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46

 

 猫足の浴槽には、たっぷりとお湯が張られていた。

 乳白色のお湯からは、果実のような甘い香りがする。

 まだ小さく震えている身体を、浴槽の中へ滑り込ませた。

 じんと温かなお湯に包まれても、強張った身体はなかなか解れない。


 胸元を見下ろすと、緑の魔法石が無いことを改めて思い知らされる。

 魔力を感じることのできない私には石の放つ魔力は分からなかったけれど、見馴れて肌に馴染んだそれはお守りの様でもあった。とても大切な物だった。


 お湯に濡れた手で、喉元を撫でた。

 突きつけられた剣の感触を落とすように、繰り返しそこへお湯を撫でつける。


 怖かった。

 騎士が何の躊躇もなく剣を抜くことが。

 そしてそれを向けられることが。




 少しも寛げない入浴は、手早く済ませた。

 それでも、お湯のおかげで身体はちゃんと温まり、酷かった頭痛も和らいでいた。

 浴室の仕切りのカーテンを細く開けてみると、そこは無人で少し安心する。

 さすがに入浴中は出て行ってくれたようだ。けど……。


「ない……」


 衣装籠の前で、私は思わず呟く。

 確かにそこへ脱いだ衣類を入れたのに、アルトさんから渡されたばかりだった少年従者の衣装一式と、籠の横へ置いた靴と荷袋。とにかく、先ほどまで身に着けていた物の全てがそこから消えていた。

 代わりに籠の中には、丈の長い白いワンピースを始めとする諸々の着替えが入れられ、籠の脇には灰色の布の室内履きが揃えて置かれている。

 たぶん、これに着替えて出て来いということなのだろうけど……。

 私がさっきまで着ていた衣類は、どこに持ち去られてしまったんだろう。

 それを運びだしたのが、あの二人の男のどちらかだと思うと地味に気が滅入る。


 濡れた身体をタオルで拭いながら、洗面台の鏡に映る自分を見た。

 黒い目は、不安に染まっている。

 なんて弱々しい顔をしているんだろう。

 鏡をまっすぐに見据え、頬をぴしゃりと叩いた。不安を振り払うために。


 ここにはもう、私を守ってくれる人は誰もいない。

 なるべく強い気持ちで、これから起こることに対峙しなければならない。


 港町で白騎士が見せた強い眼差しを思い出し、もう一度鏡を見る。

 さっきよりは少しだけ力の戻った気がする黒い目を見てから、私は身支度を整えた。




「こちらにどうぞ」


 浴室から部屋に戻ると、ベッドしかなかったはずの部屋にテーブルとイスが運び込まれていた。

 ベッドと大窓の間に置かれた小振りの丸いテーブルとイスは鉄製で、イスは一脚しか用意されていない。

 床を見回して、私は小さく落胆の息を吐いた。

 石の床のどこにも、魔法石の欠片は見当たらなかったのだ。


 テーブルの脇に立っていた司書が椅子を引く。

 私の背後には、騎士の男が立っている。

 もう一度だけ床を見渡してから、私は引かれた椅子へ腰を下ろした。


「何か飲みたいものはありますか?」


 テーブルの横のワゴンを示して司書が尋ねる。

 ワゴンの上には、水差しやポットが並んでいた。

 喉の渇きは感じたけれど、私は首を横に振る。

 この状況では、何を盛られるか分からない。今はきちんと警戒しなくては。


「そうですか。では、とりあえずこれを」


 司書は私の前にティーカップを置いた。

 ほわりとハーブの香りが立ち昇る。

 ティーカップに手を付けない私を、少し離れた所から騎士がじっと見ていた。


「ここはホルテンズ王国の西隣の国、ロザーシュ帝国の王城の中です」

「ロザーシュ帝国……」


 膝の上で両手を握りしめ、司書の顔を見上げる。

 私の目を束の間眺めてから、司書は語り始めた。


「あなたを別の世界から運んだのは、『召喚の珠』というものです。覚えはありますね?」


 いつか魔法塔でクヴェルミクスから聞いたその名に、私はしっかりと頷く。

 お風呂でしっかり温めたはずの身体が急激に冷えていく。


「古い古い魔術で創りだしたものです。莫大な財と魔力を投じて、やっと一つだけ創ることが出来た『召喚の珠』は、異なる世界に放たれました。そして、あなたの世界に落ち、あなたをこちらに連れてきた。本当だったら珠を放った場所へ、ここロザーシュへ、あなたを連れてくるはずだったのですがね。どうしたことか、あなたは随分と見当外れな所へ着いてしまったようですね。方々を随分と探しました」


