63
窓にかかったカーテンがひらりとはためいて、冷たい冬の午後の風が部屋に入ってくる。
空気の入れ替えにと開けた窓を閉じて、ガラス越しに外の景色を見下ろす。
大きな通りから一本入ったそこは、多くも少なくもない人通りがあった。
小さなパン屋さんに、野菜と果物の店、花屋に瓶詰め食品店。
キャンディショップは、見る度に子供達が嬉しそうに出入りしている。
ぽつぽつと並んだお店は大きくはないが、どこもそれなりに賑わっているようだ。
クヴェルミクスが私に用意してくれたのは、城下街の一角にある建物の三階だった。
細長い建物は一階にインクとペンと紙のお店があり、二階はお店の倉庫に、その上の三階部分を私の住まいとして用意してくれていた。
建物の裏手に回り、木戸の鍵を開けて階段を上がる。
部屋はクヴェルミクスが言ったように、一通りの家具は既に揃えられていた。
ソニアに用意された部屋のように、妙なこだわりがなくシンプルな部屋にほっとする。
間仕切りの無い細長い一間の部屋の中央にはストーブもあるし、小さいけれど清潔な浴室に、簡単な台所まで付いている。
部屋はまったくもって申し分なかった。
きょろきょろと部屋を眺めて回っていると、扉が開いた。
「何か足りないものはないか?」
使い込まれた厚手の黒いマント姿のラビさんが、部屋の中へ入ってくる。
その手には茶色い紙袋が抱えられていた。
「大丈夫です。十分すぎるくらいです」
「そうか……」
頷いてラビさんは紙袋を小さな食卓に置く。
城からこの部屋まで、私を連れてきてくれたのはラビさんだった。
ソニアの部屋で身支度を整え終わる頃、ラビさんが部屋を訪れた。
不精髭はないままで、髪もすっきりと整えられていたけれど、ラビさんは余所行きな衣装から、ややくたびれた着慣れた服で現れた。
「そうしていると、どうして男に見えたのか不思議に思えるな」
私を見て、ため息交じりにラビさんが呟く。
「あ、これですか? ちょっとつけるのが面倒なんですけど……」
私は首の横で結んだ黒いリボンに触れて、それから自分の姿を見下ろした。
クヴェルミクスの用意した付け毛と自分の髪を合わせて結び、その結び目を隠すように幅広の黒いリボンを巻きつけると、私の髪は背中の真ん中あたりまであるようになり、少年従者の衣装から踝丈の無地のモスグリーンのワンピースに着替え、編み上げの皮靴を身に着けている。
前から見ても、後ろから見ても、私はすっかり女子の姿になっていた。
ラビさんの視線は、私の腕へと移る。
長袖に覆われたそこを見たまま、ラビさんは小さく尋ねた。
「傷は?」
「……大丈夫です。もう、たいして痛みませんし。明日もソニアが見てくれるんで」
手首を隠すように背中へ回す。
傷は未だに乾かず、お風呂で濡らす度に傷はしみ、血が滲んだ。
手当をしてくれているソニアも、治りの遅い傷に眉を寄せている。
けれど今のところは、同じ手当てを繰り返す以外に出来ることもない。
ラビさんは何かを言おうとして、やめた。
なんとなく気まずい沈黙に耐えかねて、私はそれを誤魔化すようにストーブに近づく。
「やっぱり、点けないと寒いですね。ちょっと点けてみますね」
部屋の温度が低かったのは本当だった。
ストーブのスイッチに触れると、すぐにストーブのガラス小窓の向こうが赤くなる。同時に、じんわりとした温かさがストーブからこぼれ出す。
「本当に点いた……」
思わずそう呟いて、スイッチに触れた自分の手を見る。
前までは、ソニアがくれた魔法石があったかから出来たことが、今は自分の身一つで行える。
それは私が正真正銘、この身体に魔力を得たからなのだ。
