プロローグ ー突然の死ー
「行ってきまーす」
誰もいない部屋にそう声をかけるのにも、もう慣れた。
人によっては”これが家?”と問われそうなほどオンボロのアパートを出て、俺はアルバイト先のコンビニへと歩みを進める。
アパートに鍵をかけないのは、壊れていて意味をなしていないからだ。
盗られて困るものなんてなにもないし、そもそも俺が空き巣だったらこんなアパート、絶対に選ばない。
風呂はなし。どこの刑務所ですか? と問いたくなるようなトイレ(しかも和式)。
壁はまるでベニヤ板のようで、隣人の生活音がダダ漏れだ。
「あ、今トイレ入ったな」とか「最近あんま料理してないけど栄養大丈夫か?」とか……”知らないうちに俺はこの隣人と結婚してるのでは?”と思うときがある。
そんな場所に住む人間の経済力なんてたかが知れてる。
ーーかくいう俺も、その”たかが知れてる”人間のうちの一人なのだが。
頬を撫でる春らしい風がなまぬるい。全然心地よくない。
並木道には桜が咲いていて、代わり映えのしない景色をピンクに染めている。
もう何年もこの風景を見ているが、この時期は一年の中でも一番変化のある季節だ。
桜の下を歩く人々は、知った顔ぶれから入れ替わり、知らない人間が真新しい制服やスーツに身を包んでいる。
新生活の華々しいスタート、というやつだ。
残念ながら、万年コンビニバイトの俺にはまったく縁がない。
日本の未来を担っていくであろう若者に人知れずじっとりとした視線を送りながら並木道を抜けると、そこそこ栄えた駅前の大通りに出る。
一見まったく区別のつかないビルが多く立ち並ぶその場所の中の、鉛筆のように細長いビルの一階が俺の勤務先だ。
夏は緑、冬は赤の制服が印象的なそのコンビニには、駅前と言う土地柄もあってか様々な客が訪れる。
ーー来月で、記念すべき勤務5年目。
だからなんだという話だが、俺にとっては感慨深い。このクソみたいな業務内容の職場で5年も働けると思っていなかったからだ。
一昔前は「コンビニバイト=楽」という方程式が一般的だったようだが、今や「コンビニバイト=ブラック」というイメージが世間では定着しつつある。
断言するが、それは全くもって正当な評価だ。
確かに、昔はレジ打ちさえできればコンビニバイトは成立していたのかもしれない。だが時代と共に、コンビニの業務は日々多様化している。
宅急便(サイズ、複数、往復、ゴルフ、と荷物によって対応が異なる)、公共料金の支払い(領収書をどの切り取り線でちぎるのかが用紙によって異なる)。
100種を超えるタバコの販売に(略称じゃなく正式名称か振ってある番号で言いやがれ)、唐揚げなどのフライヤー補充(ポテトの配分が難しい)。
最近はドーナツの販売も始まって、俺の胃まで穴が開いてドーナツになりそうだ。
これに、品出し、レジ対応、それなりに勤続年数を重ねた人間には発注作業までが業務内容だ。
昼間から夕方の時給750~900円という賃金で覚えさせられることは多く、季節によってはバイトにまで恵方巻きやらクリスマスケーキやらを売るノルマを課す。
そのうえレジの誤算が出たら自己負担を強いられる店もあるらしい。給料に比べて責任はあまりに重い。
だが、コミュ障気味の俺にとって転職して環境が変化することほど恐ろしいことはなかった。
ーーこのままここで働き続け、蒸発した親父が作った莫大な借金を毎月ちょっとずつ返済する。
それが俺の人生プランであり、人生そのものだ。
