36.5
驚いたのは流暢なアライス語を口にしたことだった。
ラビハディウィルム・ヤシュムは、東の国アライス共和国で交易を生業とする家の嫡男として産まれた。
大柄な体躯に、癖のある鮮やかな赤毛と不精髭。
彼の風貌は商人には到底見えなかったが、その家名は交易をする者達には有名なものだった。
家業を継ぐ者として見聞を広げるべく、ヤシュム家の男子は自らの足で諸国へ荷を運ぶことを幾度と行う。それは代々の習慣だった。
しかし彼にとってその習慣は、見聞を広げるという建前を大いに使った気ままな交易の旅だった。
今回の交易の旅で、折良くホルテンズ王国の聖誕祭に行き合ったラビハディウィルムは、王都ヴィオリラに暫らく滞在することを決め、特に目的も定めずに余所の街並みを歩くのを楽しんでいた。
一度目に会った時、身なりの良い年端の行かない少年は、ホルテンズ王国の生粋ではないのだろうと彼に思わせた。
顔立ちは北方の国ジュファン公国の者に近くも見えるが、肩上で揺れた見事な黒髪は彼の国では珍しい。
印象に強く残ったのは言葉だけでなく、そのどこともつかない異国風な容姿だった。
二回目に会った時も、やはり驚かずにはいられなかった。
彼が久しぶりに聞く母国語は、恐ろしいほど正確な響きだったのだ。
身分ある者に仕えている様子の少年は、仕立の良い衣装で露天の人混みに紛れていた。
明るく柔らかな色合いの髪が多い人混みで、その黒髪はラビハディウィルムの目を強く引く。
あまりにも脆弱な身のこなしに、彼がつい手助けをして菓子を買って渡すと、たいそう有難がり無防備な笑顔を見せて喜んだ。
言葉についての追及をする間もなく、黒髪の少年は踵を返し雑踏へ消えていく。
途中振りむいた緑の瞳は、不思議そうにラビハディウィルムの深紅の瞳を見返した。
ホルテンズ王国の東隣に位置するアライス共和国の言語アライス語。
隣り合う国ゆえ、言語も多少似ているところもあるが、国境から遠く離れた王都ヴィオリラではアライス語は通じない。
現にラビハディウィルムも、王都ではホルテ語だけを使っていた。
一度目も二度目も、会う時には菓子を買い求めていた黒髪の少年は、貴族の家にでも仕えて大方そこの子女の使いをしているのだろうとラビハディウィルムは思った。成人前の子供が、そういった勤めに出ることはさして珍しくは無かった。
だが、まるで母国語のようにアライス語を話す少年は、ここでは珍しかった。
流暢にアライス語を話す訳を、自分に向けてアライス語を話した訳を、ラビハディウィルムは知りたいと思った。
その思いが褪せぬ内に、三度目は来た。
ラビハディウィルムがねぐらにしていた安宿は、食事も酒も出ない簡素な宿だった。
旅の呂銀は潤沢にあったが、人懐っこい女店主が世話を焼いてくるような家庭的な宿も、気取った客の多い高価な宿も、ラビハディウィゥムの気質に合わなかった。
その点、彼が選んだ安宿は、夕暮れまで部屋に籠ろうが、深夜に戻ろうが、金さえ払っておけば客には全く干渉してこない。
その気安さをラビハディウィルムは気に入り、王都ヴィオリラに滞在する時の定宿にしていた。
その夜、酒場帰りの夜更けに、ラビハディウィルムは道端に小さな影を見つける。
古めかしく重そうなコートを、ご丁寧にフードまで深々と被って通りを窺う小柄な人影に、ラビハディウィルムはすぐに気が付いた。
治安の安定した王都とはいえ、夜更けに子供一人で出歩くほどではない。おまけにどこか怪我でもしている様子だった。
それに気が付いてしまえば、知らぬふりは出来ない。
面倒だなと思いつつも子供に近づけば、見計らったように小柄な人影が転びかける。
反射的に助けて声を掛けて、ラビハディウィルムは驚く。
支えた子供は、あの少年だった。
ずいぶんと身なりを変えて、少年はそこに居た。
やはりアライス語でラビハディウィルムと話す少年は、祭りの日とは打って変わり警戒心を剥きだしにしていた。
明らかに行く当ての無さそうな足取りに、ラビハディウィルムは少しばかり強引に少年を保護する。
抱き上げた身体は想像以上に軽く、分厚いコート越しにも骨の細さが伝わった。