でも、今の私に出来ることはこれだけだ。ストーブを点けたり、灯りを燈したり、それだけなのだ。
これからそれ以上の魔法の使い方を、ソニアの元で学ぶ。
自分の魔力がどれほどなのか、どんな魔法を使えるのか、それはまだ分からないけれど、もしかしたら治癒魔法や移動魔法も使えるかもしれない。
熱を持ち始めたストーブに薬缶を載せる。
「ラビさん、お茶淹れましょうか?」
台所には、ジィジィ茶の葉がたしかあったはずだ。
ポットを探そうと、台所へ向かおうとするとラビさんはそれを止める。
「いや、そろそろいかないとな……。これからアライスへ戻る」
そう言うとラビさんは、私をしっかりと見た。
整えられた髪型のおかげで、深紅の瞳がよく見える。
「そう、ですか。アライスに……。そうですよね……」
突然のことに驚いて、口ごもる私にラビさんは小さく笑う。
「不思議な色だな。もう黒くはないのに、ユズコの元の瞳を思い起こさせる色だ」
ラビさんは私の目を見る。
正面から見つめられて、私はなにを言っていいのか分からずに口を閉じた。
ラビさんが、自分の国に戻る。
そんな当たり前のことを、言われるまですっかり忘れていた自分の勝手さを恥じた。
だって、ラビさんは私に巻き込まれたから今ここに居るのだ。
本当ならとっくに、集めた木箱と共にアライスに戻っていたはずなのだから。
戻ってしまうことを寂しいと思うのは、あまりにも私の勝手すぎる感情だ。
それを言わないように口を閉じ、何か別の言葉を探す私を見てラビさんが微笑む。
「ラビさん?」
「寂しがってくれるのは嬉しい。……戻ってくるぞ」
「え?」
意外なラビさんの返答に目を開くと、ラビさんはさらに口の端を上げた。
「アライスでやりかけの仕事を片付けてくる。それが済んだら、すぐにここへ戻る。俺は、まだユズコの答えを聞いていないしな。それに、ユズコとアライスに行くのを諦めていないからな」
ぽかんとラビさんの言葉を聞く私に、ラビさんはさっき食卓に置いた紙袋の中身を取り出して見せる。
ラビさんの手には、鉢植えが乗っていた。
白い素焼きの鉢に、小さな緑の葉がふさふさと茂っている。
「これが咲くころには戻る」
ラビさんに言われて、再び鉢植えを見る。
よく見ると緑の葉の間に、幾つも固いつぼみが見え隠れしていた。
どうやら花の咲く鉢植えらしい。
ラビさんが鉢植えをテーブルに置き、私は視線を葉っぱからラビさんへ戻す。
微笑んでいたラビさんの表情が不意に締まって、次の瞬間には私は黒いマントに抱き込まれていた。
少しざらりとした肌ざわりのマントに顔を埋められ、耳元に低い声が降ってくる。
「このまま連れて行ってしまいたいが、面倒なのが多いからな」
とても冗談には聞こえないその口調に、私はラビさんの腕の中で身じろぎした。
「ラビさん、私……」
「今は答えを出さなくていい。時間はたっぷりあるからな」
背中に回された腕に、もう一度力がこもる。
顔を埋めたラビさんのマントから、日なたの匂いがした。
唐突にラビさんは私を解放する。
そして、真っ赤になっている私の頬を撫で、前髪を撫でて、再び正面から私の目を見た。
深紅の瞳を穏やかに細めてから、ラビさんは部屋を出ていった。
静かに扉が閉まり、階段を降りる音が遠ざかる。
私は閉まった扉をぼんやりと見つめ続けて、いつの間にかすっかり沸いた薬缶の湯の跳ねる音でようやく我に返った。
ラビさんが去った後、しばらくぼんやりと過ごしてから、私は再び部屋の中を見て回った。ペンとメモを持って。
一見、生活を始めるのに困らなそうに見えたけれど、いろいろと足りないものは多かった。
すぐに必要そうな物をメモに書きながら、引き出しや戸棚を開く。
台所にはお茶の葉はあったけれど、肝心のポットはなかった。