「おはよーございまーす」
慣れてしまえばルーチンワークの塊みたいな仕事だが、俺にとってこの場所はこの先も人生を共にする親友……いや、生涯の伴侶と言っても過言ではない。
そんな伴侶の親ーーつまりは舅でであるオーナーの機嫌を取るべく、当社比120%増しで元気に挨拶した。
ーーだが。
「星夜くん。キミ、今日でクビね」
「……はい?」
冷たい眼差しで俺を見る舅に突きつけられたのは、事実上の”離婚届”だった。
だが、不貞をした覚えなどまったくない。
5年間ーーいや、正確には4年と11ヶ月と12日だが、仕事は楽しくないなりに、真面目にはやってきたつもりだ。
「ど、どうしてですか? 俺、なにかしましたか?」
「なにをしたって、自分でわかってるでしょ。俺が深夜帯の子たちに出してるジュース代、君、使いまくってるよね?」
「え?」
オーナーが勤務時間の長いバイトのために、金をチャージした電子マネーカード「nonoco」を事務所に置いているのは知っている。
ジュースが欲しくなったら店の冷蔵庫から好きなものを選んでタダで飲めるという仕組みだ。
それがオーナーの好意であることは知っていたから、毎日ありがたくいただいていたのだが……。
「これはさ、1週間に1本って決まってるんだよ」
……そんな話、聞いたことないですけど。
それに、1日に2本飲んでるやつもいるの、知ってますけど。
「他の子は一週間に2日から3日しか入らないからまあいいけど、君は毎日入ってるでしょ? 毎日ジュース代取られたらたまったもんじゃないよ。1本100円でも、7日で700円だよ?」
「で、でも、それは」
「それに、もともとこれは学生のために始めたものだから。君はもういい大人なんだからさ。パートのおばちゃんたちだって自分のジュースは自分で買うよ?」
このコンビニの賃金のみで生きている俺を、夫ーーもとい手数料のかからない自宅設置ATMがいるパートのおばちゃんたちと一緒にする気か!?
今度フランス言ってブランドもののバッグを夫のボーナスでしこたま買うって自慢話を立ち聞きしたばかりだぞ!?
ーーなんにせよ、俺は日々の100円程度のジュース代の積み重ねという、死ぬほどくだらない理由で5年も働いてきた職場を追われるのか?
だったら、今まで飲んだジュース代を返納してオーナーに許しを乞ったほうがいいだろうか?
オーナーも鬼じゃない。きっと誠意を見せれば許してくれるはずだ。
そもそも、この仕事をクビになったら、まともな職歴0の俺は生きていけない。
だから、謝らなくてはならない。
親父の借金を返済するためにも。
だが、口から出た言葉はーー。
「わかったよ! 今日限りで辞めてやる、こんなクソバイト!」
***
週末の大通りを、無職男が歩く。……ご自慢の鍵尻尾はないが。
気分はバンプだ。チキンだ。いや、俺はチキンじゃない。あんなにはっきりと言いたいことを伝えてやった。
だが、その選択は本当に最良だったのか?
いまだ莫大に残っている借金はどうする?
貯金など無い身で、これからどうやって生きていく?
ーー冷静な自分による問いかけの答えなど、出るはずがなかった。
だって、俺の目の前には、もう真っ暗な道しか存在しない。
「……世の中、本当クソだな」
ため息をつく俺の横を、固く手を繋いだ幸せそうなカップルがすり抜ける。
俺と、同世代くらいの男女だ。
でも、この差はいったいなんだろう。いったい、俺の人生はどこで間違えた?