宿に連れ帰って、強引に挫いた様子の足を見る。
古びた皮靴を脱がせて、厚い靴下を取り去ると、ラビハディウィルムの手の中に白すぎる足が現れた。
足首の辺りは赤く腫れ上がっているが、細く軽い足の滑らかな白い皮膚に触れ、足先に並ぶ薄桃色の小さな爪を見て、彼は気が付いた。
少年だと思っていたのは、少女だったと。
少女は、『ユズコ』と、ラビハディウィルムには馴染みのない響きの名を彼に告げた。
何か事情があってのことなのだろう、そうでなければ少年のふりをして働くこともない。
ラビハディウィルムはユズコの抱える事情が気になったが、ユズコはそれを容易く話そうとする雰囲気は出さなかった。
アライス語を話す訳を尋ねれば、下手な言い訳を口にする。
深々と被るフードから覗く口元は不安げに結ばれた。
以前に会った時は普通に顔を出していたのに、なぜ顔を隠すような格好をしているのかも気になったが、ラビハディウィルムは詮索するのを止めた。
きっと真実は語らず、ユズコに余計な嘘を吐かせてしまうだろうから。
ユズコを連れて行こうと思ったのは、ラビハディウィルムにとっては深い意味もなく気紛れに近いものだった。
偶然にも、言葉が出来る旅の共が必要だった。
当てにしていた、次の目的地のピスコヌ国の言葉を使える者が捉まらなかったのは、返って好都合だったとさえ思えた。
それに、行くあてもない子供。それも、年端の行かぬ少女が、この後に一人夜更けの王都をウロつくのは感心しなかった。
大っぴらではないとはいえ、王都にも善からぬ大人は存在する。そして善からぬ生業も。
そういったものに巻き込まれずに済む様に、束の間の面倒を引き受けようという気になっていたのだ。
ユズコはラビハディウィルムが知る同じ年頃の少女たちと比べて、随分と大人びていた。
口数も少なく静かに御者台に座る背中は、常に不安そうなくせに他者を拒絶するような頑なさがラビハディウィルムには見えた。
話しかければ答えるものの、無駄に会話を重ねようとはしない。
慣れず懐かないユズコが、旅路で食事のことを切り出した時、ラビハディウィルムはようやく彼女の警戒が解けてきたように思えたものだ。
そんな折、草原に無造作に湧く温泉に、ユズコは驚くほど関心を示し喜んだ。
そしてその草原の中の湯に入りたいとユズコが言った時には、普段見せない嬉しそうな様子につい軽率にも許可を出していた。
いま思えば、暗闇の中で泉になど入らせるべきではなかったとラビハディウィルムは悔やむ。
そうでなければ、あのような事態にならずに済んだのだから。
ユズコの入浴は長かった。
定期的に水の跳ねる音は耳に入ったが、暗闇の中でのぼせたり溺れたりしないかと、焚き火を前にラビハディウィルムは気が気でなかった。
そしてその気掛かりは、杞憂に終わらなかった。
けたたましい水音が唐突に上がる。
ラビハディウィルムが慌てて温泉に駈けつければ、暗い水面が不穏に揺れているばかりで、ユズコの姿が見えない。
急ぎ湯泉の中に入ると、水面下が淡く緑色に光る場所に気が付く。
そこを目指して近づけば、ラビハディウィルムは暗い水に沈んで行こうとする白い影を見つけ手を伸ばした。
掬い上げた身体から、大粒の水が滑り落ち水面を叩く。
ラビハディウィルムの腕の中には、咽ながら必死で呼吸を繰り返すユズコがいる。
雲間から落ちる月明かりに照らされた身体を、ラビハディウィルムが見てしまったのは不可抗力だった。
一糸纏わぬ濡れた身体は白く細く。
胸元の緑の魔法石が月明かりを反射させる。
華奢な線で作られた身体が大人のものだと、ラビハディウィルムは一目で分かった。
翌朝、幌馬車から出てきたユズコの表情が、フードのお陰で窺えずに済む事にラビハディウィルムは胸を撫で下ろす。
彼は自分で思っているよりも、随分と昨夜の件で翻弄されていた。
大きすぎるコートの袖口から覗く細い手の白に、昨夜のことを思い出させられれば、まともにユズコを見れなくなり会話すらも素っ気なくなる。
そんな彼の態度が、ユズコの異変に気が付くのに遅れた原因になった。
