彼女の隠し事。
「ねぇ。吉野さんっていう女の子に会わなかった? 僕を病院に連れて来てくれた子なんだけど」
そんな父親に話しかけると、父が更に顔を歪めた。
「会ったよ。良かったよ。お前たち、付き合ってないんだってな。あの子から聞いた。あの子と親しくするのはもうやめなさい」
「……は? 何を勝手なこと言ってんの? 僕の友達関係に首を突っ込むのは、普通にやり過ぎ。吉野さんは僕を助けてくれた人なのに」
父親が吉野さんにまでそんな顔を向けたのかと思うと、怒りが込み上げる。
「お前、あの子がどんな子か知ってるのか?」
「どんな子って……」
吉野さんは、蟻を踏み殺す残酷な子。僕にバスケ部に入ることを勧めてくれた気が利く子。僕を救ってくれた恩人。吉野さんは……。吉野さんは……。
僕は、吉野さんを箇条書きにしか出来ない。僕は、吉野さんのことを知らない。
「あの子は、客室コンパニオンをしている。高校生のくせに旅館の宴会に来て、オヤジに愛想を振り撒いて、酒酌んで抱き合って踊って、チップを貰う様な子だ」
「……は?」
父の言っていることが分からない。だって、吉野さんのバイトはファミレスだ。
「先週、接待ゴルフの締めの宴会を旅館でした時、取引先の社長のご機嫌取るためにコンパニオンの派遣を頼んだんだよ。そこに、彼女がいた。社長が甚く気に入って、『次もこの子を呼ぼう』ってずっと傍に置いていた子だからはっきり覚えている。彼女の方も俺の顔を覚えていたよ」
話を飲み込めていない僕に、父が更に詳しく説明を入れる。
吉野さんも僕の父親の顔を覚えていたということは……父の話は嘘ではないということか。
「あの子に『学校には言わないで欲しい』って何度も頭を下げられたよ。黙っている代わりに約束してもらった。『うちの息子には関わらない』って」
僕の承諾もなく、僕から吉野さんを引き離した父親の隣で『友達はしっかり選びなさい』と母親も同調していた。
どうしてこの2人は、僕を扶けてくれた吉野さんを僕の世界から排除しようとするのだろう。
蟻を圧砕するし、オヤジから金を貰ってるのかもしれないけど、吉野さんのことを殆ど知らないけど、それでも僕は、吉野さんが優しい人にしか見えないんだ。
「関わるよ。吉野さんにタクシー代返さないと。吉野さんが僕をタクシーに乗せてここに連れて来てくれたんだよ。吉野さんがオヤジから貰ったお金で、僕はタクシーに乗れた」
両親と一緒に帰りたくなくて「僕、電車で帰るから」と2人の隣を通り過ぎようとした時、
「いいのか? あの子が退学になっても」
父が僕の腕を掴んで止めた。
「そうなったら、僕も学校を辞めるよ」
父に白けた視線を送りながら腕を振り払い、そのまま病院の玄関に向かう。
だって、おかしいでしょ。息子を援けてくれた人にお礼をするどころか、その人を追い詰めるなんて。
「ダメ!! 1人でなんて帰らせられない!! また倒れたらどうするの? 周りに助けてくれる人がいなかったらどうするの!?」
今度は母親が追いかけてきた。
高校生にもなって、1人での行動を心配されるすぼらしさ。どうしようもなく、苛立つ。
「頼むから放っておいて!! 大丈夫だよ!! 死なないよ!! 何でそんなに信用ないんだよ!!」
母親をも振り切って病院を出た。
『北川くんは、病気持ちだけど病弱なわけじゃないじゃん』
吉野さんは僕を弱い人間扱いしないのに。
いつもは乗らない路線の電車に乗って、遠回りをしながら頭を冷やす。
どうにもこうにも親への怒りは収まらなかったけれど、僕には他に考えたいことがあった。
冷静になる必要があった。
全国に行けるかどうかの地区大会で倒れる様な僕が、このままバスケ部にいて良いのだろうか。辞めるべきなんじゃないのだろうか。
そして、何より吉野さんが心配だった。
吉野さんは、どうしてそんなバイトをしているのだろうか。
月曜日、今まで通りに僕と接してくれるだろうか。
冷静になったところで、僕の気持ちは沈んだままだった。
