35
西に傾いた陽が沈む前に、幌馬車は小さな町へ入った。
迫る夕暮れに、建物の窓から黄色の灯りが零れ始めている。
町の中心にある、『時の塔』が地面に長い影を落としていた。
昼食後から御者台に座ったラビさんの背後から、町の様子をチラチラと覗く。
季節外れの旅人は目を引くのか、それとも旅人自体が少ないのか、町の人はゆっくりと進む幌馬車とその手綱を握る赤毛の男を珍しそうに眺めている。
幌馬車は程なく町の宿屋の前に停まった。
宿屋の中庭へ幌馬車を置き、納屋で馬を休ませて、待望の客室に入る。
挫いた左足はほとんど治っていると強く訴え、ここからは自分の足で移動させてもらう。
おかげで、余計な人目を引く羽目にならずに済んだ。
久しぶりの室内。白い寝具のベッド。共同だけど湯船のある浴室。そして、トイレ。
たった数日ぶりなのに、それらを使えることに心が弾んでしまう。
だから、一瞬ではその違和感にまで気が回らなかった。
十畳ほどの広さに、ベッドと小振りなテーブルと椅子が置かれた部屋は、古いながらも手入れの行き届いた部屋だった。
テーブルの上には、小さな花瓶に黄色い花が飾られている。
洗い込まれた様子の寝具で整えられたベッドに、すぐにでも寝転がりたくなってしまう。
窓際と壁側、どちらのベッドにしよう。……え、と、どちらに?
部屋にはベッドが二つあった。
人ひとりが通るのに少し狭い位の間を開けて、並んだ二台のベッド。
それを見て考え込む私の後ろで、ラビさんが椅子を引く。
足元に黒い皮袋をドサリと置いて、ラビさんは椅子に座った。
「あの? 部屋って、ここで間違いないですよね?」
「うん? どうかしたか?」
「いえ、あの、……二人で一室なんですか?」
「そうだが?」
なんでもない様に答えるラビさんに、私は首を傾げる。
宿が二人部屋だけのはずは無い。
私は女子で、ラビさんは男性だ、さして親しい間柄でない男女が同室というのは如何なものだろうか。
「一人部屋を二つとかにしないんですか?」
私の言い分に、ラビさんは首を傾げた。怪訝そうな顔つきになっている。
「だって、その、一応……。私は女で……。やっぱり男性と同室なのは……」
口ごもる私を、ラビさんはテーブルに片肘をつきその手に顎を乗せて見つめた。
そして、クツクツと笑いだした。
「最初にも言っただろう、子供が変な気を回すなと。まぁ、ユズコにしてみれば、気恥しい年頃ってやつか? 残念だが、俺が相手にするにはお前はまだ子供過ぎるからな。もう数年したら、考えてやらないでもないけどな」
笑いながら答えるラビさんに、私は赤面しつつ反論する。
私ばかり、妙な意識をしているように思われている。
「なっっ!! 別に、そんな風には思ってません。ただ、聞いてみただけですから。確認しただけです。あと、何度も言いますけど、子供じゃないん――」
「それに、二部屋取るより、部屋ひとつの方が安いからな」
ラビさんの台詞に、私は口をつぐんだ。
なるほど、それは大切なことだ。
大人しく黙った私を見て、ラビさんは口の端を上げた。
「さて、飯でも食いに行くか」
そう言われて、私は従順に頷いた。
恥じらいも大切だけど、先々のことを考えるとお金は節約すべきだし、いつものメニュー以外のご飯を早く食べたかった。
カブのミルク煮。甘辛く炒めたチキンご飯。フフ茶。
夕食は町の食堂に入った。
黒パンにチーズと干し肉と乾燥ハーブが挟まれたもの以外の食事は、素晴らしく美味しく感じた。
無言でスプーンを動かし続けた私に、食後に何故かマフィンがおまけに出された。
今回のこれはラビさんに対する好意ではない。お店の人は年配の男性だった。
