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 高かった陽はいつの間にか傾き、窓辺はオレンジ色に染まった。

 箱一杯のチョコレートを前に、動けないまま時間だけがただ過ぎていく。

 夕暮れはあっという間にオレンジ色を片付けて、外は藍色に変わる。

 部屋の中が途端に暗くなり、ブルリと震えた。

 一人掛けの上で、小さなランタンの黄色い灯りだけが暗くなった部屋を照らす。

 柔らかな黄色い灯りに、テーブルの上のチョコレートが光った。


 そのままずっと、チョコレートを見つめていた。

 白騎士の寝室は静かで、外からの音は全く入ってこない。

 夜になって、その夜もすっかり更けた頃、とても静かに寝室の扉が開いた。


 暗い部屋に入って来たのは、白騎士だった。

 チョコレートに落としていた視線を、ゆっくりと白騎士に向ける。

 白騎士はテーブルの上のチョコレートを一瞥した。部屋は暗くて、白騎士の表情はよく見えない。

 何も言わずにテーブルから離れると、白騎士は窓に厚いカーテンを下ろして回る。

 すっかりカーテンを下ろし終えると、白騎士は壁に付けられた灯りだけを燈した。


「上も点けるか?」


 素っ気なく白騎士が指す方には、大きな天井照明がある。壁の灯りだけでは、部屋はやや薄暗い。

 けれど、私は首を横に振った。


「大丈夫です。これで、十分です」


 ランタンをきつく抱き込んでいた腕の力を緩める。

 白騎士はそれを見て頷くと、くるりと踵を返して扉へ向かう。

 ただ、灯りを点けに来てくれただけのようだ。


「あ、あの!」


 部屋を出ようとしている白騎士の背中を呼び止めていた。

 でも振り返った白騎士に、何も言えなくて開きかけた口を閉じる。

 立ち止まった白騎士は眉を寄せると、扉に掛けていた手を戻した。


「ここは俺の寝室だ。ここに入るのも出るのも、俺の自由だ」


 白騎士は不機嫌そうにそう言うと、部屋の奥へと戻る。

 そして、天蓋付きの広いベッドに腰を下ろす。

 それを見て、私はなぜかほっとしていた。


「あの、これ、ありがとうございました」


 ずっと膝の上に置いていた小袋を持ち上げる。

 白騎士は、小袋を見て頷いた。


「……食べたか?」

「少し、頂きました……」

「そうか……」


 ぷつりと会話は途切れて、部屋は静まりかえる。

 でもその静かな部屋の居心地は、不思議と悪くはなかった。

 チョコレートを見つめるのをやめて、私は壁に掛けられた絵画を眺める。

 見知らぬ場所を描いた風景画は、薄灯りの下でも美しかった。


「ひと月位、ここに隠れていても構わん」

「え?」


 唐突に、白騎士の言葉が部屋に響いた。

 思わず聞き返せば、白騎士は再び口を開く。


「ソニアヴィニベルナーラが言っていた。あの魔法石を作るのには、ひと月位かかるそうだ」

「そうですか」

「その間、ここに置いてやる」


 白騎士は真っ直ぐに私を見つめていた。


「だからお前は、自分のしたいようにすればいい」


 乱暴な言い方だったけど、白騎士の顔に苛立ちは浮かんでいない。

 青い瞳を見返してから、私はゆっくりと目を伏せた。そして口を開く。


「シュテファンジグベルト様は……、ご兄弟が多いのですか?」


 脈絡もない私の言葉に、白騎士は黙った。

 白騎士を見てみると、少し驚いたような顔をしている。

 けれど、すぐに白騎士は口を開いた。


「……そうだな。上に兄が三人、姉が二人、それにお前の知っている妹が一人だ」

「ろ、六人も……」


 第四皇子と知ってはいたけれど、予想以上に多い人数に驚く。

 この世界では一般的なのだろうか。


「それがどうかしたのか?」


 怪訝そうにする白騎士に、私は首を振る。


「私にも兄弟がいます。兄と弟が一人づつ」

「そのくらいが普通だろうな。うちは多すぎる」


 白騎士の言葉に、自然と私の口元がほころんだ。

 大人数の家族に囲まれた白騎士を想像してみると、なんだかおかしい。


「私の家は、父も母も普通に元気で、兄とも弟ともそれなりに仲がいいんです。本当に、普通の家族でした」


 目を閉じると、久しぶりに浮かべる家族の顔が揺れた。

 のんびりしたお父さんの顔。笑い上戸なお母さんの笑顔。おっとりした兄の微笑み。少しわがままな弟のすねた横顔。

 とりたてて、家族全員の仲が良いという訳ではなかった。でも、仲も悪くなく、家はいつでも穏やかだった。


「あの日は、家に私しかいませんでした。ちょうど、家族はみんな外出していたんです。だから……」


 家族全員が家を開けることは珍しくなかった。

 私は家から通える無難な大学の学生で、適度にアルバイトもして毎日を何となく過ごしていた。

 あの日は、夏休みだった。

 大学生の兄は旅行に行っていた。高校生の弟は、部活だったかもしれない。

 お父さんは出勤していたし、お母さんは多分、近所のお家に行っていたんだと思う。


「……だから、きっと驚いたと思います。靴も履かずに、鍵も掛けずに、私が居なくなったことに」


 私は文字通り、着の身着のまま居なくなった。

 財布も、携帯電話すらも置いたままで。


「時間の進み方が同じなら、もう一年以上あちらで行方知れずなんです。けど、きっと、まだ探してくれていると思います」


 家出だと思われているのだろうか?