-----------月曜日。気分は晴れぬまま登校。
教室に入ると、吉野さんは既に自分の席に座っていた。タクシー代を返そうと吉野さんに近づく。
「おはよう。吉野さん」
「……おはよう」
吉野さんは、一瞬僕の顔を見たけれど、すぐに視線を逸らした。
「おはよー、北川。具合、良くなったか?」
吉野さんの前の席の小山くんは、今日も明るく元気だ。
「うん。もう、すっかり。いきなり倒れたしてごめんね」
「ぜーん然。試合終わってからだったし、あの試合楽勝だったし」
根っから【正義】な小山くんは、やっぱり僕を責める様なことは言わない。
そんな僕らの会話に入ってこようとはせず、ただ頬杖をついてそっぽを見ている吉野さん。
吉野さんは、父との約束をきっちり遂行するつもりなのだろう。
「吉野さん、これ。タクシー代。足りる?」
こっちを見てくれない吉野さんに近くに3000円を置く。
「……1枚多いよ」
僕と目を合わせもせず、吉野さんがそっと1000円を僕に戻した。
「僕を運んでくれたお礼。受け取ってよ。重かったでしょ?」
返って来た1000円を、また吉野さんへ戻す。
「……別に。私、トイレ行ってくる」
吉野さんは、1000円を受け取らず、逃げる様に立ち上がった。
「吉野、SHR始まるぞ」
小山くんが呼び止めるも、吉野さんは座ろうとはしない。
吉野さんが、教室の扉に向かって歩き出す。
僕は、吉野さんのことを何も知らないまま、ずっとこんな風に避けられ続けるのだろうか。
吉野さんのことが知りたい。
欲求に勝てなかった。吉野さんの逃げ場を奪う言葉が口をつく。
「待って、吉野さん。僕の口止めはしなくていいの?」
僕だって知っているんだよ。吉野さんのバイトのこと。そんな意地悪な意味の篭った言葉を吉野さんに投げかけると、吉野さんは振り返り、僕を睨みつけた。
その目には薄っすら涙が滲んでいて、彼女の両手は、悔しそうにスカートをきつく握り締めていた。
しまったと思った。言わなければ良かったと思った。
言ってしまった言葉を取り戻すことが出来ればいいのに。
吉野さんがあんなに追い詰められた表情をするなら、言うべきではなかったんだ。
「口止めって、何?」
唯ならぬ吉野さんと僕の空気を悟って、小山くんが僕の顔を見上げた。吉野さんも、不安そうに僕を見る。
「……あの日見えた、吉野さんのパンツの色」
小山くんの質問をはぐらかしながら、『大丈夫だよ。バラす気なんかないよ』と吉野さんに視線で訴える。
「……それは、興味深いね」
僕のしょうもない嘘を、小山くんが見破れないわけがなく、だけど小山くんはそれ以上突っ込んでこようとしなかった。
小山くんは、吉野さんと僕の間に何かあると勘付きながらも、吉野さんが聞かれたくないだろう話は探らない。
「……はぁ」
ホっとっしたのか、溜息なのか。吉野さんが小さい息を吐いた。そして、
「連れションしようか。北川くん」
異性の僕を、「一緒にトイレに行こう」と誘った。
「……ちょうど行きたいなと思ってたんだ」
全くもよおしてないけれど、吉野さんの誘いに乗った。
友達の目の前で、その人の好きな人と2人だけで話をしに行こうとする僕は、なんて嫌な奴なんだろう。
だけど、小山くんへの引け目より、吉野さんのことを知りたい気持ちの方が勝ってしまったんだ。
吉野さんと教室を出て、廊下を歩く。
「北川くん、1時間目サボれる?」
吉野さんが、僕の方を見ることなく、正面を向いたまま口を開いた。僕の顔を見たくもなくなるくらい、腹を立てているのだろう。
「うん」
1時間目は英語。暗記系の授業は、僕的には巻き返すのが割りと楽。覚えるだけだから。
「準備室に行こっか。多分誰もいないから」
吉野さんが、僕の返事を待たずに歩を進める。
「うん」
待って貰えなかった返事を小さくして、吉野さんの後ろを追った。
準備室には、吉野さんの思惑通り誰も居なかった。
