42
夜明け前。
まだ暗い時間から、私とラビさんは宿を出て港に向かった。
すっかり静まりかえった通りの提灯に灯りは無く、黄色の馬の蹄の音と幌馬車の車輪の音だけが暗い道に響いた。
ラビさんの国、アライスに向かう船は朝の早い時刻に出る。
朝に船に乗り、二日目の朝にアライスに着くそうだ。
静まり人気の無かった通りも、やがて港が近くなると人が行き交い始め、早朝にも関わらず店が開いている。
港に入ってしまうえば、そこは昼間と変わらない様子だった。
馬を返し、幌馬車を船倉に預ける。
そのまま船に乗り込めば、後は出航を待つばかりなのだけど、あまりにも早い時間に宿を出たために今朝の食事がまだなのだ。
帆船に乗客の為の食堂は無いので、港で乗船中の食糧を調達する。
食べ物、飲み物と、二人分の二日分の買い物をするために通りを歩く。
あれこれと買っているうちに、ラビさんは両手に紙袋を幾つも抱えた状態になってしまっていた。
「買い過ぎちゃいましたか?」
「いや、丸二日も船の上だからな。ユズコは、食べるぐらいしか楽しみが無いだろう?」
「そんなことは無いですけど。あ、あれ……」
紙袋を抱えたラビさんの傍らで、私は一つのお店に目を留める。
白い蒸気が軒先から上がっている。その横で、籠に並んでいるのは、黒くて四角いあのお菓子だ。
「うん? あぁ、あれか」
黒蜜ケーキは、結局まだ買って貰えていなかった。
すでにラビさんの手の中には十二分に食べ物があるけれど、今のこの機会を逃したら、きっともう食べることは出来ないだろう。
「買ってもいいですか?」
「構わないが……」
「では、買ってきます。あ、ラビさん、先に進んでいてください。買ってすぐに、走って追いかけますから」
少し呆れたように頷いたラビさんから離れて、私はお店に走り寄る。
「いただけますか?」
「はいよ! 幾つ包む?」
威勢の良いおかみさんが、にこにこと笑いながら出来たてのケーキを袋に入れてくれる。
代金を支払って通りに出ると、少し先にラビさんの赤毛が見えた。
きっと歩調を緩めていてくれたのだろう、駆ければすぐにたどり着けてしまう距離に居てくれている。
手にした温かい紙袋から、ふんわりと素朴な甘い香りが上ってきた。
アライス行きの船に乗ることをまだ少し迷っていた私は、黒蜜ケーキの紙袋を覗き込む。
芳ばしくも落ち着いたケーキの香は、なんだか懐かしく感じる。
その香りが、背中を後押ししてくれる気がした。
頑張ってみよう。
アライスの文字を覚えたり、他の国の文字も分かるようになったら、きっとラビさんの仕事の役に立てる。
ラビさんに頼るだけじゃなくて、ラビさんからも頼ってもらえるような何かが出来る様に。
顔を上げて、ゆっくりと舟に向かっている広い背中を見つめる。
温かなケーキの紙袋をしっかりと持つと、その背中に駆け寄ろうと足を踏み出した。
だけど、私はそこから進むことが出来なかった。
右の手首が不意に強く掴まれる。
ひやりと冷たい感触。
見上げれば二色の瞳が細められた。
「お使いかな?」
私の持った紙袋を見て、薄い唇が弧を描く。
ケーキの温かさを感じていた手とは裏腹に、掴まれた手首は不自然なほど冷たさを感じていた。
「お迎えに来たよ。小鳥ちゃん」
「ク、クヴェルミクス様!? どうしてここに――っ!!」
私の問いかけは、最後は言葉にならなかった。
クヴェルミクスに強く握りしめられた手首がさらにきつく絞められて、次の瞬間に私の視界が大きく歪んだ。
身体の中身が、無理矢理にグルグルと回転させられる感覚。これには、覚えがある。
移動魔法だ。
閉ざされていく視界の向こう側で、ラビさんがこちらを振り返る。
一瞬、目と目が合ったような気がしたけれど、確信を持つ間もなく私の視界は閉ざされた。
しゅるりと音を立てて、身に着けていたケープが落とされた。
土の道の上に立っていたはずが、今は木の床の上に座り込んでいる。
顔の下に落ちた草色のケープを見つめながら、私は荒い息使いを繰り返していた。
