第2話 琴線に触れる
第2話 琴線に触れる
その若いころの不摂生が溜まりに溜まって現在の要となっているのかもしれない。統合失調症の他にアルコール依存症などの精神疾患が合併し、穏やかではない日々を過ごす要はこの世界に生きている実感を覚えないときが度々存在した。
これまで医者の投薬は効くこともあれば効かないこともあり、むしろほとんどが効かなかったのかもしれない。しかし要にそれを知る術はなかった。要がそれを知るきっかけになったのは己を含めてこの世の全てを調べ直してみようと思い立ったことからである。何故そう思い立ったのかは明らかであり、それは今の自分の何が正しくて何が正しくないのかを見極めたいという願いからであった。
しかしこれがよくなかったらしく病状は重くなっていってしまった。まずこの世界に絶対的に正しいものなど存在しないことに気が付いた。己が職としていたプログラムの世界は小さな鳥籠の中であり、こうすればああなるということは小さな世界だけの虚構であったのだ。即ちこれを拡大してみると、己の信じていた科学や医学もこれにもれず、己を含めたこの世界を処するには小さ過ぎる世界であったのだ。
そういう結論から、医学への絶対的な信心は消え薬に対する見方も変わっていった。薬は自分に合うか合わないかで処方を決める。医者の言うことを妄信しない。この思いが要をこの世界から孤立させていくことになる。
医学に限らずこの社会の仕組みについても疑問が湧きだし『こうあってはいけない』と確信し、果てには『自分は不遇である』と思うようになる。いわゆる『ひがみ根性』が身についてしまった。こうなると止まるところを知らなくなり、『ここが痛いのはあれのせいだ』『気分が優れないのはあのせいだ』と全てを何かのせいにしてしまうようになっていた。
そのうちふと我に返り、『これではいけない』と思った。何がいけなかったのか?それは全ての基準を捨ててしまったことにあると思った。医学にしろ薬にしろこの社会にしろなにかしらの基準が必要である。上手くいくかいかないかを判断するためにも基準は必要である。上手くいかないとしてもそれは現状の世界の精一杯のことであると諦めがつく。基準とは諦めの基準でもあると思った。
そしてあらゆる基準を繋げてみようと思った。ところが繋がりが示すものの多くは『矛盾』という答えだった。ここで要は自分が欲しかったものは叶わぬ『絶対的な基準』なのだと思い知ることになる。
要の病状は要の望むものが手に入らなければよくならない。しかしそれこそ絶対に手に入らないものである。そこで要は『己の生を清算したらどうなる』と考えた。確かにそうすれば絶対に矛盾は消え去るだろうが、それと引き換えに己を無に帰すことも絶対となるであろう。要にとってはそれでもよかった。しかし残された数少ない友人や肉親はどう思うか?と考えるとどうしても己を無に帰すことはできなかった。
こういう状態で今の要はパソコンに向かい心が落ち着かなくなればベッドに入る。そしてベッドで眠れないとまたパソコンの前に戻るという所作を繰り返している。
ふとある日己の目から涙が零れていることに気が付いた。自分を憐れむ涙は数多く経験してきたが、この涙はそうではなかった。涙の対象となるものは音楽であった。数多くの楽曲の中からこの音楽だけが涙を誘った。もしかしたら過去の涙の中に似たような涙が己の知らぬ間に零れていたかもしれない。このことが無性に嬉しく、そのときだけは己の病のことを忘れるようであった。
やがてテレビを見ていて涙を零すときも、亡き母のことを思って涙を零すことも感じられるようになった。このときから涙は憐みの涙から感涙へと代わっていった。
そうなのだ。世の中が矛盾していようが、己を虐げようがこの感涙を妨げることなどできないのだ。人生とは考えるものではなく感じるものだと要が気付いた瞬間であった。
要の病状はよくはなっていないかもしれないが、この『琴線に触れる』という感覚がある限り要の病状は緩和されていくものと信じたい。