吉野さんと2人、適当な椅子に座る。そして、沈黙。
吉野さんは、まだ話す決心がつかない様だった。
「……吉野さんのバイトって、ファミレスじゃなかったんだね」
沈黙に耐え切れなくて、僕から口を開いた。
「ファミレスでも働いてるよ。コンパニオンのバイトがない日は」
話し辛そうに、吉野さんが答えた。
「どうして、コンパニオンをしているの?」
「時給がいいから」
「どうして、そんなにお金が必要なの? もしかして、学費? 進路、悩んでたよね?」
吉野さんが、ブランドバックなどを欲しがる様な子には見えなくて、僕には吉野さんがお金を稼ぐ理由が、それしか浮かばなかった。
「……北川くんは、この世に必要のない命なんかないと思う?」
吉野さんは、いつかの体育見学時の様に、僕の質問には答えずに、全く関係ないと思われる問いかけをしてきた。
「うん」
吉野さんが、遠回りしてでも話す気になるなら、待とうと思った。それに僕もまだ、聞きたいくせに聞いて良いものかどうか、心が決まっていなかった。
「じゃあ北川くんは、死刑制度反対派なんだ。どんなに凶悪な犯罪者も殺人鬼も、更正すれば末永く幸せに暮らしても良いって考え方なんだよね? 自分の大切な人や家族が被害に遭ったとしても、そう思うってことだよね?」
「……え」
「だってそういうことでしょ? よくドラマとか映画で『この世にいらない命なんか1つもない!!』って台詞出てくるじゃん。アレ、何を根拠に言ってるんだろうって、いつも思ってた。自分が見たことないだけでしょ? って。北川くんの根拠は何?」
「根拠……。ただ、『命は大切なもの』って刷り込まれてたから」
吉野さんへの返事に口篭る。確かに、『人の命を奪った人間の命は大切か?』と聞かれたら、『はい』とは言い難い。だけど、全ての命が漏れなく大事なものであって欲しいと思ったんだ。そうじゃないと、病気持ちの僕の命が不必要なものに思えてしまうから。
「あるよ。不要な命。あるんだよ。私は知ってる」
吉野さんの目に、怒りが宿った。
「……私の父親は、職人なんだけどね。とにかくプライドが高い……違うな。ただの見栄っ張りで、人の下で働く事を嫌う性格でね、頭も悪いし人脈だってないくせに、私が小学生の時に、周りの意見も全く聞かずに会社を辞めて独立したの」
そして、ゆっくり静かに吉野さんが話し出す。
吉野さんのペースを崩したくなくて、ただ黙ってじっと吉野さんの話に耳を傾けた。
「当然上手く行かなかった。仕事の依頼なんか全く入って来ないし、他人に頭を下げて仕事を貰うことも嫌がってしないから、収入がゼロの時も多々あった。当時親子3人で住んでたアパートの家賃も払えなくなって、母親が長女で、母親の兄弟も全員独立して家を出ていたのをいいことに、3人で母の実家に転がり込んだの。父は次男で、長男が家を継いでいたから、そっちの家には行けなくて」
言葉を吐き出す度に、吉野さんの顔が歪む。
吉野さんに辛い話をさせて申し訳ないと思うのに、胸が痛むのに、それでも最後まで聞こうとする自分自身に嫌気を覚える。
「父は、自分の家でもない母の実家で、それはそれは大きな顔をしていたの。仕事もせずに母方の祖父と祖母の年金を齧りまくって、それを母が咎めれば、殴る蹴るで。父に暴力を振われた母は、祖父母や私にヒステリックに当たり散らして。 自分が選んで結婚した相手のことなんだから、母自身がどうにかすべきなのに。そのうち父は、私の学資保険も喰いものにした」
吉野さんが、時折奥歯を喰いしばりながら言葉を紡ぐ。
「やりたい放題の父に、祖父も限界に達して、ある日『出てってくれ』って父に言ったの。母にも『離婚しろ』って。お金も仕事もない父が、そんな要求呑むはずもなくて。父が、年老いた祖父母にも危害を加えようとしたの。祖父母を守らなきゃって思った。『俺たちが建てた家だから出たくない』って言う祖父母を『家は必ず取り返すから』って説得して、結婚して家庭を築いていた母の妹に頭下げて、祖父母を母の妹の家に住まわせてもらった。……その時ね、『私も一緒にここに置いてくれ』って母が言ったの。最低だなって思った。娘の私じゃなくて、自分の逃げ場を確保しようとしたの」
