59
ずいぶん長いこと、私は泣いていた。
いつの間にか差し出されたハンカチは、すっかり湿っぽくなっている。
どうにか嗚咽が収まり、呼吸が落ち着くと、涙は次第に引いてきた。
ずっと様子を見ていたのか、私が落ち着きだしたところで白騎士が口を開いた。
「ぜんぶ食べたのか?」
白騎士がテーブルを見る。
「いえ、まだ」
「なんだ、半分も減っていないではないか!?」
木箱に並んだチョコレートは、ようやく一列なくなっただけだ。
「……美味しいんですけど、一度に食べるには濃厚で」
「ちまちまと食べるからだ!」
呆れたように息を吐くと、白騎士はチョコレートの箱を手に取る。
「こればかりは、俺も手を出せないからな」
そう言うと、白騎士は木箱をテーブルに戻した。
口の中がすっかり甘く乾いてしまった私は、残っていた涙を拭いながら白騎士を見上げる。
「あの……」
「なんだ?」
「なにか、飲むものはありませんか? チョコレートばかりでは、喉が渇きました……」
私は遠慮しつつも、寝室を見回した。
残念な事に、ベッドサイドのテーブルには水差しが用意されていない。
「あの、あれは?」
私が指差したのは、部屋の端に置かれたキャビネットだった。
ガラス扉の向こうに、背の高い瓶がいくつか並んでいる。
白騎士は私の指差したものを見て、首を横に振った。
「あれは酒だ!」
「お酒ですか」
「果実酒だ。子供には飲ませられん。茶でも、運ばせるから待っていろ」
面倒そうに白騎士が扉に向かおうとしたので、私はつい、離れていく白騎士の袖に手を伸ばし掴んだ。
白騎士は驚いたように私と、私が掴んだ袖を見る。
そっと袖を離すと、私は息を一つ吸い込む。
「……ずっと誤解されたままでしたが、私はもう成人しているんです」
「は!?」
白騎士の目が見開かれた。
「数え方が同じかどうか分からないのですが、その、私は、生まれてから二十二年たっておりまして……」
「にじゅうに……。二十二歳だというのか!?」
「はい」
神妙に頷く私を、白騎士は声もなく見つめた。信じられない。と、ありありと書かれた目で。
しばらく私を凝視したのち、白騎士は口の端を上げた。
「戯れ言を――」
「本当です」
遮るように言い返せば、白騎士は眉を寄せて黙る。
それからまたじっと私を見て、深い深いため息をついてから、キャビネットの扉を開けた。
緑色の瓶を取り出すと、白騎士はそれを持ってベッドへと腰を下ろした。
「テーブルを持ってこい」
ため息交じりの白騎士の声に、私は椅子から急いで立ち上がると、チョコレートを載せたテーブルを運んだ。
白騎士の前にテーブルを置くと、瓶と一緒に持ってきていたグラスが二つ乗せられる。
「そこに座れ」
白騎士は、自分の座るベッドの横並びを指差した。
私は大人しく白騎士の隣へ、ひと二人分くらい座れる間隔をあけて腰を下ろす。
グラスに、緑色の瓶の中身が注がれた。
「秋果実の酒だ」
茜色の液体をグラスに半分ほど入れて、白騎士はそう言った。
私はそれに頷きながらグラスを手に取る。
白騎士の微妙な表情に、私は念を押す。
「本当に成人してますから。お酒は、あまり飲み慣れていませんが」
白騎士が苦々しくも頷くのを見てから、私はグラスの中身をそっと一口飲んだみた。
すぐに林檎の香りがして、それから洋梨の味が広がる。
飲みこんだ後に、干し葡萄のようなアルコールがほわっと残った。
たくさん泣いて渇いた喉は、果実酒をすんなりと受け入れる。
そのままコップの中身を飲み干してしまうと、白騎士は空になったグラスに再び果実酒を注いでくれた。
もう一口、果実酒を飲んでから、私はチョコレートへと手を伸ばす。
私が黙々とチョコレートを食べ、果実酒を飲むのを、白騎士は黙って眺めていた。