あったのは、今ストーブの上に乗せている薬缶。お皿が一枚に、カップが一つ。スプーンやフォークは見つからなかった。
食糧戸棚には大きな黒パンが入っていたけれど、パンを切るナイフは見当たらないし、パンの他に食べ物は入っていない。
今夜の夕食はこの黒パンを齧って済ますか、外に何かを買いにいかなくてはならなそうだけど……。
そこまで考えて、はたと気が付く。少しもお金を持っていない事に。
所持金ゼロ。
手にしていた買い物リストを見て、大きくため息をついた。
そうだった。私は、私の持ち物を失っていたんだ。
あの時、呆気なく燃やされた荷袋には財布も入っていたのだ。
ソニアから渡されていたお金に、アルトさんから貰ったお給金。
ラビさんとの旅支度で多少軽くはなっていたものの、生活用品を少し買うくらいならまだ十分にあったのに……。
また、ため息をつくと、一人の部屋にそれは思ったよりも大きく響いて途端に気が滅入る。
明日、ソニアから都合してもらうしかなさそうだ。気は重いけどそれしかない。お給金の前借という形にしてもらえるだろうか。言いにくいなぁ。
すっかり沈んだ気持ちで部屋を見渡してから、ふるふると頭を振る。
これだけ立派な居場所を用意して貰ったことを感謝しようと、息を吸い込んで背筋を伸ばす。
部屋の壁に掛けられた古びた『時知らせ』が、宵の刻の終わりに近づいていた。
窓の外はすっかり日が傾き、オレンジ色に暮れている。
チリン。と、ベルが鳴った。
それは外に続く扉の脇に付いた、訪問者を告げるベルだった。
程なくして、部屋に訪れたのはアルトさんだった。
ベルが鳴り、あ!と思って扉を開けて階段を下りる途中で、階段を上がってくるアルトさんに行きあう。
ラビさんが出たままにしていたので、階段下の外へ続く木戸の鍵は掛かっていなかった。
部屋の扉にも鍵は付いているけれど、外に面する木戸の鍵もしっかり掛けるように言われていたことをすっかり忘れていた。
つまり訪問者を告げるベルが鳴ったら、少し面倒だけど三階から一階まで階段を下りて応待する仕組みの部屋なのだ。
階段を上がりながら、アルトさんはやんわりとけれどしっかりと、下の木戸の施錠について言い含められた。
アルトさんは、なんだかいつか見た覚えのある布袋を持って現れた。
「既製品ですが、サイズは合うはずです。近いうちに、仕立て屋に行きましょうね」
にこにこと微笑みながらそう言って、アルトさんが布袋から取り出したのは、やっぱり洋服だった。
いま着ているような踝丈のワンピースが二着。膝下丈のワンピースも二着。温かそうなコートに、手袋、柔らかな皮のブーツまでが布袋から出てくる。
「着て頂けますか?」
食卓の椅子に積み上げられる服を黙って見ていた私に、アルトさんが心配そうに尋ねてくる。
私は慌てて首を縦に何度も振る。
「もちろんです! あの、こんなにしていただいて、本当に感謝しています。またこんなに用意して貰って……。本当に、私が着てしまっていいんですか?」
アルトさんが用意してくれたのは、どれも当然のように新しく美しく、そこはかとなく高価そうな服ばかりだ。
一目見て分かるような派手な高価さはないけれど、魔法使いの側仕えが着るのには不相応な気がする。
「ユズコは気にしないでいいんですよ。私がしたくてしていることですし……。それに、なるべく目立たないものを選びましたから、心配しなくても大丈夫ですよ」
「でも……」
「これは、そうですね……。最後のお給金代わりだと思ってください。これからは、城ではあまり近くに居れませんし、このくらいはさせて下さい。それとも、迷惑でしたか?」
