52.5
ユズコの休む寝室の扉の向こうは、広い応接間だった。
そこはシュテファンジグベルトがユズコを連れて入った部屋で、フェリクスカミーユがシュテファンジグベルトに客室として用意した部屋だった。
ゆったりとした応接間の窓からは扇状に広がるロザーシュの城下街がよく見え、部屋には主用の寝室の他に、側仕え用の浴室付の部屋が二つあった。
アルトフロヴァルに促されて寝室から出たシュテファンジグベルトは、応接間の豪奢な長椅子に座る。
テーブルに、アルトフロヴァルが淹れた濃い珈琲が置かれた。
アルトフロヴァルは応接間の扉を一瞥してから、声を落とし気味に口を開く。
扉の先には城の衛兵が二人、配置されていた。
アルトフロヴァルの話に、シュテファンジグベルトは驚きに目を見開く。
「王が?」
「ええ。つい今しがた」
「……フェリクスの言っていた騒ぎとは、そのことか?」
静かに頷いたアルトフロヴァルに、シュテファンジグベルトは頭を抱える。
アルトフロヴァルが告げたのは、フェリクスカミーユの父の死だった。
ロザーシュ帝国、国王崩御。
そんな大事の最中にここに居ることが好ましくないのは、アルトフロヴァルが言うまでもなくシュテファンジグベルトにも十二分に分かっていた。
偶然だと言ってしまえばそれまでだが、一国の王の臨終の場に隣国の皇子一行が城に滞在していることが不穏な噂を招くことになる原因としては十分だろう。
表情を険しくするシュテファンジグベルトを見て、アルトフロヴァルは静かに続けた。
「ただ、王は長らく臥せっていましたからね。突然にという訳ではないでしょうから、こちらにあらぬ疑惑は向けられないとは思いますが……」
「フェリクス次第か」
「そうです。ですが、フェリクスカミーユ様は先程、我々を帰すと仰ってくださっていますから。それを信じるしかありませんね」
アルトフロヴァルは再び視線を部屋の入口へと向ける。
扉の向こうの遠いところで、多くのざわめきが反響する様に城を揺すっていた。
「それほど混乱はないでしょう。長患いの末の崩御です。ここ数年の実権は、長兄のレイモンリシャール様が代行していたはずですし」
「そうだな……」
シュテファンジグベルトは、考え込むように目を閉じる。
それを見ながらアルトフロヴァルは、静かに珈琲に口を着けた。
ホルテンズ王国の城でお茶と言えば紅茶であることが殆どだが、隣国のロザーシュでは紅茶よりも珈琲が好まれてる。
アルトフロヴァルは久しぶりに飲んだ香ばしく苦い香りに、昔のことを思い出した。
恐らくそれは、目の前に座るシュテファンジグベルトにも同じ物を思い出させているのだろうと思った。
彼らがまだほんの子供だったころ、ロザーシュの二人の皇子たちとシュテェファンジグベルトの交友は深く。特にシュテファンジグベルトとフェリクスカミーユは歳も同じで、お互いの城を訪ね合っては長めの滞在を許されていたほどだった。
ホルテンズ王国の城にフェリクスカミーユ達が滞在すると、彼らの客室のある白の一角は深く芳ばしい珈琲が常に香った。
シュテファンジグベルトの供をしてそこを訪れれば、アルトフロヴァルにもロザーシュの菓子と共に珈琲が振る舞われる。
子供だからと、ミルクと砂糖で薄められたそれを飲んだ後は、レニィパメラオルガに捕獲されるまで城の中へ外へと遊び回ったものだ。
シュテファンジグベルトがロザーシュ帝国を訪れた時も、皇子たちは供も付けずに城中を駆け回り、広大に広がる城の裏森を歩き回った。
それが、今回のユズコを救い出す手立てとなる。
シュテファンジグベルトは幼少時に幾度か訪れたロザーシュの城を、裏森をかなり正確に記憶していた。
あのころは、裏森に点在する石壁に囲われた庭は、どこも手入れが行き届いた美しい場所だった。
シュテファンジグベルトは目を開くと、まだ湯気を微かに上げる珈琲を飲む。
「フェリクスは、あれを何に使ったのだ?」
低く小さな声は、向かいに座るアルトフロヴァルにやっと届く程度のものだった。
アルトフロヴァルはシュテファンジグベルトを見て、それからその視線をユズコの休む寝室へ続く扉へと向ける。
「クヴェルミクスとソニアヴィニベルナーラが考えた通りのことが行われていたのなら、フェリクスカミーユ様は魔力を手に入れているはずですね。一見したところ、フェリクスカミーユ様自身には、魔力増大の様な変化を見取ることは出来ませんでしたが……」
シュテファンジグベルトは深く息を吐くと、アルトフロヴァルの視線をたどる。
同じ扉を見て、苦々しく口を開く。
「夜が明けたら、あったことを話させる」
「……そうですね。そうしない訳には、いかないでしょうね」
アルトフロヴァルの気乗りしない返事に、シュテファンジグベルトは再び深く息を吐く。
「どれくらいで元に戻る?」
「……ユズコのことですか?」
アルトフロヴァルに尋ねられて、シュテファンジグベルトは不愉快そうに頷いた。
そして、ロザーシュの裏森から助けだした見習い従者が、すっかり変わり果てていたことを思い出す。
生気を失い痩せ細り、魔法を解かれた上に魔法石までも奪われていた。
そして両手首には、躊躇なく付けられた刀傷が三つ痛々しくも残っている。
話させずに済むのなら、そうしてやりたい。
シュテファンジグベルトもアルトフロヴァルも、口にはしないがそう思っていた。
ただ速やかに城に連れて帰ってやりたかった。
だが、そうもいかない。
アルトフロヴァルは顔を顰めて首を振る。
「きちんと食べれさえすれば、徐々に戻りますでしょうが。……あの手首の傷は、残るかもしれません」
シュテファンジグベルトは唇を噛んだ。
彼もアルトフロヴァルも、多少の治癒魔法は使えた。
すぐにユズコの手首の傷に施してみたが、魔法は全く掛からなかったのだ。
「暗がりを……」
ぽつりとシュテファンジグベルトが呟く。
「暗がりを、妙に恐れている。部屋中の灯りを点けるまで、震えていた」
シュテファンジグベルトの言葉に、アルトフロヴァルは表情を曇らせる。
「ユズコに、あったことを話せというのは、辛い行為でしかないでしょうね」
そのまま、冷めていく珈琲を前に、二人の騎士は夜が開けるのを静かに待った。
ロザーシュの城内は、闇の刻を過ぎてもなおざわざわと密やかに騒がしく、静まり返っているのはシュテファンジグベルト達の部屋だけだった。