吉野さんが、『さすがにいい大人の母まで面倒見れないって断られてたけどね』としょっぱい顔をしながら鼻で笑った。
「私は、自分の両親の命をこの世の生ゴミだと思ってる。そんな2人から産まれた私自身も、当然紛れもない不要でしかない生き物だって自覚してる」
『私は、結婚も出産もしない』『後世に残したい命がない』
前に吉野さんが言っていた言葉を思い出し、その意味を知る。
「そんなこと言わないでよ」
吉野さんの言葉に、何て返せば良いのか分からず、何を言っても上辺だけの言葉になりそうで、でも、どうしても否定したかった。
「どうしてあの2人は、私を産んだりしたんだろう。育てるお金さえ稼げないくせに。何で子どもは親を選べないんだろう。親だって子どもを選ぶことは出来ないけど、産む産まないの選択肢はあるじゃん。『2人の愛の証を残したい』だの勝手に盛り上がって子作りして、産んだ後は『ここまで大きくしてやったのは誰だと思ってるんだ。感謝しろ』ってデカイ顔して。感謝って何? 一方的に自分たちの幸せごっこに強制加入させたくせに。誰が産んでくれって頼んだの? 親が子どもを育てるのは当然でしょう?」
吉野さんが、僕の目を見つめて同意を求めてきた。
吉野さんの言い分は分かる。だけど、両親に愛情を注がれながら生きてきた僕と境遇が違いすぎて、深いところで理解出来ていない様な気がして、頷くことが出来ずに、吉野さんを見つめ返した。
「バイトで稼いだお金を学費に回せたら、どんなに良いだろうって思う」
また、吉野さんがポツリポツリと言葉を零し始めた。
聞き逃したくなくて、少しでも吉野さんを理解したくて、吉野さんの言葉を全部拾う様に静かに耳に入れ込む。
「私ね、小学生の頃から、自分は看護師になるんだって決めてたの。それは、【夢】って呼べるほどキラキラなんかしてなくて、自分の道はそれしかないんだって思ってた。看護師になる為の学校って、奨学金が充実してるでしょ? 指定の病院に一定期間勤めれば全額免除になったりさ。私は結婚しない。だから、看護学校でも短大でもなく四大に進学して、看護師免許取って、看護部長になってやる!! って思ってた。出世して、お金を稼いで、他人に迷惑をかけずに生きて、自分の後始末もちゃんと自分でしよう!! って」
自分の命を不要と言い切る吉野さんは、自分の死を『後始末』と表現した。小学生の頃からそんな風に思っていたかと思うと、不憫でならなかった。
「だけど、高校に入って、色んな選択肢があることを知ると『自分にも他に出来る職業があるんじゃないか?』って変な期待し始めちゃって……。文系より理系の方が、後々就職に有利って聞いて理系クラスに入ったり。進学して新聞奨学生になったら、奨学金貰いながらお給料も稼げるな。とか。だから、バイト代は学費じゃない」
吉野さんの話し出した前向きな言葉に、少しホッとした。だけど、
「……最近それが馬鹿馬鹿しくなってきてさ」
今、吉野さんの気持ちは前に向いてるわけではない様だ。
「ファミレスでバイトしてる時にね、大学生のグループがお客さんで来てね、会話が聞こえてきたんだ。『大学4年間は、親が金で買ってくれた夏休みだ』って。何の不自由もなく悠々自適に大学生活を満喫している人がいるのに、私は毎朝早起きして新聞を配るのか? って思った。なりたいとも思ったことのない看護師になるのか? って」
『何かに期待しても打ち砕かれる』
また、吉野さんの言葉を思い出す。期待というのは、見も知らない赤の他人の言葉で簡単に崩れてしまう程脆いものだと知る。
