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突然に訪れた闇に、身体は恐怖を訴え強張る。
クヴェルミクスに握られたままの手は、彼に身体の震えを伝えてしまっているだろう。
「怖い? ここは暗いからね……」
「い、いえ……、暗いのは、もう大丈夫ですから――」
「そうかな? 闇を過剰に恐れるのも、仕方無いと思うけどねぇ」
クヴェルミクスが向ける話の方向に、私は無意識にも眉を寄せる。
出来る事ならもう、あの事についての話をすることも聞くこともしたくはなかった。
お茶とお菓子で束の間温まった身体が、みるみる冷えていく。
「この話は嫌? でも、怖れて当然のことだよ。あんな目に遭えば、僕だって闇を恐れるようになる」
私の返事を待たずに、クヴェルミクスはゆっくりと続けた。
「知りたくはない? どうして、あんな目に遭ったのか。君が、なぜこんな傷を負わされたのか」
私の手を優しく取り上げると、クヴェルミクスは寝間着の袖をゆっくりと捲る。
暗闇に慣れ始めた目に、両手首に自分で巻いた不格好な包帯が白く浮かぶ。
クヴェルミクスは何も言わずに、私の両手首から包帯を外した。
未だに生々しく走る赤い三本の線から、私は目を逸らす。
冷えた空気が傷にしみる。
私は首を横に振った。
「――知らなくていいです。もう、終わったことです……」
「思いだしたくない?」
私が頷くと、クヴェルミクスはその目を細めて手首の傷を見る。
「今にも血が滴りそうだね。少しも癒えていない」
そう言うと、クヴェルミクスは三つの傷を順に眺めた。
「報復を望むなら、僕が手を貸してあげよう。君に手を掛けた者たちに、この国一の魔法使いの僕がとっておきの呪いを用意するよ」
暗闇の中で極寒の微笑みを湛えて、クヴェルミクスは優しい声で私に語りかけた。
その言葉に頷けば、私の傷も恐れも癒えるのだろうか。
いつの間にか強くしっかりと握られた両手首を見てから、私はクヴェルミクスの二色の瞳を見てゆっくりと首を横に振った。
クヴェルミクスは、ふっと小さく呆れたように息を吐く。
「平和主義の良い子なんだねぇ。それとも、ただの臆病なお人好しなのかなぁ。君が知りたくないのなら、事実は僕の胸にしまっておこうか」
クヴェルミクスがそういい終えると、消えていたランタンに灯りが燈る。
部屋に灯りが戻ったことに、あからさまに安堵してた身体から緊張が抜けていく。
クヴェルミクスは取り去った包帯を拾い上げると、私の手首に巻きつけた。
しゅるりしゅるりと音を立てて、包帯は綺麗に巻かれ傷を覆い隠す。
両手首が完全に包帯に包まれたのを見て、私はほっと息をついた。
クヴェルミクスはそんな私を見て小さく笑うと、ベッドから立ち上がった。
そうして窓辺に近づくと、そこに置かれたラビさんがくれた鉢植えを見下ろす。
「これはフィナロの花だね。知っているかい?」
初めて聞くその植物の名前に首を横に振れば、クヴェルミクスは優しげに微笑む。
「贈り物かな? 僕は、用意していないものね。……ラビハディウィルムあたりの置き土産かな?」
「そ、そうです、けど……」
「これに花が咲くまでに……。とでも、言って行ったのかな?」
笑いながら言い当てられ、私は思わず黙った。
クヴェルミクスはどうしてこう、いろいろとお見通しなのだろうか。
「フィナロの花はね、彼の国では厄災避けとして有名なんだよ。まぁ、明確な効果がある訳ではないから、迷信みたいなものだけどね」
私は鉢植えを見た。
つやつやとした緑の葉を見て、温かい気持ちがじんわりと広がっていく。
ラビさんが戻るのはきっとまだ先になる。
春までに戻るとは言わずに、鉢植えを置いて行ったラビさん。
その短くはない期間に、私を案じて贈ってくれた花を嬉しく思った。
そんな風に思う私の心内を、クヴェルミクスはまるで見えているかの様に笑った。
「ふふふ。でも、これ、ひと月もしないうちに花が咲くよ」
「え!?」
そんなにすぐに!?