 それとも、事件に巻き込まれたと考えただろうか?

 警察に届けて、方々を探し回ってくれたのだろうか?

 それらを想像すると、胸が押し潰される。


「考えないようにしていました。ずっと。こちらに来てから、元の世界のことはなるべく考えないように。だって、考えてもどうにもならないんです。苦しいだけで。だから、思い出さないように、ただ、目の前のことだけを受け入れて過ごしていたんです……」


 家族を友人を、思い出せば辛いだけだった。

 考えれば、帰れないのではという恐ろしい想像ばかりが頭の中を支配した。

 泣いてしまえば、涙が止まらなくなると思った。

 だから、泣かなかった。

 それだけが、私が自分に課したルールだったのかもしれない。


「でも……。帰りたくて、苦しいんです」


 声が震え始めたけれど、私は口を閉じなかった。

 一度話し始めると、胸の奥に淀み溜まっていた物は雪崩のように外に出ていく。


「いつ見つかるかも分からない、もしかしたら存在しない帰る方法のことを思って過ごすのは、辛いです」


 もしかしたら、いっそ、元の世界に戻る方法など存在しないと言ってくれた方が楽になれた気もする。


「ここで私はずっと守られて、何もしなかったんです。でもそれは、元の世界に居た時もそうでした。流されやすくて日和見な性格で、だから家族や友人に守られて、いつも誰かの後ろに付いているように暮らしていました」


 白騎士は、私の勝手なお喋りを黙って聞いてくれていた。

 私は白騎士を見た。

 薄暗い部屋でも、白騎士の髪は金色で瞳は明るい青なのがわかる。

 膝の上のランタンと小袋をテーブルへと乗せた。

 ランタンに照らされて、木箱の中に並んだチョコレートにくっきりとした影が出来る。



 チョコレートを一粒摘まむと、口の中へ放り込む。



 口中にチョコレートの味と香りが広がる。

 チョコレートは甘くて苦くて、あっという間に溶けていく。

 私は次の一粒を摘まみ上げ、口へ運び、噛み飲み込む。

 黙々とチョコレートを食べる私を、白騎士は見ていた。


 後悔すると思う。きっと後悔する。

 これは、私を案じ、いまも行方を探し続けてくれているだろう家族たちへの裏切りだとも思う。

 けれど……。


 四粒目のチョコレートを飲み込むと、白騎士を見た。

 眉を寄せて、苦々しい顔をしている。


「私は、逃げないで、ここできちんと生きてみます」


 城から逃げ出した私に、白騎士が言ってくれたことを思い出す。

 この世界のことをもっと学んで、一人でしっかりと立って生きていけるようになろう。


「始まりはすごく不運でしたけど、そのあとは幸運が続いているんだと思います。ソニアに拾って貰えて、シュテファンジグベルト様に助けて貰って……」


 だから、受け入れよう。

 そうしなければ、私はもう前を向けない。

 きっとずっと、恨み呪って泣いて暮らしてしまうだろう。

 守ってくれる人たちに、ただただ甘えて。


 五粒目のチョコレートが口の中から消える。

 こんな高価そうなチョコレートを次々と食べていると、あの日のことを思い出す。

 大事に少しづつ食べていたチョコレートを、こんな風に白騎士に食べられてしまったことを。

 もうずっと前のことのように思えるけれど、あれはこの冬の初めのことだった。

 心配そうにこちらを見る白騎士に、笑ってみせる。


「ちゃんと美味しいです。本当に――」


 視界がぼやけたのは、勝手に目に浮かんだ涙のせいだった。

 一度溢れ出した涙は、次々と目に溜まり零れてしまう。

 頬を伝わり、はたはたと水滴が膝に落ちる。

 これ以上涙を落とさないように、目をきつく閉じた。

 嗚咽を漏らしたくなくて、唇を噛んだ。


 ぎゅうと肩を強く掴まれる。

 見上げると、白騎士がいた。


「泣け」


 白騎士は私を見下ろし、そう命じた。

 止められない涙が、次から次へと頬を伝う。


「泣くのは、これで、最後にします」

「その必要はない。泣きたいとけきに泣けばいい。その方が、お前らしい」


 フンと鼻で笑って、白騎士は言った。


「でも、そしたら、夜な夜な、泣いてしまいそうです」

「それならば、泣く暇もないほど昼間に働かせてやる」

「それは、遠慮したいです」

「お前は……」


 みっともなく泣き続ける私を、白騎士は責めずにいてくれた。

 掛けられた言葉が、私を少しだけ楽にしていた。



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