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水色に晴れ渡る空。
優しい温度で吹く風。
エメラルドグリーンの静かな海。
ピスコヌ王国は、正に南の島国だった。
温暖な風土に沿うように、通りを歩く人たちの歩調はゆったりとしている。
日没が近いのにも関わらず、陽光は強く気温は春めいていた。
のんびりと歩く馬は、暮れかけてオレンジに染まり始めた港町を幌馬車を引いて進む。
船を降りて馬屋で借りた次の馬は、黄色い毛並みの穏やかな馬だった。
黒いマントを脱いで、生成りのシャツ姿になったラビさんが御者台で手綱を握り、私はその横へ座る。
行き交う人たちは、パステルカラーの淡い色合いを纏っている人が多い。そしてやはり、みんな軽装だ。
私の草色のケープは役に立ってくれた。
それに、心配していたフードも特に目立つことはなさそうだ。
日中の陽射しが強いからなのだろう、日除けの為につばの広い麦藁帽子を被っている人が多く、ちらほらと私と似た様なフードケープ姿の人もいる。
目立つどころか、ここの風景に溶け込めそうな気がしてきた。
ピスコヌ王国の人たちは肌も髪の色も濃い色の人が多いようで、いつかクヴェルミクスが言っていたように、ここでは黒髪は珍しくないようだ。
幌馬車が止まったのは、大きな瓦葺きの平屋の前だった。
建物に並ぶ窓は大きく、全て開け放たれている。
停まった幌馬車にすぐ気が付いたようで、平屋の中から男の人が出てきた。
青いシャツに、ゆったりとした太いズボンを身に着けた大柄な男の人が笑いながら近づいてくる。
「久しぶりだな、ラビハディウィルム」
褐色の肌の男の人は白い歯を見せながら、にこやかに幌馬車へ近づいてきた。
御者台から降りたラビさんは、青シャツの男の人の前に立ち挨拶を交わす。どうやら、知り合いのようだ。
「ユズコ。この商家の主人だ」
紹介されて、慌ててラビさんの少し後ろに立つ。
青シャツの男の人は、興味深そうに私とラビさんを見比べて視線を上下に動かした。
「随分、変わった相棒を連れてきたな。ラビハディウィルムの子か?」
真顔で青シャツの人がそう言った。
ラビさんは、それを聞き取れなかったようで、私に向かって首を傾げる。
「なに? なんて言ってる?」
「……。変わった相棒だが、私がラビさんの子供かと聞いています?」
「……。違うと、言っておいてくれ」
憮然とするラビさんの横で、私は青シャツの人と話をする。
私の言葉はきちんとピスコヌの言葉になっているようで、青シャツの人は笑顔のまま頷いている。
どうやら、青シャツの人と話そうと思って口を開けばピスコヌ語が、ラビさんと話そうと思えば、私の口から出るのはアライス語になるようだ。
たどたどしくも、ラビさんと青シャツの人の間に立って暫く会話を繋ぎ、幌馬車に積んできた木箱は無事にすべて卸すことができた。
がらんとした幌馬車を引いて、黄色い馬は宿へ向かう。
日はすっかり暮れていたけれど、通りに並ぶ建物の軒先に乳白色に淡く光る丸い提灯が幾つも下げられ、夜道は明るかった。
その明るい通りの所どころにテーブルとイスが並んでいる。通りに面した食堂や酒場の屋外席なのだろう、ぬるい夜風にあたりながらその席で食事をする人たちの姿がある。
夕暮れで店仕舞いをした建物の前には、小さな移動式の屋台が並び始めていた。
私にはお祭りの時のような景色に見える通りの風景も、ここではごく日常的なもののようで、通りを歩く人たちも屋台の店員もごくごく淡々とおっとりと過ごしている。
この町では、建物は平屋造りの横長な物が殆どで、二階建て以上の建物は町の中央にひょろりと建った『時の塔』くらいのようだ。
到着した宿屋も平屋の、横に大きな建物だった。
