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ピスコヌに滞在して五日目。
今朝も少し早めに目が覚めたから、部屋でまだ眠るラビさんを起こさないように、そっと外へと出た。
宿の裏庭から、島の縁をぐるりと巡る長い桟橋に出ることが出来る。
早く起きれた朝や、日の暮れる前に宿に戻れた時には、この桟橋を目的もなく歩いた。
遠浅の海上に作られた桟橋は、宿の表通りに比べるとほとんど人も通らない。
ゆるゆると桟橋を歩き、透明な海を眺めていると、ここがどこだったのか曖昧になってくる。
実際に行ったことは無いけれど、元の世界での南の島はきっとこんな感じなのだろう。
その仮初めの安堵感にわずかでも浸りたくて、私は時間を見つけては桟橋に出かけた。
白々と明けかけるこの時間帯が、ピスコヌでは一番気温が低い。薄手のケープ越しにわずかな肌寒さを感じる。
早朝の桟橋に人気は無く、しばらく歩いてから桟橋の縁に腰を下ろした。
靴の先で海の水面を突き、沖に浮かぶ小さな船影を眺める。
あと二、三日の内に、幌馬車は来た時と同じ位の木箱を積むだろう。
そうしたら、ラビさんは国に戻る為に船に乗る。
私は、ラビさんに付いてアライスに行く決心が上手く付かないままだ。
きっとラビさんに付いていけば、それなりに何とか日々を過ごせるような気もする。
それならアライスへ行くのが、賢い選択だと思う。
連れて行ってくれると言うのなら、その申し出に甘えるのがいい。
こんな風に考えるのは嫌だけど、誰かに一方的に好意と善意を施して貰わなければ、私はここで過ごせないだろう。
現に、そうやって今日まで過ごしてきた。
与えられるばかりで、何も返せずに、たった一言の感謝も伝えずに姿を消す。
いつかラビさんに対しても、あの時と同じことをしないとは言い切れない自分に嫌気がする。
私は何時の間にか、こんなに頼りなく臆病にしか行動出来ないようになっていた。
怖いのだ。
拒絶され、排斥され、淘汰されることが。
気味悪がられ、恐れられ、ここにあることを良しとされないことを。
心の底から恐れていた。
日が昇り、明るい陽光に水面が瞬く。
強くなった日差しをフード越しに感じながら、私はゆっくりと立ち上がった。
そろそろ戻らなければ。
桟橋にも、人がちらほらと行きかい始めた。
ところが、宿に向かって歩き始めた私の足は背後から聞こえた声に引き留められる。
振り返ると、少し先の桟橋の上に小さな人垣が出来上がっていた。
数人のピスコヌの人達が、ここでは珍しい日傘を中心に困惑するように立っている。
「もう! わたくしはこの先に行きたいのに、いったい何を理由にそれを阻もうというの!!」
少女らしい高い声に、私は聞き覚えがあった。それは白い日傘の中から聞こえてくる。
「とにかく! そこをお退きなさいな!!」
気分をいたく害している様子の苛立った声に合わせて、日傘のフリルが揺れた。
日傘を取り囲んだ人達は、宥めるように優しい口振りと身振りを日傘に向けているが、どうやらそれは伝わっていないようだ。
さらに感情的な声が桟橋に響くので、私は仕方なく日傘のもとへと向かう。
関わらずに行ってしまうのがいいとは分かっているけれど……。
「あの、この先には、行けないそうですよ」
人垣の隙間からそう声を掛けてみる。
すっかり頬を紅潮させた美少女が、驚いたようにこちらを見た。
栗色の髪に赤い瞳。
そこに居たのは、間違いなくお城のお姫様であるクラリッサフローレット姫だった。
言葉が分かる者が来たことに、彼女を取り囲んでいた人たちはあからさまに安堵の表情を浮かべた。
そうして、一言二言と彼女と私に言葉をかけて、やれやれとその場から立ち去っていく。
桟橋には私とお姫様だけが残された。