ひもじい子だと思われたのかもしれないと恥じ入りつつも、久しぶりの甘いものはあっという間に私のお腹へ消える。
その私の様子を見ながら、向かいに座っていたラビさんは可笑しそうにしていた。
宿に帰れば、次は待望のお風呂。
部屋に浴室は無いけれど、一階の浴室を使うことが出来るということで、さっそく入らせてもらう。
たっぷりのお湯でほかほかに温まった私が浴室の扉を開けると、廊下にラビさんが佇んでいた。
「え!? 待たせちゃいました? 言ってくれれば、もっと早く出たんですけど。どうぞ、空きましたから」
まさか待っているとは思わなくて、慌てて浴室の扉から身をずらすと、ラビさんは首を横に振った。
「いや、風呂は後でいい。足はどうだ?」
「足? 大丈夫ですよ」
足元を見つつ答えると、ふわりと身体が宙に浮く。
ラビさんは私を抱きかかえると、廊下を歩きだした。
「ん。一応な。温め過ぎると痛みがぶり返すかもしれない」
「だ、大丈夫ですって!」
「大事をとったほうがいい」
「それは、ありがとうございます。でも、人に見られても恥ずかしいので……」
「気にするな」
そのまま二階の客室まで運ばれて、足の手当が始まる。
ベッドに下ろされると、私は恨めしそうに木桶に張られた水を見た。
「せっかく温まったのに」
「そういうな」
いかにも冷えていそうな桶の水に、さらにその温度を下げる液体が垂らされる。
左足を掴むラビさんの手が、宥めるように優しく足首の辺りを撫でた。
挫いた箇所を確認する様に、ラビさんの大きな掌が足を撫でたり押したりするのがくすぐったい。
ようやく解放された足は、無情にも冷たい水へぽちゃりと沈められた。
しばらく水に足を浸してから、引き上げられた足の水気を拭い、布を巻きつける。
「ユズコ」
手当をしながら、ラビさんが口を開いた。
「お前は、俺の名を呼ばないな。覚えられないか?」
不意打ちの問いかけに、私は一瞬口ごもり、そして謝った。
やっぱり、名前を呼び掛けないことを気付かれていた。
あの。とか、すみません。で、切り抜けていたつもりだったけど。
「……すみません。失礼でなかったら、もう一度教えてください。書いて覚えます。」
「そんなに覚えずらい名ではなかったと思うけどな」
「私には長くて……。最初の所しか……」
「最初?」
聞き返されて、私は正直に白状した。
「はい。えっと、いちおう心の内では、ラビさんと呼んでまして」
「ラビ……」
なんとも言えない表情でそう呟くラビさんに、私は頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! ちゃんと覚えますから!」
「ラビハディウィルム」
低い響きが足元から上がってきた。
ラビさんが顔を上げて、繰り返し言う。
「ラビハディウィルム」
たどたどしくも、それを繰り返す。
「ラビ、……ハディ、ウイルム……?」
「そうだ。だが、ラビでいい」
「え?」
「その調子じゃ、今度は舌の手当をしなくてはならなそうだからな」
足の手当を済ますと、ラビさんは入浴の為に部屋を出ていった。
私は座っていた寝具を捲ると、久しぶりのベッドに滑り込んで身を横たえる。
手足を伸ばして、ベッドの感触を楽しむ。
厚手の毛皮の敷物を敷いているとはいえ、馬車の荷台で寝るのとはやっぱり違う。
ごろりと寝がえりを打つと、真横にあるもう一台のベッドが目に入る。
ちょっと近過ぎる距離だ。
手を伸ばせば届くそんな距離で、ラビさんが寝ることにやや抵抗を感じる。
深く被ったフードは、よっぽどのことが無ければ外れることはないだろうけど、年頃の女子が男性の隣で寝るのには気が引けた。
せっかくのベッドだけど、今夜の眠りは浅いものになりそうだと、小さくため息をつく。