日暮れに町に入った幌馬車の御者台で、ラビハディウィルムは気が付いた。
もうだいぶ長いこと、背後の荷台が静かな事に。
怪訝に思いながらも宿に馬車を停めてから、ラビハディウィルムは荷台のユズコに声を掛けた。
「着いたぞ……。どうした? ユズコ?」
返事は無かった。
幌馬車の荷台で、積み荷の木箱にもたれ掛かるように、ユズコはぐったりと横になっていた。
冷たく絞った布で額を拭ってもユズコは殆ど反応をみせず、乱れた呼吸だけが小さく部屋に響いた。
宿の部屋に二つ並んだベッドの一つにユズコは寝かされ、隣の一つにはラビハディウィルムの黒いマントとユズコの年代物のコートが無造作に投げ置かれていた。
手にしていた冷えた布をユズコの火照った額に載せると、ラビハディウィルムはその顔を見つめた。
コートを脱がせフードが取り去られたユズコの顔に、隠すような物は何も見当たらない。
ラビハディウィルムは溜息を吐き、自分の黒い皮袋を探る。
ユズコがこうなっている原因を、彼は容易に想像できた。
大方、昨夜あの後、ろくに身体を乾かさずに毛布に潜り込んだのだろう。
気持ちは分からなくはない。と、ラビハディウィルムは済まない気持ちになった。
黒い革袋から、すらりと背の高い紫色の薬瓶を取り出すと、ラビハディウィルムはその栓を開けた。
熱に苦しむのなら、その薬が最適だった。
それを一瓶全て飲み干せば、ユズコのような症状を朝には快方に向かわせる効果がある。
ベッド横に置かれた小机の上に薬瓶を載せると、ラビハディウィルムは既にそこに置かれていた水差しを手にとり中身をカップに注いだ。
微かに果実の香りが広がる。
水差しの中には、宿に用意してもらった果実水が入っていた。
果実水の入ったカップを片手にラビハディウィルムはユズコの枕元に腰を下ろした。
そして慎重に、ぐったりと力なく横になるユズコを少しだけ抱き起こす。
口元へカップを近づけ傾ければ、僅かづつだが、カップの中身をユズコは素直に飲み込んでいく。
ラビハディウィルムの眉間に寄せられていた皺が緩まる。
カップの半分ほど果実水を飲ませると、ラビハディウィルムは紫色の薬瓶をユズコの口元へ寄せた。
傾けた薬瓶から薬が流れる。
ユズコはそれをほんの少し口にしただけで、口をきつく結んでしまう。
眠りながら眉を顰め、薬瓶から顔を背ける。
二度三度と、ラビハディウィルムは薬瓶をユズコの口に当てるが、固く結ばれた口は開かれず、煩わしそうに首を横に振るばかりだった。
諦めたように、彼は薬瓶を小机に戻す。
その薬は薬効は確かだったが、壮絶に苦いことが難点なのをラビハディウィルムは知っていた。
天井の灯りは落とされ、小さなランタンが部屋をほんのりと照らしていた。
夜更けを過ぎてもユズコの熱は下がらず、息苦しそうな呼吸は熱が上がっていることをラビハディウィルムに知らせる。
一口の薬だけでユズコの熱をどうにか出来るとは考えていなかったラビハディウィルムだったが、予想以上に苦しそうなユズコの様子に眉間に深い皺を寄せた。
ベッドの上で荒い呼吸に寝苦しそうにするユズコに、ラビハディウィルムは一瞬だけ戸惑いを見せた。
そして軽く息を吐き出すと、ユズコの着ているシャツに手を掛けた。
少しでも寝やすくなるようにと、ユズコが着用している衣類を最小限に減らしていく。
雑念を挟まぬように、ラビハディウィルムは努めて機械的にその動作をやり遂げる。
ボタンを外しシャツを脱がせ、紐帯をほどきズボンを取り去った後、首元に視線を留めた。
ユズコの首をぐるりと覆うように巻き付けれられた無地のスカーフは、彼の目に窮屈そうに映る。
ラビハディウィルムは躊躇い無くスカーフを取り外すと、既に脱がせた他の衣類同様に隣のベッドへ置く。
ユズコの細い首筋が露になり、そこには魔法石を繋いだ少しくたびれた革紐だけが残されていた。
すっかり薄着にさせたユズコを、ラビハディウィルムは先程と同じように抱き起こす。
素肌から伝わってくる体温が、熱の高さを物語る。
果実水を入れたカップを口元に当てるも先程の様にはいかず、ユズコの唇は結ばれたままだった。
