32
ぎしりと軋んだベッドの布団は、薄く簡素なものだった。
狭くない部屋に置かれているのは、ベッドと幾つかの木箱。
部屋を飾るものは何もなく、小さな窓にはくすんだ布がぶら下がり、低い天井から部屋の広さの割に小さな灯りが吊られている。
街の路地の奥にあった古い木戸の建物は、失礼ながらも、安そうな宿屋だった。
赤毛の男の人が木戸をぞんざいに叩くと、しばらくしてひょろりと痩せた男が木戸を開けた。
抱えられたままの私と、私を抱える赤毛の男の人を交互に見て、男は何か言いたそうに口を歪ませたけど、結局無言のまま私たちを中に入れると木戸の鍵を掛ける。
薄暗い室内を赤毛の男の人は慣れた様に進み、狭い階段をずんずん上がり、似たような扉が並ぶ廊下を進む。
廊下には、ほんの申し訳程度の小さなランプの細い灯が燈るだけで、外よりも暗いほどだった。
並んだ扉の一つを鍵で開けて、ベッドの上にようやく私を下ろすと、赤毛の男の人は部屋を出ていく。
しばらくして戻った赤毛の男の人の手には、水の入った木桶があった。
「ほら、足を見せてみろ」
木桶が私の足元に置かれて、張られた水がタプンと揺れた。
赤毛の男の人はその場に屈むと、私の左足から古びた皮靴を取り去る。
「なっ! くつ……ぅうっ!!」
靴くらい自分で脱げると、反論したかったけど、残念なことに靴を外されただけで足首に激痛が走った。
情けなく呻いてしまった私の足元で、赤毛の男の人によって靴下も脱がされる。
赤く腫れ上がった足首を見て、私はひとまずは大人しくすることに決めた。
やんわりと私の足を掴んだまま、赤毛の男の人は身動きを止める。
少し考え込むようにしてから、私の足は桶の中へと入れられた。
冷えた水が熱を持った足に心地好い。ほんの少しだけ痛みが和らいだ気がして、息を付く。
「随分ひどく挫いているな。痛むだろう?」
言いながら赤毛の男の人は茶色い小瓶を取り出すと、その中身を数滴、木桶へ垂らした。
すんと、冷たいミントのような香りが水面から立ち上がり、足首を浸した水の水温が下がる。
「暫らくそこに浸けておくといい」
立ちあがった赤毛の男の人は小瓶の栓をする。あれは、薬みたいなものなのだろうか?
何かが入ったことで、桶の水に浸した私の足から痛みが少しずつ引いていくのが分かる。
言われたとおり大人しくする私の前に、どかりと木箱が置かれた。
それを椅子代わりに、赤毛の男の人が私の正面へ腰を下ろす。
「俺は、ラビハディウィルムという。お前は?」
「……。……ユズコ」
案の定、長すぎる名前に私は即座に対応できない。辛うじて耳に確実に残っているのは、最初の二文字のラビまでだった。
赤毛の男の人、ラビさんの長い名前が耳を通り抜けてから、少し躊躇しつつも私も名乗る。
偽名でも使おうかという考えが一瞬過ぎったけれど、この国風の名前をとっさに思いつけなかった。
それに、この国風の名を名乗ったところで、私の顔立ちとの違和感を感じられても面倒だ。
今はフードを深く被っているから見えないけれど、ラビさんには顔を見られているし覚えられてもいる。
「ユズコ? 変わった名前だな。どこの出身だ?」
私の名前に対して、ラビさんは予想通りの反応をする。
質問に答えられない私に、さらに問いかけは続く。
「こんな夜更けにどこへ行くつもりだった? それにその怪我。ただ転んだって訳じゃ無さそうだ。どうしたんだ?」
どの質問にも上手く答えられない私は、返答する代わりに質問を返した。
「聞きたいことってなんですか?」
「……。そうだったな。ユズコ、お前はなんでアライス語で俺と会話するんだ?」
「え……?」