表情を曇らせるアルトさんに、今度は首を横に何度も振る。
「そんなことないんです。ありがたいです。実は、服はこれ一枚しかなかったんです」
そう言って、私は着ていたワンピースを指す。
この部屋の衣装箪笥はさっき開けてみたけれど、なにも下がっていずにガランとしていた。
私のメモには、『服』と大きめに書かれている。
たくさんの着替えは必要ないけれど、さすがに一着ではどうもこうもいかないだろうと思っていた。
そこへアルトさんが、まるで見計らったように届けてくれたこれらの衣装は正直大変ありがたい。
「だから、すみません。アルトさんの好意に甘えて、ありがたく頂戴します」
私がそう言うと、アルトさんは安心したように微笑んでくれた。
それからアルトさんは部屋をくるりと見回した。
「他にもなにか必要であれば、遠慮無く言ってくださいね。ここが気に入らなければ、別の場所を用意することも出来ますからね」
アルトさんのにこやかな申し出に、私は困ってしまう。
たぶん、クヴェルミクスが用意した部屋というのが、アルトさんのお気に召さないのは分かっている。
「困り事があれば、いつでも話してくださいね」
アルトさんは微笑むと、ごく自然な感じで私の左手をそっと取る。
「アルトさん?」
困惑する私の目を見たまま、アルトさんは蜂蜜色の瞳で優しく微笑む。
そして右手に持った私の左手を持ちあげると、自分の口元へ滑らかに運ぶ。
手の甲に、アルトさんの珈琲色の髪がさらりと触れた。そして、すぐに柔らかな感触が落ちる。
「ア、ア、アルトさんっ!?」
私の上擦った声に、手の甲の上でくすりと息がこぼれた気がした。
アルトさんは、私の手の甲にキスをしている。
それを認識した途端に、掴まれた手の指先から火が点いたみたいに熱くなる。規則正しかった鼓動が、めちゃくちゃな拍を刻みだした。
震える手からアルトさんは唇を離す。けれど、手は離してくれなかった。
すでに顔まで熱くなっている私は、何も言えずにアルトさんをただ見るばかりだった。
「この行為の意味を知っていますか?」
アルトさんはそう言うと、柔らかく微笑む。
「し、知りません」
まだ多いに動揺している私の声は、鼓動に同調する様に乱れている。
「手の甲に口付ける行為は、この国では求婚の意とされています」
私は何も言えなかった。
ただ反射的に引こうとした左手を、アルトさんはやんわりと握りしめて捕らえ直す。
「驚かせてしまったようですね。ですが、ユズコ。どうか私を、一人の男として見ては貰えませんか?」
熱かった私の身体が、一息に冷たくなり、そしてまたさっきよりも遥かに熱くなった。
求婚!!
くっきりと頭に浮かんだその言葉が、私の思考を混乱の海へと叩き落とす。
ろくな言葉も返せずに、私は真っ赤になったままアルトさんから目を逸らせないままでいる。
「返事は今は結構です。ユズコが、新しい生活に馴染んでいくのを待ちます。けれど、私からユズコに今までより構ってしまうことを許してくれますか? 城では今までのように過ごせませんから。こうして、ここへ訪ねることも許して下さいね」
訳も分からないままに、私がどうにか頷くのを見とめるとアルトさんは眩くも微笑む。
王子様ではないのに、アルトさんの微笑みは理想的な王子スマイルだった。
「では、私はそろそろお暇いたしましょう」
私をすっかり茹であがらせると、アルトさんはそっと手を離してくれた。
それから、帰るアルトさんの背中を見ながら一緒に階段を降り、木戸の鍵を閉める。
鍵の掛かる音を聞いてから、アルトさんは帰っていったようだ。
私はバクバクとうるさい心音と、発熱したみたいに熱い身体を鎮まらせるために、寒い階段にしばらく座り込むことになった。