53
もやもやと気だるさを多分に残して、私は思い目蓋を開く。
飛び込んできた灯りの眩しさに、目を瞬かせる。
「起きるか?」
すぐに、ベッドの傍らからラビさんに聞かれた。
頷くと、ラビさんは寝室のカーテンを静かに開ける。
外はすっかり明けていて、厚いカーテンが取り除かれた窓から陽射しが差し込む。
部屋はそれで十分に明るくなった。
ラビさんは部屋中の、一晩中点けたままだった灯りを消していく。
寝る前の約束通り、ラビさんは朝までベッドに付いていてくれたようだ。
起き上がると、身体は重く頭痛がする。
ベッドの上に座ったまま、思わずため息をついてしまう。
「どうした?」
ベッドの横へ戻ったラビさんが、私のため息を聞きつけて心配そうに覗きこんでくれる。
「よく眠れなかったか?」
尋ねられて、私は首を傾げた。
ラビさんの話を聞きながら目を閉じて眠った。それから、さっきまで一度も目覚めずに眠っていたのに、言われてみればよく眠れていない時のような感覚が身体に残る。
夢を見たような覚えもなく、眠りは深かったような気はしているのだけど。
「そうなのかもしれません。……まだ、なんだか落ち着けなくて」
私の返事に、ラビさんは心配そうに眉を寄せる。
「あ! でも、大丈夫です。具合も悪くありませんし。それに、昨夜は付いていてくれてありがとうございました」
心配そうな顔を止めて欲しくて、笑顔を浮かべて少し大きく声を出してみる。
「ラビさんは、眠れませんでしたよね? 寝なくて大丈夫ですか?」
大きな手の平が、ぽんと私の頭に優しく下りてきた。
「ラビさん?」
「無理をしなくていいからな」
それだけ言うと、ラビさんは微笑む。
私の装った空元気など、ラビさんにはお見通しのようだった。
「自分で動けるようなら、浴室を使うか? 着替えもある」
その言葉に、すぐに頷いていた。
寝汗をたくさんかいたのか、なんだか身体がすっきりしない。
私はそっとベッドから立ち上がる。
少しだけよろついたけれど、自分で立って歩くことは出来た。
「大丈夫そうだな。俺は、少し隣に行ってくる。食事を用意して貰おう。すぐに戻るから、何かあれば声を掛けろ」
ラビさんに見送られて、私は浴室に入る。
浴室は広く明るく清潔で、壁には青い薔薇の絵のタイルが並んでいた。
少しふらつきながらも、私は慎重に入浴を始める。
いい香りの石鹸は腕の傷に染みたけれど、重かった身体は解されて頭痛も少し和らいだ。
お湯を張った浴槽に沈んで、透明な湯の中で両腕を見つめる。
右手に二本、左手に一本。赤い線が走っている。
包帯を取ってしまったのがいけなかったのか、一番新しい傷から血が滲みだしていた。
お湯にゆらゆらと、薄い赤が混じっていく。
知らぬ間に付いて増えたこの傷は、知らぬ間に治りはしないのだろうか。
じくじく痛む両手首を見ていると、嫌な事を思い出さずにはいられない。
嫌な事を思い出せば、あの暗闇を思い出してしまう。
目を閉じて、濡れた頭を強引に左右に振った。
考えなくていい。
もう、考えなくていいことにしよう。
傷から目を逸らし、私は浴槽から立ち上がった。
タオルを手に取ると、血の滴る手首に強く押し当てる。
この傷も、いつかは治る。
そうしたら、痛みを忘れるように、思い出さなくなるはずだ。
それまで、どうにかやり過ごせばいいだけのことなのだ。
傷が痛むのか、それとも頭痛の痛みなのかは分からなかった。
ただ、痛む身体に耐えようと唇を噛んで、浴室の白い灯りをしばらく見つめていた。
浴室に用意されていた着替えはバニラ色の寝間着だった。
入浴前まで着ていたラベンダー色の寝間着と同じ形のもので、色だけが違っていた。
ぶかぶかの寝間着の袖と丈を折り返し、一緒に用意されていたガウンを羽織る。
これ以上心配を掛けないように、せめて表情くらいは元気であるようにと鏡を見る。
気弱そうにする黒い目の顔を冷たい水で顔を拭う。
なんだか青白い頬を、ごしごしと擦ってから浴室を後にした。
ラビさんが運んでくれた朝食は、半分も食べれなかった。
ほとんど残っている状態でスプーンを置いた私に、ラビさんは何か言いたそうにしたけれど黙って食事を下げる。
ラビさんが部屋を出て一人になると、ふっと身体から力が抜けた。
無理に食事を詰め込んだお腹が痛む。
寝起きから続く頭痛に腹痛まで加わって、なんだか泣きたくなってくる。
ぐったりと椅子に座っていると、寝室の扉が開いた。
慌てて背筋を伸ばして椅子に座りなおす。
部屋に入って来たのは白騎士にアルトさん、そしてラビさんだった。
寝室の丸テーブルにお茶が用意され、そこを四人で囲んだ。
私の前には、お湯で薄めた紅茶と焼き菓子のお皿が置かれた。
全員分のお茶の支度を終えて、アルトさんが私の正面に座る。
その右に白騎士が、左にラビさんが座っていた。
白騎士は不機嫌そうに自分の前に置かれたティーカップを眺め、ラビさんはなんとも言えない顔をして私を見ている。
居心地のあまり好くないお茶の席に、私は落ち着きなく視線を巡らせた。
「ユズコ。ゆっくりで構いません。あったことを話してくれませんか?」
アルトさんは優しげに微笑み、そう言った。
私の身体はその言葉にびくりと震えた。
どきどきと不規則な鼓動を打ちながら、どうにか口を開く。
「……はい。わかりました」
掠れた声で答えると、私は視線を落とした。
膝の上で握り締めた両手が震えている。
ゆっくりと息を吐き、同じだけ吸い込んでから、私は視線を上げた。
テーブルを囲みこちらを見る三人に、きちんと話すべく姿勢を正して口を開いた。
あったことを話すというのは、その記憶をたどるということだ。
私は順を追って話す。
あの日、移動陣の中からデュドネに連れ去られてからのことを。
けれど私の話せることは、多くはなかった。
肝心な所は、ほとんど何も覚えていない。
暗い穴の中のことは思い出したくない。
だけど、私はそれを何とか話す。
思ったことではなく、あったことだけを口にする。
廃屋に置かれた後、白騎士が見つけてくれたところで私の話は終わる。
私はずっと、口を動かしている間中、目の前に置かれたティーカップだけを見つめていた。
三人は黙って身動き一つせずにそこにいる。
口を閉じると、沈黙が部屋を包む。
話は終わった。けれど、すぐに口を開く人はいなかった。
沈黙の中、唐突に寝室の扉が叩かれた。
入室の許可を待たずに、扉はゆっくりと開かれる。
白騎士達が警戒するように立ち上がった。
扉の向こうに立っていたのは、オレールだった。




