6
冷たい風が杏色の髪を僅かに揺らす。昼間の暑さが嘘のようだ。
明るみ始めた空を見上げて、ラーズは目を細めた。軽く息を吐き、視線を同行者に移す。
「砂漠の星空もキレイだったけど、これから日が昇っていく様もきっとキレイだろうな。楽しみだけど--見せてくれる気はなさそうだね」
にこやかに微笑みかけるラーズを、人族の娘は冷淡な表情で見つめている。白いワンピースはそのままで、手には細身に似合わぬ大振りのマチェットが握られている。辺りに二人以外の者はなく、「砂の大滝」が落ちる音だけが響く。
「嫌いになったんだったら、普通に別れてくれてかまわないんだけど。それともカレンには何か理由があるのかな?」
「…………あなたを亡き者にして、頭の信頼を得るつもりよ。負け犬と心中はゴメンなの」
ラーズへの愛情は、全く残っていないようだ。いや、元からなかったのかもしれない。少なくとも今の彼女には躊躇う気持ちが無いことが、はっきりと分かる。
ラーズは苦笑いを浮かべ、袖口から銃剣を取り出した。刃渡りが30cmに満たない短剣型だが、護身だけなら充分に役割を果たす。
「せっかく、片目を代償に支払ってまで生き延びたからね。悪いけど、キミ相手でもそう簡単に命を上げられないな」
撃鉄を起こし構えるラーズを見て、カレンは酷薄な笑みを浮かべた。
「そう? まぁ、せいぜい足掻いて見せて」
ラーズが引き金を引くのと同時に、カレンが踏み込んだ。足下を掠めた弾丸を意に返さず、マチェットを振るう。重い一撃は、受け流そうとしたラーズの銃剣を軽々と弾き飛ばした。続けて振るわれた斬撃を、ラーズは後ずさりながら回避する。
やがてその背が、展望台の柵にぶつかった。
「早いのね。物足りなくてがっかりだわ」
「その言葉は、ちょっと傷つくなー……」
笑みを崩さないままのラーズの頬を、一筋の汗が伝う。次の行動を間違えば、カレンのマチェットは易々とラーズの首をはねるだろう。
ラーズは素早く視線をカレンの背後に走らせた。飛ばされた銃剣が、地面に横たわっているのが見える。
「あら、自分の身より獲物の方が気になる?」
「先々代から貰ったんだよね、アレ」
ラーズの言葉にカレンは笑う。花が綻ぶかのような微笑みを浮かべ、マチェットをゆっくりと振り上げた。
「そう、形見の品なの。……大丈夫、あの世で奪われたことを謝ればいいわ」
ソニアたちがボーラと共に到着した時、「砂の大滝」は騒然としていた。展望台は封鎖され、それを覗き込もうとする野次馬と人払いをする衛兵がもみ合っている。
「やだ、ちょっとどういうこと……?」
不安そうにボーラが呟く声が聞こえる。
彼が訪問してきたのは、ソニアたちが朝食を採り終わった頃だった。昨夜ラーズから「砂漠を観光したいから、可能ならばゲイルとその仲間と共に護衛をしてほしい」と頼まれたのだという。だが、ソニアたちがラーズの宿泊先を訪れると、すでに宿は引き払われていた。早朝にラーズの彼女が一人で手続きをしたという。その代わり、ラーズからボーラ宛てに「砂の大滝」に来てほしい、という言伝が受付に託されていた。
「……セージ?」
唖然として人だかりを見ていると、セージがソニアの足に軽く頭突きをしてきた。視線を愛犬に落とすと、彼は人だかりの外れへと歩いていく。付いていくと、ちょうど展望台の様子が見える場所があった。ソニアは仲間に手招きをしつつ、展望台に視線を遣る。
「砂の大滝」側の柵の一部が破壊されている。だがそれよりも目をひくのは、柵や床に大きく広がった赤黒いシミだ。
「--っ」
「あれ、は……」