屋根付の外廊下を、提灯を下げた宿の人に案内されて進むと波の音が聞こえる。
そうして通された部屋は、今まで泊まってきた宿のどの部屋よりも広く、大きな窓の下には穏やかな波が打ち寄せていた。
「なんだか、すごく、高そうな部屋なんですけど……」
「安くはないが、高くもない。この辺りの宿はどこもこんな感じだ。それに、暫くはここをねぐらにする。あまり狭くても不便だからな」
ラビさんにそう言われ頷きはしたものの、広々とした部屋に落ち着けない私は荷袋も下ろせずに周りを見回す。
広い一間の部屋の中央に四角いテーブルと籐の椅子が二脚用意され、それを挟むように部屋の両端の壁際にベッドがそれぞれ一台ずつ置かれていた。
しかもベッドの手前には、間仕切りとして木の衝立まである。
二台のベッドの十分に離れた距離に、思わず安堵してしまうのは仕方ない。
「風呂も付いてる」
ラビさんが含み笑いで、部屋の隅を指さす。
この広さで、浴室付きで、海が見える部屋なんて、まるでリゾートに来ているような気すらしてしまう。
そわそわと部屋を見回す私に、ラビさんがテーブルと椅子を指し示す。
「まぁ、ひとまず、座ったらどうだ」
テーブルには、宿の用意したガラスの水差しと逆さに伏せたグラスが置かれていた。
さっさと荷物を下ろしたラビさんは、椅子に腰を下ろすとグラスに水差しの中身を注ぐ。
ラビさんの正面に座った私は、ようやく足元に荷袋を下ろした。
グラスがことりと前に置かれる。
グラスの中身はすっきりとした味の冷たいお茶だった。
椅子に座り、冷たいお茶をゆっくりと飲んで、ようやく人心地つけた事に気が付く。
意識はしていなかったけど、会話の仲立ちをし通訳めいたことをするのに、緊張していたようだ。
無意識の内に渇いた喉は、グラスのお茶をあっという間に空にする。
ラビさんは何も言わずに私のグラスに二杯目のお茶を注ぎ、自分のグラスをゆっくりと傾けお茶を飲む。
私の二杯目のグラスが半分ほど減ったところで、ラビさんはそのグラスの横にぱちりぱちりと銀貨を並べた。
「これは、今日までの分だ。予想以上だったな。ユズコの特技は」
唐突に並べられた銀貨を見つめる私に、ラビさんは微笑んだ。
並べられた銀貨の数は、私が当てにしていたものよりもずっと多かった。
「こんなに、貰っていいんですか?」
戸惑いを隠しきれない私に、ラビさんは頷く。
「明日からは荷を集める。ピスコヌを立つときには、これと同じだけ払うつもりだ。問題ないか?」
そう言われて、しばらくきょとんとラビさんの口元を見ていた。
それから銀貨に視線を落とすと、私は急いで何度も頷いた。
「もちろん、問題ありません! ありがとうございます!」
オウムのように言われたことを繰り返して伝えるだけでこれだけの銀貨を手に入れられるなんて、少し心が痛む気もするけれど、実際にラビさんの役には立てているようだし、それになにより、先立つものは少しでも多いに越したことはない。
お城を出てから、徐々に軽くなっていった財布には、何度も不安を煽られていた。
私がグラスの残りを飲み干したところで、ラビさんが立ち上がる。
「さて、飯でも食いに行くか? 通りに旨い店がいくつもある」
ラビさんの後に着いて、私は淡い光が丸く燈る通りへと向かった。
柔らかな夜風に穏やかな波音。
そして、しっかりと重くなった懐の財布のおかげで、私の足取りは夜にも関わらず随分と軽やかだったことは否めない。
翌朝からは、空になった幌馬車を走らせ荷集めが始まった。
行く先々で、ラビさんとピスコヌの人の間に立ちお互いの会話を繰り返す。
空の幌馬車には、次々と木箱が載せられていく。
幌馬車の木箱が増える度に、ピスコヌを発つ日が近づいているのを感じた。
ここでの仕事が終わってしまえば、ラビさんは自分の国アライスに戻る。