果実水を受け入れぬのだから、当然のように苦い薬には唇はより固く結ばれるばかりで、ラビハディウィルムを困らせる。
不意に、腕の中に抱えたユズコが、小さなうわ言を繰り返しだした。
ようやく開いた口に、これ幸いとばかりにラビハディウィルムは薬瓶を当てがおうとした。が、その手は動きを止める。
聞き取れないほど小さな囁きを口にしながら、ユズコの熱に潤み、濡れていた睫毛の隙間から涙が零れ落ちた。
はたはたと涙を零しながら、ユズコはまるで呪文のように同じことを繰り返す。
探さないで。帰るから。
忘れないで。
待っていて。
帰らせて。帰らせて。
帰りたい。帰りたい。
泣きながら、帰りたい。と繰り返すユズコから、ラビハディウィルムは視線を逸らせずにいた。
熱の見せる悪夢に泣いているのだろうと思ったが、それだけとは思えないほど、ユズコの小さな呟きは悲痛な色だった。
頬を伝う涙をラビハディウィルムは指で拭う。
そしておもむろに果実水を自らの口に含むと、ラビハディウィルムはその唇をユズコに重ねた。
重ねた唇で、結ばれた唇を割り開くと、その隙間から果実水を移し飲ませる。
こくり。と、ユズコの喉が果実水を飲み込んでいく。
繰り返し口移しで果実水を与えてから、ラビハディウィルムは静かに薬瓶を手にした。
薬瓶をユズコではなく、自分の口元に当て中身を口に含む。
強い苦味を湛えて、ラビハディウィルムの唇は再びユズコの唇に重ねられた。
半ば強制的に流し込まれる苦い薬に、ユズコの身体が弱々しい拒否を示すも、ラビハディウィルムはそれを容易く押さえ込む。
宥めるように髪を撫で梳くと、黒髪がするするとラビハディウィルムの指先を心地好く通り抜けていく。
腕に抱き込み、髪を撫で、深い口付けをするように、それを繰り返した。
やがて薬瓶は空になり、ラビハディウィルムはそれが空になってしまったことを惜しむ自分に気が付いた。
庇護欲と言って片付けてしまうことの出来ない感情が、沸き上がるのをラビハディウィルムは自覚する。
腕の中に閉じ込めたユズコの濡れた唇を指でなぞり、赤く火照る頬を撫でる。
暫らくそうして不必要にユズコを撫で触ってから、ラビハディウィルムはカップに残った果実水を再び口に含んだ。
ゆっくりと果実水を流し込むが、それは既に水分補給という名目を失った行為だった。
唐突に、強く、欲しいと思った。
唇を解放し腕の中を見下ろせば、乱れた黒髪を散ばせて熱に頬を染めたユズコがいる。
赤く濡れた唇は小さく開かれ、まだ黒く湿る長い睫毛は固く閉ざされていた。
乱れた呼吸が熱だけの所為ではないことを、ラビハディウィルムは知っている。
優しく髪を撫でてから、ラビハディウィルムは髪越しにユズコの額に口付けを落とす。
額、目蓋、頬、耳、と口付けを落とし下り、細い首筋へと唇を這わす。
ラビハディウィルムの唇と彼の不精髭が与える感触に、ユズコが身じろぎをする。
未知の感覚から無意識に逃れようとするユズコを、ラビハディウィルムは抱き寄せた。
今だ熱に浮かされるユズコにするには、己れの行動を無体だと彼は理解している。
感情と衝動をどうにか抑え込むと、ユズコを抱いていた腕を解く。
そっとベッドへ解放し、静かにその枕元から去ろうと、ラビハディウィルムは腰上げようとした。が、小さな抵抗が彼を引き留める。
気付かないうちに、彼のシャツをユズコの手が小さく握っていた。
ラビハディウィルムのシャツのほんの片隅を、ユズコは頼りなげに握っていたのだ。
それを解くのは容易いことだったが、ラビハディウィルムはそのままそこに留まった。
優しく髪を撫でると、ユズコは安心するようにラビハディウィルムへ擦り寄る。
無邪気に抱き付かれ、まだ熱のある身体が温かく寄り添ってきて、ラビハディウィルムは先程の欲に走った無法を少しだけ恥じた。
優しく抱き返し、そのまま二人で寝るには狭いベッドに身を横たえる。
腕の中で小さな呼吸が、規則正しく安定したものに変わっていく。
閉じられた睫毛に唇を寄せて、その身体を柔らかく抱きしめて、ラビハディウィルムは目を閉じた。




