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 吐き出した息が白く見える。

 部屋を暖める類の物のない宿の一室に、冬の朝が訪れた。

 コートを着たまま布団の中にいるというのに、部屋の寒さに少し震える。

 傍らの木箱のベッドから聞こえ続けていた規則正しい呼吸音は、今も変わらずに耳に届いていた。

 薄ら明るくなった部屋で、音を立てないように隣に眠る人を窺う。

 こちらを向いて横向きに寝る姿を、眠っているのをいいことにしっかりと観察する。

 もさもさの癖毛の赤毛で目元は半分くらい隠れてしまっているけれど、しっかりと通った鼻筋に整った形の口元は、不精髭が無くなって髪ももう少しさっぱりとさせたら、それなりの家柄の男の人にも見えそうだ。

 遠慮無く見ていると、大柄な身体がもそりと身じろぎをしだす。

 慌てて布団に頭まで潜り込み、寝たふりを装う。

 木箱が軋む音が聞こえた。

 私を起こさないように気遣っているのか、物音をあまり立てずにラビさんは部屋から出ていった。

 ゆっくりと布団から顔を出す。

 しばらく扉を窺ってから、私も起き上がる。

 挫いた左足は、昨夜の手当てが良かったのかさほど痛まずホッとした。

 これなら歩けるかもしれないと、そろりと立ち上がってみる。

 布でしっかりと固定されているからか、体重がかかっても鈍く痛む程度だった。

 

 この部屋には、廊下へと出る扉しかない。

 慎重な足取りで扉へ向かう。

 そっと扉を開き薄暗い廊下の様子を覗くと、誰も居ないことを確認して部屋から出た。

 少し迷ってから、廊下を奥へと進んでみる。

 部屋にはトイレも浴室も付いていなかった。白騎士たちと泊まった宿には、その二つは部屋専用のものがあったけど、それは高額な部屋に限ってのことらしい。


 予想通り、廊下の突き当たりにトイレがあった。

 同じ場所にある、手洗い場の壁には小さな鏡が掛けられている。

 古びてくすんだ鏡をそっと覗き込む。


 予想に反して映る瞳の色に、私は声を上げそうになった。

 

 驚き見開いて鏡の中からこちらを見返す私の目は、もうすっかり見慣れたあの緑の瞳だった。

 瞬きを繰り返し、コートの袖で鏡を拭い、何度もその色を確かめる。

 やっぱり何度見ても、目の色は緑色だった。

 スカーフを巻いたうなじに手を当てる。

 魔法は解けてしまったと思っていたけれど、どうやら違うようだ。

 ほのかな安堵感にため息がこぼれる。

 クヴェルミクスの掛けてくれた魔法が、どの位持つかは分からないけれど、少しは猶予が生まれた気がした。

 

「ここにいたのか」


 すっかり鏡に集中していると、唐突に背後から声を掛けられた。ラビさんだ。

 私は急いでフードを鼻側へ深く引き下げる。


「部屋に居ないから心配したぞ」


 そう言うと、当たり前のようにラビさんは私に手を伸ばし、ひょいとその腕に抱き上げた。


「あ、歩けますから。自分で。お、下ろしてください」


 昨夜と同じように有無を言わさず私を運ぶラビさんに、私はうろたえる。


「その足は、まだ無理をさせない方がいい」


 嗜める様に言われて、私はラビさんの腕からの身じろぎと口応えを止めた。

 目の色を確かめることに意識が集中していたから気が付かなかったのか、それが途切れた今、左足がズキズキと痛みだしている。


 部屋に戻るとベッドに下ろされ、左足に巻いた布を解かれる。

 用意されていた木桶に足を浸されると、張られた水の冷たさに身がすくむ。

 水から逃げ出そうとする私の足を、ラビさんは掴み水中に留めた。

 あの小瓶が取り出され、また数滴、木桶の中へと垂らされる。


「つ、冷たい……」

「そうだな。だが、これをしばらく繰り返さないとな」

「しばらくって、どの位ですか?」

「十日はこうして様子を見た方がいい。いま無理をすれば、悪化して立ちあがるのも難しくなるぞ」


 一段と冷えた水に震える私に、ラビさんは言い聞かせるように言い私の足をそっと離した。

 濡れてしまった手を布で拭うと、木箱の上に乗ったカップを差し出してくれる。

 カップには濃い色のお茶が入っていた。

 湯気の上がるカップを両手で受け取り、しばらくその温かさを手の中で包む。

 片足は冷水の中だし気温の低い部屋で、私はすっかり凍え始めていた。


 ラビさんも同じカップを手に、私の正面の木箱へと座った。


「腹は減ってないか? この宿は、食事は出なくてな」


 私が首を横に振ると、ラビさんは頷いてからお茶を飲んだ。

 それを見て、私もカップへ口を付ける。

 苦い。

 カップの中身は、ジィジィ茶だった。


「俺はこれから街で必要そうな物を買い揃えてくる。なにか欲しいものはあるか?」


 私は苦いお茶を呑みこんでから少し考えて、首を横に振った。

 旅をするのに何が必要なのか、すぐには思いつかなかった。

 代わりに、心配している点を口にした。


「あの、買い物に、お金どれくらい必要ですか? 私、そんなに持っていないので、安く揃えてもらえると助かるんですが……」


 ラビさんはそう言った私を不思議そうに見てから少し笑った。


「あぁ、心配しなくていい。それより、昨夜は眠れていないだろう。俺が出ている間に少し眠っておくといい」


 それから、すっかり冷えた私の足を木桶から掬い上げると、昨夜と同じように布をきつく巻いてくれた。


「ユズコは、なんだか複雑な事情を抱えていそうだな」


 私の足首に布を巻きつけながらそう言ったラビさんに、身体が警戒する様に強張る。

 それに気が付いたのか、足首を掴むラビさんの手つきが柔らかくなる。


「まぁ、その事情を根掘り葉掘り聞こうとは思っていない。身の上話を披露する必要もない。俺は、言葉が出来るやつが必要だった。ユズコは、お前の言う特技を俺に貸してくれればいい」


 そう言われて、私は少しだけ緊張から解放された気がした。

 ラビさんに手当てされた足は、すっかり痛みが引いている。

 立ちあがったラビさんが、大きな紙を私の座るベッドの横へ広げた。

 折皺が深く付いたそれは、地図だった。

 地図に記されている文字はホルテ語ではなく、私には読むことが出来ない。


 ラビさんは地図の中央からやや左寄りの位置を指す。


「ここが今いる、ホルテンズ王国の王都ヴィオリラだ」


 私が頷くと、ラビさんの指は地図の下方へ移動した。


「で、ここが行く先の、ピスコヌという島国だ」


 ラビさんが指し示したのは地図の下にある、丸みを帯びた菱形。

 そこは元いた北の森からも、西の端からも遠い、南にある場所だった。 


「それじゃ、行って来る。大人しく休んでいろよ」


 読めない文字で書かれた地図を、見つめ続ける私をそのままにして、ラビさんは部屋を出ていく。

 広げられた地図を、私は深く被ったフードの下からしばらく熱心に眺めた。

 そして、手の中ですっかり冷えてしまったジィジィ茶を飲み干してから、地図を丁寧に畳んだ。



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