……。聡』
最初の一文から二文目以下の察しがつく。外れたところで似たり寄ったりだ。子供が熱を出した……でなければ、怪我をした、腹を毀した、テストで百点を取った、七夕会をやると言ってる、云々……。
もう溜息も出ない。
聡と付き合う前、親友の佐々木零が予言した通りだ。
『奥さんよりも子供に振りまわされることになるんだよ。美緒に、その覚悟があるの……』
あのときには実感がなかったが、今正にその通りになっている。
『愛人をやるならルールがあるんだよ。美緒にそれが守れるのか』
もちろん守れると、あのとき、わたしは答えたのだ。
『余計な心配をしないでくれる』
零にそう断言さえしている。それが、今では……。
いや、付き合い始めた一年前でさえ、わたしと聡とのデートは子供の事情に振りまわされる。おそらく身体が弱い子供なのだ。熱の回数が多い。聡は丈夫な方だから、聡の妻の遺伝だろうか。最初にそう考えたのは、いったい何回目のデート・キャンセルのときだろう。
ちなみに子供の名前は聞いていない。単純に、わたしが聞きたくなかったからだ。けれども、わたしは聡の子供の名前を知っている。聡がうっかり口にしたからだ。が、おそらく自分では気づいていない。わたしへの気遣いとして、うっかり以外で聡が自分の子供の名前をわたしの前で口にすることはないだろう。そのことは知っている。よくわかっている。
同様に、わたしは聡から聡の妻の名前を聞いていない。が、わたしは聡の妻の名前を知っている。こちらの方もうっかりだ。けれども口にした直後に聡が自分で気づく。『燈子』を『妻』と言い直す。ついで済まなそうに、わたしを見つめる。だから、わたしには許すしか方法がないではないか。
わたしは聡とまだ一年間しか付き合っていない。聡と妻は結婚してから十二年も経っている。若い結婚だったのだ。互いの存在が馴染んでいるのは当然と言える。だから、わたしとの逢瀬の際に妻のことを思い出せば聡は罪悪感に苛まれる。おそらく胸の辺りがすうっと冷たくなるだろう。だから、わたしは言わねばならない。聡の胸から罪悪感を拭い去るために……。
『気にしなくていいから……。わたしは一週間に一度か二度、聡を借りているだけだから……』。
最初にそう口にしたとき、わたしは自分自身が、その言葉に傷つくとは考えもしない。けれども抉るように鋭く、自分で口にした言葉がわたし自身を傷つける。妻から聡を借りている、という内容が、わたしの本心であるにも拘らず……。いや、本心だからこそ余計に……なのだろうか、
そういえば、わたしは自分が聡の子供を憎むようになるとも最初は考えてはいない。今ではその憎しみも諦めに摩り替ったが、何度目かの『子供の熱』のとき、頂点に達する。
もちろん顔には出さない。顔には出さず、自分が顔も知らない聡の子供の殺害計画を組み上げるのだ。何処で会い、何処で首を絞めれば良いか。プールで突き飛ばすのは、どう……。夜道で突き飛ばす方が(車に轢かれて)死ぬ可能性が高いか。いや、学校の屋上から突き落とす方が愉しいか。
聡の前ではなく、わたしが一人でいたとき、聡の子供の殺害を考えていたわたしは、いったいどんな顔をしていたのだろう。今考えると恐ろしい。が、当時は本当に愉しかったはずだ。まさか実行に移せるはずもない架空の計画として……。
けれども気づくと、わたしは目に涙を湛えている。自分が何を考えていたかさえ、まるでわからなくなりながら……。
その後、泣き叫ぶことがあれば、そのまま寝入ってしまうこともある。後者の場合、翌日が休みの日でなければ朝が相当ヤバイ……。