57
てっきり城で与えられていた部屋に戻るのかと思っていたのに、衣装箱の蓋が開かれたのは見慣れない部屋の中だった。
広々とした青い絨毯敷きの部屋には、これまた広々とした天蓋付きのベッドが鎮座している。
片側の壁には昼の陽に明るい窓辺が並び、もう片側には金色の額縁に入った大小様々な絵画が壁を埋めていた。
思っていたよりも城に戻るのに時間はかからなかったようで、薄布のカーテン越しに見る窓の外の明るさは、昼過ぎといったところのようだ。
「ここはシュテフの寝室です。ここなら、誰かが断りも無く入るということはありませんから……」
アルトさんの説明に頷いていると、衣装箱からラビさんが私を抱き上げる。
ほとんど寝て過ごしたとはいえ、やっぱり箱の中は長時間いるには狭かった。
ラビさんの腕の中で、身体がぴしぴしと軋む。
下ろされたのは、ゆったりとした一人掛けだった。
部屋には他に椅子が無いようで、椅子に掛けているのは私だけだ。
私の前には、白騎士とアルトさん、ラビさんにクヴェルミクス、そしてソニアが立ち並ぶ。
ずらりと五人に目の前に立たれると、なんだか委縮してしまい、腕の中に抱えたままのランタンと小袋を無意識に抱き寄せる。
部屋の空気が、緊張で満ちているのが分かる。
アルトさんが、私の座る一人掛けの前に小さな丸テーブルを置いた。
そして、そこへ白騎士が近づく。白騎士は、その手に布包みを持っていた。
目の前のテーブルに、柔らかな白色の布包みが置かれる。
白騎士の手で布が解かれると、中からは薄い木箱が現れた。
艶のある白い木で作られた箱には、蓋の縁に蔦模様が彫られている。
初めて見るこの品物が、どんなものなのか分からず、私は白騎士を見上げた。
見上げた白騎士の青い瞳は、何故か沈んで見える。
白騎士は口を開かなかった。
かわりに口を開いたのは、クヴェルミクスだった。
「これからのことを決めようか?」
白騎士と入れ替わるように、テーブルの前にはクヴェルミクスが立った。
ご機嫌そうな口調な上に微笑みを浮かべて、クヴェルミクスは私を見下ろす。
深い紫と薔薇色の二色の瞳が、嬉々としていた。
「これからのこと……」
言われた言葉を思わず呟き返すと、クヴェルミクスはうんうんと繰り返し頷く。
「そう。これからのことだよ。取り敢えず、君の身は自由になったわけで、今後は攫われたりすることもないよね。だから、腰を据えて考える時になったんじゃないかなぁ?」
クヴェルミクスは、美しく微笑み続ける。
「それでね。君には、ロザーシュの皇子様がステキな贈り物を寄こしてくれているんだよ」
クヴェルミクスの視線は、テーブルの上の木箱に注がれた。
「これですか?」
「うん。開けてみてごらん」
順調に口を動かすクヴェルミクスは、にこにこと促す。
なんだか不安になってソニアたちを見てみても、誰も口を開く気配は見せなかった。
ただ静かに、見つめ返されるばかりだ。
私は抱えたままのランタンを脇に置くと、目の前に置かれた木箱にそっと触れた。
ことりと小さな音を立てて、蓋を取り外す。
開けた箱の中には、白い薄紙がひらりとひかれていた。
木箱の横に蓋を置くと、薄紙をそろりと捲る。
薄紙の下には、褐色の光沢を浮かべた大粒のチョコレートが並んでいた。
「チョコレートですか?」
首を傾げる私に、クヴェルミクスは大きく頷く。
「そう。チョコレートだよ。でもね、ただのチョコレートではないよ」
勿体ぶるように一度黙ると、クヴェルミクスは口の端を上げる。
「これにはね、一粒一粒におびただしい量の魔力が封じ込められているんだよね」
言われて私は再び、目の前に並ぶチョコレートを見た。
漂いだした微かなチョコの香りも、つやりと並ぶその形にも一見して変った所はない。
私の目には、なんだかとても高価そうなチョコレートにしか映らなかった。
「それを食べれば、おそらく君の身体は魔力を得るよ。しかもそれは、一時的なものではなくて、恒常的に魔力を宿すことが出来るだろうねぇ。でも――」
クヴェルミクスは美しい二色の瞳を細めた。
さっきからずっとクヴェルミクスは上機嫌で、それはなんだか嫌な予感すらしてくる。
「――でも。魔力を得れば、君の身体は変わってしまう。そうするとね、もう元の世界へは帰れないと思う」
ぎゅっと、心臓を誰かに掴まれたような気がした。
喉の奥が意味も無く詰まり、息苦しい。
並ぶチョコレートから思わず身を引くと、クヴェルミクスはふふっと笑った。
「そんなに怖がることはないよ。そうして並んでいる分には、ただのお菓子だよ。で、どうする? ちなみに、今のところ君が元の世界に戻る方法は全く見つかっていないんだ」
「クヴェルミクス!!」
白騎士が、クヴェルミクスを睨みつける。
けれど、クヴェルミクスはゆったりと白騎士を見返した。
「だって、本当のことだよ。ロザーシュでも言われただろう? この子を戻す手立ては無いってさ」
白騎士は眉を寄せて口を閉じる。
私は、オレールに言われた事を思い出した。
「つまりね。これを食べて魔力を得てこの世界で生きていくか、少し前みたいに、その姿に魔法を掛けていつ見つかるか分からない帰る方法を探し続けるか、どちらにするかってことなんだよね」
クヴェルミクスはそう言い切ると、微笑んだまま私の目を見つめる。
突然のことに、私は声も出なかった。
「食べなくたって、構わないんだよ」
耐えかねたように、ソニアが口を開く。
「食べなくてもいい。それで、前と同じように私と森に戻ったっていいんだから」
ソニアの言葉に、クヴェルミクスは首を横に振る。
「それで? これから先も、人目を避けて、ただ隠れるように暮らしてくのかい?」
クヴェルミクスの冷たい言葉に、ソニアは口を閉ざした。
呆然とする私に、クヴェルミクスは優しく口を動かす。
「もちろん、ソニアヴィニベルナーラの言うようにしてもいいし、僕が魔法を掛け続けて、以前のように城で暮らすことも出来るよ」
クヴェルミクスは白い指先で、チョコレートを指した。
「これは君の物だ。ねぇ、ユズコ。どうするかは、君が決めるんだよ」
そう言うと、ヴェルミクスは口を閉じた。
私はじっと、並ぶチョコレートを見つめる。
誰も何も言わないまま、しばらく部屋は沈黙に包まれていた。
「少し、一人にしてあげようか?」
口を開いたのは、クヴェルミクスだった。
クヴェルミクスの提案に、異を唱える人はいなかった。
「ゆっくり考えたらいいよ。ね?」
私は小さく頷いた。そして再び、チョコレートへと視線を落とす。
静かに、部屋から白騎士達が出ていく。
ぱたんと扉が閉まる音がして、私は白騎士の広い寝室に一人になった。