子供扱いも、そろそろ本気で訂正しないとなぁ……。
などと思っているうちにまどろんできた私が、次に目を開いたのは翌朝だった。
起きるぞ。と声を掛けられ、フード越しに大きな手で頭をぐしゃぐしゃと撫でられて、目を覚ます。
眠れないかもしれないどころか、夢も見ないほど深く眠っていた。
どうやらラビさんが浴室から戻るのも待てずに、寝入ってしまったようだ。
年頃の女子が! とか思っていたくせに、寝落ちの上、熟睡した自分が少々恥ずかしい。
身支度を整え、足の手当をしてもらい、宿の用意してくれた朝食を取る。
ラビさんが出発の準備をする短い時間、私は町で買い物をすることにした。
小さな町なので、お店の数も限られている。
私はなるべく手早く、必要そうな物を買って回った。
「おいおい、大荷物だな」
出発の支度を終えて待っていたラビさんが、御者台から降りて苦笑する。
「すみません。おまたせしました」
両手で抱えた麻袋の重みに、よろけそうになる寸前で、ラビさんが荷物を受け取ってくれた。
手にした荷物の重さに、ラビさんは少し眉を顰める。
「随分、買い込んだな」
「無駄使いはしていませんよ」
食材を買うためにと、ラビさんが渡してくれたお金の残りを返す。
返されたお金と麻袋を見比べて、ラビさんは少し笑った。
私が自分の財布からお金を出したことなど、お見通しのようだ。
「よし。じゃぁ、行くか?」
昨夜は夜に眠れたからと、ラビさんは御者台に座った。
私は買い込んだ荷物と一緒に、荷台に乗せられる。
馬がゆっくりと歩きだし、幌馬車は町を出る。
町を出ると幌馬車の速度が少し上がり、しばらくすると後ろからリンゴーンと鐘の音が小さく聞こえた。
次の町に着くまでは、三日か四日かかるらしい。
見慣れて見飽きた灰色の平原を、ラビさんの背中越しに少し覗いてから、私は買い込んだ食材をしまう為に麻袋の紐を解いた。
まずは今日の昼食。
振るほどの腕はないけれど、頭を捻る時間はたっぷりとあった。
「……旨いな。これは、任せて正解だったな」
昼食を無言で一口、二口、三口食べてから、ラビさんは満足そうに頷いて言った。
その言葉を聞けて、ようやく私も自分の食事に手を付けることが出来る。
昼食は、甘くないパンケーキに白身魚と卵を炒めたものと葉野菜を挟んだものにした。
昼食は手早く簡単にが大前提だった。
のんびりと調理していては、午後の出発が遅れて幌馬車が進む距離が減ってしまうのだ。
成功に気をよくした私は、夜ご飯へと思いを馳せながら手綱を握った。
荷台では、夜の番に備えるべく、ラビさんが昼寝を始めている。
夜は料理のための時間を取ることが出来る。
一汁三菜は無理だけど、せめて二品位は出したいところだ。
フライパンと一緒に買った煮込み鍋でスープを作ろう。
ジャガイモとタマネギと干し肉のスープ。
フライパンで、チーズを載せた黒パンを温めて出そう。
スープは多めに作って、明日の朝ご飯はそれで雑炊にしてもいいかもしれない。
使う野菜の量や調味料を考えながら、幌馬車は平和に前へと進んでいった。
いつも通り、陽が落ち切る前に野宿の場所を決めて幌馬車を停める。
火を焚いて貰い、ラビさんが馬の世話などをしている間に私が手際よく食事を作る。
雑事を済ませたラビさんが火の元に戻るころには、鍋からはいい香りの湯気が立ち、黒パンの上に載せたチーズは溶け始めている。……はずだった。
けど、思った通りに事は運ばないものだ。
両手の指の殆どに、細く裂いた白い布を巻き付けて、私は火の前で項垂れていた。
その横で、実に手際良くラビさんがジャガイモの皮を剥いている。
……こんな筈じゃなかったのに。
私はフードの影でため息をこぼした。