聞き慣れない単語と共に、ラビさんの言っていることの意味を理解して、私はにわかに緊張しだした。
「最初に街でぶつかった時、助け起こしたお前は、俺に向かって礼を言った。アライス語で」
私は背負ったままの荷袋の紐をぎゅうと握りしめていた。
「俺はお前に声を掛ける前だった。ここはホルテンズ王国だからな、俺はホルテ語で声を掛けるつもりだったが、お前は俺の国の言葉、アライス語で礼を言った」
「そ、それは……」
「二回目に会った時もだ。流暢なアライス語を話したな。そして、今もだ」
畳みかけるように言われた事を、懸命に頭の中で整理する。
そして思い出した。
初めてクヴェルミクスの部屋に行った時のことを。
あの時、クヴェルミクスは私に言った。『おそらく君は、この世界のあらゆる言語を聴き取り話すことができるみたいだよ』と……。
何か言わなくてはと、苦し紛れにも口を開く。
「と……」
「と?」
「と、特技なんです」
「特技?」
怪訝そうに聞き返すラビさんに、私は白々しくも薄っぺらい言い訳を口にした。
「そ、そうです。言葉を憶えて話すのが特技なので……」
「ほお……」
探る様な相槌に、口調は焦り早口になってしまう。
「ですから。あの、ラビハルデルウルムさんの顔立ちが、その、アライユ国らしかったからかもしれませんね? それで、えと、つい口をついて出たんだと思います。アライユ語が……」
「アライス国だ。そして、俺の名はラビハディウィルムだ」
「え? あ! す、すみません……」
言い間違えを訂正されて、私はそれを謝るといったん口を閉じた。これ以上喋れば、只でさえ胡散臭い言い分がますます怪しくなるだろう。
ラビさんは考え込むように不精髭を撫でてから、静かに口を開いた。
「特技か」
「ええ、特技です」
私はきっぱりと言った。
そう言い張るしかなかった。
「それなら、なかなか貴重な特技だな。そんな便利な特技を持つ従者は、主に珍重されると思うが?」
「え?」
ラビさんの含みのある口ぶりと視線に、私のフードに隠れた表情が硬くなる。
「どこかいいところの勤め人だったのに、今のその格好はそうは見えないが、どうしたんだ?」
「それは……。いろいろと事情がありまして……」
口ごもる私に、ラビさんはひと際低い声で囁くように言う。
「女だとばれたか?」
ぱしゃりと桶の水が撥ねたのは、私の動揺の表れだった。
「なっ!! 何を言って!?」
「ユズコ。お前、女だろう? なぜ、そんな紛らわしい格好をしている?」
「……なにを、言っているんですか?」
平静を装うようにした私の声は、どこか上ずっていた。
「俺もずっと男だと思っていた。さっきまではな」
「さっき……」
「その足、そんな細くて白い、皮膚の薄い足が幾ら子供とは言え、男のものとは思えないな」
黙り込んだ私に、ラビさんは言葉を続ける。
「女だと思って見れば、その程度の扮装では、もう男には見えないものだ」
男の扮装をしているつもりは最初からないのだけれど。という反論は、とりあえずしまっておくことにした。
「大方、男だと偽って勤めていたのが、バレでもしたか?」
「そんなところです」
「これからどうするつもりだったんだ? 実家にでも帰るのか?」
そう聞かれて私はまた黙り込んでしまう。
質問に対する答えを、私はもっていないのだ。
「そうか。とくに行くあてはないのか」
何かを納得したような口ぶりでそう言うと、ラビさんは視線を木桶に移した。
「うん? そろそろいいか」
そう言うと、ラビさんは私の足を水から掬い上げる。
さっきは触れただけで激痛が走った足首は、まだ腫れてはいるものの痛みはだいぶ和らいでいた。
タオルで足を包まれると、優しく丁寧に足の水気を拭きとられる。