それが何か気付き、ソニアは小さく悲鳴を上げた。その隣でゲイルも言葉を失っている。
「……血か。それも結構な量だね」
フェリルがそう断言した。展望台を冷静に見つめている。
「フェリル、その--」
何かを言い掛けたガデスの言葉を、犬の鳴き声が遮った。見れば、セージが大滝の底まで降りていた。黒犬は何かを探るように、砂に鼻を付けながらうろうろと歩いている。
「あの子、いつの間にあんな所に……!」
「ちょっと! 何してんだアンタら」
セージが降りていくのを見たのか、衛兵の一人が近づいてくる。どう言い訳したものか考え始めたソニアの前に、カインホークが出た。
「いやー、すいません。アイツ優秀な忠犬なもんで、自主的に調べに行っちゃったみたいで」
「自主的にって、勝手なマネされちゃ--」
「ごめんなさいね、アタシの依頼人が関係してるかもしれないのよ」
人だかりから抜け出たボーラが衛兵の言葉を遮った。衛兵は険しい顔で振り向き、ボーラの姿を見て表情を和らげる。顔見知りだったようだ。
「なんだ、アンタの仲間だったか……依頼人って、どういうことだ?」
「護衛をね、頼まれてたの。けど待ち合わせ場所のココに来たら、この騒ぎよ」
周囲にはいなかった、とボーラは展望台を険しい顔で見ながら付け加える。
「事故か何かに巻き込まれたのではないかと話していたら、彼が下に降りてしまいまして。何があったんですか?」
ヴァインの問いに、衛兵は考える素振りを見せた。言っていいものか迷ったのだろう。しかし、すぐに口を開いた。
「……朝早くに散歩をしてた婆さんが、あの有様を見つけて、「殺人だ!」って大騒ぎになったんだ。だが事件の目撃者も、死体も見つかってなくってな。深夜か早朝に誰かが襲われて、壊れた柵を越えて下に落ちたか、落とされたかしたんじゃないかって話してたとこだ」
「じゃあ、被害者は生きてるんじゃ……」
ゲイルの言葉に、衛兵は難しい顔をして首を横に振った。
「いや、厳しいな……移動したような形跡は見つからないから、下に落ちて砂に埋もれたんだろう。そうなると窒息死か、運良く地下空洞に落ちたとしても、あそこは魔物が多くいる」
「そんな……」
ソニアは痛みを覚えて胸を押さえた。昨夜のうちに行動していればよかったのではないか、という後悔に目眩がする。恐る恐るフェリルを見ると、彼は襲われた者--恐らくラーズが落ちたであろう砂溜まりを、じっと見ている。
その視線の先で、セージが砂を掘り始めた。匂いを確かめながら砂を掻いていくのを、衛兵も止めることなく眺めている。
不意に、セージの体が傾いた。
「え、ちょ、セージ!」
慌てて名を呼ぶソニアを見上げた黒犬は、「なんで来ないんだ?」と言いたそうに首を傾げ、のんきに尻尾を振りながらじわじわと砂に沈んでいく。
「ちょ、ちょっと! あの子なんとかしなきゃ!」
ボーラはそう言って衛兵の腕を引いているが、彼もまごつくだけだ。
「りゅ、竜で行ったら確実に沈んじまうし……」
「--追いかける」
艶やかな黒がソニアの視界に広がる。それがフェリルの翼だと気が付いた頃には、彼はすでにセージの元に舞い降りていた。しかし黒犬を抱き上げるではなく、共に砂に沈むがままに任せている。
「地下空洞に降りるつもりっぽいなー……」
妙に冷静なガデスの声が聞こえた。何故か落ち着き払って彼らが沈むのを見ている。
ソニアは周囲に視線を走らせ、覚悟を決めた。
「--ああ、もう! やればできる、はずっ!」
「え?! ちょ、ソニア待って!」