白騎士は時折、果実酒のグラスを傾けたけど、私ほどは飲んでいなかった。
箱の中に並んだチョコレートは、ようやく最後の一粒になった。
正直、大好きなチョコレートだったけど、しばらくは口にしたくない位食べた。
こぼれそうになるため息を堪えて、その最後の一粒に手を伸ばす。
「あっ!」
チョコレートが不意に指から滑り落ちる。
ぽさりと音を立てて、チョコレートが落ちたのはベッドの上だった。
間違いなく高級な、白騎士のベッドの白くて滑らかな敷物に茶色い粉が散らばる。
恐る恐ると、白騎士の顔を窺う。
「お、怒りますか?」
私の質問に、白騎士は顔をしかめる。
「お前は、俺をなんだと思っている。これ位のことで腹など立てぬわ!」
「う……。もうすでに、ちょっと怒っているじゃないですか」
私の言ったことには答えずに、白騎士はため息をついてベッドの上に落ちたチョコレートを拾い上げた。
指に摘み上げたチョコレートを見てから、じろりと私を見る。
「口を開けろ」
言われるがまま口を開くと、白騎士がチョコレートを押しこんできた。
唇に、白騎士の指先が触れて驚く。
チョコレートを飲み込むと、残りの果実酒を一息に飲み干す。
さほど強いお酒ではないのだろうけど、飲み続けているから頬が熱い。
ふう。と息を吐きだして、空になった木箱を眺めた。
口いっぱいに残るチョコレートの濃厚な気配と、果実酒でほかほかする身体。
全部食べきった今、私に目立った変化はまだ訪れていなかった。
「こんなに食べたら、嫌いになりそうです。チョコレート」
「贅沢だな」
白騎士に言われて、私は少し笑った。
そして、白騎士を見てお礼を言う。
「シュテファンジグベルト様。お付き合い頂いて、ありがとうございました。全部、食べられましたから――」
言い終わらないうちに、白騎士が私を腕の中に引き寄せる。
驚いた私の両手は、そのシャツに触れることをためらった。
「シュテファンジグベルト様? 私の指、チョコレートまみれですから、汚れちゃいますよ」
私の指先は、チョコレートが纏っていた茶色の粉に塗れている。
いま、白騎士の衣服に触れたら、ばっちりとそれが付着してしまうだろう。
さっきチョコレートを落として汚した敷物のように。
「構わん」
白騎士は動かなかった。
そのまま抱き込まれた姿勢で、私は両手を所在無く空に浮かべる。
なんで? こんなことに?
だいぶアルコールに浸かっていたのか、頭の回転が悪すぎる。
一拍遅れて、今自分に起こっている事態を理解し始めた。途端に、鼓動が跳ね上がる。
果実酒で赤くなっていた顔が、一息に真っ赤に熱くなるのを感じた。
急に慌てだした私を、白騎士はぎゅううと強く抱きしめる。
これは、慰めてくれているのだろうか、白騎士的に。
そうならありがたい話だけど、反射的に身がすくんでしまう。
「シュテファンジグ――」
息も絶え絶えに、もう大丈夫です。と告げようとした私の口は、塞がれた。
白騎士に塞がれている。唇で。
白騎士を押し返そうとして、指先が気になってそれを躊躇する。
いや、もうこのさい、白騎士のシャツなんて汚れたって良かったのに。
唇は、ただ静かに重ね続けられた。
白騎士がゆっくりと唇を離すと、自由になった私の口が震える。
「な、なんで……」
抱きしめられたまま、驚きに震えている私の声に、白騎士は不機嫌そうに眉を寄せた。
「俺にも俺が理解できぬ。だが、したいようにする。」
憮然とそう答える白騎士に、私は呆れた声しか返せなかった。
「なにを、言っているんですか……」
「俺も誰ぞに聞きたいくらいだ。……聞けぬがな」
どこか自嘲気味にそう言うと、白騎士は私を抱き込んだままベッドの中央へと移る。