そこに付いて行ってしまっていいのか決めれないままなのに、木箱は順調に幌馬車の荷台を埋めていき、私に先のことを決めるよう考えるよう責め立て始めた。
幌馬車の中が木箱で半分ほど埋まった日、先ほどまで商談をしていたピスコヌの青年が私のもとへやってきた。
ラビさんは幌馬車の後方で木箱を積み込んでいる最中で、積み込み作業では全く役に立たない私は黄色の馬を何となく撫でながらそれが終わるのを待っていた所だった。
少し離れた場所で、さんさんと降り注ぐ陽射しを物ともしない麦藁帽子姿の子供たちの遊ぶ声が風に乗って届く。
空気はさらっとしていて気温は高くはないけれど、冬でもここの陽射しは夏を思わせる強さだった。
青年の短い髪は黒く、肌はきっと日焼けではない薄い小麦色をしている。
ラビさんの間に立って青年と話をしていた時から、その容姿が私には懐かしく見えていた。
髪も肌の色も、かつて私の周りにごまんといた配色によく似ていたからだ。
だから青年の瞳が鮮やかな黄緑色だったこととくっきりとした目鼻立ちに、私は失礼ながらも少し落胆さえしていた。
笑顔で近づいてきた青年は、手にしていた紙袋を私に差し出す。
「これ、僕のところで扱っているお菓子なんだ。どうぞ」
にこやかに差し出された紙袋の中には、黒蜜で作ったケーキがぎっしりと入っているのが見えた。
それはこの辺りでは定番のお菓子のようで、道すがら売っているところはたびたび目にしていたが買う機会がないままだった物だ。
思わず受け取りそうになって、はっと手を止め、幌馬車の後ろを見る。
ラビさんに聞いてからでなくて大丈夫かな?
そんな私の様子を青年は遠慮なく笑うと、半ば強引に紙袋を渡した。
「君は随分とピスコヌの言葉が上手だね。ここに住んでいたことでもあるの?」
受け取ってしまった紙袋と青年を交互に見てから、私は首を横に振る。
戸惑っている私に構わず、青年は話を続けた。
「アライスにピスコヌ、どちらの言葉も随分と堪能なようだよね。それだけ話せる人を僕の所でも探しているんだけど、なかなか見つからなくてね」
黙ったままの私に、青年は少しだけ声を落とした。
「君はラビハディウィルムの専属かい? そうでないなら、今の仕事が終わったら、僕の所で勤めてみない?」
言われて思わず顔を上げると、青年はにっこりと微笑む。
「あぁ、もちろん、住まいの世話なんかもちゃんと面倒を見るし、給金も悪くはない額を用意するつもりだからーー」
「なにを話している?」
幌馬車の荷台から、ラビさんがぬっと現れてこちらを見下ろし会話を遮った。
「この辺にしておくよ。それじゃ、考えてみて。その気になったら、いつでも来てくれて構わないから」
青年はラビさんの視線に肩をすくめてそう言い、軽い挨拶をして去っていく。
馬車から降りてきたラビさんが私の横に立ち、青年の背中を見送りながら口を開く。
「なんだ? 何を話していた?」
「えっと……」
なんだか咎めるような口調に、思わず私は返事を濁してしまった。
「お菓子をもらいました。……それだけです」
「菓子? ……あぁ、これか」
私の手にあった紙袋を見ると、ラビさんはひょいとそれを取り上げた。
そして紙袋を持って、少し離れた場所で遊んでいる子供たちの所へ行くと、その紙袋をそっくりそのまま子供たちに渡し戻ってくる。
手ぶらで戻ってきたラビさんに、恨めし気な声が出てしまう。
「全部、あげちゃったんですか?」
御者台に座ったラビさんは、難しい顔をして手綱を握った。
「知らない奴から貰ったものは食べるな」
知らないって、そんな……。さっきまで、商談をしていた人なのに。
なにか釈然としないまま、ラビさんの隣へ座る。
馬車が動き出してすぐに、ラビさんは私の頭を薄いフード越しにぽんぽんと押さえた。
「あとで、買ってやる」
 