カインホークの声を背に、身を裂け目に踊らせる。山羊が岩山を降りていく様をイメージしながら、ソニアは岩肌の突起を足場に駆け降りた。棍を岩肌に引っかけるようにして落下の勢いを殺しながら、無事に着地する。落下の衝撃で足が痺れたが、それもすぐに引いていった。
「っくぅぅ……キミね、主人の運動神経を考えなさい!」
つぶらな目で見詰めてくる愛犬の耳を、ソニアは八つ当たり気味にぎゅと寄せた。変わらず尻尾を振りながら、されるがまま変な顔になるのを見て鬱憤を晴らす。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫だけど、2回目は出来ないわ、絶対」
ソニアが愛犬を解放してそう言うと、フェリルは素直に謝ってきた。
「ごめん、まさかソニアが自力で降りてくるとは……」
「……自力?」
不意に吹き上げる風が起こり、ソニアは上を見上げた。緩やかに仲間たちが降りてくる。ボーラも一緒だ。風を操って落下速度を抑えたのだろう。
「えっと、一応衛兵に断ってから降りようと思ってたんだが……」
ガデスの視線を追うと、衛兵たちが崖上からこちらを見下ろしている。ゲイルが振った手に応えてくれているところを見ると、地下空洞に降りることを許してくれたようだ。
「でも、ひとまず下にはきたけど、このまま砂に飲み込まれるのを待つのかしら?」
「それは、少し怖い、かも……」
砂に沈んだ足下を見ながら不安そうに言う兄弟に、カインホークが指を振って見せた。自信ありげに告げる。
「わざわざ待たなくても、俺がおじいちゃんに頼んで穴を開けてもらうから。砂まみれになることなく下に行けるぞー」
カインホークが意気揚々と、砂に足を取られながらセージが掘っていた場所に立つ。ソニアが一抹の不安を覚えてガデスを見ると、彼女は小さく頷いた。
「ノーム、頼んだ!」
「守れ」
カインホークの声に応え、足下を含めた周囲の砂が間欠泉のように高く沸き上がった。ソニアは驚き反射的に身を縮めたが、巻き起こった風が周囲を包んで、跳んでくる砂を弾いた。足下に開いた穴へゆっくりと導かれる。
「人のこと言えた義理じゃないが、ちょいちょいとすげぇ荒っぽい作用の仕方するよなー」
風を操ったまま光源を作りながら、ガデスがそうカインホークの魔法を評価する。
「や、でもちゃんと穴は開いたっしょ?」
「あのままだと、砂まみれにはなってたと思いますが」
ヴァインの指摘に、カインホークはあまり申し訳なさそうでない愛想笑いで舌を出す。ヴァインの眉間に深い皺ができたが、足が地面に着くとともに消えた。彼は気を取り直すように辺りを見回す。
「……遺体は、ないようですね」
「ええ。さっきの砂の中にも見えなかったわ。どこかに身を隠してるとかなら良いんだけど……」
着地と同時に風の守りが消えたため、落ちてくる砂をよけるようにソニアは前に出た。降りてきたのは通路になっているところのようで、冷ややかな風が足下に溜まった砂を少しずつ流している。天井は高く、幅もそれなりに広い。セージが本来の姿になっても詰まる心配はないだろう。
「セージ、どう?」
ソニアの問いに、愛犬は一声鳴いて応えた。風下の方向を、闇を見透かそうとするかのようにじっと見つめている。その傍らにヴァインがしゃがみ、地面に手を伸ばした。
「……血痕がありますね。それに、地面が踏み荒らされています」
「つまり、落ちた人が移動した証拠よね!」
ボーラが興奮をしたような声を上げる。ソニアは耳をぴんと立てた愛犬の背を、押すように触れた。
「--よし、行け!」
主の号令を受け、黒犬は放たれた矢のように疾駆し闇に消えた。
「7に続く」