「『今日の食料もない難民に比べたらアナタは幸せ』って母に言われたことがあるの。それは、そうだと思うよ。そういう人たちは、私の想像なんか絶するくらいに辛いんだと思うよ。だけどさ、発展途上国で貧困なのと、先進国で貧しいの、どっちが惨めだと思う? 私だって、親が一生懸命働いて、それでも貧乏なら承服出来るんだよ。でも、そうじゃない。自分を納得させる術がないの」
吉野さんに、安っぽい慰めを言ってはいけないと思った。余計に彼女を傷つけてしまうから。
「両親の関係修復を願わない私は変かな。離婚を画策する私は、頭がおかしいのかな」
「画策って?」
吉野さんの借問に答えず、質問を返す。だって、答えられないんだ。今まで当たり前の様に【善】だと思っていたことが、【悪】だと思っていた事柄が、吉野さんの話を聞いているうちに、そうじゃない気がしてきたんだ。
「前にね。区役所の無料法律相談に、母と祖父母と4人で行ったの。どうにかして父を家から追い出したくて。でも、話を聞いてくれた弁護士さんに言われたの。『お父さんはお婿さんだから、色々気苦労があるのを理解すべき。商売は景気が関係するもの。もう少し協力したらどうだろうか』って。この人じゃダメだって思った。父の独立は誰もが反対したし、婿に入ったのも、父の都合だし。景気なんて、この国に生きる人間全員が同条件でしょ?」
吉野さんはこの時も、きっと生活の改善を期待して、縋る気持ちで相談に行って、叩き潰されてしまったのだろう。
「無料で助けてもらおうっていうのが、虫が良すぎたんだと思った。自分で弁護士を探してお願いしようと思った。だから、バイト代は弁護士費用」
吉野さんの口から、ようやくバイトをする理由が明かされた。
この世に、弁護士費用を稼ごうとする高校生が何人いるだろう。驚きと切なさで、胸が苦しく、痛い。
「手っ取り早く稼ぐ為に、キャバとか身体売ったりとかも考えたんだけどね。私、こんなんでしょ? 人と関わるのが苦手っていうか、興味ない話をずっと聞いてるのがしんどいっていうか。だから、キャバは無理で。だったら、会話しないで済む売りでもしようかって思ったんだけどね。やっぱ、どうにもこうにも気持ち悪いっていうか。知らないオッサンと……吐いちゃうだろうなって。売りを軽蔑する人って多いけど、私は尊敬する。自分には出来ないから。相当の我慢を要しているんだから、大金を得て当然だと思う」
世間的に良しとはされないだろうけど、吉野さんが他人と接するのが不得意な性格で良かったと思った。
好きでもない男に、吉野さんを触って欲しくない。
「コンパニオンはね、その点割りと楽なんだ。触られても服の上からだから、何とか我慢出来るし、『このお客さんとは話盛り上がらないなー』と思ったら、別なお客さんの方に移動しちゃえばいいからさ」
服の上から触られる……酔ったオヤジの接客をするんだ。きっと胸や脚も触られるのだろう。……凄く嫌。なんか、物凄く嫌だ。
だけど、お金を稼げもしない僕に『そんなバイト辞めて』なんて、言えるわけがなかった。
「多分、これで全部。北川くんが知りたがってた話は。私、自分の進路は見えてないけど、でも高校退学したくないの。ちゃんと勉強して、しっかり働いて、他人に迷惑のかからない大人になりたいの。ウチの親みたいにはなりたくないの。……だから、今話したことは口外しないでもらえませんか? 卒業したら、誰にどんな風に面白おかしく吹聴してもいい。あと2年、どうか黙っていて下さい。お願いします」
吉野さんが僕の方に身体を向け、深々と頭を下げた。
僕の目の前で上半身を折りたたむ吉野さんが、とても小さく見えて、
「一緒に卒業しよう。吉野さん」
小さな身体で色んなことに必死で耐えている吉野さんの姿に、涙が出た。
「……100%同情ですよね。その涙」
泣いている僕を見て、苦々しく笑う吉野さん。
そうだ。泣きたいのは僕ではなく、どう考えても吉野さんの方なのに。
「だって吉野さん、小さい身体でよく頑張ってるなって思って。僕をおぶったりしちゃうし。……泣ける」
泣いたことを誤魔化す様に少しふざけてみると、