すべて失って気が付いた。
ーーいや、本当はすでに気付いていたのに、見て見ぬふりをしてきたのだ。
だって、それを認めてしまえば、生きる意味がなくなるから。
つまらない仕事をしている自分からも目を背けてきた。
ただ、社会の歯車として、無感情に動いているだけでよかった。
だって、もうこの先、楽しいことなんてなにもない。
きっと、幼少期が恵まれすぎていたのだ。
大手企業の社長の父を持ち、不自由無く暮らしてきた。
週末は必ず高級レストランへ外食に行ったことを覚えている。
欲しいものは強請ればなんでも手に入った。
通信ケーブルを持っていたから、小学生のときはヒーローだったっけ。
友達も多く、言いよってくる女性も多かった。……そう、中学3年の夏までは。
不景気の煽りを受け、会社が倒産したことで、俺の家はセレブな生活から、一気に地へと落とされた。
父親は莫大な借金を残し蒸発、生きているかどうかさえもわからない。
母親はがんばって俺を育ててくれたが、体を壊して4年前に他界した。
多いと思っていた友達も、金がなくなったことで姿を消した。女性はいわずもがな、だ。
”元々イケメンじゃないくせに、金もないなんて話になんないじゃん”
この言葉は俺に絶大なトラウマを残した。女性不信で危うくゲイになるとこだった。(その後、大好きなAVを見て、やっぱりおっぱいはいいものだと思い直した)
だが、俺がどんなに女性(おっぱい)が好きでも、女性(巨乳)のほうが俺を好きになることはない。
ーー立ち止まって周りをみれば、俺はひとりだった。
そして、この先も、きっと……。
俺はまだ、19だ。
それなのに、この先の数十年を、俺が今まで生きてきた年数より長い時間を、消化試合に使わなくてはならないのか。
……その思いに事実に気付いてしまったら、もう、自分で自分を終わらせてもいい気がした。
そんなときだった。
近くの横断歩道を、知った影が渡っていくのが見えた。
ーー近くの公立高校の制服。ポニーテールの黒髪。そして貧乳。
間違いない。さっき辞めてやった(クビになったとは言わない)コンビニのバイトの子だ。
名前に確か”里”がついていた気がする。その程度の認識だ。
貧乳だし、まったく好みではないが、なぜだか俺になついていた。
……でも、もう会うことはないだろうな。なんていったって辞めたし。(クビになったとはry)
ーーだが、そのとき。
横断歩道を渡る彼女に、けたたましいクラクションの音が襲いかかる。
「え……」
彼女は呆然と音の方向を見た。
ーートラックが、彼女の身に迫っていた。
「……っ!」
自身に向かってくる巨大な物体を見て、彼女は身をこわばらせる。
驚いて逃げることができないのだーー
そう悟った瞬間、反射的に俺の体が動いた。
渾身の力を振りしぼって、横断歩道のほうへと走り出す。
人生で、こんなに必死に走ったことはない。
ひょっとしたら世界新記録でも出てるんじゃないかと思うようなギネス級のランニングで、俺は彼女のもとにたどり着く。
そして、彼女の身を両手で強く押し、その場所から跳ね飛ばした。
「え……っ」
桜色の唇から漏れた声が聞こえた直後。
耳をつんざくような車のブレーキ音と共に、俺は体を引き裂かれるような痛みを感じた。
……ああ、死ぬのかもしれない。
ーー視界が、ブラインドが降りるように、ゆっくりと闇に染まっていく。
味わったことがない痛みでとても苦しいはずなのに、この瞬間、俺は自分が生きていたことを初めて実感し、笑みをこぼした。
幼い頃、父と母が語ってくれた数多の物語の中のひとつに、こんな話があった気がする。
死んだら天国に行き、そこからまた新たな存在に生まれ変わるのだと。
もしそれが本当の話だとしたら、蛙でもゴキブリでもいいから、次はもう少しイージーな人生にしてほしい。
ーー願わくば、「強くてニューゲーム」がしたい。
……でも、そんな都合のいい話、あるわけないよな。
人には誰でも生きる意味があるとも言っていた気がするけれど、俺の場合、それはなんだったんだろう。
ひょっとしたら、”里”のつく彼女を助けるためだったのか?
だとしたら、最後にいい仕事ができたと思う。
俺よりよっぽど、彼女のほうが生きる意味のある人間だろう。
彼女が死んだら、悲しむ人間も多いはずだ。……貧乳だけど。
所詮、物語なんて人間が幻想を抱いて作ったものだろう?
だから、きっと俺はここで死んで、タンパク質の塊になるだけだ。
人が憧れる天国は存在しないし、魂なんてものもない。
俺が生まれてくる意味だってなかったし、彼女を守る使命だって、なかった。
ーーそんなの、とっくの昔にわかっているはずだ。
でも、なんて、悲しいんだろう。
たった一度きりにしては、ひどい人生だったな……。
享年、19歳。
その日、俺ーー伊藤星夜は、少しだけ己の人生を悔いて、死んだ。