吐き気と目眩に耐えるので精一杯で、顔を上げることが出来ない。
クヴェルミクスの声が、愉しげに落ちてくる。
「あれ? 転位魔法は苦手だった? まぁ、しばらく時間もあるし、ここで休んでいなよ」
気分の悪さに声も出せずにいる私に、クヴェルミクスの口調は一見優しかった。
けど、それをすんなりと信用してはいけないことを私は知っている。
「気持ち悪いの? そうだなぁ。 あ、これ、使ってみようかな」
不穏な台詞に身体がびくりと怯えた。
どうにか少し顔を上げてみると、クヴェルミクスが手にした物が目に入る。
透明なガラス瓶の中で、小さな粒が光る。
「目が覚める頃には、気分が悪いのも収まっているし、船も出ているんじゃないかな」
ガラス瓶の中から、クヴェルミクスの白い手に煌めく粉が滑り落ちる。
その光る粉がどういうものか、私はしっかりと覚えていた。
「クヴェルミクス様!!」
「おやすみ」
光る粉末を優しく投げつけられて、私は微塵も抗うことも出来ず意識を手放した。
閉じかけた目蓋の隙間から見えたのは美しく笑うクヴェルミクスで、それはそれは仄暗い笑みだった。
真っ白なテーブルクロスはピンと張られて皺一つ無くテーブルを覆う。
長い長いテーブルには、空のティーカップがずらりと並ぶ。
私は等間隔に並んだ椅子の間を縫い、並ぶティーカップへ紅茶を注ぎ進む。
並んだティーカップは一つとて同じ物は無くて、目にも楽しい作業を私は続ける。
華奢な造りの青いティーカップ。持ち手にまで薔薇飾りが付いた優美なティーカップ。
手にした白く大きなティーポットを傾け、千差万別のティーカップを熱々の紅茶で満たす。
けれどふと、視線を向けてしまった。
長い長いテーブルの先は、終わりが見えないまま白く彼方へ続いている。
来た方を向けば、始まりはもう分からないほど遠い。
並ぶティーカップは内に金赤を湛え、仄かな湯気を漂わせている。
それなのに、その前に座る者はいない。
椅子は引かれず、紅茶は虚しく列をなすだけだ。
鼓動が嫌なリズムを刻み始める。
ティーポットは重いままで、じんと手の中で熱い。
熱い。
手に感じていた熱が、胸へと移っていく。
ゆらりと身体が揺れた。
目に映るのは小さな灯りが一つ、頼り無げに燈っている。
「やっぱり。僕の目算より、だいぶ早くのお目覚めだ。まさか、この石に『眠りの粉』を中和する作用があるなんてねぇ」
のんびりとした声が傍らから掛けられた。
いつの間にか引っ張り出されたのか、普段は服の一番下にある緑色の魔法石が細く白い指に弄ばれている。
首に掛かった皮紐を引かれて私が顔を顰めると、クヴェルミクスは石を私の胸の上へと戻す。
緑の魔法石は仄かに温かいような気がした。
「まぁ、あんまり寝たままでいられても退屈だしね」
クヴェルミクスは目を覚ました私を覗き込み微笑む。
久しぶりに見るその姿は魔法使いのローブは纏っておらず、シャツにズボンの装いで、常に真直ぐに流れ落ちるままにされている銀髪は一つに纏められていた。
「気分は良くなった?」
問われれば、確かに気分の悪さは感じなかった。
けれど、自分の今置かれている状況をいまいち把握できずに、混乱気味に身体を起こす。
横になっていたのは、やんわりと沈み込む柵付きのベッド。
細長い形の部屋、小さな丸い窓。
そして絶え間なく感じる大らかな揺れ。
「ここは? 船の中ですか?」
「うん。ホルテンズ王国行きのね」
「そんな!! 私、人を待たせて!!」
薄暗い部屋で当然だとばかりに微笑むクヴェルミクスに、私は声を荒げてしまう。
丸い窓の外はすっかり夜色だった。
「知っているよ。アライス共和国へ行く船に乗るつもりだったんでしょ? 残念だけど、その船は君を置いて出航したよ。で、君がぐっすり寝ている間にこの船も無事出港したからね。明日の昼にはホルテンズへ着くよ」
にこやかに話すクヴェルミクスは、私が呆然とする様子を楽しんでいるようだった。
ラビさんは、通りで追い掛けてこない私を探しただろうか?