痛みがひどかった時には気にならなかったけれど、それが落ち着いた今は、他人に、しかも男性に素足を拭いてもらっているという状況が恥ずかしくなってきた。
「ありがとうございました。もう、後は自分でやりますから」
引っ込めようとした足は、優しく固定されていて動かなかった。
私の訴えは聞こえていないようで、ラビさんはひとり言の様な呟きを漏らす。
「行くあての無い子供を、この寒空の下放り出すわけにはいかないな」
「あの、さっきも言いましたけど、子供じゃないんです――」
「そうだな……。それなら、俺がしばらく面倒を見てやろう」
「あの? 私の声、聞こえていますか? あ! 痛っ!!」
水気を拭われた足は、白い布がきつく巻かれ始める。布の圧迫に足の痛みが甦った。
私の言葉は全く耳に届かないのか、ラビさんは納得したように自らの発言に何度か頷き、それに合わせて赤毛の癖毛がもさもさと揺れる。
「俺の仕事を手伝ってくれ。ユズコの特技を生かせる。もちろん報酬もちゃんと払う。子供だからと上前を撥ねたりしないから安心していい」
「いえ。だから、子供じゃない―― っ痛い!」
「少しきつく固定しないと、後でもっと痛むからな。今は少し耐えろ」
「は、はい……」
足首を固定する為に巻かれる布を見ながら、私は大人しく返事をする。
慣れた手つきで布を巻きながらラビさんが言った。
「その荷袋には何が入っている?」
「え? どうしてですか?」
首を傾げる私に、ラビさんは淡々と手を動かし、それと同じ調子で口を開く。
「足りないもがあれば、ここで揃えていった方がいい。旅慣れている様には思えない足だからな」
「足りないもの? この中には着替えと食べるものが少しくらいしか……? 旅慣れ?」
「いろいろと足りないものがありそうだな。明日立つ予定だったが、一日伸ばして、必要なものを揃えることにしよう」
「え?」
「よし。これでいい」
幾重にも固く巻かれた布の下で、足首はだいぶ楽になっていた。
「あ。ありがとうございます」
素直に礼を述べると、ラビさんは頷いた。
そして木桶を部屋の隅へ片付けると、先ほどまで座っていた木箱の横へ新たに木箱を運び並べ始める。
「そのまま、そこを使って休むといい」
「なっ!?」
驚きに声を上げる私の横で、ラビさんの並べる木箱が長方形になった。ちょうど人ひとり横になれるくらいの大きさに。
木箱の上にどこから取り出したのか、毛皮の敷物が敷かれる。
恐らく、間違いなく、そこをラビさんの今夜の寝床にしようということなのだろう。
手早く作り上げられた、私の座るベッドから一歩の距離にある簡易寝床を見つめていると、ラビさんは私の視線に気が付いた。
「あぁ。気を揉む必要はない。成人前の子供に手を出すようなことは、守護神に誓ってないからな。そもそも俺も、そんなに不自由はしていない」
「……そうですか。……いえ、そうじゃなくてですね」
「俺はどこでも眠れるから、気にするな」
相変わらず、私が伝えたいことは受け取ってもらえない。
けれどこの足では、もう今夜は歩くことは難しそうだ。
ぐるぐるに布が巻かれた足は、靴も、靴下さえも履けない。
荷袋を下ろすと、そろそろとベッドに横になった。
コートを着たままだったけど、脱ぐ気にはなれなくてそのままにした。
私が横になるのを見届けて、ラビさんは部屋の灯りを消した。
消灯だ。
灯りが落された暗い天井を、私は両目を見開いて眺めた。
なにがどうなって、こうなって、明日からどうなるのか、さっぱり判らないまま、いつのまにか規則正しく聞こえてくる寝息に、私は困惑したまま一睡もすることなく翌朝を迎えた。
 