食材も調味料も、フライパンも鍋も買って用意したのに、包丁……キッチンナイフのことをすっかり忘れていた。
料理をするつもりの無い幌馬車に、もちろん調理の為の刃物は載っていない。
野菜を切りたいと言った私に、ラビさんが渡してくれたのはズシリと重いナイフだった。
使えるか? と聞かれて、慌てて頷いたことをすぐに後悔する羽目になる。
料理をするには重々しいナイフは、ジャガイモの皮を剥く前に私の指先をあっという間に傷つけた。
それでも、滲む赤い血と痛みに怯みながらも、私は果敢にも作業を続けた。
昼食の時のように、ラビさんに喜んで欲しかったからだ。
どうにかジャガイモ一つを剥き終えたとき、背後で息を飲む音がした。
振り返るとラビさんが立っていた。
「……それは、ジャガイモか?」
私の手元を見て表情を凍らせるラビさんに渋々と頷き、手の中を見る。
皮をむかれて白いはずのジャガイモは、夜目にもだいぶ赤く染まっていたのだ。
「次は? 何を入れる?」
皮剥きの終わったジャガイモを鍋に切り落として、ラビさんが私に訊ねる。
私は力なく、タマネギと干し肉を指差す。
「あとはこれを入れて、少し煮込んで味を付けて出来上がりです」
ラビさんは頷くと、やすやすと重いナイフで玉ねぎを切り、干し肉を削って鍋に入れた。
「俺が治癒の魔法を使えればよかったんだが……」
済まなそうに口を開くラビさんの視線は、私の指先に注がれている。
私はだらりと力を抜いていた指先を慌てて動かして、鍋に塩と胡椒と乾燥ハーブを振り入れた。
「いえ! こんなのかすり傷ですから。魔法を使うまでもありませんよ。すぐ直ります! それに、今夜はナイフに不慣れでこんな事になってしまったんですけど、明日からは大丈夫ですから」
「そうだな。次の町に入ったら、調理用のナイフを買うからな」
頷いてラビさんは手にしていたナイフを片付けてしまう。
明日からも、あのナイフで調理はさせてもらえなそうだ。
ため息交じりに啜ったスープの出来は悪くなく、ラビさんは褒めてくれたけど、私はなんだか少しがっかりしていた。
足の手当は日に一度、夜だけになった。
三度の食事の支度は、だいぶ手際良く出来る様になってきた。
調理用ナイフを買うまでは、ラビさんが食材を切ってくれることになったので、並んで食事の支度をする。
曇りがちな空の日が多いけれど、雨や雪に見舞われないことで旅路は順調だ。明日にはまた、町に入れるようだ。
御者台に一人座って、揺れる焦げ茶の毛並みと流れる灰色の地面を眺める時間。
深く被ったフードの中で、私は逃げるように考えてしまう。
このまま、ラビさんと旅をして暮らしていくのもいいかもしれない。
もちろんそれは、ラビさんが継続して私を必要としてくれればの話だけど。
保護されているという負い目が無いから、ラビさんと居るのはすごく楽だ。
隠し事をしているけれど、迷惑を掛けてるという気後れも今はまだ発生していない。
僅かだろうけど、この旅をするにあたって、役に立つことも出来ている。
雲の向こうで鈍く、小さく光る太陽を見上げた。
優しい蹄の音が、規則的に耳を撫でていく。
もう、いろいろと諦めてもいい頃なのかもしれない。
王都を出て八日。
白騎士は勝手に出ていった私に腹を立てているだろうか?
それとも、恩知らずと呆れているかもしれない。
アルトさんには、あんなに良くして貰ったのに、合わせる顔もない。きっと落胆しただろう。
クヴェルミクスは、きっとまたあの部屋を散らかしている。誰か片付けてくれるといいのだけど。
ソニアは……。
ソニアは、私のこの行動を知ったらどんな気持ちになるだろう?
きっと、こんな臆病者の考え無しの所為で、西の端にやられた事を後悔するのだろう。