 司書は淡々と話すと、私の様子を窺った。

 私の口から出る声はすっかり震えている。


「なんのために? なんのために、私はここに呼ばれたんですか?」

「……必要だったんですよ。魔力を待たないものが」


 司書はゆっくりと口を開く。


「この世界の者は魔力を保有しています。それは知っていますね?」


 司書は私を見た。

 ソニアの魔法石を奪われた私からは、一欠片の魔力も見つけられないだろう。


「魔力が有る者には、出来ないコトがあるのです。この世界の者には出来ないこと。あなたはそれをする為に、こちらに運ばれたのです」

「魔力があると出来ない? それって、どんなことなんですか? それをしたら、私は元の世界へ戻してもらえるんですか?」


 私の声が部屋に響いた。

 焦りが、鼓動を無駄に速めている。

 すっかり冷えた身体がまた震えないように、私は自分の両手を強く握り締めた。


「元の世界へ?」


 私の上擦った声とは対照的に、落ち着いた声音で司書は首を傾げる。


「それは、無理ですね」


 司書の答えに、私は息苦しさを感じる。

 怖い。これ以上は聞きたくない。

 そんな自分の声が、身体の奥から聞こえた気がした。


「え……? どうして、ですか?」


 私の問いかけに、司書は無情にも首を横に振る。


「方法が無いからです。『召喚の珠』は、連れてくることしか出来ないのです。戻すことは出来ません」

「そんな……」


 緊張していた身体から、急速に力が抜けていく。

 目の前が真っ暗になるのは、こんな時なんだと思い知る。

 考えないようにしていた最悪の結末が、容赦なく目の前に突きつけられた。

 俯いた私に、司書は言葉を続ける。


「最初から、あなたに選択肢は用意されていません」


 顔を上げれば、司書はまっすぐに私を見下ろしていた。


「元の世界はおろか、ホルテンズ王国にも戻ることは許されません」


 司書のダークグリーンの瞳に、わずかな憐れみを見つけた気がした。


「い、嫌です」


 絞り出すようにそう言うと、司書はすいと私から視線を逸らす。


「そうですね。嫌だと思うでしょう。ですが、あなたは選ぶことは出来ないのです」


 私から視線を逸らして、司書は窓の向こうを見る。

 その視線を追って、大窓の向こう側のテラスに木箱が一つ置かれているのに気が付いた。

 木箱の蓋は外れていて、中に詰められたものが見える。


 そこには、先ほどまで私が身に着けていたものが入れられていた。


 離れて立っていた騎士が大窓に近づくと、ガラス扉を開けた。

 冷たい風が部屋に吹き込む。

 騎士は開けたガラス扉から木箱に向かって手をかざし、何ごとかを呟く。


 次の瞬間、木箱が赤い炎に包まれる。


 従者の衣装が、ずっと使っていた荷袋が、炎に包まれゆらゆらと燃え落ちていく。


「やめて!!」


 大窓に駆け寄った私を、騎士が押さえる。

 開かれたガラス扉から入ってくる熱気が、私の頬を撫でた。

 燃え盛る木箱に近づこうと全力で身をよじっても、騎士の拘束は微塵も弛まない。

 それでも私は、なんだかおかしくなったみたいに暴れていた。



 司書がガラス窓を閉めた。

 身体から力が抜けていく。

 座り込んでしまいたいのに、騎士が強く腕を掴んでいてそれも出来ない。


「これからのあなたのお世話は、私達がします。私のことはオレールと、彼のことはデュドネと呼んでください」


 司書の声は聞こえたけれど、私はガラスの向こうをぼんやりと見つめる。


 炎の中では、もう何も形をなしてはいなかった。

 ただ黒く醜く歪んで、崩れ落ちていく。



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