優しく押し倒されて、背中がベッドの感触を受けとめた。
貞操の危機!! が訪れているとは十分に分かっているけれど、飲み過ぎた果実酒が思考と身体を鈍らせている。
「まさか、これの世話になるとは思わなかった」
半分私にのしかかりながら、白騎士はベッドの枕元を探った。
そして、何かを手にした。
薄暗い寝室で、ベッドの上で、白騎士が手にした物が私にも見えた。
「違う!!」
「大丈夫だ。一通り目は通してある」
私の叫び声に、白騎士は妙に落ち着いて振る舞う。
白騎士の手には、いつか見たあの桃色の本。
それはクヴェルミクスが私に贈って、アルトさんに没収されたはずの、桃色の本だった。
「違う! 違うんです!!」
「初手から、指南書通りに行う。心配するな」
すっかり勘違いしている白騎士は本を開くと、私の顔の横に置く。
チラリと見てみれば、本には栞なのか何本も細いリボンが挟み込まれていた。
それは間違いなく、クヴェルミクスが用意した、男と男のなんちゃらな本だ。
なんて本を読み込んでくれているのだ。
初手ってなに? 指南書ってどういうこうと??
このままでは、大変な事になる! 大参事間違いない!!
混乱を極めた私の肩を、白騎士が包む。
白騎士の顔がぐぐぐっと近づいてくる。
「女です!!」
「は?」
ぴたり、と白騎士は動きを止めた。
私はどこか熱にでも浮かされているような、青い瞳を見てきっぱりと言う。
「私は、女です」
「なんだと……」
「本当です!」
「だが……」
「どこを見ているんですか!?」
白騎士の視線は分かりやすく彷徨った。
まず顔、それから胸を凝視された。
言いたいことは分かっている。女にしては、胸が薄過ぎるとでも思っているのだろう。
「しかし……」
「本当です。クヴェルミクス様もラビさんも知っています。たぶん、アルトさんも」
「なんだと」
並べた名前に、白騎士は冷静になったようだ。
それでもまだ、驚きを隠せずに私を見下ろしている。
「シュテファンジグベルト様も、もうご存知なのだと思っていました」
ため息交じりにそう言えば、白騎士は弱々しく首を振った。
両肩に掛けられていた白騎士の手から、力が抜けていく。
私はなんとも言えない気持ちで、身体を起こした。
「そうか、女だったのか……。そうだったのか……」
白騎士はどこか遠くを見ながら、ぶつぶつと繰り返している。
私は白騎士をそのままに、そっとベッドから這い出ようと動く。
「どこへいく?」
低い声に、肩が跳ねる。
振り返ると、遠くを見ていたはずの白騎士が、こちらを見ていた。
すぐに腕を掴まれる。逃亡は失敗したようだ。
不機嫌そうなその顔に、ふるふると首を横に振ってしまう。
「こ、こういうことは、双方の合意があって成立するんですよ」
非難がましく白騎士を睨むと、ふん。と白騎士は鼻で笑う。
「ならば、その合意とやらを取り付けよう」
不敵に笑ってそう言うと、白騎士は再び私をその腕の中へ抱き込む。
白騎士の口元が、私の耳元へ寄せられる。
今まで聞いたこともないような、甘くて深い声が耳をくすぐった。
「お前が女ならば好都合だ。俺がどれ程、思い悩んだか、お前は知らぬだろう?」
訳も分からずにこくこくと何度も頷くと、耳元で白騎士が笑った気配がした。
私の耳は、燃えているみたいに熱かった。
「教えてやる」
ぞくり。と身体が震えた。
私の言い訳や抗議を封じる様に、すぐに白騎士の唇が私の唇に覆いかぶさる。
今度は、重ねられるだけでは済まなかった。
果実酒とチョコレートが混じり合って、私を急速に酔わせていく。
私はすっかり力が入らず、ただ白騎士のシャツを握りしめているので精一杯だった。
酸欠気味の頭と身体がふわふわとしていた。