「そちらの方向の桟橋は、途中で壊れて修理中だそうです。みなさん、危ないから行かないほうがいいと言ってましたよ」
改めてそう伝えると、お姫様は納得してくれたようだ。
強引にも進もうとしていた方向から、素直に踵を返す。
「あら、そうでしたの。そうなら、そうと、言えばよいのに」
どうやらお姫様は、ピスコヌの言葉は全く使えないようだ。
お姫様を取り囲んだ人達は口々に、そっちは危ないから行かないようにと言っていた。
しかも見れば、お姫様が行こうとしていた方向の桟橋には、立ち入りを遮るように立札が置かれロープまで張られている。
いくら言葉が分からなくても、この視覚的に阻まれている方向へなぜ強引に行こうとしたのかが分からない。
「この先に行けないのなら、そろそろ戻ろうかしら」
くるりと日傘を回してお姫様が言うので私は頷いた。
そして、軽く礼をするとお姫様のもとから立ち去ろうと歩き出す。
「ちょっと、お待ちなさい」
凛とした声が背中に投げられる。
お姫様の靴がカツカツと小気味のいい音を立てて、私の正面へやって来た。
俯き加減になった私の顔を、お姫様が全くの遠慮も無く下から覗き込む。
「あなた、シュテファンお兄様の従者じゃなくて?」
確信を持って光った赤い瞳で、お姫様はフードの中の私の顔を確認した。
返事に迷っているうちに、お姫様が口を開く。
「丁度よいわ。このまま宿まで案内して頂戴」
「え……。はい。かしこまりました……?」
お姫様の雰囲気に気圧されて、私は宿への案内役を仰せつかってしまった。
どうやら彼女は桟橋を歩き進むうちに、すっかり来た道が分からなくなってしまったようだ。
告げられたお姫様の泊まる宿は、私の宿からさほど離れた位置ではない様なので、戸惑いながらも彼女の少し先を歩きだす。
「それにしても奇遇ね。ここで城の者に会うとは思っていなかったわ。休暇でも貰ったの? ここがあなたの郷里?」
お姫様は、私が勝手に城から姿を消したことなど知らない様子だった。
それもそうだろう。
むしろ、あんなに沢山の人が務める城で、私のことが記憶に残っていたことに驚く。
「それとも暇を出されたの? シュテファンお兄様は少し気難しいところがあるから、何時も従者が定着しなくてパメラが怒っているものね。そうなの? 何が原因で暇を出されたの?」
お姫様の繰り出す遠慮の無い質問のどれにも答えられないので、私は無礼かもしれないけれど彼女に質問をしてみた。
「ク、クラリッサフローレット様はどうしてこちらに?」
「諸国周遊中よ。お忍びのね。ピスコヌ王国には、前から来てみたかったのよ」
なんだか得意気な顔付で答えたお姫様は、日傘をくるりくるりと回した。
お忍び……。
確かにお姫様の恰好は、城で見た時の様なドレス姿ではなかった。
結い上げていた髪は下ろされ、シンプルな仕立てのワンピースをさらりと着ている。
一見は、ピスコヌに旅行に来ている良家の子女風だ。
ただやっぱり、お姫様特有とでも言うのか、異様に堂々として気品溢れるオーラの様なものを感じてしまう。
「あの、お供の方とか一緒に居なくて、お一人で出歩かれて大丈夫なんですか?」
治安は良さそうな土地だけど、一国の姫が供も付けずに歩きまわるのは大丈夫なのか心配になってしまう。
白騎士にも、ほとんどずっとアルトさんがくっ付いていたし。
お姫様は私の心配に、すっと眉を顰めた。
「少し散歩するだけですもの構わないわ。それに折角の異国での朝の散歩に、供を引き連れて歩くのじゃ雰囲気が出ないじゃない」
「はぁ。そういうものなんですか……」
しばらく桟橋を進んだところで、向こう側からこちらへ掛けて来る人影がある。
女性が一名と、その後ろから背の高い男性が二名。
息を切らせながら、女性が大きく口を開いた。