でも、船には幌馬車も載せてしまっっていたし、きっと一人でアライスへ行ってしまっただろう。
散々お世話になったのに、感謝も伝えられず姿を消してしまったことになる。
「どうして、こんな……」
「僕の方こそ聞きたいよ。君はアライスに行って、どうするつもりだったのかな? そんな壊れかけの魔法を連れてさ」
ケープを取られたままの私の目を、クヴェルミクスは見つめた。
今は夜。
日が沈んだこの時間の私の目は、本来の黒色に戻っている。
「それは……」
「僕の見立てだと、あとひと月と持たないうちに魔法は完全に解けるだろうね。君は、本当に、馬鹿なんだねぇ。その黒い瞳を晒さずに、どこまで行けると思っているんだい? それとも、あの赤い男が君をその秘密ごと守るとでも言ったのかな?」
私を見つめていた二色の瞳は細められ、薄い唇がわずかに歪む。
「何にも言わずに姿を消すなんてさ。随分なやり様だよね」
その一言に、私は俯いてしまう。
思い浮かべるのはソニアの顔、白騎士の顔、アルトさんの顔。
みんな一様に、いま私の目の前に居るクヴェルミクスの様に怒ったような困ったような、呆れた様な表情で私を見返す。
「まぁ、逃げだすきっかけは大体察しはついたけど、せめて一言、相談してくれても良かったよねぇ。僕らは君の信頼を寄せるには、足らない存在だったのかな」
ぎしりとベッドが軋んだ。
「クヴェルミクス様?」
顔を上げると、薄笑いを湛えたままのクヴェルミクスがいる。
先ほどよりも近くに。
あまりにもじっと見つめられて、私は居心地の悪さを憶えた。
それだけじゃない。
微笑んではいるのに、クヴェルミクスの纏う気配が怖い。
「君のお陰で随分と愉しかったからさ、敢えて手を付けずにいたんだけど、気が変わったな。陸に着くまでにはまだ時間もあるし、先に頂いてしまおうかな」
そう言うと、クヴェルミクスはこちらにジリとにじり寄る。
思い出すつもりはないのに、脳裏をかすめるのはいつか貰ったあの桃色の本。
これは、迫られている! そう判断するしかない状況に、私は慌てて首を横に何度も振る。
「すみません!! 私にそちらの方向の趣味は無いので! その、他を当たってくださいっ!!」
迫り来る魔法使いに私は、年端もいかぬ少年だと思われているはずだった。
ほとんど悲鳴に近い私の訴えに、クヴェルミクスは冷静に頷く。
「僕も今のところは、その方面には向かっていないよ」
「え?」
「知っているよ。君が女の子だってことは、とっくにね」
驚きに声も出せずにクヴェルミクスを見返す。
魔法使いは、美しい微笑みを浮かべたままだ。
私の両腕を掴んだクヴェルミクスに、そのまま後方へ押し倒される。
どさりと柔らかなベッドへ背中から沈み込むと、あり得ないほど近くにクヴェルミクスの顔があった。
呑みこまれそうな程近づいた、深い紫の瞳と薔薇色の瞳が愉しそうに揺れる。
「ねぇ。助けを求めてごらんよ。助けてと、護ってくれと、乞うてごらんよ」
囁く様にクヴェルミクスは言った。
しっかりと抑え込まれた身体はわずかな身動ぎも出来ず、ただ呆然と魔法使いを見上げるしかない。
どんなに力を込めても、クヴェルミクスの身体を少しも押し退けることは出来なかった。
線の細い魔法使い一人からも逃げだせない事に、私の身体に冷たい汗が浮かぶ。
そんな私の抵抗を、無駄だとばかりに慈悲深く見下ろしていたクヴェルミクスの口の端がさらに上がる。
「そうしたら、僕が君をずっと守ってあげるのにね」
いくら経験不足な私でも、この先の展開くらいは予想ができる。
つまり、クヴェルミクスが美味しく頂こうとしているのは私自身なわけだ。
私はもう一度、力いっぱい身をよじった。
このまま頂かれてしまうのは、私としては不本意すぎる。
だけど、じたばたと動くのは思考ばかりで、私の身体にはピタリとクヴェルミクスが重なり動くことを許してはくれない。
私のシャツの襟元に、細く冷たい指が掛けられた。
クヴェルミクスは笑った。
「僕を求めてごらんよ」