思わず鉢植えを見れば、もちろん緑の蕾はぴったりと固く閉じている。
その見た目の様子で、花が咲くのはだいぶ先、きっと春先なのではと勝手に思っていた。
ひと月しない内と言ったら、春が来るよりも早く花は咲き、それよりも早くラビさんは戻ってくるということになる。
アライスまでの旅路がどの位のものなのか私にはわからないけれど、どうやらラビさんは、とても急いで戻って来てくれるということはわかった。
クヴェルミクスはクスクスと笑いながら鉢植えから離れ、そしてそのまま小さな衣装箪笥を開き覗きこんだ。
衣装箪笥には、アルトさんが贈ってくれた衣装が掛けられている。
最初には空っぽだった衣装箪笥は、アルトさんのおかげで半分以上の空間が埋められていた。
「相変わらずというか、仕事が早いよね、アルトフロヴァルはねぇ。ここが彼の趣味だけで埋まる前に、僕も君に贈らないとね。僕好みの衣装を」
クヴェルミクスはなんだか楽しそうにそう言うと、衣装箪笥を閉じる。
そして最後に、彼は白騎士のランタンへと近づく。
クヴェルミクスは、ランタンの優しげな黄色い灯りをしばらく見つめた。
「今のところ、一番に厄介なのはシュテフ殿かなぁ。ある程度、無意識なのが手強いよね」
独り言めいた言葉をポツリと呟くと、クヴェルミクスは私へ視線を戻し微笑んだ。
「僕もランタンを持ってきてあげる。可愛くて明るいのを作ってあげるからね」
唐突な申し出に曖昧に頷くと、クヴェルミクスは満足そうに頷き、それから薄い笑いを浮かべて部屋をゆっくりと見回した。
窓辺の鉢植えを、衣装箪笥を、黄色く燈るランタンを。
じっくりと部屋を眺めてから、クヴェルミクスは私の前に立った。
「本当に、すっかり愛されてしまっているからね。油断できないなぁ。いくらコレのおかげで、僕に分があるとはいえね」
クヴェルミクスは足元の移動陣を見て微笑んだ。
「だめですよ。それは、消してください。来るのなら、きちんと戸口から――」
「それは、聞けないよ。せっかく誰にも知られずにいるんだからね。これは、僕と君の二人の秘密だよ。それにほら、君は僕のお土産を口にしてしまったし、こんな夜更けに僕を部屋に入れた事を誰かに話すのは感心しないなぁ。……変に勘繰られても嫌でしょう?」
にこにこと上機嫌なクヴェルミクスを前に、私は唖然とする。
確かにクヴェルミクスの持参したお茶を飲み、お菓子を食べたけれど、こんなことになるなんて。
顔をしかめる私を見て、クヴェルミクスは再び微笑んだ。
「さて、そろそろお暇するよ。あまり夜更かしさせて、明日の朝、魔法塔に来るのに差障っては気の毒だしね」
クヴェルミクスはそう言って、移動陣の上に立った。
お帰り頂けることに安堵して魔法使いを見上げると、クヴェルミクスの白い手がローブから伸びて私の頬に触れる。
「では、お茶とお菓子のお礼を頂いていくね」
そう言ったクヴェルミクスの口が、私の口に重なる。
短くもなく長くないその瞬間、私は不意打ちに固まることしか出来なかった。
放心する私の頬をもうひと撫でして、クヴェルミクスは身を起こす。
「な……、なにを……」
驚き慌てる私を、クヴェルミクスはさも愉しそうに見る。
「君はさ、そろそろ危機感を持った方がいいよ」
「え?」
「僕等はさ、時間を掛けてゆっくりとか考えてないよ。君は、流されやすいからね。てっとり早く、まずは、するコトを済ませてしまおうってことだよ」
「それって、どういう……?」
クヴェルミクスの悪い微笑みに、背筋が冷えていく。
床の移動陣が薄っすらと白く光りだしていた。
「また来るよ。ちゃんとお土産を持ってね」
美しく微笑んだクヴェルミクスは、それだけ言うと姿を消した。
まだたくさんお菓子が詰まったバスケットと、混乱する私を部屋に残して。