「お嬢様ーー!!」
明らかに探し回られていた様子なのに、とうのお姫様は煩わしそうに小さく息を吐く。
「あら、探しに来てしまったようね」
みるみる近づく三人に、私は後退りをしながらお姫様のもとからお暇させていただくことにする。
近づいてくる三人のうち二人の男性には、おぼろげにだけど見覚えがあった。
たぶん、白騎士が早朝鍛練をしていた場所でみた顔だ。
「では! 私はここで失礼します」
「ええ。ご苦労だったわね」
あっさりと頷くと、お姫様は迎えにきた者たちに向かって歩きだす。
私は不自然に見られない程度の足早で、その場を去った。
背後から、無断外出をしたお姫様を窘める声が聞こえてきた。
宿の裏手に戻ったのは、いつもよりだいぶ遅い時間になってしまった。
裏門を開けて部屋に戻ろうとすると、そこには既にラビさんが立っている。
「遅かったな……」
「すみません。すぐ戻るつもりだったんですけど」
お姫様のことを話すべきなのか迷ったけど、私が口を開く前にラビさんの掌がぽすぽすと頭を撫でた。
「あまり、一人で出歩くな。心配になる」
そう言われて私が何度か素直に頷くと、ラビさんは納得したように頭を撫でていた手を退けてくれた。
一応大人だとは認めてくれたはずなのに、ラビさんの私に対する子供扱い保護者目線はいまだに健在なようだ。
それから二日後の夜。
幌馬車には、ピスコヌへ来た時と同じくらいの木箱が積みこまれた。
いつもの様に、夕食を表通りの食堂で済ませて宿に戻る。
部屋に戻り、これもいつもの様に浴室を先に使わせて貰う。
入浴を済ませてしまえば、入れ違いに浴室に入るラビさんを見送ってから、私は先にベッドへと入る。
それがいつもの流れ。だけど、今夜は違った。
私が浴室から出ると、ラビさんはテーブルで小さな陶器の器を傾けている。
器の中身はピスコヌのお酒だ。
透明な液体は優しげな花の香りがするけれど、恐ろしく強いお酒なのだそうで、私はご相伴は断固拒否している。
器をテーブルに置き、ラビさんが私を手招く。
向かいの椅子に腰を下ろすと、ラビさんはお茶の入ったグラスを差し出す。
それを受け取ると、今度は私の前に銀貨が並べられた。
テーブルに並べられた銀貨は、ピスコヌに来た日に貰ったのときっかり同じ枚数。
これはラビさんが言っていた、ここでの仕事が終わった時の報酬だ。
手の中のグラスがひんやりと冷たい。
「決めたか?」
ラビさんの声はとても穏やかだった。
優しい低音が、波音と混ざって静かに部屋に響く。
「明日の船に乗る。ユズコはここで、しっかりとやってくれた。アライスでも、俺と一緒に仕事をしないか?」
俯いた私は小さく首を振った。
「アライスで……。私に出来ること、あるんでしょうか?」
小さな声で尋ねた。
この期に及んで、まだ迷っている。ラビさんの好意に甘えることに。
「俺がちゃんと見つけてやる。……それとも、ここへ残りたいか?」
その一言に、身体が僅かに反応してしまう。
ラビさんにはあの青年との会話は知られていないはずだけど、私の様子から何かを感じ取っていたのかもしれない。
黙る私に、ラビさんはゆっくりと口を開く。
「俺は、ユズコをアライスへ連れて行きたい」
フードの下から窺ったラビさんは、とても真剣な眼差しでこちらを見ていた。
私の視線に気が付いて、ラビさんは優しく微笑んだ。
「どうして、そこまで? なんで、私に良くしてくれるんですか?」
私の声は、穏やかな波音にすらかき消されてしまうほど小さかった。
ラビさんはテーブルの器を片手に取ると、中身を一息に飲み干す。
「そのうちな……」
そう呟いたラビさんに、私はこくりと頷き返した。
ラビさんの肩越しに窓の外が見える。
紺色の夜空に、白い星が無数に散らばっていた。