「頑張りに身体の大きさは関係ないでしょ。それに、北川くん運ぶことなんて屁でもないよ。私、いっつも酔ったオヤジ担いで布団まで運んでるもん。自称80㎏のオッサンおんぶしたし。北川くんなんて軽い軽い。赤ちゃん抱っこするのと変わんない」
吉野さんは、僕をちょっと馬鹿にした様な目で笑いながら、ポケットからティッシュを取り出し、僕に手渡した。
一昨日、『私、80キロまで担げるから』と言って僕をおぶった吉野さん。なるほど。そういうことだったのか。
吉野さんに赤ちゃん扱いされた恥ずかしさを隠すように、吉野さんから受け取ったティッシュで、わざとらしい音を立てながら鼻をかんでいると、
「……さっきの話、本当に誰にも言ったことがないんだ。自分の親を、そんな親から産まれた自分のことも、本当に恥ずかしく思っているからさ。普通に働く親の元で安穏と暮らすクラスメイトが妬ましくて、ずっと言えなかった。言いたくもなかった。……私、もらい泣きするタイプなんだよね」
吉野さんが、僕からティッシュを奪い返して、目頭にそれを当てた。
「……言いたくなかった。でも、やっぱり本当は誰かに話したかったんだと思う。自分1人で溜め込んでるの、結構しんどかった。北川くんに聞いてもらえて良かった。ちょっとスッキリした。ありがとう」
吉野さんが、僕にお礼を言いながら、涙を零した。
そんなことをされたら、言われたら、折角落ち着きかけていた僕の涙腺が、また騒ぎ出してしまうじゃないか。
「話してくれてありがとうね、吉野さん。ごめんね。辛かったよね。大丈夫だよ。僕は誰にも話さない。僕の親にも他言させない。心配しなくていいからね。……だから、僕のことを避けないで。僕の両親に何を言われたか分からないけど、父親にも母親にも変な動きさせないから。約束するから。……だって、嬉しいんだ。吉野さんとこうして話が出来るようになったこと」
再び泣きながら、駄々っ子の様に吉野さんに訴える。
「……泣き落とし、卑怯。……嘘。ありがとう、北川くん。私も北川くんと話がしたい」
自分も泣いているくせに、吉野さんは持っていた最後の1枚のティッシュで僕の涙を拭いた。そして、
『フッ』
目と鼻を真っ赤にしたお互いの顔を見て笑い合う。
「この顔じゃ、教室戻れないね。次の授業もサボろっか。北川くん」
少しでも顔の赤みを取ろうと、吉野さんが自分と僕の顔の前で両手を上下に動かして仰いだ。
「そうだね。ティッシュ足りなくなっちゃったから、トイレットペーパー拝借してくるよ」
トイレに行こうと立ち上がると、
「じゃあ私、自販機でジュース買ってくるよ。いっぱい泣いたし、北川くんがまた脱水で倒れると困るし」
吉野さんも腰を上げた。
「傷口を抉りますね、吉野さん」
「イジってあげてるの。腫れ物扱いされても気分悪いでしょうが」
意地悪く『ニイ』と笑う吉野さんが、あまりに可愛くてムカついたから、吉野さんの鼻を摘んで捻ってやった。
「痛った!!」
鼻を押さえる吉野さんを尻目に、やり返される前に全力でトイレへと走る。
背後で「北川くんの炭酸、死ぬほどシェイクしてやるからな!!」と怒っている風で笑っている吉野さんの声が聞こえた。
トイレットペーパーをゲットして準備室に戻ると、程なく炭酸飲料を手にした吉野さんが帰ってきた。
「ハイ、どうぞ」
吉野さんが、買ってきた炭酸飲料の缶を僕に差し出した。
吉野さんから受け取った炭酸は、宣言通り入念にシェイクされていて、タブを開けると、勢い良く水分が飛び散った。
何がそんなに面白いのか分からないが、何でか楽しい気分になって、吉野さんと2人で笑いながら、早速パクってきたトイレットペーパーを使って濡れた床を拭き取った。
それからは、たわいのない話をした。中学の時に流行っていたものとか、好きな音楽とか。
楽しかった。楽しそうに話す吉野さんの顔を見るのが、とてつもなく楽しかった。
少しずつ吉野さんのことを知っていくのが、嬉しくて仕方がなかった。